月別アーカイブ: 2017年5月

現代の「貧困」のなんともやりきれない側面 — 鈴木大介「最貧困女子」(幻冬社新書)

不景気であるとか、動乱といった物事は、最終的には、世間で一番弱い者たちに及んで結末を迎えるのが常なのであるが、その「弱い者」たちとは往々にして、子供や女性であることが多いと思う。

本書は、雇用の確保が声高に言われていた時のものなので、今のような人手不足のときとは少し様相が異なるかもしれないが、「セックスワーク」であるとか「シングルマザー」の問題は、今に至るも解決しているとは思えない。

構成は

第1章 貧困女子とプア充女子

第2章 貧困女子と最貧困女子に違い

第3章 最貧困女子と売春ワーク

第4章 最貧困少女の可視化

第5章 彼女らの求めるもの

となっていて、前半の普通の「貧困女子」の話から始まって、彼女たちが「貧困」の結末として「セックスワーク」に取り込まれていく状況と、その生活がルポされていく。

ただ、こうした貧困をテーマにしたルポ本であるが、

貧乏とは、単に低所得であること。低所得であっても、家族や地域との関係性が良好で、助け合いつつワイワイとやっていれば、決して不幸せではない。一方で貧困とは、低所得は当然のこととして、家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い、もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人はいない。貧乏と貧困は別ものである。

といった冷静な認識をもとに

本来の居所を飛び出して家出生活に入る少女たちは、一見して「見るからに可哀相な、怯えた少女」だろうか? 多くの場合、それは誤った認識だ。彼女らは、基本的に「非行少女」だった。

とか

地元で近しい境遇にある者同士で同年代コミュニティを作る。貧困の要因である三つの無縁でいえば、「家族の縁」(親の縁)が虐待などで断たれ、「制度の縁」が地元児童福祉の不整備などで彼女らの求めるQOLを満たせなかった分、その寂しさや欠乏状態を「地域の縁」としての同年代コミュニティで補ったわけだ。  だが実はここで、大きなどんでん返しがある。こうして地域の縁の中に吸引された少女らが、なぜか売春ワークへと取り込まれてしまうケースがあまりに多いのだ。というのも、そうしたコミュニティでは年長者の中に既に売春・援交行為をしている者が少なくない。家出生活ほどの経済的な逼迫状態にはないものの現金には飢えているため、はじめは「売り子」として下着を売ったり、先輩から紹介された男相手の売春をしてみたりもする。

といった形で、「貧困問題」、そしてそれにまつわる「セックスワーク」の問題を、地域的な「構造」の課題としてとらえるなど、悲憤慷慨して悦にいってしまう、夜会改革本ではないところに注意が必要である。そして

昼職の所得が少なくて、「やむを得ず」風俗に副収入を求めたのではない。むしろ彼女らから感じたのは「デリヘルで稼げる自分への誇り」のようなものだ。驚くことに、愛理さんは、なんと週一のデリヘル勤めが既に職場の人間にバレているという。それどころか、弟も知っているし、カミングアウトしている友人も少なくない。あまり大っぴらには言えないけど、決して恥ずかしいことではないし、そうして自らの「資質」を活かして地元同年代の中では高所得をキープしていることを誇りに思っている節があるのだ。  デリヘル店長は、こうも言う。 「あくまで、彼女たちは『選ばれた人たち』です。

といったところに、「現代の貧困」の複雑さがあるといえよう。

どうも、現代の「貧困問題」は、”こうだよね”といった脳天気な処方箋を提示できるほどヤワいものでもない。今ある「現実」をしっかりと分析しながら、ひとりでも多くの人が「望まぬ貧困」から脱していく手立てを一つずつ提示していくしかないのか、となんとも頼りないレビューで、この稿は勘弁してくださいな。

日本の食文化の重要要素として無視できない「チェーン店」という存在 — 村瀬秀信「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」(講談社文庫)

当方の子どもたちがまだ、幼いころ、「外で御飯食べるぞ−」となると、行くのは決まって「チェーン店」であって、子どもたちも、テレビのCMにでてくる店で食事ができるということに大喜びしてしまうというのが、「辺境」に住まう家族の寂しいところ。

もっとも当方がガキの頃は、外食できるところといえば、街のうどん屋か蕎麦屋がせいぜいであったので、牛丼、ピザ、ステーキ、焼肉、ハンバーガーといった様々なもの(料理というと反論されそうなのであえて”もの”と言っておく)を、安価に、手軽に食せるというのは、日本の食文化の画一化を進めたという批判はあるにせよ、地方部の「食」を都市部のそれに近づけた、おおげさに言えば、「食」を介した日本人の「意識の共通化」「日本人という共通意識の強化」に貢献したといえなくもない。

