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ドラマチックでもなくセンセーショナルでもない「女性の貧困」問題は、社会意識の問題もあって、かなり根深い — 飯島裕子「ルポ 貧困女子」(岩波新書)

貧困問題が取り上げられて久しいのだが、「女性」の貧困をとりあげるばあい、とかく”性的”な色合いが加味されたり、シングルマザーに焦点が当てられるものが多いような気がしていたのだが、本書は「ドラマチックなストーリー」のない「センセーショナルでない」「女性の貧困」を取り上げる数少ないものといっていい。

構成は

序章 女性の貧困とは

1章 家族という危ういセーフティネット

2章 家事手伝いに潜む闇

3章 正社員でも厳しい

4章 非正規という負の連鎖

5章 結婚・出産プレッシャー

6章 女性の分断

終章 一筋の光を求めて

となっていて、女性の貧困のうち「実家にパラサイトする女性」「ニート・ひきこもった女性」「パワハラなどで仕事をやめた後、非正規になった女性」などなど、どちらかというと人目はひかないが、確実に、しかも多数存在する「貧困女性」の姿を、多くのインタビューをもとに構成されているのだが

女性の場合、「貧困」と「不安定雇用」はデフォルト(初期値)であることだ。・・取材対象者について、未婚で仕事が不安定(非正規あるいは無職)ということ以外、年収等の条件を設けなかったのだが、・・現在無職の人はもちろん、働いている人も「ワーキングプア」と言われる年収200万円を下回っていた。(P10)

働く女性の数は増え続け、1992年には専業主婦の数を上回った。しかし、その大半はいわゆる”主婦パート”と呼ばれる非正規雇用であった。男性稼ぎ主による包摂が前提のため、彼女たちの労働は家計補助として捉えられ、自立による賃金や待遇は得られない。こうして非正規で働く女性たちは雇用の調整弁として利用されてきたのだ。

しかし、実際には非正規女性=主婦パートばかりではなかった。時間的に非正規でしか働けないシングルマザーや単身で暮らすシングル女性の中にも、非正規雇用に従事している人は多くいた。しかし、待遇の悪さは問題になってこなかった、なぜなら彼女たちは「例外」であり「残余」であったからだ。(P12)

という事情もあるのだが、「男性稼ぎ主モデル」という長らく日本を支配してきた人生モデルのせいで、あたかも「透明」であるかのように扱われてきた「女性」に関する問題を表へ出してくる取組でもある。

とはいうものの、男性の貧困問題が教育環境の問題であったり、不況の問題であったりと、どちらかといえば外形的に捉えやすいものが多いに対し、「女性の貧困」は社会構造に根っこをもっているものが多く、なんとも複雑で、一刀両断に解決、といったことにはならないようである。

もちろん

高卒女性の需要が多いのは販売員やウェイトレスなど、雇用の非正規化が進んでいるサービス系の職種。かつて高卒女性には事務職の需要が多くありましたが、今、事務職は大卒女性で占められるようになっています。結果として高卒女性の仕事は非正規がメインになってしまう(P104)

といったことや

就職氷河期は多くの若者に厳しい試練を与えたが、最も影響を受けたのは、もはや”主流派”ではなくなっった短大卒の女性たちであった(P175)

バブル崩壊のみならず、グローバル化やオフィスのIT化によって「一般職」が担ってきた事務的、補佐的な仕事が減少してきたという背景もある。女子就職の多くを占めてきた「一般職」の削減はその後も進み、「契約」や「派遣」などの非正規に置き換えられていった(P176)

など、労働環境や経済環境に根ざすものも当然あるのだが、それに加えて

女性の場合、実家で家族と暮らしているとその中に潜む問題はほとんど可視化されることがない。これは男性と同棲している場合も同様だ(P41)

といった女性特有の問題が、一層複雑度を増している上に、政府も

政府が目指す、結婚→妊娠→出産→育児という”切れ目のない支援”は、各段階を踏まない家族、たとえば「結婚」を経ない非婚の母などは、望ましい「家族」と認めないという発想の表れに思われてならない。・・・家族の形が多様化しているにもかかわらず、いまだに”古い家族像に拘泥した少子化対策を行っている日本は時代に逆行していると言えるだろう(P161)

