カテゴリー別アーカイブ: テクノロジー

AIによる「雇用喪失時代」に何が求められるのか

AIによって雇用が奪われるという問題で、最近気になった記事がこれ。ひとつはPRESIBDENT ONLIMNEで「10年後にはドライバーの仕事は消滅するー123万人の雇用が喪失する恐れ」というもので、要点は

・AIの進化によって、タクシードライバー、トラックドライバーといった職種は、自動運転の普及によって2025年までに消滅。銀行員、弁護士も風前の灯火

・20年後には、経営者、医者などが消滅あるいは削減の対象に

・一方、指の細かな作業のいるコンビニ店員、大工などは生き残る可能性大

 

もうひとつはBUSINESS INSIDERの「ロボットが奪い始めた人間の雇用ーバリスタ・ロボットは1時間あたり120杯のコーヒーをつくる」では

・アメリカの人気コーヒー・ロースターはベンチャー企業と提携し、バリスタ・ロボットをつくった。

・人件費が抑えられるため、そのチェーン店のコーヒー代は安価。

・人件費の高騰により、ファスト・フード・チェーンのうち、マクドナルドなどの大きなチェーン店は小型店舗やモバイル端末による注文にシフト。より小規模なチェーン店は店舗全体の自動化に取り組んでいる

ということで、ファーストフードを始め、小売店の無人化は今後。AIの進化・浸透によって進む一方のようだ。

 

卑近な例で言えば、コンビニ・コーヒーの普及によって、喫茶店などが駆逐されているのもその先駆けと行っていいと思う。

で、こんなご時勢ではあるのだが、これから出てきそうなのは「空間ビジネス」のような気がしますね。もともと喫茶店が流行っていたのは、コーヒーの旨さということもあるのだが、落ち着ける空間の提供ということも大きかったように思う。そうであれば、いっそ人の役割は、居心地の良い空間提供のためのお世話、ぐらいに割り切って、旨いコーヒー提供はAIに任せて、「空間づくり」と「空間提供」に専念するというビジネスも出てきそうですね。

例えば、コーヒーはあまり上手くないけど、話上手で相談に乗ってくれる、喫茶店のマスター、あるいはスナックのママさん的なものですかね。AIの浸透は留まることはないだろうから、「人」の手でしか提供できないものは何か?といった視点でこれからの仕事は考えないといけないんでしょうね。

音声入力は、意外に私たちの身近にあることに気がついた

勝間和代さんのメルマガではよく紹介されていたのだが、定期的に診断してもらっている整形外科で、そこの年配のお医者さんが、音声入力でカルテに入力しているのを見て、改めて音声入力が我々の暮らしの中に実は入り込んでいるのだ、ということに気がついた。

仕事の効率化やIT化に携わっていたこともあるのだが、カルテとか業務日報とかの電子化で、一番ネックになっていたのは入力の手間をどうするかということであった。特にお医者さんや現場での作業が多い職員は、キーボードを使った入力には面倒感があるようでそこが導入を躊躇する一因ともなっていた。

その医院での入力の様子を見ると、もちろんAI機能の進化もあるのだろうがかなり正確に入力されている。まだ誤変換はあるようだが、これからのAIの進化でかなり改善されてることいくことはまちがいない。 実際この原稿も音声入力で書いてみたのだが、なかなかに便利なものである。

ワープロが、タイピストを駆逐したように、音声入力は、会議や打ち合わせにまつわるさまざまな仕事を変えていくような気がする。 テクノロジーっていうのは、意外にこんな身近なところから、我々の生活を変えていくのかもしれませんね。

ちなみに当方がiPhoneで使っているのは、音声認識メールというアプリであります。有料ではありますが、結構認識力高いですよ。Evernoteとも連携しているのも便利ですな。

古い習慣の強固さは、日本だけの専売特許ではないと思うが・・・

少し前になるのだが、THE PAGEで「新しいITに否定的な日本、もはやアフリカよりも前時代的?」といった記事があってたのだが、ようやく当方も考えがまとまったのでエントリーしておく。