収録されているのは

吉野家/山田うどん/CoCo壱番屋//びっくりドンキー/餃子の王将/シェーキーズ/サイゼリヤ/かっぱ寿司/ハングリータイガー/ロイヤルホスト/マクドナルド/すき家/レッドロブスター/蒙古タンメン中本/やよい軒/牛角/カラオケパセラ/くるまやラーメン/とんかつ和幸/PIZZAーLA/ビッグボーイ/鳥良/築地 銀だこ/日高屋/バーミヤン/ケンタッキーフライドチキン/てんや/どん亭/Sizzler/A&W/リンガーハット/ビリー・ザ・キッド/東京チカラめし/野郎ラーメン/ファミール

といった、外食チェーンの大所が多いのだが、例えば「ハングリータイガー」や「ビリー・ザ・キッド」「てんや」など、辺境に住まう当方には出張の折りぐらいしかお目にかかれない店もあるのだが、例えば、

「かっぱ寿司」の

「た、楽しい・・・」。かっぱ寿司を寿司屋と対比してはいけない。これは、総合フードエンタメなのだ。店内を見渡せば、同じように新幹線から寿司をとってニヤニヤするおっさん客の姿があちこちにある。ああ、楽しかった。店を出ると、一言もしゃべらなかったことに気がついた。

「牛角」の

筆者にとって、チェーン焼肉といえば、「牛角」だった、そのはじめての出会いの衝撃は今でも昨日のように覚えている。まずは肉質。焼肉というものを知らぬハタチそこその貧乏人にとって、牛角の肉は、まだ見ぬ松阪牛と錯覚するほどの実力を感じずにはいられなかった

といったあたりは、都市部、地方部共通であろう。さらには、「とんかつ和幸」の

思い返してみれば、とんかつ専門店という概念も知らなかった子供時代、筆者の家庭の事情ゆえなのかもしれないが、店で食べるとんかつといえば、30円の駄菓子〝ビッグカツ〟の親玉か、太ったハムカツ程度の代物で、下手なとこだと一口食べれば衣から豚肉がスッポリ抜けるガッカリとんかつが主流だった。  現在のようなぶ厚くジューシーな本物の〝とんかつ〟。あれに出会った瞬間、とんかつはとんかつでなくなり、ビッグカツは携帯用とんかつでないことを思い知る。

というところでは、高級洋食であった「とんかつ」を、皆の手元にもってきたのは、チェーン店の功績というべきであろう。

さて、こうしたチェーン店が元気なうちは、国の勢いも盛んであるようなのだが、チェーン店から高級志向への。「食の嗜好」が移るにつれ、なにやら世の中が難しくなって、世の中の熱気もなくなってきたように感じる。熱気があればよいものではないのだろうが、やはり世の中の「熱気」というものはある程度ないと、社会自体が衰えていくようだ。難しいことは、ちょっと置いておいて、家族と「チェーン店」へ行って、盛大に注文をしてみませんか。

新自由主義・新帝国主義のもとでの日本的資本主義論 — 佐藤 優「資本主義の極意」(NHK出版新書)

階級論争や、資本主義・社会主義論は、当方が大学時代には、少し以前の話になっていたのだが、新自由主義やグローバリズムへの反省から、再びあちこちで論じられるようになている気がするのだが、さて「資本主義とは何」って聞かれると、浅学非才の当方には・・・、の感が強い。

そして、そういう輩にも「日本型の資本主義」を明治期から戦後までの歴史を分析しながら解説してくれるのが本書。

構成は

序章 資本主義を日本近代史から読み解く

第1章 日本資本主義はいかに離陸したか

第2章 日本資本主義はいかに成熟したか

第3章 国家hあいかに資本に介入したか

第4章 資本主義はいかに変貌したか

となっているのだが、講学的な、難しいところは本書を読んでいただくとして、例えば

日本の資本主義の特徴は

重要なポイントは、日本のように後発で資本主義を導入する国ほど、純粋な資本主義すなわち原理論的状況とは異なるプロセスを踏んでいくということです(P72)

といったことを基礎にして、

日本の植民地は、食料の確保と工業製品の輸出市場という役割が中心であり、植民地に投資をして儲けるという資本輸出はあまり見られませんでした。

なぜか。資本輸出をするためには、国内に余剰資本がなければいけません。しかし日本は、日露戦争の戦費や戦後の軍事費のかなりの部分を外国債でまかなっており、国家財政に余裕がありません。(P129)

とか、日本の共産主義者の二つの流れについて

講座派を勉強した共産党系の人と、労農派を勉強した人の違いは、会うとだいたいわかります。労農派は、物事を相対的に見る視点を持っています。「ものごとを突き放してみる」と言ってもいいかもしれません。なにごともワンオブゼムで考える思考的習慣がついているのでしょう。

