浜 なつ子「死んでもいい マニラ行きの男たち」(講談社文庫)

タイや中国あるいは韓国といったアジアの国の旅行記やらそれに類したルポは数々あるのだが、どういうわけか、フィリピンに関する旅行記やルポはあまり見かけないように思う。

それは、やはり、高度成長期の、「買春ツアー」やジャパユキさんに代表される一種のいかがわしさがつきまとうせいかもしれない。

本書も、東京で売れっ子のホストをしていた人物が、フィリピーナに惚れ、どっぷりとフィリピンにはまり込んでいる様子を、彼へのインタビューをさしはさみながら進行する点で、そうしたあやうさを感じさせるのだが、読み進むうちに、熱帯特有のねっとりとした暑さと、想像上のものに過ぎないのだが、フィリピーナたちがもつ熱っぽさと優しさを感じ取ったようになってくるから不思議だ。

構成は

第1章 恐るべしフィリピーナ
第2章 吉原とエルミタ
第3章 女がいっぱい
第4章 はまる人々
第5章 アヤラ・アラバンの女
第6章 たまごっち山崎君
最終章 永遠なり!フィリピン人のホスピタリティ

となっていて、最初の方は、前述のホスト上がりの男性のインタビュー、後半の方は、それ以外のフィリピンにはまる、ないしは暮らしている日本人のさまざまに抱え込んでいるものを含んだインタビューとルポになっている。

 

北沢 秋「哄う合戦屋」(双葉社)


哄う合戦屋

  • 北沢 秋/イラスト:志村貴子
  • 双葉社
  • 1470円

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書評/歴史・時代(F)

「本が好き!」から献本いただきました。多謝。

時代設定は戦国時代、天文18年春から天文19年夏にかけての2年間の物語である。そして、舞台は信濃。

ということなら、武田信玄(晴信)が信濃制圧に向けて着々と動き始めていた頃、さては、そのあたりの信濃の国を統一する話か、と思ったのだが、かなりの見当違い。「勝者」の物語ではなく「敗れていった者」の物語であった。

だが、この「敗者」の姿が尋常ではない。いったいに「敗者」というものは美しく見えてくるのは、日本人の性なのだが、この物語の主人公、諸国を渡り歩く合戦屋 石堂一徹 の姿は、「颯々」として、なにかすっきりとした爽快感を覚えるたたずまいで、これぞ「武者」であるな、と喝采をおくりたくなる。

さて物語りは、中信濃の深志と北信濃の塩田平の間の横山郷、遠藤吉弘の居館のあたりで、吉弘の娘 若菜と、一徹が出会うところから始まる。(もっとも、一徹と若菜の恋物語が云々、という展開ではない)。
この遠藤家、三千八百石程度の身上で、近隣の土豪との争いにあけくれていた家で、さほど有力な家であったわけではない。それが、石堂一徹が、軍師として食客になってから、以前から仇敵であった隣の高橋家を滅ぼし、ついで不破、といった風に、領地を拡大していく。このまま進めば、中信濃一の豪族、小笠原長時との対決は必至では・・・といった形で展開し、「天下」を狙う、石堂一徹の野望の片鱗も明らかになる。

ところが、この時、武田晴信(信玄)が、中信濃制圧に向け、兵を送ってくることが明らかになり、遠藤家にも小笠原、武田双方から、味方につくようにという誘いの使者がくる。双方に全幅の信頼をよせることのできない一徹は、遠藤家独立の策を献ずるが入れられず、小笠原に加勢することなり、さて、中信濃の行方を決する一大決戦へ、と最終章へ

