月別アーカイブ: 2017年9月

「知的作業」の要点は「紙一枚」にあり — 高橋政史「すべての仕事を紙1枚にまとめてしまう整理術」(クロスメディア・パブリッシング)

「仕事、勉強、プライベートの趣味や日常生活、整理をしないといけない場面はどこにでも存在しています。
本書では、そうしたいろいろな意味での整理を、すべて紙1枚でできるようになる。その方法を紹介しています」
という、結構タカピーな宣言で始まっているのが本書。
 
ただ、頭の中を整理する、仕事で提案することを整理する、会議の内容を整理するといった「仕事上の整理案件」はビジネスの要であるともに、永遠の「課題」でもあるので、書き出しのキャッチ力は非常に高いのは間違いない。
 
構成は
第0章 紙1枚で整理するとはどういうことなのか
第1章 思考力・仮設力を磨き上げるSの付箋
第2章 インプット・アウトプットの効率を劇的に高める16分割メモ
第3章 本を一冊15分で読むキラー・リーディング
第4章 いらないものをシンプルに捨てる1枚引き継ぎマップ
第5章 会議時間を半分にするマッピング・コミュニケーション
第6章 言いたいことが誰にでも伝わる3つの型と1・2・3マップ
第7章 どんな相手も納得させる物語プレゼンテーション

 

となっていて、1章ごとにメソッドが提案されるので、1〜7章で、7つの手法が示されるとともに、それに使用する紙1枚の「フォーマット」(「図」化されてます。)が提案されるので、1冊で一提案みたいなビジネス・ハウツー本が結構ある中で、おトクといえばおトク。

 
いちいち紹介していると完全に営業妨害になるので、当方が本書を購入する際に一番に気になって購入を決めた「キラー・リーディング」の手法を少し紹介すると(「フォーマット」は原書で確認してくださいね)
ステップ1>著者に何を聞きたいか、その本で何を得たいか、という「問い」を決める
 
ステップ2>目次や本文をザーッとめくりながらきーわーどとなる言葉を探す。キーワードは1つあたり20秒ぐらいのペースで抽出するが、数は16個まで。
 
 
ステップ3>本文を、設定した問いとキーワードに引っかかる箇所を探すように読む。読む時間はおおよそ10分間ぐらい。引っかかった箇所を例えば、付箋を貼るとか、アンダーラインを引くとかのアドバイスはないので、ここは応用範囲なのであろうが、10分間という時間を考えると手間のかかることはムリであろう。せいぜいページ数をメモするか、印をつけておくぐらいであろうか。
このステップの仕上げとして、16のキーワードの中から特に重要と思われるキーワードを選ぶ。
 
ステップ4>問いへの答えを1つのメッセージにまとめる。本書によれば
 
「こんな「問い」の切り口でこの本からそのエッセンスを結晶化すると、要はこのひと言」という具合です。
 
とのこと。
この方式であると、当然「問い」によって切り口が異なってくるから、その人のその時なりの読み方になってはしまうが、もともとビジネス書のどこが参考になると思うかはごく個人的な事柄なので致し方ないところであろう。
 
残りの6つの手法は、原書でぜひ確認をしてほしいのだが、いずれもかなり具体的な処方箋が示されているのは間違いない。どう使うかは「読み手」次第、というところでありましょうかね。

「堅物同心」+瓜二つの「女形役者と花魁」、幽霊に出会う — 近藤史恵「猿若町捕物帳ーほおずき地獄」(光文社時代小説文庫)

「巴之丞鹿の子」で歴史ミステリー・デビューした近藤史恵さんの、堅物同心・玉島千蔭+女形の人気役者・水木巴之丞+花魁・梅が枝のトリオ・シリーズの第2弾。
今回は、お茶屋に出る「幽霊騒動」事件がメインなのであるが、千蔭の上役の与力の孫娘「お駒」との縁談話が並行話として進行する。
メインの幽霊騒動は、侍客がお茶屋・叶屋で洗い髪の女の幽霊を見た、という騒ぎが起き、幽霊が消えた後には、古い縮緬細工の「ほおずき」が落ちていた、というのが発端。
千蔭の縁談とは別に、事件の伏線のような女郎屋の2階に監禁されている「お玉」という娘の話も途中から並行し始めるので、筋立て的には、3つの話がそれぞれ別個に流れていく、といった構成。
「お玉」の話というのは、どうも昔の話のようで、女郎屋に監禁されている美人らしい「お玉」という娘と「徳さん」という男との出会いが語られ、果ては、徳さんと駆け落ちするが捕まえられ、手足を縛られて監禁を続けられる、といったもの。今回の幽霊話となにかしら因縁がありそうな風情で進行する。これは、筆者の術中に誘いこんで、人を混乱させたり、惑わせようとするのだな、と思いつつ、術中にはまってしまう自分が情けない。
もう一人、キーとなる人物は「花子」という白髪の夜鷹。白髪ではあるが、本当の老婆というわけではなく40過ぎぐらいの年齢であるようで、幽霊の出現に呼応するかのように出没する。これも当方の拙い推理を混乱させたのであるが、その正体と白髪になった理由は原本で。
千蔭の縁談は、というと、案の定まとまらず「梅が枝」との仲は次巻以降に期待というところだが、「お駒」の嫁入り先は、ちょっとやりすぎじゃないの、と思うのだが、これもまた原本で確認いただきたい。
込み入ったトリックとかはなく、語り口で読ませるタイプの時代ミステリーであるので、あれこれと詮索せず、うかうかと作者の手の内で転がされるように読んでいくのが一番でありますな。

