「今」は、威勢のよい進軍ラッパより、クレバーな撤退戦のプランが必要な時なのかも — 平田オリザ「下り坂をそろそろ下る 」(講談社現代新書)

登山では、上りよりは下りのほうが難物で、下手をすると足腰を痛めたり、高山であれば下山の方が命を落とす確立が高いという。
国の勢いも、人生も同じらしく、高みに登った後で、それからどうするかが一番の難所であるらしい。
 
本書は、劇作家・演出家の平田オリザ氏が、「日本」という国の「今」について論述したもの。その視点は「劇作家とは、つくづく因果な商売だと思う。およそあらゆる職業の人々は、人間の幸せを願うように出来ている。しかし劇作家は、人々がどうすれば困るかだけを考えている。いつも、意地悪な視点でものを見ている。」と自身が言うだけあって、温かいようで冷静であるのだが、けして冷たくはない。
 
なので、いわゆる地方の人口流出に対しても
 
大学の教員を一五年やっていて、「地方には雇用がないから帰らない」という学生には、ほとんど会ったととがない。彼らは口を揃えて、「地方はつまらない。だから帰らない」と言う。そうならば、つまらなくない街を創ればいい。
あるいは、地方に住む女性たちは口を揃えて「ζの街には偶然の出会いがない」と言う。そうであるなら、偶然の出会いが、そとかしζに潜んでいる街を創ればいい
 
と雇用創出や企業誘致が人口減少対策の特効薬であるかのような、地方行政の動きにちょっと斜からの視線が関係者としては少々痛いのだが、
 
豊岡市の方針は、「東京標準では考えない。可能な限り世界標準で考える」というものだ。東京標準で考えるから若者たちは東京を目指してしまう。しかし、世界標準で考えていれば、東京に出て行く必要はなくなる。あるいは出て行っても戻ってくる
 
という当方の住まう所と近い市の地方都市への温かい目線は嬉しい。
 
で、話を日本の「今」の戻すと、氏によれば
 
私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ととに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がつきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。
一つは、日本は、もはや工業立国では・ないというとと。
もう一つは、もはや、との国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだというζと。
そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないというζと
 
といういささか寂しい認識でいなければならないようで、当方のように高度成長の少し後に生を受け、バブルを経験し、といった右肩上がりの時を経験している者にとっては、かなりの勝ち点感が必要となる。
そして、その時のリーダーシップの在り方も、今までの勇ましいあり方だけではなく
 
これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人を、ぐいぐいとひっばっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。滑りやすい下り坂を下りて行くのに絶対的な安心はない。オロオロと、不安の時を共に過ごしてくれるリーダーシップが必要なのではないか
 
ということであり、
 
いまの日本と日本人にとって、もっとも大事なことは、「卑屈なほどのリアリズム」をもって現実を認識し、ζこから長く続く後退戦を「勝てないまでも負けない」ようにもっていくこと
 
であるらしい。
 
本書の始まりは。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」の冒頭をもじって「まことに小さな国が、衰退期を迎えようとしている。」というくだりから始まり、「そろそろと下る坂道から見た夕焼け雲も、他の味わいがきっとある。夕暮れの寂しさに歯を食いしばりながら、「明日は晴れか」と小さく舷き、今日も、ζの坂を下りていこう。」というくだりで終わる。
 
当方を含め、国の成長期を知っている世代の務めは、しっかりと撤退戦の殿軍をつとめ、若い世代に引き継ぐことであるかもしれない。その撤退戦の後にこそ、新たな地平線を次世代が見出すことができるのかもしれませんね。
 
 

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