といったのが主な展開。

一徹の策略で遠藤家が領地を拡大していくあたりの爽快感もよいのだが、やはりなんとも暖かくて、よいなー、と思うのは、遠藤家の姫、若菜であろう。
容姿は
この娘の目鼻立ちは、必ずしもこの時代の美人の典型に合致しているわけではない。
たとえば、若菜の眩しいまでにはっきりした瞳は、かすみが掛かったような細い目をよしとする都風の好みからすれば、明らかに欠点といえるであろう
といった感じなのだが、そこかしこにでてくる彼女ののびやかさ。ころっころっとした明るさが、物語に華やかさを添えている。
物語に途中の新美山の紅葉狩りのあたりを読むと、領民ならずとも、この姫ならば、とも思ってしまうのである。

で、もう一つの読みどころは一徹をめぐる人々の嫉妬、妬ましさに起因する不信がいかに生まれ、いかに拡大し、人の行動を蝕んでいくか、というところ。この一徹という男に象徴されるような、才気煥発ではあるが、その野望が巨大すぎるがゆえの一途さと倣岸さは、一種の爽快感を与えつつも、危うさを覚えるものだが、やはり、というか案の定というか、遠藤吉弘の不安と不信を生み、それが結局は遠藤家と一徹の行く末に大きな影響を与えるのだが、これ以上は営業妨害になってもいけないので、ネタばれはここまで。

さて、最後。石堂一徹は彼の野望と引き換えに何を守ろうとしたか、これもまた、本書をお読みあれ。おぅ、そうなのか、と思うこと間違いない。

ひさびさに一気に読めた時代小説、戦国小説でありました。

泉 麻人「なぞ食探偵」(中公文庫)


町角でふと目にとまった、ちょっと不思議な料理を紹介していきたい。
といったところから始まる、ちょっと変わった食物記である。
とりあげられる食べ物屋が、やはり東京が中心になるのは、筆者の住居と活動の中心がそうであるせいもあるのだろうが、やはりそこは「首都」の威力というもので、人やモノが集まれば集まるほど、妙な食べ物も集積してくるのは人の世の常なんだろうが、本書のエライところは、「不思議な料理」の食物記であって、ゲテモノの食物記になっていないところだろう。
料理は、東京・日本橋の「ドイツ風ライス」からはじまるのだが、「ハムカツ」(東京・上野)や「マカロニグラタン」(東京・浅草)、「カニヤキメシ(東京・人形町)など、名前をみればおおよそ察しがつくのも多いのだが、「ず丼」(東京・新大久保)や「イタリアン」(新潟)、「すじ玉丼」(神戸・三宮)、さらには「セイロンライス」(大阪・西心斎橋)、ナポリライス(東京・銀座)などなど、何を食わされるのかちょっと心配になってくる料理も数々あって、一種怖いものみたさの欲求も満たされる食物記である。
筆者手書きのイラストも味があって、少しばかり暇な時、暇にあかせて、ぱらぱらと読んでいくにお薦め。
(最近、御当地グルメで定番の「佐世保バーガー」などを含んだ「九州篇」も入ってます。)

塩野七生 「ローマ人の物語ⅩⅤ  ローマ世界の終焉」(新潮社)