「堅物同心」+瓜二つの「女形役者と花魁」の異色トリオの捕物帳 — 近藤史恵「猿若町捕物帳ー巴之丞鹿の子」(光文社文庫)

時代小説、特に捕物帳の書き手には、ミステリーの出身者と大衆小説・純文学の出身者の二通りの流れがあるような気がしていて、ミステリー出身者の捕物帳の特徴は、人を驚かす仕掛けを放り込んでくるところと事件のディテールとか細部にこだわるところであろう。
「サクリファイス」などの自転車小説とあわせて「タルト・タタン」シリーズや「モップの魔女」シリーズなどのミステリーの著者、近藤史恵氏による本作も、その特徴を見せていて
「女が犬の子を孕んだそうだよ」
(中略)
くすくすと笑いながら、二人は夜具の上に倒れ込んだ。障子に映った影が重なる。
もし、この閨の出来事を影から覗くものがいたならば、驚いただろう。
女と男は、同じ姿形をしていた
といった書き出しや、
 
さらには、作中で起こる殺人の被害者の娘達がいずれも「巴之丞鹿の子」の帯揚げで絞殺されるという事件の凶器は、人気役者にちなんだ巴之丞鹿の子の偽物という設定や、矢場で働いているお袖とおそらくは貧乏旗本の四男坊・藤枝小吉が雨宿りのお寺の軒下で知り合い、やがて良い仲になっていくといった話が、主人公の同心・玉島千蔭を中心に、どことなく胡散臭い、女形役者の水木巴之丞と座付作者(見習い)の桜田利吉、巴之丞と幼馴染らしい、花魁の梅が枝、とクセのある登場人物を配しながら、二重三重に筋を走らせていくという手法はミステリーそのもので、捕物帳でも人情噺を中心に語られていくものとはちょっと毛色が異なっている。
事件そのものは、巴之丞にちなんだ「巴之丞鹿の子」の帯揚げで絞殺されると連続殺人の謎を解いていく設定で、謎解きの中心は、棒手振りの娘・お弓の殺人の謎解きを中心に進むのだが、あちこちに筋が散らばるところもなく、しつらえたような密室も登場しない、ごくまっとうな「捕物帳」といっていい。  
ネタバレすれすれでいうと、冒頭にでてくるお袖という娘が、事件のキーといて使われていたとは思わなかったのは、当方の不明の限り。事件の解決の糸口となる人物を詳細に描写しておくことは、ミステリーでよくあるのだが、それが犯人というのがよくあるので、彼女ないしは彼女の恋人が怪しいよね、とまんまと作者の罠にはまっていたのであった。
 
最後に、このシリーズの重要な副主人公である女形役者・水木巴之丞と彼の幼馴染の花魁・梅が枝は、主人公の同心・玉島千蔭の協力者になったようであるが、なんとなく次作以降で大ドンデンがありそうな気がするのは、当方だけであろうか。

科学進化の「倍々ゲーム」の行き先は? — 稲見昌彦「スーパーヒューマン誕生 人間はSFを超える」(NHK出版新書)

AI、IOT、ロボットといった最近流行のテクノロジーは、いずれも人間のアナログな感覚との間に膜で遮られているような気がしていて、こうしたテクノロジーの進化は必ずしも人間・人類と並走してくれるかどうか不安なところがあるのだが、本書でとりあげる「人間拡張」はそれに比べると、アナログな感覚と親和性が高い気がする。
構成は
序章 SFから人間拡張工学を考える
第1章 人間の身体は拡張する
 1 拡張身体とは何かー「補綴」から「拡張」へ
 2 どこまでが拡張身体なのかー脳と道具の間にあるもの
 3 どこまでが身体なのか?ー曖昧な身体の境界線を探る
第2章 インターフェイスとしての身体
 1 現実世界はひとつなのか?ー五感がつくる現実感
 2 新たな現実はつくれるのか?ー感覚と情報がつくるバー
 3 人間は離れた場所に実在できるのかー脱身体として
第3章 ポスト身体を考える
 1 ロボットはなぜヒト型なのか?ー分身ロボットとヒューマノイド
 2 他人の身体を生きられるのか?ー分身から変身へ
 3 身体は融け合うことができるのか?ー融身体・合体からポスト身体社会へ
あとがき
となっていて、南アフリカの義足の陸上選手の話からスタートし、パワードスーツなどへと続いていく。
このあたりは、人間の「身体」のフツーの拡張話であるんだが、
人間は「道具を使っている」こと自体を、自らの身体を使っているときのように無意識化できる
 