一方で講座派は、教条的で自分の考えに固執しやすい。前述のように「日本の伝統はほかの国にはない良さがある。だからこそ素晴らしい」というよな日本特殊論が大好きな人たちです。

さらに言えば、たとえ宇野経済学を学んでいなくても、日本人の思考は労農派と講座派に分かれる(P159)

といったところでは、知り合いのその系の人達の具体の顔が思い浮かぶことも、場合によってはあろう。(当方の場合は、「講座派」らしい人の顔は浮かびましたな)

さらには、前世紀以降、戦争が絶えないのは

現代の資本主義のもとでは、新自由主義と帝国主義とが同時に進行しているとみるべきでしょう。

では、そういった現代の資本主義の最大の課題は何でしょうか。

それは、資本の過剰をどう処理するかということです。(P180)

帝国主義になると、恐慌は周期性を失います。だからといって恐慌は完全にコントロールできるものではないので、起きる時は起きる。

ただ、同時にそれぞれの帝国主義は、貿易や資本輸出を強化することで、恐慌の必然性を排除しようとする。第三章で見たように、それが列強の対立を深め、戦争を招来するわけです。

したがって、帝国主義のもとでは、資本の過剰は恐慌か戦争のどちらかで処理されることになる(P181)

といったことかと新知識を得て、悦にいってみてもよい。

では、筆者は、こうした資本主義あ、あるいは現在の新自由主義+新帝国主義の世界を肯定しているかというとそうではなく、

キリスト教神学によれば、私たちはみな、終末にいたる「中間時」すなわち「時のあいだ」を生きています。中間時を生きる人間の社会構造には、悪が容易に忍び込んできてしまう。しかしこの悪の問題は、いつかは解消される。それが終末であり、この終末の日に備えて自らを律して生きるのがキリスト教徒の仕事です。

私はこの終末を、資本主義からのラディカルなシステム転換だと捉えています。いつかは資本主義も終焉するでしょう。でも、それはいつのことかわからない。

ならば、焦らずに待つ、待つことにおいて期待する。

これを神学者のカール・バルトは、「急ぎつつ待ち望む」と言いました。

その時がくるまで、私たちは高望みせず、しかしけっしてあきらめない。そして、その時が到来したときこそ、私たちは資本主義を超えた、良い社会をつくらなければならないのです。(P233)

が本旨で

高望みはせず、しかしあきらめないこと。飛び交う情報に踊らされず知識を蓄え、自分のアタマで考えること。平凡なようですが、これが資本主義とつきあうキモです(P228)

としたたかに生存の戦略を練らねばならないようだ。

日々のビジネスや、近くにある社会問題にどうしても時間と手間をとられてしまうのだが、たまには、こうした経済学の基礎的なものも読んでおいたほうが、雑談力も深くなるのかもしれないですね。

「政策批判」ではあるが、移住政策の担当者は”心すべし”として読んでおくべきかな — 藤波 匠「人口減が地方を強くする」(日経プレミアムシリーズ)

日本創生会議の「増田レポート」が世に出て以降、地方公共団体の施策の一つの大トレンドが、「移住定住対策」「出生率向上対策」「婚活対策」といった「人口増施策」になっている。本書は、そうした猫も杓子も「人口増対策」に群がる状態に、横っちょから水をかける感のある「人口減対策」の本。

そのあたりは、

序章 「地方消滅」への恐れが日本を誤らせる

第1章 若者は地方にもいる

第2章 無理に人口移動を促してはいけない

第3章 仕事が人を引きつける

第4章 新しい仕事を生み出す仕組みづくり

第5章 地方大都市の果たすべき役割

第6章 コンパクトシティだけが解ではない

第7章 「生き残り」を超えて

といった構成をみても、一目瞭然ではあって、例えば

人口の地域間移動は、あくまで都市の経済的活力や魅力の差異により生じる結果と考えるべきものです。人は、経済成長があり、富がより多く生まれる地域に、向けて流れるのが自然です(P12)

といったあたりは、「故郷」を武器に回帰を訴える自治体は、少し顔をしかめるであろうし、

行政が考えなければならないのは、移住先や空き家の紹介よりも、仕事と人のマッチングです。大都市に向けて紹介すべきなのは、移住募集やその支援制度よりも、求人情報やベンチャー立ち上げに向けた事業環境です(P93)

人口減少が進む日本では、地域政策を考える上で、定住人口を増やすことよりも、より魅力的な仕事を増やすことに注力すべき(P94)