といった風で、昔ながらの「家族意識」が施策の考え方の土台になっていることも否めない。

どうもこの問題、「景気がよくなれば解決するさ」、ともいかないようだ。筆者の言う

私は女性が貧困から脱する一つの方法は、この「多様な選択肢」という考え方、すなわち結婚を前提とした意識を捨て「世帯主」としての意識を身につけることだと思っている。それは既婚女性も同様だ。当然、意識だけではなく、税や社会保障など世帯単位のものを個人単位に変えていく必要もある。

貧困率にしても世帯収入で見るため、一人暮らしをしない限り、女性の貧困が不可視化されてしまうことは、これなで書いてきた通りだ。世帯に隠れてしまうと貧困であることすら認めてみらえない女性の状況を可視化させるためにも、”世帯主”を意識することは重要な第一歩であると言える。(P219)

といったソフト面から始めないといけないとしたら、時間もかかるし、かなりの難物ではある。これから、AIによって職業構造も大変化するであろうし、さて、どうしますかね。

プロ野球選手の奥さんの軽〜いタッチの謎解き — 柴田よしき「あおぞら町 春子さんの冒険と推理」(原書房)

主人公は元看護士で、今はプロ野球選手の専業主婦の「春子さん」。青空市のマンション住まい(ベランダは広い様子)。夫の陽平くんは幼なじみで東京ホワイトシャークスというプロ野球チームの捕手。もっぱら二軍暮らしで、自由契約の瀬戸際あたり、というところが本書の設定。

舞台は、埼玉県の「あおぞら市(青空市)」というところ。三作目で「多宮市のほうが物件も豊富で・・」(これは大宮市のもじりだよね)。「一軍のホーム球場が都心のど真ん中なんで」といったフレーズがあるので、ヤクルト戸田球場のある「戸田市」あたりが原型かなと詮索するが、そこが謎解きと関係しているわけでもないので、ここらはどうでもよいことではある。

収録は

「春子さんと、捨てられた白い花の冒険」

「陽平くんと、無表情なファンの冒険」

「有季さんと、消える魔球の冒険」

の三作。

「春子さんと、捨てられた白い花の冒険」は、土のついたままのパンジーをいれたダンボールを捨てようとする近所の男性を見つけるところから始まる。で、そのパンジーを土ごともらってしまうのだが、その後、ふたたび土つきの百合のダンボールを引き取ることになったのだが、その中に手紙が・・・、といった筋立て。ダンボールを引き取った理由は謎解きのあとに出てくるのだが、なんとも風情があるのだかないのだかわからない「虫愛る姫君」さながらの趣味。まあ、この趣味が高じて、人助けできたのだから良いとするか。

「陽平くんと、無表情なファンの冒険」はチームの二軍の試合に、毎回同じところに座るのだが、全く野球に興味のなさそうな女性の謎。二軍の試合のチケットは普通予約はなく、同じ席に座るには結構苦労がいる。さて、その隠された理由は、ということで、地方都市来からぬ、大がかりな事件が秘められたいる様子。

「有季さんと、消える魔球の冒険」は、偶然知り合った、元プロ野球の大物選手の隠し子にまつわる話。隠し子の娘さんは知的障害があるのだが、彼女が、春子になついてくる理由の影には、彼女の母親が、その大物選手に隠し通した優しい秘密が・・、といったお話。

収録数は少ないが、謎解きもどろっとしたところのない、いずれもウエハースのような、さくさくとした後味の良い話ばかり。プロ野球選手の妻が主人公、ということでなにやらスキャンダルめいたものが、と変な期待もあったのだが、どちらかというと、地方都市の日常に潜む「謎解き」といった味わいの短編集でありました。

茶人大名、小田原でさらに脱皮する — 山田芳裕「へうげもの 五服」(講談社文庫)

さて、本日は続いて「へうげもの 文庫版」の第五巻をレビュー。

年代は1588年1月~1590年5月

歴史的なエポックは、小田原の北条攻め。

先立って、あの山上宗二が北条氏に厄介になり彼の居場所を発見するのだが、これが彼の悲劇的な死の発端になるのだから、人生というものはわからない。辛口の評論家として比叡山にいたり、諸国を放浪して悪態をついていたほうが、ひょっとすると命は伸びたのであろう。