であったり、
近年になり、もしかしたらラバー・ハンドという物理的な存在がなくても、人間は信じるだけで自分の身体がそこにあると感じるかもしれないという応用の実験がでてきた。
 
といった話が出てくると、人間が自分の身体として意識しているのは、肉体としての身体だけでなく、空間軸的にも時間軸的にも拡大し、境界の意識を失っていき、「身体」そのものが変質していく
 
そして、さらに「バーチャル・リアリティ」という技術によって、「人間の心」「人間の意識」が、肉体という身体から、空間的にも時間敵にも「離れていく」「解放される」というSF的な幻想にかられてしまうのである。
個人は一つでなく「分人」として「複数の顔」を持ちうる、さらには
 
もしかしたら、人間は複数の分身体をスケジューリングしながら操るようになるのかもしれない。現地に行く必要が生じた場合は、そこに焦点を合わせて自分を光の速さで飛ばして実在させる。未来の人間は、複数の世界を時間によって漂う存在になっている可能性すらあるのだ。
 
といった話になると、「おい、おい、本当かよ」と当方のようなおっさんは、途方にくれてしまうのであるが、Skypeを使ってのインターネット会議などが常態であるむきには、そうした身体感覚と意識との分離は、容易に想像できる範囲なのか?とも思い直してみるのである。
 
まあ、当方が若かりし頃、PCはNECのPC-8800といったのが個人利用では最先端でありましたが、この30年間、とんでもない進化を遂げているのは事実。しかも、こうした技術的進化は倍々のペースで進むという話もある。これから数年間、Ai、ビッグデータ、ロボット、生化学と様々な分野が倍々で進化し、それらが融合すれば、当方が思ってもみない世界が現出するのかもしれませんね。

「叱る」「叱られる」どちらも難しくなった時代の対処法 — 阿川佐和子 「叱られる力」(文春新書)

「聞く力」で大ヒットを飛ばした、エッセイスト阿川佐和子さんの「力」シリーズ第2弾が「叱られる力」である。当方が育った世代は、親や教師のみならず、近くのおじさんおばさんまでもが何か悪さをすると「叱る」世代である。なので、「叱られる」ことに何の力が入り用なのか、と思ってしまうのだが、どうも世間全体が、「叱り」「叱られる」こと双方に不慣れな状態に突入して、上手に「叱り」「叱られる」ことに特別な力、メソッドが必要な時代環境になったようだ。
構成は
1 叱る覚悟と聞く力
 「ステキ」を褒め言葉に変換する/「私、人見知りなんです」は甘えじゃないの?/最初に本性をさらけだす/「下心」で人見知りを克服/「失礼ですが・・・」は失礼です/後輩を叱る覚悟/怖い顔の利点/スマートな叱り方とは/叱るルール/部下の叱り方①ー借りてきた猫の法則/部下の叱り方②ーセクハラと飲み会/「酒場の本音」を肝に銘じる/正解を求めない/叱られる覚悟/親は嫌われる動物と思うべし
2 叱られ続けのアガワ60年史
 その1 「家なき子」事件/その2 涙の誕生日事件/その3「お父さんにそっくり」事件/その4 「一人暮らし」奇襲作戦に成功せり/その5 「子供に人権はない」宣言/その6「志賀先生がお読みになると思え」の訓示/その7 「対処法」を会得?
 
3 叱られる力とは?
 「別れ話」の乗り越え方/「最悪経験」を尺度にする/ゴルフに学ぶ人づきあいのマナー/下心のススメ/嫌な言い回し/上手な叱り方/ユーモアと落語の効用/叱られたとき、悲しいとき/言い訳は進歩の敵
 
ちょっと真面目な、あとがき
となっていて、「1」と「3」は「叱られる」技術、それを敷衍した「叱る」技術についてのあれこれが綴ってあるのだが、本書の特徴は、稀代の怒りん坊である阿川弘之氏から娘・阿川佐和子氏の「叱られ続けた」エピソードの数々が「2」の章に満載となっていて、これがまた、理不尽でありながら、親近感のエピソードばかり。
それは例えば、「涙の誕生日事件」のように、
 
お誕生日会で来てくれた友人が少なくて寂しい思いをしていると、それを見た父の阿川氏から「誕生日会禁止」を申し渡される。その理由は、寂しがっている娘を見ていられなくて、ではなくて・・・
 
