食べ物で知る「今」と「昔」の隔たり ー 今柊二「定食と文学」(本の雑誌社)

文学の主要テーマは、恋愛(SEX)、諍い(戦争)、食べ物で大概のものは分類できると思うのだが、今回の定食シリーズは「文学」の中の「定食」を取り上げようという乱暴なもの。
構成は
第一章 二大定食作家 林芙美子と獅子文六
 コラム 林芙美子と牛めし
     横浜で獅子文六を歩く
第二章 三大定食映画監督 小津安二郎、山本嘉次郎、伊丹十三
 コラム タンポポオムライスの「たいめいけん」に行く
第三章 大阪定食彷徨 はるき悦巳、宮本輝、織田作之助
 コラム 定食屋でうどん定食を食べる
     大阪中華 酢豚定食エビフライつき
     「自由軒」でオムライス
第四章 児童文学と定食「いやいやえん」から宮崎県へ
 コラム 工業食品の極致・ちくわパン
     「千と千尋の紙隠し」制作日誌を読む
第五章 漱石の朝食と鴎外の青魚味噌煮
 コラム 京都の名店「今井食堂」
第六章 ブラジル定食 石川達三「蒼氓」から北杜夫「輝ける蒼き空の下で」まで
 コラム 「蒼氓」を歩く
     渋谷でフェイジョアーダ
となっていて、「文学」とあるせいか、昭和初期から戦後にかけての少々「権威」がでた作品が多い。
だが、その作品の選択がまた良い味を出していて、「食べ物」がこうした「ノベル」の味を深める効果というものを知らしめてくれる。

例えば、林芙美子の「放浪記」の
労働者の食べたメニューは以下のとおり。
大きな飯丼。葱と細切れの肉豆腐。濁った味噌汁10銭。
「肉豆腐」というのはとても力強いおかずだ。(P11)
といった下りには、男が湯気を揚げる丼を抱えている姿が目に浮かぶし、獅子文六の「食味歳時記」の
彼らは夏の蒸し暑いときでも、熱いドジョウ汁のようなものを注文して、山盛りの飯茶碗を抱え、いかにもウマそうに頬張っていた。空腹がそのおいしさの要因の一つなのだが、体を動かした結果、烈しい食欲を感じている彼らに、飯屋の食事が非常な満足感を与えることを獅子文六は大きく評価している
<茶人が心をこめた懐石を味わう時とちがって、鑑賞や批判は働かなくても、肉体の味わう悦びは、それに優るだろう。>
や、小津安二郎の稿の
架空の洋食屋として「カロリー軒」という店が「お茶漬けの味」など彼の映画に登場する
戦前・戦後にともかく元気をくれる食事を提供する場を示す店名として「カロリー」という名称が流行ったようだ。
ちなみに御茶ノ水の「キッチン・カロリー」にはカロリー焼きという「メニューがある。これは、鉄板の上にスパゲッティがのり、さらにその上にガーリック醤油味の牛肉と玉ねぎがのっているという強い食べ物なのだった(P47)
といったところに、下品かもしれないが、力強い庶民の味を想像させる。
そして、ふむふむと読ませるのは、石川達三の「蒼氓」などの移民を取り上げた作品の稿の
「蒼氓」での収容所の食べ物の記述は、昭和初期の段階で日本人の「食」の標準が都市と農村ではっきりと異なっていたことを示している。都会生活者には我慢できない食事でも、農村の人たちには「おいしい食べ物」であった。これは、農村からの徴兵者が軍隊での食事のおいしさに感動したという、戦前によく出てくる逸話にも通ずるところがある。それほど、農村の食事は質素もしくは粗末なこともあったのだ。(P157)
見た目は日本の甘い煮豆にも見える豆を油断して食べたら、それは豚の内臓とともに煮てある、まったく食べたことのない「いやな」食べ物だったのだ。移民たちが、こうした「こってり料理」から受けた衝撃は我々の想像をはるかに超えるだろう。
昭和初期の移民たちは油分にすら慣れていない。普段は米と味噌と野菜との素朴な食べ物ばかりを食べていたからだ。(P163)
といったところに、明治・大正。昭和初期と現代との隔たりの大きさを感じるのである。まあ、こうした文学作品の中の「定食」あるいは「食べ物」の記述を探っていく作業は、今と昔の違いを再認識していく作業でもある。定食を実食するだけでなく、たまにはこうした、「バーチャルな定食」を味合うのも良いかもしれませんね。

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