長く、長く続いてきた「ローマ人の物語」もこれが最終巻である。そして、千年以上続いてきた、ローマ帝国も、この巻で終焉を迎える。もっとも、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)はこの後も存続するのだが、これはもう、いわゆる「ローマ帝国」とは異なるという説に私も賛成したい。
この巻では
・紀元395年~410年までが「第一部 最後のローマ人」
・紀元410年~476年までが「第二部 ローマ帝国の滅亡」
・紀元476年~が「第三部 帝国以後」
という構成で、西ローマ帝国が瓦解するまでが語られる
しかし、この時代のローマ帝国をめぐる人々の名前が、なんと蛮族的なことか・・・。敵である人は当たり前だが、帝国を支えた人の名前すら蛮族的なのだ。
典型的なのは、皇帝テオドシウスから、死後の息子を託された将軍スティリコであろう。
彼は、ヴァンダル族出身なのだがテオドシウス帝に抜擢され、彼から、若年の皇帝の後見を頼まれるのだが、その彼が、ローマ人よりもローマ人らしく、ローマ帝国の存続に力を尽くし、非業の最期を遂げるたあたりは、衰えた国家を象徴するものなのだろう。
さて、この書では、ローマ帝国の「滅亡」が語られるのだが、不思議なほど、その「滅亡」が静かなのである。というのも、ローマ帝国の滅亡は、大きな戦いによる大破壊とそれに伴う異民族支配、あるいは大災厄に伴う荒廃といった、イベント的な終末を示すのではなく、帝国がいくつかに分裂し、尾民族の侵入が続き、自由な交通が途絶え、ブリタニア、ガリア、北アフリカ、イスパニア、と属州がローマ帝国の支配から離れ、といった具合に、砂の山が、さわさわと崩れていくよう「滅びて」いっているからである。
そして、それは人類史上初めて誕生した「大帝国」、大文明ともいえる「大帝国」であったローマ帝国らしい終わりかたといえばいえなくもない。ちょっと関係ないかもしれないが、「盛者、必衰の理あり」といったところか。
最後に、本書の途中で出会った、一節を紹介して、この稿を終わろう。
帝国は、傘下に置いた諸民族を支配するだけの軍事力を持つから帝国になるのではない。傘下にある人々を防衛する責務を果たすからこそ、人々は帝国の支配を受け入れるのである。
国というだけでなく、人々の理としても、ウムと頷かせる言葉ではないですかねー。

塩野七生 「ローマ人の物語ⅩⅣ キリストの勝利」(新潮社)

ローマ帝国を根本から変えたといっていい、コンスタンティヌス大帝の死後、跡をついだ息子のコンスタンティウス、そして背教者といわれたユリアヌスと続くのが、この巻である。そして非常に象徴的なことに、この巻の最後の第三部は「司教 アンブロシウス」とされていて、皇帝ではなく、キリスト教会の司教の名前が表題である。
まず最初は、コンスタンティヌス大帝の次男であるコンスタンティウスである。とはいっても、最初から、コンスタンティウスが帝国全土を継ぐという形になっていたわけではない。
最初は、コンスタンティヌスの息子三人、甥二人で帝国を5分して統治することとなっていたらしい。
それが、大帝の葬儀の際に、甥二人が暗殺され、その後帝国を三分して統治していた兄弟が、最初は、長兄のコンスタンティヌス二世が、末弟のコンスタンスと北アフリカをめぐって対立して敗死し、コンスタンスは、圧政による民衆の不満を背景にした配下の将軍の謀反により自滅する・・といった経緯をたどって帝国を一人で支配することになったもので、この流れをみて想像出来るように、なんとも疑り深い皇帝であったようだ。そうした皇帝が副帝を任命するというのも不思議なのだが、もう、この時代のローマ帝国は、一人で全土を治めるには、皇帝によほどの能力と体力を必要とするほど、国家の体力が弱っていたということかもしれない。
 そのコンスタンティウスから副帝に任命されたのがユリアヌスで、彼は兄のガルスが謀反の疑いで処刑された後の任命になる。こうしたプレッシャーのかかるシチュエーションであったにもかかわらず、とんでもない力量を発揮している。けして万全の体制と軍備で送り出されたとはいえない、任命後のガリアで、ゲルマン民族を打ち破り、内政を整え、ガリア再興を果たすなど、とても20歳過ぎまで幽閉状態で統治の経験や戦闘歴などなかった若者とは思えない活躍ぶりなのである。さしずめ、哲学者風の織田信長といったところか。
 信長風なのは、そのガリアでの見事な戦ぶりだけでなく、その最期もまた似ている。古のペルシャ帝国の復活を目指して、ローマ帝国東方の攻め入ってきたペルシャ王シャブールとの戦闘で、(おそらくは、ユリアヌスのキリスト教の弱体化に不満をもった)味方のサボタージュにあって、戦闘の最中に、ひょっとすると味方からの槍傷で命を落とすことになるあたり、光秀の謀反にあって、味方と思っていた部下から攻められ最期を迎えるあたりと似ていなくもない。
 そして、もうひとつ共通するのが、宗教への対応ではないだろうか。ユリアヌスがキリスト教の特権を排除しようとした動きは、比叡山焼き討ちや、一向宗との戦に全力をあげた信長の姿がダブって見えてくるのである。
 で、最後の章。こいつが曲者なんだよなー、という思いにかられずにはいられない。時代背景的には、ユリアヌス亡き後のヴァレンティニアヌス、その副帝のヴァレンス、ヴァレンティニアヌス死亡後、ヴァレンスによって帝国の西半分を任されたテオドシウス、そしてヴァレンスがゴート族との戦いで命を落とした後、テオドシウスが帝国全体を治め、といった、まあ、内乱とその後の帝国統一といったお決まりの構図といえなくもないのだが、その陰に見え隠れして、そこかしこでキリスト教の国教化を進め、教会の力を強めているのが、この章の表題でもある「司教 アンブロシウス」で、こいつが時代の黒幕でっせ、と筆者が耳打ちしてくれているように思えてならない。
 こうした宗教者でありながら時代の黒幕的な人物がでてくるってのは、専制君主の体制によく見られるように思えて、共和制や元首制の時のローマが、なんとなく夏の青空を連想させるに対し、この時代のローマは、どんよりとした梅雨空を連想させるのは、おそらくは、こうした、なんとなく胡散臭いというかくぐもったような支配体制の持つ暗さによるのだろう。そして、ヨーロッパ中世を宗教はリアルを支配した時代と考えれば、中世の始まりというのは、西ローマ帝国滅亡で突然始まったわけではなく、こんな頃から、じわじわと墨が布に染みていくように始まっていたのだなと思い、時代の変化というのは、いつもこうした感じですすむのかな、とも思ってしまうのである。
なにはともあれ、ローマ帝国に限らず、すべての体制における「ぐずぐずとした崩壊」に、思いを馳せてしまう一巻でありました。