とか「お父さんにそっくり事件」のように
 
父に不条理に叱られる身の上を友人に愚痴を言っている筆者が「私、本当はあの家の子供じゃないんじゃないか」とこぼしたところ、近くを通りかかった教師から「そんなことはないわよ」、「だってあなた、お父さんに◯◯(◯◯は原書で確認してくださいね)」と言われて逆にショックを受けたり・・
 
といった、著者本人は当時真面目に悩んだこともあったのだろうが、結構抱腹絶倒な
エピソードが満載なのである。
もちろん、それだけでなく、叱る技術として有効らしい「借りてきた猫の法則」
かー感情的にならない
りー理由を話す
てー手短に
きーキャラクター(性格・人格)に触れない
たー他人と比較しない
ねー根にもたない
こー個別に叱る
(P88)
といった法則が紹介されたり、
 
日本語の成り立ちから言って、日本人は意思を伝えるとき、欧米人のように確固たる自分の主張を持って喋るのではなく、目の前の空いての顔色を伺いながら言葉を選ぶ傾向があります。
 
日本語の文法は、文章の最後尾で肯定か否定かを決定するように作られています。いっぽう、たとえば英語の場合は、主語の直後に肯定否定を決めなければいけません。自分の意思は先に決定しておいて、それから目的語を示す順番です。でも、日本語の場合は、話の流れや空気を見ながら、最後に意思を固めればいい(P186)
 
といった、日本語の文法が、日本人の意思決定の所作に影響しているのでは、といた話がでてきたり、妻との関係を円滑にする秘訣の一つは、妻の話を聞くことだが
「妻の話にとりあえずオウム返ししなさい」(P230)
 
男という動物は、相手の相談事に対して「解決策を示す」ことこそ最大に親切だと思っているきらいがあります。が、女という動物は、必ずしもそれを望んでおりません。
女は話を親身になって聞いてもらいさえすれば、それで気持ちがスッキリするのです。
 
(上級編は)ただのオウム返しではありません、英語に直して繰り返すのです(P234)
 
という、男性である当方としては、「あ、そうだったのか」と実体験に照らして膝を叩いて納得するようなアドバイスもあり、阿川家の話だけでなく有益有効な話も含まれているので、お買い得であることは間違いない。
さらには、あとがきのところで「聞く」「叱られる」という。ついこの間までは「フツー」のことのように扱われていたものが特別扱いされたり、感情や行動の起伏の激しい人の増えている背景には
誰もが喜怒哀楽の感情を抑えすぎているせいではないかと思いたくなるのです。普段、抑えているぶん、何か特別な状況に陥ると、その反動かと思われるほどの感情の爆発が起こるのではないか(P242)
 
と類推し、
 
喜怒哀楽。その四つの感情の「喜」と「楽」という、いいとこ取りをすることが、「中庸」への道ではないのではないか。人間には「喜」「楽」だけでなく、「怒」と「哀」も同様に思う存分、発散することが必要なのではないか(P242)
 
という処方箋が提示されているあたり、只者ではない風情を漂わせるエッセイでもある。
 
そういえば、本書の中で
 
一般社会で叱るといえば、それはもっぱらオトコの役割だった時代がありました(P77)
 
とあるように、「三丁目の夕日」に代表される時代はそうでありましたが、すでに、はるか遠い昔となりました。「叱ること」「叱られること」どちらも難しくなった今、皆が「喜怒哀楽」の感情をうまく出しあって暮らしていく、そんなことが大事になっているんですかね〜。

すべての「新人の卵」に捧げる、ビジネスの「基本中の基本」– 河野英太郎「99%の人がしていない、たった1%の仕事のコツ」(Discover)

