現代の「貧困」のなんともやりきれない側面 — 鈴木大介「最貧困女子」(幻冬社新書)

不景気であるとか、動乱といった物事は、最終的には、世間で一番弱い者たちに及んで結末を迎えるのが常なのであるが、その「弱い者」たちとは往々にして、子供や女性であることが多いと思う。

本書は、雇用の確保が声高に言われていた時のものなので、今のような人手不足のときとは少し様相が異なるかもしれないが、「セックスワーク」であるとか「シングルマザー」の問題は、今に至るも解決しているとは思えない。

構成は

第1章 貧困女子とプア充女子

第2章 貧困女子と最貧困女子に違い

第3章 最貧困女子と売春ワーク

第4章 最貧困少女の可視化

第5章 彼女らの求めるもの

となっていて、前半の普通の「貧困女子」の話から始まって、彼女たちが「貧困」の結末として「セックスワーク」に取り込まれていく状況と、その生活がルポされていく。

ただ、こうした貧困をテーマにしたルポ本であるが、

貧乏とは、単に低所得であること。低所得であっても、家族や地域との関係性が良好で、助け合いつつワイワイとやっていれば、決して不幸せではない。一方で貧困とは、低所得は当然のこととして、家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い、もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人はいない。貧乏と貧困は別ものである。

といった冷静な認識をもとに

本来の居所を飛び出して家出生活に入る少女たちは、一見して「見るからに可哀相な、怯えた少女」だろうか? 多くの場合、それは誤った認識だ。彼女らは、基本的に「非行少女」だった。

とか

地元で近しい境遇にある者同士で同年代コミュニティを作る。貧困の要因である三つの無縁でいえば、「家族の縁」(親の縁)が虐待などで断たれ、「制度の縁」が地元児童福祉の不整備などで彼女らの求めるQOLを満たせなかった分、その寂しさや欠乏状態を「地域の縁」としての同年代コミュニティで補ったわけだ。  だが実はここで、大きなどんでん返しがある。こうして地域の縁の中に吸引された少女らが、なぜか売春ワークへと取り込まれてしまうケースがあまりに多いのだ。というのも、そうしたコミュニティでは年長者の中に既に売春・援交行為をしている者が少なくない。家出生活ほどの経済的な逼迫状態にはないものの現金には飢えているため、はじめは「売り子」として下着を売ったり、先輩から紹介された男相手の売春をしてみたりもする。

といった形で、「貧困問題」、そしてそれにまつわる「セックスワーク」の問題を、地域的な「構造」の課題としてとらえるなど、悲憤慷慨して悦にいってしまう、夜会改革本ではないところに注意が必要である。そして

昼職の所得が少なくて、「やむを得ず」風俗に副収入を求めたのではない。むしろ彼女らから感じたのは「デリヘルで稼げる自分への誇り」のようなものだ。驚くことに、愛理さんは、なんと週一のデリヘル勤めが既に職場の人間にバレているという。それどころか、弟も知っているし、カミングアウトしている友人も少なくない。あまり大っぴらには言えないけど、決して恥ずかしいことではないし、そうして自らの「資質」を活かして地元同年代の中では高所得をキープしていることを誇りに思っている節があるのだ。  デリヘル店長は、こうも言う。 「あくまで、彼女たちは『選ばれた人たち』です。

といったところに、「現代の貧困」の複雑さがあるといえよう。

どうも、現代の「貧困問題」は、”こうだよね”といった脳天気な処方箋を提示できるほどヤワいものでもない。今ある「現実」をしっかりと分析しながら、ひとりでも多くの人が「望まぬ貧困」から脱していく手立てを一つずつ提示していくしかないのか、となんとも頼りないレビューで、この稿は勘弁してくださいな。

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