塩野七生 「ローマ人の物語 ⅩⅢ 最後の努力」(新潮社)

塩野七生氏の代表作といっていい、「ローマ人の物語」もこの巻あたりになると終幕に近づいてくる。
この巻で語られるのは、三世紀終わりから4世紀はじめの、ディオクレティアヌス帝から、コンスタンティヌス帝の時代である。歴史家によれば、ディオクレティアヌス帝から、ローマ帝国は、元首制から独裁君主制に移行したといわれていて、5世紀には、ローマ帝国も迎えるのだから、このデイオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝の治世というのは、蝋燭が燃え尽きる前に炎が大きくなる現象に似ていなくもない。
ディオクレティアヌスは、帝国を2人で治める「二頭制」や4人で治める「四頭制」といった、国力の落ちてきているローマ帝国がペルシアや蛮族の侵攻をくいとめる苦肉の策ともいえる統治策を打ち出す。この統治方式はローマ帝国を蛮族から守るシステムとして有効に作用するのだが、このシステムの本質は、長年、苦楽を共にし、心の通じ合った友人や部下と、帝国の統治を分担しあうという美しい側面ではなく、
分担とは、現にあるものを分割したのでは済まないという問題を内包している。分担とは各自の責任を明らかにすることでもあるから、その人々の間に競争状態が生まれるのは、人間の本性からもごく自然な方向とするしかない。四人はいずれも、自分が責任を負うと決まった地域の成績をあげようとする。
システムであるらしい。
しかし、この制度も、彼の引退後の、正帝、副帝の食い合いともいえる内乱が頻発する。やはり、国力の衰えというものは、統治制度だけでは補いきれないものなのだろうと、嘆息せざるをえない。
しかも、このシステム、どうやら、行政改革なんぞとは縁遠く、軍隊と官僚をかなりの規模で増加させ、増税も必要になったらしい。まあ、正帝、副帝とはいっても皇帝は皇帝である。そうであるならば、それぞれの宮殿や国を維持するシステムがそれぞれに作られるようになったであろうし、軍隊もそれぞれで独立してつくり運営されるということになったであろうから、当然の帰結というべきか。
ディオクレティアヌスで、ちょっと悲劇的なのは、まだ体力も知力もあるうちに引退し、後進に道を譲るのだが、影響力の衰えは如何ともしがたく、妻や娘の幽囚を、隠居先で黙って見ていなければならなかったあたり。本人にしてみれば、キングメーカーよろしく、「天下のご意見番」あるいはローマ版「水戸黄門」をきめこみたかったのかもしれないが、現実は甘くなかったらしい。
このディオクレティアヌスの引退後、六帝が並び立つなか、天下を征したのがコンスタンティヌスである。この人、西方の正帝でブリタニア・ガリア・ヒスパニアを統治していたコンスタンティウス・クロヌスの息子なのだが、生みの母親は、父の政略結婚で離婚されていて、ディオクレティアヌスのもとで成長している苦労人であったようで、統治の術も巧みであったようで、ローマ帝国を再び一人で治める体制を作り上げたのは「大帝」という名にふさわしいといえる。(もっとも「大帝」と賞賛されたのは、キリスト教の国教化によるらしく、領土的な拡張によるものではないらしいけどね)
ただ、私には、なんとも「暗いな」と思わせるのである。