「井戸を掘った人の功績」を忘れてはならないのはビジネス本も同じで、そうした「古典」を再読すると、以前読んだ時とは違うところに感心したり、その時は気づかなかったことに出会ったり、ということがあるもの。
この「99%の人がしていない、たった1%の仕事のコツ」は2012年の発刊でもあり、「99%の人がしていない、たった1%のリーダーコツ」と並んで、仕事術の「ノウハウ本」としては、もう古典の部類に入るのかもしれず、「ホウ・レン・ソウ」という言葉もかなり手垢がついた感がするのであるが、何かの折に再読すると、初出のときの新鮮さを確認できる一冊でもある。
構成は
CHAPTER1 報連相(ホウレンソウ)のコツ
CHAPTER2 会議のコツ
CHAPTER3 メールのコツ
CHAPTER4 文書作成のコツ
CHAPTER5 コミュニケーションのコツ
CHAPTER6 時間のコツ
CHAPTER7 チームワークのコツ
CHAPTER8 目標達成のコツ
となっていて、多くの人にはすでに常識中の常識となっているかもしれない
仕事をしていて最も困るのが、上司やクライアントによる急な方向転換です。
それが締め切り直前だと絶望的。しわよせは全部自分にやってきます。
これを避けるための方法があります。
ホウレンソウを早め早めにすることです。
自分からチェックポイントを設け、上司やクライアントとコンタクトを取り、」常に認識を一つにしておく。これができると大きな悲劇を避けられます。
とか
「優秀なヤツは、若手中堅ベテランにかぎらず、議論の最中に立ち上がってホワイトボードに書き始める」というものでした。
この「優秀な人たち」がホワイトボードを使ってやろうとしているのは、言葉だけが行き来して、なかなか議論が進まない「空中戦」を避けることです。つまりホワイトボードで論点を整理し「つまり、こういうことですか?」と会議参加者の認識を揃えることです。
といったこともあるし、メールの作法など、SkypeやChatツールの発達した今ではメールそのものが古びてきているものあるのだが、さて、じゃあ、自分や部下が、それができてるか、というと心もとないことが多い。
さらには
KISSの原則ーーKeep IT Short & Simple
パワーポイントの資料は、ワンスライド ワンメッセージ
といったふうに、およそこれを体現した資料を見たことはないな、と思うこともあるし、
私は会議終了後15分以内に、紙の資料は必ず廃棄することにしています。いまどきデータで存在しない資料と言うのははありませんので、必ずどこかにデータはあります。・・・紙の資料しかない場合は、すぐにスキャンしてPDF化することで、データでパソコンに保管します。こうすれば紙資料しかない場合でも、紙を破棄することが可能です。
紙資料と電子ファイルを探すのではまったくスピードが違います。紙ではなくデータで資料を持っておけば、資料のありかにとらわれない上、いつでもどこでも仕事ができます
のように今現在、紙で氾濫している自社の仕事環境を思い浮かべて「うーむ・・・」と唸ってしまうものも。
加えて
かつて先輩が聞かせてくれた話があります。「『あいつ使えない』という表現は、『あの人は役に立たない』という意味ではなく『私にはあの人を使う能力がない』という意味だ。『あいつ』と指差した手のうち3本は自分に向かっている。」
といった仕事術ではなく、人を使う基本のようなことも記してあるのが、単なるノノウハウ本とは一味違うところで、ここらあたりがベストセラーとなった所以かもしれない。
ビジネスの社会を常に新人が補給されるもの。新卒のフレッシュマンもあれば、転職後のフレッシュマンもある。そして、「LIFE SHIFT」の時代、自らが「新人」となって転職したり、再就職したり、第二・第三の職業人生を歩んだり、ということが日常となっている時代である。すべての「新人の卵」は、「基本中の基本」を常日頃から確認しておくのがよろしいですね。

「生涯、一つの職場で勤務すること」が崩壊した「今」の職業人生とは — 山口 周「天職は寝て待て 新しい転職・就活・キャリア論」(光文社新書)

転職、天職が探しが、仕事人生の一コマとして当たり前のように語られるのは、リーマンショック以降、一生を通じて一つの会社に勤めることが、個人的な原因ではなく社会的原因で困難な時期と符合している気がする。ただ、言われるようになって久しいにもかかわらず、相変わらず、日本型雇用形態批判やアメリカ型雇用形態を手放しで礼賛するものが多くて、多くの勤め人あるいは勤め人予備軍の肌感覚とはちょっと遠いところにあるような気がしている。

本書は、そのちょうど間ぐらいの立ち位置で、今の仕事を取り巻く環境に少しでも疑問を持っている、大多数の人にとって、読みやすい内容といっていい。

 

構成は

 

はじめに

天職探しの旅

本書の読者について

第1章 転職はなすべきか、なさざるべきか

転職の是非

転職の技術がなぜ求められているか

転職はなぜ不道徳と考えられるのか?

第2章 従来の転職の「方法論」の問題

従来のキャリア戦略の問題点

第3章 いい偶然を呼び込むには

第4章 「攻め」の転職と「逃げ」の転職

「逃げの転職」の注意点

「攻めの転職」の注意点

第5章 エモーショナル・サイクル・カーブへの対処

 

となっている。

 

もっとも、最初の方で

 

産業や社会が安定的に発展していた 2 0世紀後半のような時期ならともかく 、現在のような変化の速い時代には 、こういったバックキャスティングのキャリア設計はうまく機能しないのではないかと私は考えています 。これは当の産業組織論をベ ースにしたロジカルな競争戦略論の限界が露呈しつつあるのと同じことで 、次に紹介する研究結果もこの仮説を支持しています 。

 

と、2012年の出版ということもあって、日本型雇用批判が根っこにあるのは間違いないのであるが、

 

いまの制度下では 、 3 0歳を過ぎたころから自分で働いて得た金の一部をデポジットとして会社に預け続け 、定年前の 1 0年間に 、実質的には仕事をせずに年金のような形で払い戻してもらう仕組みになっているので 、ある程度以上の年齢になると 、預けているデポジットの累積額が大きくなり 、転職できなくなるからです 。会社にロックインされてしまうわけですね 。まさに飼い殺しになるわけです 。私が常々 「会社と従業員との関係は貸し借りなしがいい 」と主張しているのも 、その点に大きな理由があります 。

 

という主張とともに

 

実際に仕事をやってみて 、自分がどういうときに達成感や幸福感を得られるか 、が少しずつ見えてくる 。そういう経験を経た上であれば 、より達成感や幸福感を得られる仕事の純度を高めるような転職を志向することも可能ですが 、こういった達成感は 、最低でも 2 ~ 3年程度の経験を積まないと得られないものではないかと思います.

