マタギとは何者?ー田中康弘「マタギ 矛盾なき労働と食文化」

「マタギ」をネットで調べると「東北地方・北海道で古い方法を用いて集団で狩猟を行う人」「クマなどの大型獣を捕獲する技術と組織をもち、狩猟を生業としてきた人」なんていうのにぶつかるのだが、頭の中は矢口高雄の毛皮の上着を着て、猟銃を構えた猟師の姿で占領されてしまい、さて実態はとなると茫漠としてつかみどころがなくなる。
この「マタギ 矛盾なき労働と食文化」はそんな「マタギ」の残された本家本元らしい、秋田県の阿仁町(今は北秋田市)に住む人々の生活のルポである。



ただ、単なる田舎ぐらしのルポと違うのは、長い孤絶した環境の故だろう、熊の解体(けぼかい)の最初には熊の頭を北に向け、お神酒を手向けて塩を盛り、「あぶらうんけんそわか」という呪文を唱えてから行う、とか、猟の肉の分配は勢子(追い立て役)もブッパ(鉄砲撃ち)も同量の肉を分け、さらには参加できなかった仲間にも肉を分ける「マタギ勘定」とか独特の風習に彩られた「マタギ生活」のルポである。
構成は
序章 マタギとの邂逅
第1章 熊のけぼかい、熊の味
 マタギの獲物/けぼかい/熊獲れる/マタギ勘定/熊を狩るということ/熊を食べる
第2章 雪山のウサギ狩り
 初めての雪山/リベンジウサギ狩り/ウサギを食す/命をいただく
第3章 冬の川で猟をするマタギ
 真冬のスコップ漁/かんじきで川に踏み入る/記憶の魚影と今の漁獲/ジャガクが幻となった瞬間
第4章 マタギと渓流と岩魚釣り
 源流に岩魚を追う/名人の腕に驚愕/素晴らしき渓流/14代続くマタギの末裔
第5章 マタギの山の茸
 舞茸をだしに師匠の元へ/道なき道を進む/舞茸以外の山菜、茸は大漁/収穫下山の幸をまたぎ龍に料理/季節とともに生きるマタギ
第6章 山奥に天然舞茸を追う
 やっぱり天然舞茸が見たい/谷底のカメラは貢ぎ物?/ついに念願のご対面/マタギが山に入る理由
第7章 西根師匠の遺したもの
 突然の訃報/鍛冶屋三代目、西根正剛/袋ナガサ誕生秘話/マタギとしての西根稔/マタギの未来、鍛冶屋の未来
第8章 マタギとともに熊狩りへ
 ついに熊狩りに行ける!/獲物は遠くて見えない黒い点/忍び猟は抜き足/大物を運ぶ苦労と喜び/マタギは根性だ
第9章 マタギとは何者か
 マタギの語源、ルーツは諸説あり/マタギは縄文人か?/熊の胆の価値/マタギとおかあちゃん/マタギ里の発展と末裔たち
終章 マタギの向かう先


となっていて、熊撃ちの猟師という性格をもつマタギであるから、「猟」が中心となるのは当然でもあるのだが、渓流の漁や山菜取りなど、「マタギ」全体をルポしようという心意気を感じる。




で、やはり「マタギ料理」の独特さが、この本の読みどころで、「自分で捕った獲物は自分でさばいて料理をする。それがマタギの流儀である。つまりマタギ料理は常に獲物の解体から始ま」(P49)り、熊鍋やウサギ鍋は



熊の解体が終わったら、熊料理の始まりだ。今回のメニューは三品。今朝までそこの山を歩いていた熊の赤肉の鍋、骨付き肉の鍋、そして内蔵の鍋。どれも鍋一つで作るマタギ熊料理の極めつけばかり
(中略)
マタギ熊料理(の)味付けはいたってシンプル。三つの鍋はすべて同じで、みりんと醤油と酒と砂糖というマタギ料理にはお馴染みのもの。肉以外の具材としては、ダイコンやぜんまいが入る。熊とゼンマイがこれまたよく合うのだ。