 

記事の要旨は

・アフリカで起業した女性が日本に帰国すると驚くことがある。あらゆる席に喫煙席があること、や回覧板の文化があること、紙の本をよむ人が多いこと、そしてモバイルで送金できないことや、現金しか決済できない店が多いこと

・アフリカでは、経済発展にともなって新しいインフラを使いこなす人も増加している

・新しいITインフラやビジネス習慣と人々の思考回路には密接な関係がある。古い制度にしがみついていると、物質的・生活様式でも遅れをとる。新しいことに貪欲になることが日本人に求められている。

といったもの。

 

ただ、こういう古い政府度が強固に残って、新しい動きに乗り遅れてしまうってのは、別に日本だけでなく、世界中どこでも起きているのではないですかね。例えば、産業革命は当時、大陸より遅れていた「イギリス」から始まったのであるし、生産現場でのAI導入でドイツが先んじられたのも、生産の合理化で周回遅れだったせいで、かえって新しい技術が導入できたから、といった話がある。日本だって、戦争で古い制度や基礎インフラがまっさらになったからこそ、戦後の工業社会化や高度成長があったといえなくもない。記事のアフリカの例も、要は国土を網羅したシステムや、経済の安定といったことがなかったから、白地に絵を描くように、モバイル決済などがどんどん普及した、ということなんだと思うのである。

 

使いこなされてきた古い制度やシステムが安定していて、楽であるのは間違いなくて、そこに、新しい仕組みやシステムをいれようとした場合、古いものときしみが生じるのは通例のこと。ここらは「新しいことに貪欲になる」といった精神論で解決できる話ではないような気がする。要は、古いシステムにどこで見切りをつけて、将来性のある新しいシステムにどう乗り換えていくか、ということなのであって、新しいシステムの優位性がどのあたりで古いシステムを上回るか、あるいは上回るように誘導できるか、といったことではないでしょうかね。

 

このあたりになると、強権的な政治のない「日本」はちょっと不利なことは間違いなくて、じわじわと染み入るように新しいものが入ってくるのを待つ以外なく、寂しいですが、一度は周回遅れになってしまうという宿命を背負っているのかもしれないですね。

 

勝負はいつも勝ち続けることはできないのだから、早めに軽く負けて、体制を建て直して、次の勝負を有利に進める準備をするということが肝なのかもしれないですね。

DocomoのAI戦略は、ちょっと当方の理解の外にありますようで

C-netによれば、DococoのAIの戦略は

いろいろなことができる対話型AIデバイスは、「結局、大半の機能がユーザーに使ってもらえない」と同氏。用途を絞るなどして、ユーザーが「このために、このデバイスを使う」という役割を明確にさせることが最も重要であるとし、AIを用いたサービスの差別化には最終的に“人間の力”が鍵を握ると断言した。

という方向であるらしい(https://japan.cnet.com/article/35115869/

個人的にはそこまで“AIを使うぞ”といったハードルを上げられると、ちょっとシンドい。スマホの導入の時もそうであったような気がするのだが、Docomoが新しい技術を導入するとき、ふわっとした感じで導入するんではなく、なにかしら利用者に主体性を求めてくるような気がしますね。

Iモードの時にも感じたのだが、メーカー側で用意するシステムに合わせろ。といった感じがして、どうも違和感がある。もちろんAppleの場合も、自らのシステムの中に囲い込む志向が強いのだが、その遊ばせてくれる、あるいは、動けるフィールドがどうも違っていて、制約感が漂うのである。

どちらかというと、日本のITの雄であるDocomoさんには、太っ腹な感じでユーザーを遊ばせてもらいたいと思うのだが、どうであろうか。

スマホで遅れをとった二の舞はAIでは避けてほしいのでありますが。

AIは密かにあなたのそばに忍び寄っている。・・・のかもしれない

MIT Technology Reviewで「AIを使いたい?→実はすでに85%の人が利用中、米調査結果」という記事によると、アメリカの85%の人がナビアプリやストリーミング・サービスの形ですでにAIを利用しているらしい。