それは、元老院の弱体化をはじめローマ帝国を完全な独裁君主国家に仕上げたあたりと、六帝の乱立から、帝国全体を手中に収め、さらには支配体制を確立した程の中で、妻の実兄のマクセンティウス、異母妹が嫁いでいるリキニウス、そして実の息子のクリスプスと、自分のライヴァルあるいは、自分の支配を揺るがす種子になりそうなものを、着実に、じわじわと片付けていく風情にあるのかもしれない。
まあ、なんにせよ、彼の下でキリスト教も国教のみちを歩み始めることになる。彼のキリスト教政策がなければ、ヨーロッパ社会はおろか、世界の姿も変わっていただろうから、平和を享受している今の日本の住まう私としては、ひとまず彼に感謝すべきなのだろうな。

芦原すなお「雪のマズルカ」(創元推理文庫)

銀座NO.1のクラブのホステスと車で事故死した夫の跡を継いで私立探偵になった笹野里子がでくわす事件の数々。
ハードに、タフに事件を解決していく里子が最後にたどり着いた夫の事故死の真相は・・・・
といったのが、おおよその本書の構成。
収録は
「雪のマズルカ」
「氷の炎」
「アウト・オブ・ノーウェア」
「ショウダウン」
の4編。
では、ネタばれすれすれでレビューをするとしよう。
まず。表題作「雪のマズルカ」は不良の金持ち娘を家に連れ戻すようその娘の祖父に依頼されるところから始まる。まあ、当然、この娘の付き合っている男や組織はロクでもないが、依頼者自身もロクでもなくて、その二つをどうにかしようと思うと、まあ、ゴルディアスの結び目をアレキサンダー大王が解決した手法よろしく少々乱暴なやり方もやむを得ないかもね、といったところ。イヤなやつが、イヤな奴なりに描かれているのが新鮮といえば新鮮。
「氷の炎」は里子がずっと昔に助けたことのある、今は女優となったいる娘の素行調べから始まる、奇妙な結末を迎える事件。因果応報といった言葉が、なんとなく思いおこされる物語。あるいは、形を変えたエディプス・コンプレックスの解消といったところか、はたまた親の敵討ちととらえるべきか?
「ショウダウン」は、さる代議士のやばい姿を映したフィルムの捜索を里子が頼まれるのだが、どうやら、そのフィルムには亡き夫が絡んでいたらしい。そして、一見関係なさそうな、猟奇殺人(首を針金で締めてレイプするってな事件だ)の犠牲者に、そのフィルムの撮影を依頼した人物(こいつもいかがわしい生業なのだが)がなって・・・、といった形で、紐がねじれるように事件の真相は・・・、ってな筋立て。
結末は結末として、この事件の重要なキーであるフィルムの在り処を捜す過程で、里子の夫の死の真相が明らかになる。なに、すは、大陰謀の犠牲者かってな感じで力んじゃいけない。ネタばれで怒られるのを承知で言うと、破滅型の人間ってのはしょうがねえな、といったもの。ただ、結末にいく展開がちょっと、とんとんと行き過ぎる感が強いので、この夫の死の真相あたりで、うーむと唸っておいたほうがいい。
で、4つの短編を通して言えることは、ハードボイルドな女性主人公の誕生を祝福!といったところか。今まで、日本ミステリーの女性主人公というと、理性的でちょっと控え目か、鼻っ柱の強くて色っぽいの、といったのがよく見るタイプなのだが、こうした過去の影を引きずってはいるが、やるときはきっちりやらせてもらうわよ、と乱暴な振る舞い(なにせ、この4編の中で3編とも、かかる火の粉を相手の命で払っているのだから)も辞さないタイプは珍しいのではなかろうか。
これ以上の乱暴はちょっと、ということなのか、この4編以外の活躍を知らないが、たまには、夫の死の真相を乗り越えた、里子探偵の、ハードな活躍を読んでみたいものである。