そして、このあたりから石田三成がいろんな案件の、プランナー、仕掛け人としてやたらあちこちに登場してくる。例えば、千利休の茶頭筆頭からの追い落としであるとか、山上宗二殺しなどなどで、のぺっとした顔立ちに、能吏ばりばりのいけ好かなさで、「やな野郎」感がよくでてますな。

また、「のぼうの城」で有名な、忍城攻めの三成の失敗の場面も描かれているのだが、彼の「企画好き」の「現場嫌い」の様子が少し悪意を込めて描かれていると思うのは、当方の勘違いないしは錯覚であろうか。

さらに、これはご当地の読者には顰蹙買うかもしれないが、伊達政宗の天下統一を夢見る、「夜郎自大」さが強調されていて、筆者は政宗ちゃかしも極まれり、である。

まあ、歴史事実のほどは別として、一風変わった戦国ものコモックとして、脂がのってきておりますな。

禁令の出た時の立ち居振る舞いに、人の本質は顕になるものであるな — 山田芳裕「へうげもの 第四服」(講談社文庫)

さて、引き続き、古田織部のコミックもの「へうげもの」に文庫版第4巻をレビューしよう。

年代は1586年~1587年。歴史的な出来事としては、家康の上洛、秀吉の九州攻め、禁教令の発布、聚楽第の完成と大茶会といったところで、秀吉の天下がこれから爛熟に向うところである。

ただ時代が熟していくことと比例して、今まで培われてきた人間関係が壊れていったり、不和の種が芽吹いたり、といったことはいつの世も変わらぬもので、大茶会の開催は、実は千利休を筆頭茶頭から罷免しようという秀吉の企みが隠れていたり、とかなんとも生臭い。

ただ「爛熟の時代」は人の姿もまた熟れさせ、その人となりも拡大して見せてくれるようで、キリスト教の禁教の際に、高山右近が「幾年月も培ってきた南蛮趣味を鶴の一声で変えさせられてはたまりません。」とキリスト教者と南蛮趣味の茶人の意気地を見せる一方で、織田長益(後の有楽斎)は、「南蛮趣味を控えねばならなくなった今・・・世の流れはこちらに軍配が上がるかも。」と南蛮趣味を早々に見限りながら、利休の「わびさび」の将来性を感じ取る目先のきくところを見せたりと、人様々であるな、と自分の身近な実際の人々を思い浮かべ、改めて実感する。

さて、この巻では、南蛮趣味から「わびさび」といった茶の湯で代表される日本的な価値観があちこちとでてきて、風流を解さぬ当方は、ぼーっとコミックを読む以外はないのだが、そうした価値観、流行を追うことに血道をあげている権力者が、

「詰まるところ、茶の湯には台子も何も無いのです。

全て各人それぞれの作法、趣向でもてなせば良いのです。

決まりごとなど無いというのが極意にございます」

「関白様は、その本質がわからぬゆえ、台子手前を許可制になさり、茶の湯に格をつけておられる。」

なんて様子で冷水を浴びせられたら、そりゃ打ち首にもしたくなったんだろうな、と思いつつ、権力者の好みに合わせていくのも、そりゃ草臥れるよなと、同情もしてみるのである。

さて、こういった権力者と芸術家の争いに、皆様は何を感じ取りますかね~。

太平になりそうになると、なにやら蠢くのが世の常か — 山田芳裕「へうげもの 三服」(講談社文庫)

このところ、続けてエントリーしている、古田織部シリーズの文庫版第三巻。

時代的には1582年6月〜1586年6月。本能寺の変の後、秀吉の中国大返し、そして光秀が破れて秀吉の天下となるところ。市井の説による、明智光秀が天海僧正となる話は、どうやらこの「へうげもの」ではとらぬらしい。

三巻目の読みどころは

・光秀の実直さと民を思うが裏切られる切なさ

・徳川家康の田舎くさいほどの真面目さ

・石田三成の「いかにも」というあざとさと裏なり瓢箪さ

というところか。

さらに織部本人が、本能寺の変の真相を知って、秀吉の業の深さに恐れつつも、自らの武人としての限界を悟るあたりもポイントではありますな。

さらには、本能寺の変自体が、千宗易(利休)のト書きのもとに、秀吉が黒子を勤め、明智光秀が演じる、ということなのであるが、座付作者と興行主との確執が生まれつつあるのだが、それは次の巻以降の展開であろうか。

おまけとして、お茶々が秀吉の側室となる時も、この巻にはあるんだが、秀吉の乱破らしい出自を垣間見せる「茶々の緊縛」があるので、お好きな方は本書で鑑賞あれ。

茶人大名の「本能寺」 — 山田裕裕「へうげもの 第二服」(講談社文庫)

茶人大名 古田織部を主人公にした歴史コミックの文庫版第二巻。

構成は

第十四席 mt.富士レストラン

第十五席 レイン フォール ダウン!?