といったあたりには、解っちゃいるけど、それが今まで上手くいかないから今の状態になっているんだろ、といった半ば捨て鉢の反論も聞こえてくるような気がするし、

合併によって、中山間地域では十分な住民サービスが「受けられなくなることへの危惧が生じやすいものの、平成の大合併における地域間のあつれきを経て、私たちは不公平感の発生を抑制する術を蓄積したはずです。(P205)

といったところは、個人的には、「えっ」と言わざるをえない。

まあ、このあたりは移住政策を実施している行政関係者の多くは、指摘される事項を感じつつも、政策としての打ち出しなどから実施していることもあるだろうし、移住対策や出生率向上施策に手を打たず、仕事のマッチングなどに注力しておいたほうがいいか、ということはなんともいえないところ。ここは、都会の定住者でなく、人口が減少したために市町村合併や、選挙区の合併にあってしまう過疎地の住民としては、施策の効果以上に、人口が少ない、あるいは少なくなる時の悲哀があることは事実であろう。

まあ、筆者の言わんとすることは

今考えるべきは、50年、100年先の将来を見据え、地域の発展を目指すプラス志向の戦略です。それは、地域の資源を活用し、1人ひとりが生み出す富を増やす発想です。(P207)

ということであるらしいので、地方を切り捨てるのではなく、地方が元気に生きていく道を探りたいというところでは、地域活性化に汗を流している行政職員と同一方向と認識しておきたい。さらに言えば、本書の論説は、耳が痛いが的を得ている所も多々あるのも確か。執政者は、心を平静に保って、こうした耳に痛い批判をきちんと聞いて、よりよい施策に結びつけていくべきなのでありましょうな。

手練の「食エッセイ」をどうぞ — 平松洋子「夜中にジャムを煮る」(新潮文庫)

食エッセイというものは、得意不得意が当然あって、食べ歩き的なものが得意な筆者もおれば、手料理もの・自分ちの台所ものが得意な筆者もいるのだが、どちらも「良し」という作者はなかなかいないのだが、そんな稀有な例が、平松洋子氏であろう。

収録は

Ⅰ 台所で考える

こんなものを食べてきた

漆と別れる、出会う

飲みたい気分

夜中にジャムを煮る

Ⅱ 鍋の中をのぞく

わたしのだし取り物語

ぴしり、塩かげん

おいしいごはんが炊きたい

手でつくるー韓国の味

手でつくるーうちの味

旅日記・韓国のごはん

Ⅲ わたしの季節の味

お茶にしましょ

夏はやっぱりカレーです

麺をつるつるっ

蒸しもの名人になりたい

炭を熾す

Ⅳ いっしょでも、ひとりでも

今日は何も食べたくない

ひとりで食べる、誰かと食べる

となっていて、手料理ネタから、外食ネタまでが色とりどりに収録されている。

例えば手料理ネタは

酒の肴はおいしすぎてはいけない。あくまで主役は酒なのだ。脇に控えてくいっと酒の味わいを引き立ててくれれば、もう、それで。(P54)

酒の肴はちょっとものさびしい暗いのが好きである。焙ったお揚げにはなんとはないひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。けれどもいったん箸でつまんで味わえば、確かな滋味をじわりと滲ませて満足をもたらす。これがいったいに酒を引き立てる肴の条件であり、ごはんとおかずとの境界線ではないか(P55)

や表題作の「ジャムを煮る」の

ジャムを煮るのである。

おたがい、いちばん幸福なときに鍋の中で時間を止めてしまう。そうすれば哀れにも腐らせたり、だめにすることもない。今がいちばんいいとき。そのときにおたおたしていたら、容赦なく時間に打ちのめされる。だから、先回りしてジャムをつくる。(P67)

ジャムは夜更けの静けさの中で煮る。

世界がすっかり闇に包まれて、しんと音を失った夜。さっと洗ってへたをとったいちごをまるごと小鍋に入れ、佐藤といっしょに火にかける。ただそれだけ。すると、夜のしじまのんかない甘美な香りが混じりはじめる。暗闇と静寂のなかでゆっくりとろけていく果実をひとり占めして胸いっぱい幸福感が満ちる。(P70)

のように、単に原を塞ぐ、あるいは美味を堪能するための手料理ではなく、「生活を楽しむ」という視点からの「手料理」を提案しているように思えるし、食べ歩きのジャンルでも

韓国では、野菜を和えるとき、決して箸を使わない。頼りにするのは、自分の手であり、指である。(P130)

指先に力を託すのではない。にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染み込むことを了解したうえで指を使うのである。ここが日本の料理法と大きく道を分けるところだ。日本料理では、野菜は鋭く研ぎ澄ました鋼の包丁でぴしりと切り揃える。だいこんの千六本もにんじんのせん切りも、断面はきりっと切り立っている。その美しさを最大限に生かしながら、菜箸で「ふわあっ」と盛り付けるのだ。野菜の扱いひとつとっても、韓国と日本では要諦は間逆である(P131)