芦原すなお 「わが身世にふる、じじわかし」(創元推理文庫)

八王子に住んでいる小説家の「ぼく」と「妻」のところへ、警視庁の敏腕(?)で、奇妙な事件が起こる署をたらいまわしにされている河田警部がやって来て、というシチュエーションで始まるおなじみのシリーズ。
「ミミズクとオリーブ」「嫁洗い池」に続く第3弾である。
前作でニューヨークに研修派遣されていた河田警部だが、今作では日本に帰ってきていて、ニューヨーク時代の事件についての話もある(もちろん、ぼくの「妻」の推理あっての解決なのだが)。
収録は
「ト・アペイロン」
「NY・アップル」
「わが身よにふる、じじわかし」
「いないいないばあ」
「薄明の王子」
「さみだれ」
の6篇。
このシリーズの楽しみは、なんといっても、そのほんわかとした語り口と「ぼく」と「河田」の掛け合い、割烹着(どんなものかわからない人は、ググってね)と和服がぴったりくる「僕の妻」の妙な冷静な推理だろう。
それぞれの話で起きる事件は、殺人事件にしろ誘拐事件にしろ、どちらかといえば血ご大量に流れている「ほんわか」としていないものが多いし、犯人にしても近親者であったりして、動機もどろどろとしたものが多いのだが、「ぼくの妻」が残酷そうな場面は顔をしかめたり、顔を白くしたり、といった仕草に救われるのである。とはいっても、事件のシチュエーションや殺人のトリックなどは、かなり本格モノなので謎解きミステリーとしても楽しめること間違いない。
さらに、もう一つの楽しみは、随所にでてくる食べ物の話題。
それは、デベラであったり、ソラマメやお好み焼きのソースであったり、けして高級品ではないが、心のどこかにひっかかって、食欲を刺激しながら、物語を読み進める絶好の香辛料にもなっている。
例えば
この具の鍋、ちょっと蓋をとってもいいですか。うわー、いいにおいだ。おお、タケノコ、フキも入ってる!カマボコに揚げ、ゴボウ、レンコン、それからちゃんちコンニャクも入ってる。満点です。奥さん、これでお寿司を作って、それを皿に盛った上に、茹でたキヌサヤエンドウの薄切りと、塩梅よく焼いた錦糸卵と、紅ショウガを、載せるんですよね
といったあたりや
(イリコの)中羽の頭をとり、二つに裂いて皿に盛り、アサツキ、一味唐辛子をかけ、スダチの絞り汁を垂らし、醤油をかければ、もう最高のツマミでございます
といったところに出くわすと、思わず冷蔵庫の扉を開けたくなりませんか。
さて、レビューの最後にネタばれを少々。表題の「じじわかし」ってのは「じじいのかどわかし」のことらしい。なぜ、そうなんだってのは、本書を読んで、自己責任で解明してください。