第十六席 今宵はイートイット

第十七席 幻惑されて

第十八席 天下を憐れむ歌

第十九席 未来への讃歌

第二十席 非情のライセンス

第二十一席 哀しみの天主

第二十二席 無法の都

第二十三席 焼け跡の余韻

第二十四席 孤立のメッセージ

第二十五席 信長 ON MY MIND

第二十六席 ホワイト キャッスル ブルース

第二十七席 転がる糞のように

第二十八席 SUKIYAKI

となっているのだが、これを読んでも何のことやらわからない。

収録作の年代的には1582年。武田攻めから本能寺の変、光秀と秀吉の戦まで。

この巻の中心はお見込みのとおり「本能寺の変」で、信長を攻め殺したのは明智光秀であるところは、きちんとおさえながら、さて、その黒幕は、そして信長を殺したのは誰ってところに作者の独自の工夫があるところが光っている。

で、その原因が、信長の家族偏重。股肱の臣たちが広げた領土が、信長の一族に分け与えられることが明確になってきて、今まで粉骨砕身してきた努力が報いられない恐れがでてきたと解釈しているところは、信長の一族というか信長の息子偏重という会社とともに斬新であるように思う。

そして、本能寺の変の黒幕は、明智をそそのかした、後の関白であったといったところも、「こう、もってきたか」と感服。もっとも、信長を倒した人物の設定は、たしかにもともとの素性が忍者・乱破あがりという説はあるものの、乱暴が過ぎませんか、と思ったところではある。

さらに、この「へうげもの」シリーズの楽しみの一つは、例えば高山右近や中川清秀であるとか、信長の外国人小姓であった「弥助」といった、歴史の英雄の側で、実は当時は様々な光を発していたであろう人物が細かに描かれている、小技の冴えを読むことでもある。

そして、この巻の登場人物で玩味したいのは、まずは、千利休で、「黒」にこだわる業に深さにちょっと引いてしまいながら、明智光秀、徳川家康の他の歴史ものではでてこない「実直もの」という評価であるかな。

人間というのは、光の当て方で、千変万化の色合いがあるものでありますな。

茶人大名という異色の人物を主人公にした戦国歴史もの — 山田芳裕「へいげもの 第一服」(講談社文庫)

歴史コミックの構成は、もちろん、歴世の英雄をもろにとりあげる「良い子の伝記」モノのようなものもあるのだが、コミックとしてきちんと読めるものは、英雄の側に異物(例えば、未来からタイムスリップした高校生なんてのだよね)をすべりこませるか、歴史上の人物ではあるが一般人はあまりなじみのない人間の姿を借りて物語を紡ぐか、といった二つに絞られる。「へいげもの」は後者に属していて、茶道を嗜む人や骨董に造詣が深い人なら知っているのだが、普通の人なら名前を聞いたことがあるのがせいぜい、という茶人大名の「古田織部」が主人公。

で、こうした忘れられた英雄を取り上げるときに、注意すべきは、フィクションの部分がどんどん大きくなって、本当の歴史とはかなり乖離してしまい嘘くささがでてくることであるのだが、「へいげもの」は少なくとも文庫版第1巻を読む限り、そんなところはないのでご安心あれ。

構成は

第一席 君は”物”のために死ねるか!?

第二席 黒く塗れ!?