 

たしかにAIは、あちこちのWebやスマホのアプリやサービスやIoTで、しっかり活用されている状況なので、当方を含め多くの人が「将来は、AIに仕事を奪われるかもしれんね〜」と気楽な感想を漏らしているうちに、近くでしっかりAIにサポートされているといった状況がすでにおきていると推測。

 

ただ、この状況に当方たちが気づいているのかというとそうではなくて、「このサービスは、とても便利だ」とか「最近はパソコンやネットでやってくれることが増えたよね〜」てな感じで、後ろでAIが動いていることなんてまったく意識していないのが大方であろう。

で、こんな風であれば、AIに食が奪われるっていうのは、生活や仕事の様々な場面が、知らない内にAiが入り込んできて、特にバックヤードのあちこちの人間がやっているところが置き換わっていって、気がついたら、それが表に一挙に出てきて、人間のやる仕事が変わってました、っていう奪われ方なのではないでしょうか。

ひょっとすると「アハ体験」のように変わっていることにも気づかないのかもしれませんね。

AIによる行政の窓口サービスは、「たらい回し」という悪しき伝統を消し去ることができるかも

C-netで「住民からの問い合わせにAIが対応ーーMRIと30以上の自治体が実証実験」と題して

三菱総合研究所(MRI)は2月19日、「AIスタッフ総合案内サービス」の実証を開始したと発表した。自治体に対する住民からの問い合わせを対話形式でAIが応答する。

AIスタッフ総合案内サービスは、子育て、引越し・住所変更の手続き、ごみの出し方、住民票や戸籍、各種書類の請求など住民からのさまざまな問い合わせ全般に対して、対話形式でAIが応答して必要な行政サービス情報を案内するもの。クラウド型で提供し、各自治体は導入・サービス利用コストの負担を抑えるとともに、常に最新の技術を利用できる。

という記事がエントリー。実証実験の中心は区・市で、基礎自治体の住民サービスの案内サービスが対象の様子であるのだが、実証実験の結果はどうでようが、この試みは非常に賛成。ただ、応答はLINEのような形式がイメージされてるので、ちょっとこれは減点。

できうれば、スマホには抵抗感のある向きも含めて面倒をみるために、音声サービスまで乗り出してほしいもの。

ただ、そうした減点部分はおいといても、人間による窓口サービスの応答が、行政サービスがどこの部署で提供されていて、その手続はどうかということが、人間ではとうてい覚えきれず、カバーしきれないということを考えると、AIの活用により、たらい回しや取次ミスが少なくなるのでは、という期待ができる。

さらに、その手続的なことになると、その部署の職員でないと行き届いたサービスができない、ということも多いから、すくなくとも事務的な部分については、AIによって一定程度代用できるということもできるのだはないだろうか。こうした手続面でのQ&AはHPなどでも出ているのだが。あれを見てすとんと理解できる人はよほどの専門家か経験者でないとムリ、というな場合が多い。できれば、紹介のパターンとか内容とかも、AIで記録して、分析することによって、アドバイスうる内容も、今より分かりやすくすることも可能になるんではないでしょうかね。

自動運転は、地域と地域の境界をなくしてしまうのかもしれない。

Twitteで、箕面2.0氏の「自動運転になって異動という概念すらなくなり人は都市から都市へと頻繁に行き来するようになる」という落合陽一氏の本の引用をみつけ、「うむ」とうならされた。

今、地域と地域の間を隔てているのは、「距離」であることは間違いない。しかも、それは空間的な距離というよりも、移動して他の地域に行くには、自分で運転するか、交通機関で行くという、「手間」の要る移動手段しかないせいでもある。

これが「自動運転」によって自分が甄嬛を使わずに自分の家の環境に半ば囲まれたままで移動できるとなると、地域間の移動には、例えば自分の部屋と化すであろう「クルマ」の中で過ごす時間が増えるという現象が起こるだけである。どうかすると、今のワンボックスカーぐらいの大きさであれば、自室とほぼ変わらない生活空空間を構築することも可能だから、気分的には「自室にいたまま」で移動する、といった感覚に近くなるんではなかろうか。