北森 鴻「写楽・考」(新潮文庫)

異端の民族学者 蓮丈那智シリーズの3作目。
収録は
「憑代忌(よりしろき)」
「湖底祀(みなそこのまつり)」
「棄神祭(きじんさい)」
「写楽・考(しゃらく・こう)」
の4作。
ネタバレすれすれで、ちょっと紹介すると
「憑代忌」は蓮丈先生の不肖の愛弟子 内藤くんの写真がお守りというか、贄がわりに使われているところから始まる話。
本当の事件は、南アルプスの近くの火村家でおこる「御守り様」と呼ばれる人形を巡っての殺人なのだが、ここでは、「憑代」っていうことが推理を狂わせるお話。ちなみに憑代っていうのは、憑代、ひとかた、人形に代理の罰を与えることで、現実の人物に呪いをかける方法なのだそうだ。
「湖底祀」は湖底で発見された江戸時代の神社跡、実は、鳥居の起源を解き明かす重大なヒントが、民俗学的な謎解きに、生臭い、いわゆる地域起こし、ムラ起こしといったやつが絡んできて・・・といった、ちょっと少しばかり曰く因縁があれば、なんでも地域振興にこじつける在り様がチクッと胸に刺さる一編。もっとも、本当の謎は別のところにありますよ、念のため。
「棄神祭」は保食神の話。保食神ってのは、殺害されることで、この世に牧畜や農業、養蚕などの恵みを与える神のことなんだが、舞台は九州の御厨家でおこなわれる3年に一度、塚の上で家護の神像を燃やすという祭祀に隠された謎をとく話。旧家といえども戦争の影響は受けているのは、どこもそうなのだが、その影響っていうのが、ちょっと物悲しさを感じさせるのと、いわゆるシャーマンの保食神としての意外な側面を教えてくれる一編。
さて、最後は表題作の「写楽・考」。この話では、式直男という「仮想民俗学」を唱える研究者があらわれ、今回の狂言回しを務める。で、この式直男の死を巡って蓮丈が犯人と疑われて失踪したりといった騒ぎがおこるのだが、まあそれは誘い水で、大事なところは「絡繰箱」と「べるみー」という画家の正体、というあたり。
そうそう、この話で、蓮丈先生にいつも渋い顔をしている大学の事務局のキツネ目の男、高杉の過去が明らかになるのだが、それはまあ読んでのお楽しみ。
それと、なぜ「写楽・考」なんだ、べるみーと全然関係ないぞ、というところは、話の最後で、どんとでてくる。でも、ちょっとこいつは、最後のどんでんが過ぎるよな、というのが管理人の率直な感想ではある。
まあ、今回もうかうかと著者の手に乗って、最後まで読まされてしまいました。蓮丈那智シリーズ、3作目も良き出来でありました。

塩野七生 「ローマ人の物語 ⅩⅡ 迷走する帝国」(新潮社)