といった感じで、美味自慢というより、料理人たちの「手仕事」の素晴らしさに着奥するあたりが只者ではないところ。

さらには、

食べたくないとき、今日は食べるのをよしておこうというとき、わたしがいそいそ齧るのは煮干しです。(P231)

煮干しにはいろんな味がある。うまみ、塩味、苦み、えぐみ、甘み、カメば噛むほどじわりじわり。天日に干されていっそう濃度を増した海の生命が踊っているような。(P232)

のようの食欲のない時の「煮干し」の味であったり、腎臓病を患っていた愛娘の入院先での食事の悲しさ、とか「食」エッセイを「生活」のエッセイにしてしまうのが、はり手練の技でありますな。

まあ、こういった手練の技はあれこれ論評するより、味わってみるのが一番。どうぞ御賞味あれ。

懐かしい味わいの「新婚アジア放浪記」 — 鈴木みそ「アジアを喰う」(双葉社)

日々の繰り返しの多い生活が続くと、なにかしら澱のようなものが溜まっててくるもので、活動的で身軽な人は、「えい、旅行でも行ってしまうか」といった気分転換が図るものなのかもしれないが、スケジュールが本当に立て込んでいたり、場所的な拘束の多い仕事であると、そうおいそれと日常生活を離れることも難しい。そんな時には「旅行記」を読むことが、気分を立て直すに有効であるように思う。

それも、難しい国を歩く「ルポ風」のものではなく、アジアを中心とした「放浪記」ものがもってこいであるのだが、「限界集落(ギリギリ)温泉」の作者による本書もそんな類で、しかもコミックなので活字本よりふわふわと読める。

旅の時期は、1993年から1994年までで、世相的には1993年が今の皇太子ご夫妻の婚約発表や、Windows3.1の発表、米不作でタイ米の大量輸入があった年、そして1994年が、社会党の村山内閣発足、SONYがプレイステーション発表、といった年。

個人的に、このあたりの年代で、生活を変える大エポックは「Windows95」の発表にあろうと思っているので、大変革の直前といった認識でいてもらえばよいだろう。

そして、旅する国は、タイ、ベトナム、シンガポール、インドネシア、フィリピンといった東南アジア、旅するシチュエーションは、漫画家とライターの新婚夫婦のハネムーンを兼ねた長期滞在の旅というものなので、スリには遭うものの大動乱に巻き込まれたりすることもなく、下痢をしたり、ひがなホテル内やホテル近辺でダラダラしたり、といった「ゆるい」旅である。そのあたりは、漫画の途中にはさまるコラムの題名も「◯◯を漂う」といったもので、ゆらゆらとした旅の生活が垣間見えるというもの。

スケジュールやタスクに追い込まれれる日常でささくれている時は、こうした、「何もない旅の記録」が結構、心の凝りをほぐしてくれるに良いものである。

筆者とともに、アームチェア・トラベルをしているうちに、おいたてられていた気持ちが、なにかしら落ち着いてくるのが、こうした「バックパッカーもの」の良さであろう。ただし、年代的はかなり昔で「旅行プラン」の参考にはならないのでご留意を。

ベンチャー企業こそ「働き方改革」は必要であるし、効果的であるかもしれない — 駒崎弘樹「働き方革命ーあなたが今日から日本を変える方法」(筑摩Books)

「働き方改革」という言葉が声高に言われれば言われるほど、その実態がよくわからなかくなっているような気がする。というのも、本来は、「Work」の形を考え直してみようという「ライフスタイルの変革」の問題としてとらえるべきものであったと思うのだが、「生産性の向上」とか「仕事の効率化」という、いつもながらの第2次産業の効率的操業的なベクトルで語られることが多くなっているようの思えるからだ。

ただ、まあ労働時間を短くすれば、仕事以外のことにも目が行くじゃね、と割り切って考えるのも、「ライフスタイルの変革」にとっては一つの方策といえ、本書のように「ベンチャー企業で如何に仕事時間を短くするか」というのも、単純ではあるが、有効な手法であるのかもしれない。

