園芸家という不思議な生態のいきもの ー カレル・チャペック「園芸家12ヶ月」

 
最近、家庭菜園のエントリーをしているので、ブックレビューもその系のものをエントリーしようかと思ったのだが、とりあえずカレル・チャペックの「園芸家 十二ヶ月」をとりあげよう。もっとも、私の所蔵品は中公文庫のかなり古いバージョンなので、今売っているものとは若干の違いがあるかもしれないことはご容赦。
 
構成は、といっても
庭をつくるには、園芸家になるには、1月の園芸家、2月の園芸家と続き、中に掌編っぽいのがまじっているものなので、まあ、園芸家の1年をつらつらと書いてあると思っていい。
 
しかも、「家庭菜園を・・」といったのだが、菜園についてはチャペックは批判的で
 
野菜栽培をやる人たちに興をそぐつもりは、けっしてない。しかし彼らの播いた種は、彼らがからねがならぬ。わたしが丹精したバラを、わたしがムシャムシャ食べ、スズランの花をかじられねばならぬことになったら、わたしは、それらの花に対するわたしの尊敬をかならず失うに違いないと思う。
 
といった風である。
 
ただ、園芸家に好意的かというと、まあ好意的には違いないのだが、例えば
 
園芸家というものが、天地創造の始めから、もしも自然淘汰によって発達したとしたら、おそらく無脊椎動物に進化していたにちがいない。いったい、何のために園芸家は背中をもっているのか?ときどきからだを起こして「背中が痛い!」とためいきをつくためとしか思われない。
 
とか
 
人間が真理のためにたたかうことは事実だ。しかし、自分の庭のためだったら、もっといそいそしてとして、夢中になってたたかう。
 
とか
 
ロック・ガーデンの持ち主は、たんに園芸家だというだけではない。同時に彼は蒐集家だからだ。したがって彼はやまい膏肓にいった偏執狂患者の一人だ。たとえば諸君の庭にカンパニュラ・モレッティアーナがみごとに育っているところを、こういう男にチラッとでも見せたらさいご、夜になると盗みにくる。ピストル片手に、殺す覚悟で。
 
などなど、「愛すべき」かなりの変人扱いである。
 
 
ただ、なんにせよ人に迷惑をさほどかけることなく、不思議な生態がみられるというのは、園芸家を置いては他にない、といってもいい。なにせ、頭の中は、花であり、野草であり、とにく植物が、他の園芸家の庭より素晴らしく育つか、咲くかなのだから、害がないといえば害がない。
 
まあ、最後の件
 
われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。一〇年たったら、この小さな唐檜が一本の木になるだろう。・・いちばん肝心のものは、わたしたちの未来にある、新しい年エオ迎えるごとに高さとうつくしさがましていく。ありがたいことに、わたしたちはまた一年齢(とし)をとる。
 
といった園芸家へのエールを引用して、この稿は了としたい。あまり難しいことを考えず、園芸家の奇妙な生態を、わはわは、と楽しんだほうがよさそうな一冊である。

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