 

そうした時、今は移動の困難さゆえに、どこかに定住するという形をとらざるを得ない我々の居住生活が、半ば、遊牧民化していくであろうし、テレワークのような働き方がもっと進めば、どこかに定着する必要すらなくなるし、仮にどこかに定着するにしても、それは「長い仮住まい」のような意識となっていくのではないだろうか。

そうした時に、「地域」の在り方、あるいは公的サービスの在り方というのはどうなるか、まだうまく想像できていないのだが、通過すること、あるいは仮住まいを対象とした税体制のもとに、水道・下水といったサービスは、使うたびごとの料金制のようになってしまうのかもしれない。

 

いずれにせよ、自動運転は移動手段の変更にとまらず、体制そのものを変化させるきっかけになるような気がしますね。

 

IoTの時代に「人間の判断」はどうなっていくのか

本日(2018.01.04)の日経新聞では

「1989年からの視線」に「書店にはいかないー流行より「私だけ」追究」でブロックチェーン事業のCIOの方が、書店に行かずSNSやFeedlyなどで情報を収集し本を買うことを取り上げ、「「インターネット」の進展も加わり、流行を追うのではなく、自分にあったものを自分のやり方で捜す傾向が強まった。」として、ロバート・キャンベルさんの言葉を引用して「違和感を持つものに触れ、異なる考えの人を理解する力をつけてほしい」と論評してあった。

また、

「ポスト平成の未来学」ではポストススマホとして、「ヒアラブル」に着目しつつも、「ポストスマホ時代に問われるのは一人ひとりの主体性だ。AIの守備範囲が広がるほど僕らは自ら考え、挑戦することを怠るのではないか」

と論評してあって、ここだけ読むと、日経の記者さんたちは、どうもAIの系統にはあまり良い印象を持っていない様子。

まあ、イーロン・マスクやビル・ゲイツなど、ITや先端技術に深く関係する人も懸念の意を示しているんだけど、ちょっとネガティブが過ぎるかな、という感じがする。というのも、私達が本にしろ何にしろ何かを選択するときに、自らの知識と考えだけで選択することはないわけで、それが知人と友人とか今まで読んだ本とかの世界から、不特定多数の意見を採取する機会と人間以外の機械知のようなものからのアドバイスをとることができるようになったのは間違いない。

その時に、どこにアドバイスをうける力点を置くかは、当然のようにかなり選択肢の幅が広がったことには間違いなくて、判断の正しさの当たりハズレは問うべきではあるが、アドバイスをとる相手方が生身の人間かどうかはんさほど問うべきではないので、と思う次第である。

IoTの対象は2030年にはIT関連機器全体の80%になる、とも言われていて、我々を取り巻くものがインターネットを介して、マシンや不特定多数の人々につながっていく時代は、そこに来ていると思うのだが、その時に、私達が物事判断する方法が、以前と同じ形で成立するはずもないように思えるのである。

むしろ、あふれるほどの情報が、五感全てを取り巻く中で、「人間」とはどうするのかを考えていくべきで、そこから逃げてもいかんと思うんであるが、如何か。

「AI]に追い抜かれるのはいつなのか、と「親」のような気分で考えてみる — 斎藤和紀「シンギュラリティ・ビジネス ーAI時代に勝ち残る企業と人の条件」(幻冬舎新書)

新しい技術というものは当然。光の部分と影の部分があって、どちらにその目を向けるかがくっきりと分かれるものだのだが、「AI」については、職が奪われるという否定的な側面が結構強く主張されているような気がする。
もちろん「AI」が人間の知能を追い越す「シンギュラリティ」が来るかこないかなんて当方が予測できるものではないんだが、少なくとも「来るかもね」といった態度で鋳たほうがなんとなく良さそうな気がしている昨今ではある。
 