第三席 椀LOVE

第四席 茶室のファンタジー

第五席 天界への階段

第六席 強き二人の情事

第七席 京のナイトフィーバー

第八席 カインド・オブ・ブラック

第九席 天下よりの使者

第十席 決意のかけひき

第十一席 運命’82

第十二席 武田をぶっとばせ

第十三席 愛して欲しい

となっているのだが、まあ、これを見ても時代設定はわからないので、あえて記すと、1577年の松永弾正の謀反のところから武田攻めの1582年まで。

たった5年ではあるのだが、戦乱の世の目まぐるしさもあるのだろうが、松永弾正が平蜘蛛という茶釜をふっとばすところから、鉄張りの大安宅船の親水、荒木村重の謀反と中川清秀の織田方への寝返り、武田攻めで仁科盛信に城外へ蹴落とされるところ、と歴史上の事件も多い上に、エピソードも多い。

さらに、戦国ものの特徴であろうか、謀反をそそのかす茶人や、落城の瀬戸際で今生の名残に敵の使者とセックスしようとする側室とか、まあ様々な人物が登場するし、本書の信長は、唐天竺の征服を夢想する野心家でありながら、一族、特に息子に全てを残そうとする家族主義者であったり、と一風変わった人物の登場がまた良い。

そして、ひとまずは異色の歴史ものとして読むのもいいし、数寄をとるか武功をとるか、すなわち、自分のやりたいこと(趣味でもよし、独立起業でもよし)をとるか、組織内の出世をとるか、といったビジネスものとして読むのもよかろう。ひさびさに様々な読み方のできる歴史コミックである。

で、本巻の名言は、自らの牙城を織田方に包囲された荒木村重が落ち延びる時(この本ではなんと茶道具の名物を抱え込んで逐電なんだよね。これは歴史事実かは、当方は浅学にてわからない。)に言う

「松永弾正は武人としては立派やった。だが、あいにく・・・わしのほうが業は上や」

といったあたり。生死にかかわる場面でありながら、名品に執着する「人の業」といったものがでていて、なんとも「人臭い」ですな。

「働き方改革」の行方を暗示する、日本人の”勤勉性” — 礫川全次「日本人はいつから働きすぎになったのかー<勤勉>の誕生」(平凡社)

どうやら、「働き方改革」の目指す方向は、”生産性の向上”という極めて日本的な方向を目指し始めたようで、その意味で、多くの経営者・労働者や、コンサルタントの方々には扱いやすい話になりはじめているようだ。

本書はそんな情勢に棹さすという意図はないのであろうが、結果的に、日本人の「働く」ということの根底をぐらりと揺らしているのが面白い。

構成は

序章 日本人と「自発的隷従」

第1章 日本人はいつから勤勉になったのか

第2章 二宮尊徳「神話」の虚実

第3章 二宮尊徳は人を勤勉にさせられたか

第4章 浄土真宗と「勤勉のエートス」

第5章 吉田松陰と福沢諭吉

第6章 明治時代に日本人は変貌した

第7章 なぜ日本人は働きすぎるのか

第8章 産業戦士と「最高度の自発性」

第9章 戦後復興から過労死・過労自殺まで

終章 いかにして「勤勉」を超えるか

となっていて、日本人が「勤勉」になった歴史的な時期の解明に始まって、日本人の「勤勉性」に及んでいくといったところ。

本書によれば、日本人の勤勉性は

日本では江戸時代の中頃に、農民の一部が勤勉化するという傾向が生じた(P27)

能登国鹿島郡の農民たちは、江戸中期以降、長時間労働を苦にしなくなり、むしろ「労役に耐ゆる」のを誇りとするようになったらしい。経緯は不明だが、江戸中期のある時点において、彼ら農民の間に、勤労を誇りとするような「倫理的雰囲気」(勤労のエートス)が形成され、彼らを内側から、勤労へ勤労へと突き動かしていったのであろう(P30)

と言った風で、その象徴として「二宮尊徳」があげられるのだが、そうでありながら、下野国桜町領のように

江戸後期の日本には、断固として「勤勉」になることを拒む農民たちが存在していた、という厳然たる事実である(P71)

といったことは、「日本人は勤勉」という固定観念をぐらつかせていて小気味いい。

とはいうものの、この勤勉性が

「日本的経営」の本質は。従業員の「参加意識」の形成にあった

(中略)

企業への「参加意識」を高めた労働者は、自ら進んで労働し、会社のために働くことを「生きがい」と感ずるようになってくる。「我が家は楽し」ならぬ「わが社は楽し」の世界である。日本の高度成長を支えたのは、このように、働くことを「生きがい」と感ずる労働者の存在であったと言ってよいだろう。(P216)