構成は

序章 なぜこのような本を書かざるを得なくなったのか

第1章 自分が働くことで、誰かを壊している

第2章 自分のライフビジョンて、何だろう

第3章 「働き方革命」の起点ー仕事のスマート化

第4章 「働き方革命」でたくさんの「働く」を持つ

第5章 「働き方革命」が見せてくれた世界

終章 「働き方」を革命し、日本を変えよう

となっていて、筆者が、国の審議会の委員としてその会議での「なんともいえない齟齬感を感じるところから始まっていて、そのあたりが執筆の動機でもあるようだ。

さて、執筆動機は置いておいて、ベンチャー企業での「時短」の技術論は

目標を言語化し、明示化することによって、とりあえずやることが分かって安心するし、モチベーションが湧いてくる。そう思うと、今まで考えたこともなかったが、仕事を含めて人生全体、それ自身も仕事の、あるいはプロジェクトのようなもので、こうありたいな、というものを描いて、それに向かって手と足を動かしていくとゴールまでは意外と行けるのかもしれないぞ、と。これまで仕事は仕事のやり方でやり、プライベートは仕事よりも相当優先順位が低いところで、特に何も考えず受身でやってきた。けれど、「働き方革命」によって仕事もプライベートも統合(インテグレート)して、それを一つのプロジェクトとして捉えることで、日常の日々そのものが歯ごたえのある、やりがいのある毎日に変わっていくのではないだろうか?

とか

①一つの会議は1時間半を越さない。

②議事録はプロジェクタで映し出しながら、その場で取る

③議題は前日までに出し、議題にないものは議論しない

④タスクは会議の場で期限を決め、次の会議が始まる前までに進捗をグループウェアに貼る

⑤定例会議ごとにファシリテーター(司会)とロガー(議事録作成者)を決め、彼らが会議の内容と時間に責任を持つ  こうしたルールを決め、それを実行させた。

とかあるのだが、「働き方改革」の一番の肝要は

ダイエットと言っても、仕事の量を減らす、ということではない。仕事にかけていた時間を絞る、と言った方が良いかもしれない。つまり、これまで湯水のごとく使っていた時間を節制しつつ、同じだけ、いやそれ以上の成果を出す、ということだ。

と「労働」「働く」というものを捉え直すことにあるような気がするのである。

その反面

社員に残業するなと言う手前、僕がたくさん残業をして働くわけにはいかなかった。その代り朝4時に起きて、彼女が起きてくる7時まで仕事をすることにした。その日にやるべきことで最も重要なことを、朝の3時間で片付ける。朝はタイムリミットが明確なので、集中が強要される。重要だけれども気の重い仕事のオンパレードを、朝のテンションの高さで乗り切る。

といった風に「綺麗事ではないよね」というところをきちんと書いてくれるところが筆者の誠実さであろう。ま、こういった仕事のスタイルの変革が「働くスタイル」の変革に結びつくのが一番よい進め方であるとは思っていて、とりわけ、ブラックと紙一重、あるいは成り上がるためには時間外労働なぞ屁でもない、といった「ベンチャー」から、こういった取組が出るのは、目出度きことであるよな。

さてさて、政府のいう「働き方改革」の行く末がどこなのか、当方のはいまいち見えてこないのも確かではある。それは、地方創生→一億総活躍→働き方改革という流れで進んでいるところに、何かしらきな臭いものを感じて、「進め一億火の玉だ」を連想してしまうのは考え過ぎではあろうが、うーむ、なんとも、という感じである。願わくば、「労働生産性向上」といったことではなく、「ライフスタイルの改革」にまで、この「働き方改革」がすすめばよいのでありますが。

「お客様のために」ではなく、「お客様の立場で」の意味とは — 鈴木敏文「売る力ー心をつかむ仕事術」(文春新書)

その時代をリードする企業の経営トップの経営書というものは、どうしてもその時代のトレンドその企業の栄枯盛衰の影響を受けるものである。本の内容とは別に、様々な評価がくだされるので、手放しで褒めておけばよいというものではないらしく、さて今回はどうするか、ということであるのだが、なんにせよ、今は勢いの衰えぬセブンイレブンの創業者の書籍ゆえ、その経営理念をあれこれとレビューしておくとする。

構成は、

第1章 「新しいもの」は、どう生み出すのか?

第2章 「答え」は「お客様」と「自分」なかにある

第3章 「ものを売る」とは「理解する」こと

第4章 「本気」の人にチャンスはやってくる

であるのだが、冒頭のあたりで、

「売る力」とは売り手側から見れば、文字通りモノを売る力です。しかし、裏返すと、お客様に「買ってよかった」「食べてよかった」「来てよかった」と思ってもらえる力ではないでしょうか(P7)

といったように「お客様」へ対する立ち位置が本書を通じるキーワードとなる。で、その「立ち位置」というものは、

売り手は「お客様のために」ではなくて「お客様の立場で」考えなければならない(P94)

「お客様の立場で」考えるときは、ときには、売り手としての立場や過去の経験を否定しなければなりません(P96)

