「アート」を「贅沢品」と考えているうちに、日本の文化的優位性は下がっているのかも — か宮津大輔「現代アート経済学」(光文社新書)

「アート」「芸術」といえば、なにかしらハイソサエティで、高尚で、どちらかといえば「贅沢品」という印象が強い。そのため、財政が厳しくなると、真っ先に切り込まれるものの代表格であるのだが、そうした「アート観」を揺さぶってくるのが本書。
 
構成は
 
第1章 アートの経済力と政治性
第2章 アートが地域の鍵を握る
第3章 アートフェアの時代
第4章 過熱するアジアのオークション
第5章 時代を動かすキー・プレイヤー
終章 経済は文化の僕ー日本文化の過去・現在・未来
 
となっていて、本書によれば、ヴェネチア芸術祭は
 
統一から5年後、ヴェネッィアはイタリア王国にようやく編入されたものの、共和国としての独立的地位を失っただけでなく、イタリア統一に出遅れたことで、そのプレゼンスは著しく低下していました。
長引く低迷を脱するため、ヴェネッィア市は1895年に第2代イタリア国王ウンベルトー世(1844〜1900年)の銀婚式を記念し、国王夫妻臨席のもと、「第1回ヴェネッィア市国際芸術祭」を開催します。
会期中に躯万人以上もの観客が集まるという大成功を収めたため、これ以降、同市は隔年の芸術祭開催を決定、万国博覧会をモデルとして事業の拡大を図っていくことになります。
 
であったり、韓国は
 
初の大型国際展を開催するにあたって「都市おこし」型の「ヴェネッィア・ビエンナーレ」ではなく、政治的なメッセージを世界に向けて発信する「ドクメンタ」を、その範にしたといえます。
 
であるそうだから、芸術祭というのも、実はとても地域振興的な、あるいは国威をあげるといった、少々「生ぐさ」なものを包含しているものであるらしい。
 
しかし、日本の場合は
 
ところが日本は、政権交代(特に民主党による事業仕分け)や東日本大震災の多大な影響から、継続的なノウハウ蓄積や、長期的な視野に立った戦略の立案・実行が遅々として進んでいません。

といったことが実情であるらしく、その辺は認識不足というよりも、日本人の「アート」「芸術」に関する「聖域観」が影響しているように、当方的には思う次第。このあたり、国王や大富豪の行った自分の勢威を見せるデモンストレーションの側面を否定しない欧米的な考え方に比べて、日本人の好む「求道」と芸術が結びついてしまったことの負の影響を感じざるをえない。すくなくとも、「芸樹」を地域振興のテーマとするなら、このあたりは邪魔になるよね、と思う次第。
 
ただ、各国の芸術祭が過熱し
 
「都市おこし」のための国際展も、狭い国土の中で増え続ければ、自ずと淘汰が進み、明確な独自性、差異化を打ち出せなければ、アジア諸国に大きく水をあけられるといった事態を免れません。
 
といった事情がありつつ、
 
税収の低下にともなって、公立美術館の維持・運営や、新しい所蔵作品の購入が年々困難になっていく中で、・・・このままでは、古美術から現代アートまで、国内にある名品・優品は海外へ流出する一方であり、新しいアートの価値創りを行う人材も枯渇してしまうでしょう。私たちの楽天的な誤解とは異なり、残念ながら電化製品やデジタル端末機器同様、日本の文化的プレゼンスは、今やアジアの中で著しく低下し続けています。
 
といった苦い現実は噛み締めなければなるまい。クール・ジャパン、日本の伝統・職人の技は素晴らしい、と自画自賛しているうちに、足下の亀裂はどんどん大きくなってしまっているような気がしますね。果たして、日本文化は、その価値を保てるんであろうか?「工場の論理」に我々はあまりにも傾注しすぎているのかもしれない。
上っ面の生産性向上やら地方創生やらでがちゃがちゃしているうちに、根幹の優位性が落とし穴にはまり込んでしまっているかもしれませんね。
 

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