 

であるとか

 

自分が何かの意思決定をしようとしているとき、その選択は本当に内発的な同期なのかどうかをいま一度考えてみる、といおうのも、転職を検討する際の大事なポイントだと思います。

 

といった風に、無闇矢鱈の転職の勧め、フリーへの勧めではないところに、勤め人として古い世代に属する当方としては、ぞわぞわせずに冷静に話を聞くことができる。

 

そして、数度の転職経験をもとに

 

従業員にとって実は最も虚意宇力な反対意見表明の方法は「退職」なのだ、ということがお分かりいただけると思います。是非の判断は留保するとしても、とにかく実態として日本企業のガバナンス構造においては、従業員が経営者に対して強く反対表明をする方法は退職以外にない、ということなのです

 

といったあたりは、日本企業の雇用構造ないしは内部の権力構造の本音のところ言い当てている。

 

で、当方が、転職の賛否双方に目配りがされている本書に注目するのは、年金受給年齢も上がり、平均寿命も上がり、という時代になって、一頃のように「人生で一つの職場」というのが、多くのサラリーマンで不可能になる。つまり退職後の「第二の人生」ではなく、退職後の勤め先も人生最初のそれと「対等な勤め先」になった時代を迎え、「転職」の持つ意味が変わっているのではと思うからなのである。

極論を言えば、人生100年となり、多くの人が「転職」をして、第二、第三の職場を経験せざるを得ない時代になりつつあるのでは、ということで、このあたり「LIFE SHIFT」の主張と重なってくる。

 

さて、そんな時代にあっては、

 

「転機」というのは単に「何かが始まる」ということではなくて、むしろ「何かが変わる」時期なのだ、ということです。逆に、「何かが終わる」ことで初めて「何かが始まる」とも言えるのです。

 

であったり、

 

ここで重要になるのが「中立圏」です。一見、どっとつかずの宙ぶらりんな段階に見えるかもしれませんが、それは決して消極的なものではない、ということに注意してください。慣れ親しんだもの、去りつつあるものを見つめつつ、それがなくなてもやっていけるように過去を統合しながら、わくわくもするけれど不安もある世界に、気持ちを少しづつ向けていく、という大事な時期なのです

 

といった風に、「職を変わる」といったことに対する意識も変化させないといけないかもですね。

人間の天才がAIに向き合う — 羽生善治「人口知能の核心」(NHK出版新書)

AIが我々の仕事の多くを奪ってしまう、とか、イーロン・マスクがAIの開発・研究は人類にとって危険だと研究の中止を呼びかけているであるとか、AIへの評価はすべてがバラ色の温かい目を向けているとはいえないのだが、IOTなどAIは私たちの生活に深く入ってくるのは間違いのない事実。
本書は、そうした中、将棋界の天才児・羽生善治氏がAIの開発現場を訪ね、そのルポとAIについての氏の所見をまとめたもの。
出版は2017年3月であるのだが、2017年4月に電王戦第二局でポナンザがプロ棋士を破るといった、ディープ・ブルーによるチェス、アルファ碁による囲碁に続いてAIの力を見せることがあったのは記憶に新しい。
構成は
第1章 人工知能が人間に追いついたー「引き算」の思考
 レポート1 ディ婦ラーニングをさらに”深く”
第2章 人間にあって、人工知能にないものー「美意識」
 レポート2 「記憶」と人工知能
第3章 人に寄り添う人工知能ー感情、倫理、創造性
 レポート3 ロボットをどう教育するのか
第4章 「なんでもできる」人工知能は作れるかー汎用性
 レポート4 「汎用人工知能」実現への道
第5章 人工知能といかにつきあえばいいのか
 レポート5 人工知能、社会での活用
となっていて、中心は羽生善治氏によるルポ、途中「レポート」という形で同行取材陣の記事が入るといった形である。
まず「ほう」と思うのは、羽生善治氏の「思考の柔らかさ」である。羽生氏は1996年の段階で、コンピュータがプロ棋士をを任す時を2015年頃と答えているそうだが、その答えが合っているかどうかということより、注目すべきは「コンピューターに自分を含めたプロが負ける」ということを想像することができた、ということであろう。
そうした柔軟で緻密な頭脳のプロ棋士のAI開発レポートであるか、視点の面白さは当然であろう。
ルポ自体はアルファ碁を開発したディープ・マインド社のハサビスCEOの取材に始まり、人間と人工知能の思考の違いと将棋、人間のような人工知能(アトムみたいなもんだな)の開発の現在、そして人工知能に我々はどう向き合うか、あるいはどうつきあい、どう使うか、とAIを取り巻く情勢のほとんど全部に羽生善治氏がコミットし、コメントしている。
このあたりは、当方がたどたどしいレビューをするよりは、原書で、氏が現場に赴いて実際に見て感じた、躍動感あるレポート・考察を読んでいただくのがよいが、最後のところで示される
一方通行で知識を受け取ったとき、人間は進歩し続けることができるか。考え方を他社から悪阻笑うに、ソフトだけで強くなれるか
「学習の高速道路」を走る中で、大量の情報を得ることに追われて。かえって自分の頭で課題を解決する時間がなくなっていく、さらに本当に皆で「高速道路」を走って行くことが進化を速めることなのだろうか
といったAIと人間に関わる疑問は、自らがAIにどう関わるか、という側面で多数決で決めることでもないだろう。
今のところ、新たなラッダイト運動も、機械と自分とを同一視してしまうことも起きてはいないが、AIが我々の生活に浸透してくるつれ、現実化してくる可能性も大きいだろう。
さて、我々はAIと仲良くつきあえるんでしょうか、あるいは使いこなせるんでしょうか?早晩、それぞれが、それぞれの答えを出さないといけない時がくるような気がしますね。