というもので、世間の通念をどぅと揺さぶるところが、「コンビニ」という業態の発明者らしいところである。

さらに、レビューしておきたいのは、その新しさへの継続した訴求で、

人間にはみんなと同類でありたいという心理とともに、そこからまた抜け出して「自己差別化したいという自意識」もあります。そのため、流行が一定量になると飽きて、新しいものへと移行していきます。結果、流行は長続きしない。つまり流行に乗って商売をするということは、お客様に飽きられるものを売っている、ないしは、お客さまがその商品が飽きるような状況をつくり出しているわけです。その意識をもって、どこまで流行に乗るか、どこで新しい流行に切り替えるかを見極めることで、常に「飽きられない商品」を提供できるのです(P26)

と、「新しいもの」が古びていく、コモディティ化していくことを踏まえながら、

ポイントは「上質さ」と「手軽さ」という。タテとヨコ、二つの座標軸で市場をとらえたとき、競合他者も進出していなければ、誰も手をつけていない「空白地帯」を見つけ、自己差別化することです(P55)

参入が容易で誰もが狙う六割のお客様に目を奪われず、空白地帯にいる四割のお客様のニーズに確実に応えることで大きな成果を得る。市場の大小に目を奪われるか、自己差別化で勝ち残る道を見出すか、違いがここにあるのです(P60)

と、絶え間ない「ブラッシュアップ」を提案し、実践するところが、トップランナーとしてある所以であろうか。

こうした創業リーダの経営書というものは、その人の今までの実践録や、経営経験をこれでもかと披瀝されることは多いのだが、本書で、「おう」と思うのは、秋元康氏や佐藤可士和氏など、鈴木氏が対談したり、一緒に仕事をした時の、様々な「知恵」がおしげもなく紹介されているところであろう。一つの道を究める人は、他の道を究める人のこともよく理解できるということの現れであろうか。

さてさて、こうした目線というか、仕事のスタイルというのは、「小売業」「流通業」だけでなく、多くの仕事に共通するものと思えて、それぞれの仕事や立場に応じて、翻案していくっていくのが、それぞれの「読み方」であろう。

水温が上昇して百度を超えると沸騰するように、人間社会でもある仕掛けや働きかけが一定段階まで積み上がると突然、ブレークする爆発点があります。これは、お客様の心理にもあてはまります。何らかの働きかけにより認知度が一定レベルまで高まると、ブレークし、行動に表れるようになるのです(P160)

という言葉を胸において、精進いたしましょうかね、

たかがラーメン、されどラーメン — 武内伸・大泉孝之介「ラーメン人物伝 一杯の魂」(グループ・ゼロ)

ラーメンは、すでに国民食の域を脱して、「民族食」「日本文化食」のレベルに達していて、そうなると、それをつくる調理人も「料理人」「職人」として扱われるようになってきているのだが、有名店のラーメン職人たちの物語を紡いだのが本シリーズ。

収録は

第1巻

1杯目 麺屋武蔵/山田雄・佐藤吉治

2杯目 柳麺 ちゃぶ屋/森住康二

3杯目 ぜんや/飯倉洋孝

4杯目 中村屋/中村栄利

5杯目 なんつっ亭/古谷一郎

6杯目・7杯目 支那そばや/佐野実

第2巻

1杯目 東京・荻窪/春木屋

2杯目 東京・池袋/大勝軒

3杯目 飛騨高山/まさごそば

4杯目 札幌/純連(すみれ)

5杯目 白河/とら食堂

6杯目 和歌山/井出商店

第3巻

1杯目 久留米/大砲ラーメン

2杯目 月形/むつみ屋

3杯目 京都/天下一品

4杯目 函館/マメさん(丸豆岡田製麺)

5杯目 福岡/博多一風堂

6杯目 大阪/日清食品

となっていて、全てとは言わないまでも、多くの店の名前が記憶にあることと思う。

で、こうした料理を含めた職人の物語は、たいていの場合、苦難を乗り越えて、その天性が開花する、といったのが定番で、一話、二話はよいのだが、多くをよむと満腹感が漂ってきて、その努力臭が鼻についてくるものであるのだが、有り難いことに、このシリーズはその臭いが少ない。

というのも、大衆食でもあるラーメンらしく、その料理人が店を繁盛店にもっていったり、ラーメン屋を始めたりする経歴が多種多様であるせいであろう。例えば、通商産業省の役人あがり(ぜんや/飯倉洋孝)であったり、戦後の動乱の中で子どもたちを育て上げるための母親の大奮闘(和歌山/井出商店)であったり、「天才」と呼ばれた父親を乗り越えようとする息子の努力(白河/とら食堂)であったり、ラーメン屋を開業してしまった、製麺メーカーの社長であったり(函館/マメさん(丸前岡田製麺)、とラーメンの種類の多様さそのままに、ラーメンに携わる人も多様である。

