「23年」という時間のもつ重み — 国谷裕子「キャスターという仕事」(岩波新書)

本書の冒頭を読んで「23年か・・」という言葉が思わず出た。長寿テレビ番組は数々あるが、ほぼ毎日、デイリーでトピックな話題を、より客観的な視点から取り上げ、世論の潮流をつくってきた、「名物キャスター」国谷裕子氏への賛辞でもありつつ、良きも悪きも、その長期間に変わっていった「日本社会」への嘆息でもある。
構成は
第1章 ハルバースタムの警告
第2章 自分へのリベンジ
第3章 クローズアップ現代
第4章 キャスターの役割
第5章 試写という戦場
第6章 前説とゲストトーク
第7章 インタビューの仕事
第8章 問い続けること
第9章 失った信頼
第10章 変わりゆく時代の中で
終章 クローズアップ現代の23年を終えて
となっていて、クローズアップ現代が始まる前の、国谷氏の下積みキャスター時代から始まり、突然の「番組編成の変更」という理由で、キャスターから降板するまでの、まあ、「クロ現」年代記、というべき仕立てである。
なので、本書の読み方も三通りあるような気がしていて、一つは「国谷裕子」というキャスターが
キャスターという仕事に偶然めぐり会い、抜擢されて総合テレビに出たものの、経験と能力不足が露呈し、わずか一年で外された
という屈辱から
インタビューで私は多くの批判も受けてきたが、二三年間、〈クローズアップ現代〉のキャスターとしての仕事の核は、問いを出し続けることであったように思う
という回顧に見られるように、日本のTVの中での「キャスター」というものの立ち位置を確立し、ニュース番組になくてはならないものに格上げしていった「出世物語」「成長物語」として読む。
もう一つは
インタビューに対する「風圧」インタビューを軸にした番組を何回か繰り返すうちに、私は、日本の社会に特有のインタビューの難しさ、インタビューに対する「風圧」とも言える同調圧力をたびたび経験する
クローズアップ現代〉のキャスターを扣叫してきて、日本社会で何が一番変化したと感じているのかと問われると、「雇用」が一番変化している、と杵えることが多かった
という状況を受けての
戦後、世界でも一位、二位を競う豊かな国になっていたはずの日本で、経済格差は広がり、呪在、子どもの六人に一人が貧困状態に樅かれ、保育など大事な公共サービスを担う人材に、生活が十分に維持できる賃金が支払われない国になってしまっている。
時代の勢いに乗って伝えていくことは、時代に向き合うメディアとして当然のことだったかもしれないが、結果としてあまりに、社会の空気に同調しすぎていたのではなかったのか。
リーマンショックで起きたことを目の当たりにして、なぜもっと俯瞰して見ることがそれまでできなかったのか。
なぜもっと早く、弱い立場に置かれている人々に寄り添った新しい制度の構築が必要であるという想像力が働かなかったのだろうか。深く考えさせられた。
といった、クローズアップ現代が始まった頃の時代から現代までの日本の社会の変化とそれに対するメディアの関わりと責任の話。
そして最後は
この沈黙の一七秒は、高倉さんにとって自分の話すべき言葉を探している大事な時間だったのではないだろうか。このインタビューで私は「待つ」ことの大切さを学んだ気がする。間(ま)を恐れて、次から次へと質問を繰り出すことで、かえって、良い話を聞くチャンスを失ってしまうかもしれないのだ。
「待つこと」も「聞くこと」につながる。
この人に感謝したい、この人の改革を支持したいという感情の共同体とでも言うべきものがあるなかでインタビューをする場合、私は、そういう一体感があるからこそ、あえてネガティブな方向からの質問をするべきと考えている。
その質問にどう答えるのか、その答えから、その人がやろうとしていることを浮き彫りにできると思う。
といったインタビュアー、キャスターの心得的なものを読み解いてみてもよいのかもしれない。
まあ、23年間の追想が、いろんな読み取り方が出来るというのも「クロ現」と「国谷裕子」というとりあわせが単なるニュース解説番組ではなかったことの証左であるような気がして、残念ながら、時代を映し出していった「クロ現」もキャスター変更を経て、その性格が変わっていっているような気がするのである。
「国谷裕子のクロ現」、「クロ現の国谷裕子」であったのですかね。

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