イノベーションはベンチャーの専売特許ではない? — 中野剛志「真説・企業論ービジネススクールが教えない経営学」(講談社現代新書)

一頃のベンチャー企業の育成施策が大流行りの状況が今も続いているとはいえないが、大企業が逼塞したり、ものづくりの勢いが鈍ったり、さらには「働き方改革」といった状況から、何か困るとベンチャーがどうこう、という状況は変わっていない。

 

本書は、そんな中で、ベンチャー企業、起業というものについて、ちょっと斜めからではあるが、冷静な分析であろう。

構成は

第1章 日本でベンチャー企業を増やすには
第2章 起業大国アメリカの真実
第3章 ベンチャー・キャピタルの目利き術
第4章 最強の起業家は誰か
第5章 オープン・イノベーションの本質
第6章 なぜイノベーティブな企業の方が負けるのか
第7章 なぜ日本経済は、いつまでも停滞から抜け出せないのか

となっているのだが、例えば、アメリカのベンチャービジネスについての

1990年代以降、アメリカでは世界的なIT企業がいくつも誕生しましたが、アメリカ全体の生産性は停滞しており、アメリカの労働者の実質賃金も低迷し続けています。IT企業の隆盛が、アメリカ国民を豊かにしたのかどうかは、必ずしも明らかではないのです(P57)

といった「政府の偉い人が言ってたことと違うんじゃん」と文句をいいたくなるあたりから始まる。

そして、日本のベンチャーや企業風土の遅れを指摘する識者がよく言う「長期雇用」については、

競争力のある企業が長期雇用を採用しているというのは、日本に限ったことではない。例えば、驚くべきことに、アメリカ最強の投資銀行であるゴールドマン・サックスは長期の人材育成を重視しており、しかも、2000年代以前までは、上級幹部は社内の生え抜きに限定する慣行があった(P149)

長期の競争力が強い企業は、長期雇用を重視するのか。・・長期の競争力の厳選は人材にあり、そして人材の育成や見極めには、その人材と長期にわたって付き合う必要があるからだというのです(P150)

とよく言われる「アメリカ」の別の姿を示したり、ベンチャー企業の生産性についても
シェーンは、一般的なベンチャー企業は、生産性が低いと述べています。もし、そうだとすると、景気と開業率の間の関係は、やはり景気が良いと開業率が上がるのであって、開業率が高いと景気が良くなるのではない(P53)

と冷や水を浴びせてくるところは、主流派には煩く感じるだろうな、と推測する。

ただ、筆者もベンチャーを否定しているわけではなく、

イノベーションには、多様な価値観がぶつかりあって、新たなアイデアが生まれるような環境が必要。まさに、シリコンバレーは、そういう場だとして賞賛されてきたが、事業を多角的に展開している大企業グループもまた、そのような多様性を生み出す環境を提供している(P108)

シリコンバレーの成功の秘訣が、その濃密な人的ネットワークにあるとするならば、私たちはシリコンバレーを羨ましがる前に、そもそも企業組織というものは、濃密な人的ネットワークのかたまりであることを思い起こすべき(P116)

といったようにイノベーションの解答が「ベンチャー」だけにあるのではなく、イノベーション環境の構築が実は組織的な大小よりも重要であることを主張し、ともすれば単純な大組織批判、日本批判に全てを帰そうとする論調を戒めていると拝察する。

もちろん大企業病というように組織の大きさが必然的に内包してしまう問題もあるし、組織の小ささゆえの限界もある。ただ、日本のイノベーションが生まれないという指摘への解答は、組織の大小でも、日本的特徴でもなく