と、今の日本の経済的な地位を築き上げたことは間違いないのだが、

今日においては、日本人の美徳であるはずの勤勉性が、深刻な社会問題を引き起こすという事態に立ちいたっている(P10)

といったことも事実であろう。

さりとて「働き方改革」が「生産性の向上」改革に変わったという日本のメンタリティを考えると、筆者が最終章でいう

本書が、この終章で主張しようとしているのは、なぜ人間は「勤勉」でなくてはならないのか。なぜ「怠惰」ではいけないのか、「怠惰」でもいいではないか、いや「怠惰」であるべきではないか、といったことである。(P228)

も、なかなか難しいのでは、と思わないでもないのだが、さて、どうなりますか。

「1992年以降の小学校入学+バブル崩壊後+スマホほぼ全員普及+SNS隆盛」という世代の特徴は? — 藤本耕平「つくし世代」(光文社新書)

「世代論」というのはいつの時代でも根強い人気があるもので、たいがいは年齢の上の世代から、下の世代に向かってなされるもので、たいていは「今時の・・・」とかで始まり、「時代も変わった・・・」「あの頃の世代は・・」てな繰り言で終わるのが常であまり生産性がないことが多い。

本書の分析の対象と対象としているのは、1992年に小学校に入学した世代より若い世代で、筆者は1980年生まれと、分析対象に近い世代であるせいか、「今時の・・・」臭から逃れているのが本書の特徴でもある。

構成は

序章 さとっているだけじゃない今時の若者は何を考えている?
第1章 チョイスする価値観ー世間の常識より「自分ものさし」
第2章 つながり願望ー支え合いが当たり前じゃないからつながりたい
第3章 ケチ美学ー「消費しない」ことで高まる満足感
第4章 ノット・ハングリーー失われた三つの飢餓感
第5章 せつな主義ー不確かな将来より今の充実
第6章 新世代の「友達」感覚ーリムる、ファボる、クラスター分けする
第7章 なぜシェアするのかー「はずさないコーデ」と「サプライズ」
第8章 誰もが「ぬるヲタ」ー妄想するリア充たち
第9章 コスパ至上主義ー若者たちを動かす「誰トク」精神
第10章 つくし世代ー自分一人ではなく「誰かのために」
終章 若者たちはなぜ松岡修造が好きなのか

となっているのだが、なぜ、この時代区分なのかというと
・教育環境の変化ー小学校の学習指導要領が大きく改定されたのが1992年
・統計上、共働き世帯数が初めて専業主婦世帯数を上回ったのが1992年
・一家に一台パソコンを持つことが当たり前になり、インターネットも急速に普及し
た時代が中学校に入学する前に始まった世代
・バブルが崩壊したのが1992年
ということであるらしい。

で、この世代の特徴は

かつての若者には、世間で流行っているものや高級とされるものをいち早く入手することが自慢になる、ステイタスになる、という感覚があったと思います。
(中略)
今の若者には、そういう感覚がほとんどありません。「世間の評価が高いもの」よりも、彼らが大事にしているのは「自分っぽさ」「自分のフィーリング」といったものです(P49)

地域に住んで生活しているだけで、自然と人とのつながりを得られる時代ではなくなった一方で、ラインやSNSといったコミュニケーションツールの発達により、つながりを広げようと思えば、いくらでも広げられる時代になった、というのも、今時の若者たちが育ってきた環境だと思います。
その結果として起こっているのが、コミュニケーション能力が極端に高い若者と極端に低い若者の二極化という現象です。
(中略)
この傾向はまた「リア充」と「ぼっち」の二極化と言い換えてもいいかもしれません(P75)

とか

所有欲の少なさ、というのも今時の若者たちの特徴です。(P86)

といったことがあり、ざっくりというと

仲間たちの喜びのために奉仕し、尽くそうとすることが、より日常的な行動原理、消費の原理にもなっている若者たち。それが、私が考える「つくし世代」です(P34)