いつもは安価な文庫本で済ますのだが、今回はちょっと奮発して単行本で読むことにした「ローマ人の物語」である。
時代背景としては、セプティミウス・セヴェルスがイングランドで客死した後、後を継いだカラカラから始まり、ローマ帝国の危機ともいわれ、軍人皇帝が乱立した時代、ディオクラティヌスの即位直前までの3世紀のローマ帝国が描かれている。
紀元211年から284年の、百年間にも満たない期間なのだが、あれあれ、という声が出てしまうほどに様々な出来事、国難満載の世紀である。
例えば、カラカラ帝がローマ帝国の市民権を、帝国住民全員に広げ、ローマ軍の弱体化を招き、オリエント出身のあやしげな(失礼!)宗教の祭司も務める皇帝ヘラガバルスが登場したりして、なんか雲行きが怪しくなったぞ、と思ったら、案の定、新興国ササン朝ペルシアが登場して、皇帝が捕囚の身になるという前代未聞の失態はおきるは、ゲルマンの蛮族がやたら暴れ出して、あろうことか、ガリアが独立したり、シリアのあたりがパルミラとして割拠したり、といったいったことが、次々とおこるのである。
そして、また、この当時の皇帝というのも、最初は正統な、というか伝統どおりの選ばれ方をしていたものが、だんだん元老院の擁立や軍隊の擁立が中心になってきたせいか、召使いを折檻したら腹いせに暗殺されたり、擁立した部下たちに殺されたり、落雷にあったり、なにかしら謀殺や不慮の事故による死亡が多い。いくら、ローマ帝国の皇帝が終身制で、皇帝を変えようと思ったら、皇帝が死ぬか殺すかしかなかったとはいえ、「やりすぎでしょ」と呟かざるをえないような事態である。
その証拠に、この12巻で書かれる73年間で、皇帝は22人も登場している始末で、一番在位の長いアレクサンデル・セヴェルスは13年間在位しているが、そのほかは2年から5年と言った在位期間が多いような状況になっている。
まあ、これは、当時即位していた皇帝の質云々というより、時代の趨勢といった事情の方が強いと思われて(事実、暗帝ばかりでなく、賢帝と呼んでもいい人物もでてきている。アウレリアヌスや、クラウディウス・ゴティクスあたりはそうだろう。)、例えば、ペルシア帝国の再興を目指すササン朝ペルシャや、ゴート族、ヴァンダル族といったゲルマンの蛮族の隆盛も、長い期間のローマ帝国の存在というものを踏み台にして、周辺の国が潤ってきた、あるいは、繁栄のおこぼれが芽を出し始めた結果だといえなくもない。
そういえば、この時代、初代のロムルスから数えてローマ建国1000年を迎えたということで式典が開かれたようで、1000年というのはどうかと思うが、それでも、アウグストゥス即位から数えても300年ぐらいにはなり、そろそろ、いろんなところにガタがきて、ガタの補修をしたところが、またほころび始める、といった状態になってもおかしくはない年数である。
この時期の皇帝で、惜しむらくはアウレリアヌスで、皇帝捕囚後、三分していた帝国を、わずか5年のうちに再統一してしまった手腕は並ではない。ただ、そうした手腕と高い能力を持ちながら、秘書を厳しく叱責したがために、その秘書エロスの手によって暗殺されてしまうのが、この時代らしい病んだところではあるのは間違いないところだ。
こんな感じで、こうした時代の歴史がつまらないか、といえば、そうもいえなくて、例えば五賢帝やカエサルの時のような、大俳優が演ずる大スペクタルや立志伝のような感動巨編はないものの、ちょっと癖のある性格俳優が主演を演じる小劇場の演劇か、あるいは異色作家の短編集を読むような感じで、単に太平楽な時代に比べて、小味であはあるけれど、それなりの楽しみが味わえる時代である(当時、暮らしていた人はたまったもんじゃないだろうけどね)。
そうして、こうした時代ほど、なんとか頑張ろうとして途半ばにして倒れる悲劇の人あれば、脳天気に暮らして後で手ひどいしっぺ返しを食う人もあり、詩の一編も口にしたことのない武骨者から、とんでもない軟弱者まで、多士済々で、まあ、人間絵巻としては「スゴイ」時代といっていい。
一気に読み通すのは、いろんな人物が出てきて、その毒に充てられそうになるので、よしといた方がいいが、ポツポツと読むには、適度な毒を薬にできて、長く楽しめること間違いなしの一冊である。