共同体的な集団を解体してオープン化すればするほど「個」は見失われていくのです。そして、イノベーションも生まれなくなるのです。イノベーションを生み出したければ、企業を本当の意味で「共同体的な集団」へ変えることです。そして、社外のアイデアを取り入れる場合には、社外との関係をも共同体的にすることです。
まさに、シリコンバレーという地域共同体がそうであるように。(P158)

「長期の競争」とは成果が出るまでに時間のかかるイノベーションにおける競争です。これに対して「短期の競争」とは、収益性の競争であると言いかえられます。そして短期の競争には、イノベーションの競争はあり得ません。なぜなら、イノベーションは短期間では生まれないからです(P163)

と、イノベーションを生む環境というものを、具体的に考えないとね、というしてきてのように思える。

そして最後の方では

つまり「アメリカではの守」が提唱する経営手法や制度は、日本にはなじまないというだけではなく、アメリカでもうまくいっていないのです。言い換えれば、「アメリカではの守」は、実は、自分ちが憧れてやまないアメリカのことをよく知らないのです。
そう考えると、過去20年以上にもわたって、いくら構造改革をしても日本で起業が増えず、経済が活性化しないのも、当然であると言えるのではないでしょうか。なぜといって、イノベーションを起きにくくし、開業率を下げたアメリカの1980年代の政策を次々と模倣してきたのですから。
要するに、構造改革が足りないから日本経済がダメになったのではなく、構造改革をしたからダメになったのです。(P220)

と最後っ屁のようなことも漏らされてはいるのであるが、ここは「ではの守」の方もそうでない方も、冷静に「日本のイノベーション」を活性化する方策を力を合わせて考えるべきなんでしょうね。

「数寄」と「政治」のすれ違いは昔から根深いもの — 山田芳裕「へうげもの 十服」(講談社文庫)

さて十巻は、加藤・福島らの石田三成を除こうとする反乱に始まる1599年閏3月3日に始まり、関ヶ原(1600年10月21日)の直近の1600年9月8日まで。
反乱騒ぎで、石田三成は五奉行を辞し、前田利家の亡くなり、いよいよ世の実権は「徳川へ」というご時勢での数寄大名の振る舞いは如何に、というところが
上杉、毛利が徳川に歯向かいたいという意思の背中を押したのが、小堀作助の手がけた真っ白の天守閣であるとなっているのだが、すいません、ここの暗喩は解けませんでした。
本書では「直江状は家康の改作」となっていて、古田織部は、この直江状に、石田・上杉方の数寄への冷たい態度をみて上杉への味方をやめるし、味方に入るよう口説く石田三成に大谷刑部が
その方の強がる姿も今は見えぬ。なれど眼に焼きついて離れぬ姿がある。
頭に茶碗をかぶりし真の姿が・・・
人間誰しも笑うて死にたいもの。
徳川様とその方、いずれに就かば面白がって死ねると思う・・?
と三成に加勢を決めたり、
佐竹義宣を徳川方に引き入れるために、家康から「銅」と「徳川の数寄の差配」を代償に提示され、古田織部が佐竹方の説得に赴くのだが、佐竹が徳川方に翻ったのも、織部の演奏と声明(歌)といった感じで、「数寄」「風流」「粋」といったことが要因で物事が決まるのである。
一方で、石田三成は兄・石田正澄に形の良い「瓢」を渡されるが「いかに努めようと、何をどうあがいても、私にはわからぬのだ。かような物に惹かれる心が」と無粋者であることを認めているし、徳川家康は家康で、利休所蔵であった「尻膨の茶入れ」を細川忠興に進呈した後で、「茶入れなぞ茶が湿気ねば何でもよい」と数寄へ興味がこれっぽっちもないことを白状している。
どうも、この時代の大大名の多くは利休居士の薫陶を受けた数寄大名が多いのだが、どうやら、関ヶ原の戦の勝敗がどうであろうと「数寄」「安土桃山文化」は風前の灯火であったのか、と現在でも様々なところでおこっている「文化」と「政治」のすれ違いを嘆息して見るんであるな。
細川ガラシャが石田方で攻めら敗死するのだが、史実と異なり、レオナルド・ダ・ヴィンチ考案のマシンガンを連射して石田方と華々しく戦った末の敗死という筋立て。明智の娘であるガラシャへの筆者ならではの高評価であろう。
このへんから曲者ぶりが如実にでてくるのが、茶々の方。徳川にも石田にもどっちつかずで豊臣秀頼の母としての地位の確立を目指し、織田政権の再興を狙う。たしか8巻あたりで、秀頼が秀吉の種でないことを茶々の方自ら白状しているのだが、その種の主は織田有楽斎ではないことだけは、その時のやりとりで明らかになっている。物語の今後の展開で明らかになるや否やというのも楽しみではある。