であるとのこと。
で、こうした世代の特徴が形成されたのは、当方が思うに、やはり経済情勢と、技術環境が大きく影響しているような気がしていて

昔、日本が右肩上がりの経済成長を続けていた時代に人格形成期をづ後した世代には、「努力すれば報われる」という価値観があると思います。
今時の若者たちには、そういう価値観があまりありません。努力が自分のためになるとは限らないし、真面目に頑張れば頑張るほど馬鹿を見ることもある。それよりも「ほどほどに頑張って、ほどほどの生活ができればいい」というマインドを持つようになっています。
それが「物」に対する飢餓感を失わせている面もあるでしょう(P102)

といったところには、戦後や高度成長期のように、まだ「飢え」とかが現実のものであったり、その記憶が生々しく残り、物資がまだ豊かではなかった経済情勢と、物資がそこそこに豊かであるが上昇期のような活気が失われている経済情勢との違いが如実にでていると思うし、

若者たちの通信する手段がパソコンであり、SNSの中心がミクシィであった時代には、ログインしている間だけつながっていればいい、という気楽さがありました。
しかし、スマホを持つのが当たり前になり、連絡手段の中心がメールからラインに、SNSの主流がミクシィからツィッターに移っている現在では、「ログイン/ログオフ」という感覚は消滅しています。スマホの電源を入れている間は、四六時中つながり続けていなければいけない(P138)

状態で「複数の自分のチャンネルを持っている」ことが要求される背景には、インターネットの普及というよりもスマホの急速普及で、個人の領域が融合し始めているという「技術革新+社会環境変化」が色濃く反映している気がする。

さてさて世代論というのは、あまり詳細に分析し、論じてみてもあまり益がないところがあって、しばらくすると「脱・ゆとり世代」「後・つくし世代」といった論もでてくるであろう。ポイントは、こうした世代の違いを理解しつつ、全体最適を導き出すことができるのか、世代対立が高じて全体の破壊をもたらしてしまうのか、といったところでありましょうか。

古代中国の、歴史上埋もれてしまった「中原と草原」のもう一つの大戦争 — 臏(ビン)〜孫子異伝(ジャンプコミックスデラックス)

岩波文庫版の史記列伝をみると、龐涓によって、膝から下を切断する刑を受けたということや、田忌将軍に雇用され、将軍が王子・貴族達との馬車レース、さらには魏の趙への侵攻を退けたり、龐涓との因縁の戦闘のあたりは記述があるのだが、残念ながら、匈奴の侵攻といった話はない。ましてや孤  といった話もなく、このあたりは作者の挟み込んだフィクションであるのだろうが、史実と史実の間に壮大なフィクションを混ぜ込むことができるか、というのが歴史小説や歴史コミックの肝であるので、このへんは作者の力量を誉めたい。

さて、筋立ては、斉国へ、匈奴連合軍が押し寄せるというところから始まる。田忌将軍と孫臏が宮中の権臣に疎まれて、連合軍を迎え撃つために、斉の首都、臨淄の城外に住む住民からなる兵を率いて向かうあたりから始まる。

当然のように自らの権力の拡大しか考えていない権臣や貴族あがりの驕り高ぶった将軍などなど、「この野郎」と思う人物は随所に配置してある。極めつけは、全巻を通じての悪役を割り振られている匈奴の単于で、超人的な知力と体力と武の技をもちながら、冷酷無比という、とんでもない存在なのだが、思うに、こういう倒すべきライバルを創り上げてしまったために、22巻までの全巻が匈奴との闘いに費やされ、魏都の戦争までは書ききれなかったというのが正直なところであろうか。

そして戦闘の舞台は、天然の橋である   という要害。ここの攻防戦で、なんと全巻が費やされてしまうわけで、圧倒的な兵力差を、孫臏の智謀で跳ね返し、最後は匈奴勢を退却させてしまうというわけなんであるが、あちこちに、孫子の兵法っぽいものがでてきて、それがどれもちょっと嘘くさいというのも妙な魅力ではある。

さらには、若者向けのコミックらしく、オネーチャンが、巨乳で、妙に色っぽいのが、そんな彼女たちが匈奴戦士の首を切り飛ばしたりする場面もあったりするので、そこは要注意ではある。

さてさて、キングダムや達人伝などなど、現在、中国の戦国モノは結構人気を誇っているのであるが、以前から、横山光輝の三国志をはじめ、漫画の定番モノであったのは間違いなく、最近、その勢いが復活したというべきであろう。このシリーズは完結しているので、全巻大人買いで、一気読みがオススメですな。