熊肉を食べるというのは結構疲れるものだ。まるでアゴの筋トレをしているような感じ(P27)



とか



ウサギのような小動物は大抵吊るして解体する。アンコウのつるし切りのようなものだ。・・・さらに、まな板の上で伸びたウサギをナガサでぶつ切りにする。こうして、ウサギは骨付きぶつ切り肉となった。
ウサギ料理も熊と同じく鍋料理が基本だ。熊は肉と骨付き肉そして内臓と三種類の鍋になるが、うさぎは肉も内蔵も全部をいれた一種類の鍋となる。
(中略)
今までに似たような味を食べた記憶がない。熊は熊独特の味があり、山鳥や雉の味も独特だが、これもウサギの味としか言いようがない個性ある味だ。臭みの3歩程手前の味との表現もできるし、”香り”とも言えるかもしれない(P48)






とか誉めているんだがどうかわからない料理表現がその特殊さを表しているといえなくもない。



一方で、少し、思想っぽさが強くなるところもあって


ヨーロッパ文化圏の多くでは紙はキリストだけであり、まして自然の中に神を感じることはない。・・脂をとったら後は捨ててしまう彼ら(欧米人)のやり方と、すべてを利用させてもらおうと考えて鯨の魂をきちんと供養してきた日本人。・・いったいどちらが真のエコロジストで・・


といったところとか、都会と地方の云々、開発どうのこうのといったところも散見されるのだが、私としては、失われつつある「マタギ」の暮らしの民俗学的なルポとして読むのがオススメで、



「マタギであると認められるのはどんな条件を満たしている場合ですか?」
「自分たちが受け継いできたマタギとしての生き方、掟というものを守り、決して自分勝手な振る舞いをしないこと。そしてですね、受け継いでいきたいものをきちんと伝えていく。それがマタギではないでしょうか」

マタギは「伝承者」なのだ。伝えるべきことがあり、受け継ぐ人がいる。この伝承という行為が地域のアイデンティティーを守り、それにより地域の繋がりが保たれる。(P79)





とか



若い人がマタギの世界に入ってこない大きな原因のひとつは食生活の変化によるところが大きい。・・最大の歓びは食べ物である。自分の力で山に入り、自分の能力で手に入れる。この歓びを子供の頃から体に染み込ませていること、これがマタギになれるかどうかの境目となるのではないか(P112)





マタギについて考える時、どうしても狩猟に関することばまりが中心になるのはしょうがない。しかし彼らは狩猟民であると同時に、山の民であり商人でもあった(P168)



といった「マタギ論」とでもいうべきところに、ふむふむと頷きながら、マタギ料理や渓流釣りのところで、気分をリフレッシュしながら読むのがよろしいのでは。



さて、こうしたマタギの生活は永遠に・・といかないところが浮世の常であって、「過疎の山里ではあるが、何もかもが衰退してゆきつつある他の地域とは明らかに違う雰囲気。特にマタギのルーツである根子の集落には、驚く。・・不便なところでありながら、昨今山村でよく見られるハイオクが無残な姿をさらしていることがない」マタギ里ではあるが、



「20年もすれば熊を撃てる人がいなくなる」というのは、直接的なマタギの消滅である。同時に住民の意識からもマタギは消滅しようとしているのではないか。これはマタギの里そのものの消滅といっていい



ような緩やかな「消滅」は避けられないようだ。なんとも無情ではあるが



驚きと喜びを人から伝えられ、また自分も誰かに伝える。お互いに幸せな関係だと思う。このようなつながりが現代では失われてしまったのではないだろうか。自然は変わり、人と人との関係も変わる。そして永遠に消えていくものがある。それが時代の流れであり、人は常にその流れに乗らざるを得ない。(P62)



といったところを、マタギの里への手向けとしてこの稿を「了」としよう。


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