そして、3巻目の〆に、インスタントラーメンの発明者「安藤百福」をすえるなどメニュー構成もよく考えてある(風に思える。ひょっとすると、とりあげるラーメン屋に詰まったせいかもしれないが)。

とはいうものの、そこはラーメンに携わる人々の物語である。菓子や日本料理の料理人の物語につきものの辛気臭さ、説教臭さはほとんどない。ビジネス本に疲れた時の箸休めにいかがでありましょうか。

「働き方改革」はWorkの根本課題に取り組めるか — 常見陽平「なぜ、残業はなくならないのか」(祥伝社新書)

過労死問題をきっかけに「働き方改革」が声高に主張されはじめているところで、管理者側、労働者側あるいは政府側から、様々に論じられている最中なのだが、感情論が混じってしまいがちで、熱っぽい議論ほど薄っぺらに感じてしまう。

そうした中にあって、どちらかというと斜向いから論じてくる常見陽平氏の論は、先の「就活」や「モバイルワーク・ノマドワーク」を論じていた時と同様に一面的でない視点を提供してくれて貴重なものといえる。

本書の構成は

第1章 日本人は、どれぐらい残業しているのか

第2章 なぜ、残業は発生するのか

第3章 私と残業

第4章 電通過労自死事件とは何だったのか?

第5章 「働き方改革」の虚実

第6章 働きすぎ社会の処方箋

となっていて、そもそもの労働時間の分析から始まって、

イギリス、スウェーデン、フランス、ドイツなどよりも一人あたり平均年間総実労働時間は長いものの、日本「だけ」が長いわけではない。1980年代から現在にかけての30年の変化をみると、労働時間は徐々に減ってきている

と冷静に現状を分析するあたり、熱に浮かされた議論が始まりがちな労働問題にはちょうどよい冷たさであろう。さらに、こうした「働き方」論における欧米礼賛に向かって

これはシステムの違いとして捉えるべきである。好況期には残業で対応し、不況期には残業と賞与を抑制して乗り切る国と、その分の人員を削減することで乗り切る国のモデルの違いである。

というあたりも小気味よくはある。かといって、単純な「日本優位論」ではもちろんなくて

日本における残業の根本的な問題は、仕事の任せ方である。残業は仕事の任せ方に起因する部分があるのだ。

言うなれば「仕事に人をつける」のか「人に仕事をつける」のかという違いである(P67)

「仕事に人をつける」という世界観では、業務内容や責任などを明確にすることができる。そうであるがゆえに、仕事が定型化しやすい。仕事の引き継ぎもしやすい。採用時も仕事が定型化、標準化しているので、選考時にその業務にあった人材かどうかを判断しやすい。

一方、「人に仕事をつける」という世界観においては、ある人に複数の業務が紐付けられることになる。特に中堅・中小企業においては、営業、企画など職種を超えた仕事が任されることになる。これを繰り返していくと、仕事の範囲が無限に広がっていく (P68)

といったように、日本型の「働き方」の功罪を的確にいいあてるところは、労働問題・働き方について厳しくはあるが冷静な視点が揺るがない筆者らしいところであろう。さらに「労働生産性」「ダイバー・シティ企業」といったものについての

(国際比較でいわれる)労働生産性が高い国とは、金融センターか資源を持っている国、あるいは都市国家など小規模の国だ(P178)

このコンテスト及びレポートについて、1点目は「ダイバーシティ」「ワーク・ライフ・バランス」を推進するメリットについて、擬似相関の疑いがあることだ、2点目は、紹介されている取組の成功要因が、真因だと言えるのかという疑いである。 (P182)

というあたりは少々手厳し過ぎるかもしれない。

途中、電通過労死事件の教訓として、会社の認識の甘さを指摘しつつも、「社内ではいつも新しい仕事が生まれており、変化している」「「なんでもやる」「成長を求められる」日本型正社員モデル」「会社と居場所」という新たな問題の提示もしつつ、最後のほうで

・1週間のうち、働く時間を決める

・一つの仕事にかける時間を決める

・時間が美しく流れるようにする

・仕事の命中率を上げる

・時間のへそくりをつくる

・楽しいアポから先に入れる

・朝の時間を活用する

・自分だけで抱え込まない

・お金で時間を買うという手もある

・自分のキャラを理解してもらう

という筆者なりの「すり減らない働き方」の提案もあるので、詳細は原本で確認してほしいとこ。

筆者も言うように

「働き方改革」は所詮「働かせ方改革」である。・・だからこそ「いかに働かないか(働かせないか)」「いかに一生懸命働かないことを許容するか」という発想がないかぎりは、画餅に帰してしまうのである(P234)

というところを踏まえて、昨今の論議が、「時間外短縮」という些末なことではなく「働き方」の論議となれば、と思うところなのである