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「コミュニケーション」って、そもそも何だ? — 平田オリザ「わかりあえないことから 」(講談社学術新書)

昔に比べて、やたらと頻出してきたな、と思う言葉が「コミュニケーション」というやつで、あちこちで使われる割には、なんとも掴みどころのない言葉でもある。
本書は、平田オリザ氏による「コミュニケーション」の解釈であるとともに、いわゆる「コミュニケーション不足」に悩む人への処方箋でもある。
 
構成は
 
第1章 コミュニケーション能力とは何か?
第2章 喋らないという表現
第3章 ランダムをプログラミングする
第4章 冗長率を操作する
第5章 「対話」の言葉を作る
第6章 コンテクストの「ずれ」
第7章 コミュニケーションデザインという視点
第8章 協調性から社交性へ
 
となっていて、「まえがき」で
 
「世間では、ただ漠然と「コミュニケーション能力」が、やみくもに求められている。
いったい、人々は、そこに何を欲しているのだろうか?(P3)
 
とビーンボールまがいの危険球がくる刺激的なはじまり。
 
そして、「コミュニケーション能力」の曖昧さが
 
いま、企業が求めるコミュニケーション能力は、完全にダブルバインド(二重拘束)の状態にある。(P15)
 
日本社会は、社会全体が、「異文化理解能力」と、日本型の「同調圧力」のダブルバインドにあっている。
一つの小さな家庭の中でも、ダブルバインドが繰り返されれば、それが統合失調症や引きこもりの原因となる。
だとすれば、社会全体がダブルバインドの状態にあるいまの日本で、ニートや引きこもりが増えるのは当然ではないか。
いや、そのような個別具体の現象面だけではなく、日本社会全体が内向きになっているとされる理由も、おそらくはここに日本社会全体が、コミュニケーション能力に関するダブルバインドが原因で、内向きになり、引きこもってしまっている。(P19)
 
といったところには、「コミュニケーション」を曖昧なままに重要視したための、今の社会の「息苦しさ」の原因が提示されたような気がする。
 
で、おそらく、その根本原因は、我々の社会が工業型の社会からきしみながら変異しているせいであるのだろうが、西欧型の「ディベート」を楽しむ社会には、個人的な性向の部分で、馴染めない人がたくさんいる、ということが話を拡大している。そして、その特効薬が「コミュニケーション能力」を身につけることだ、と、薬の成分もよくわかっていない段階で服用して、中毒症状がでている、といったところであるのだろう。
 
で、そんな時に筆者の
 
この「冗長率」という考え方を導入すると、これまでの国語教育、コミュニケーション教育の問題点がより明瞭になる。
日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。
 
 
「コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間では言うが、それは別に、日本人が西洋人、白人のように喋れるようになれということではない。
 
といったところにおもわず膝を叩いて賛同の意を現してしまうのであるし、そんなこんなを踏まえて
 
いままでは、遠くで誰かが決めていることを何となく理解する能力、空気を読むといった能力、あるいは集団論でいえば「心を一つに」「一致団結」といった「価値観を一つにする方向のコミュニケーション能力」が求められてきた。
しかし、もう日本人はバラバラなのだ。(P206)
 
だから、この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。(P207)
 
といったところに安心感を覚える。
そして、
 
日本では、「演じる」という言葉には常にマイナスのイメージがつきまとう。演じることは、自分を偽ることであり、相手を弱すことのように思われている。
 
演じることが悪いのではない。
「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。
ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。(P221)
 
といったところに、ディベートのテクニカルな側面のみで語られたり、相手の気持ちを推測することがメインの旧来の居心地の悪い「コミュニケーション」論から逃れる道を示してもらっているような気がする。
 
まあ、価値観も目指す方向も志向性を失い、バラバラになりつつも、依然として旧来の価値観、流れは自分のほうへ引き寄せようとうねって来る。そんな時代である。「みんなちがって、たいへんだ」(P216)と認識して、「演じる」方法論をみにつける。こんなあたりが「コミュニケーション」力の磨き方の、今のところの「解」なのかもしれませんね。