本書の構成は
 
第1章 シンギュラリティとは何か
第2章 爆発的進化で起きる、六つのD
第3章 人間が死なない、働くなくてもいい社会
第4章 第四次産業革命が始まっている
第5章 エクスポテンシャル思考でなければ生き残れない
第6章 これが世界最先端のシンギュラリティ大学だ
第7章 シンギュラリティ後をどう生きるか
対談 AIと人間これからどうなる 
 
となっていて、「シンギュラリティ」あるいは「AI」開発の直近の状況をレポートしながら、「シンギュラリティ」後の人間の暮らしについて言及しようという意図。
こうした技術の進展は、とてつもない進度で進む時があるので、「直近」というのが、すでに遅れている状況なのかもしれないが、当方のような一般人には十分なレベルの新書であろう。
 
で、「AI」の進化状況については当方がつたない要約をするよりも、原書のあたったほうがよいと思うので省略するが、気になるのは、こうしたAIを始めととする最新科学の進化によって
 
第四次産業革命は始まったばかりですが、今後はこの世界規模の大変革が第五次、第六次・・・と立て続けに起こると予恕されます。
いまのうちに基本的ななマインドセットを変えなければ、国も、企業も、個人も、時代の変化に置き去りにされてしまいます。
国家レベルげの事業について考えると、これからの革命できわめて重要な意義を持つスーパーコンピュータの研究・開発がひとつの鍵になることはいうまでもありません。まさにエクスポネンシャルな進化を続けている分野ですから、いったん外国に性能の点で引き離されると、二度と追いつけないぐらいの庄が生じτしまう可能性があります。Aーをはじめとするテクノロジー革命の根底にあるのがスーパーコンピュータですからその性能の差はそのまま国力の差となって跳ね返ってきます。(P109)
 
といったところでは、一頃の「事業仕分け」が「国家戦略」とは違う「もったいないかどうか」といった議論で全ての物事を割り切ろうとしたことの国家的な不幸を思うし
 
シンギュラリティという想像を超える現象に向けて、エクスポネンシャルなテクノロジー進化がさまざまな分野で破壊的な局面を迎えることが感覚的に理解できれば、好むと好まざるにかかわらず、生き方や考え方を変えざるを得ません。
(中略)
米国では、二OO五年以降に生まれた新しい職種はすべて「非正規雇用」の仕事です。遅かれ早かれ、日本でも正規雇用の職業は生まれなくなると与えたほうがいいでしょう。(P131)
 
といったところでは、雇用論と科学の進化とがぎりぎりときしみあっている音を聞くようである。
 
発想法として「おや」と思ったのは
 
アクト・オプ・ボックス」という発想です。
私たちは既成概念という「箱」の小で物事を考えがちですが、「箱」の外にも開界があるとすれば、小さな箱を少しずつ大きくするのではなく、一気に10倍を目指す姿勢にもなれます。さらにいえば、そして、そもそもそこに「箱」があるのかどうかを疑ってみる。そもそもその「箱」は、私たちがっくりあげた幻想かもしれないからです。(P141)
 
といったところで、知らず知らずの内の「限界」を突き抜けるためは、革命的な技術革新への期待がないまぜになる必要があるのかな、と夢想してみる。
 
ともあれ、AIのこれからの課題は、どこまで「不完全な情報の下で適当にやる能力」を習得すること、であったり、、感情移入や、物事に因果関係を見出す能力を身につけること、であるらしく、人間になろうとするかに見える「AI」をなんとなく身近に感じされてしまうのは幻想でありのでしょうか。
 

科学進化の「倍々ゲーム」の行き先は? — 稲見昌彦「スーパーヒューマン誕生 人間はSFを超える」(NHK出版新書)

AI、IOT、ロボットといった最近流行のテクノロジーは、いずれも人間のアナログな感覚との間に膜で遮られているような気がしていて、こうしたテクノロジーの進化は必ずしも人間・人類と並走してくれるかどうか不安なところがあるのだが、本書でとりあげる「人間拡張」はそれに比べると、アナログな感覚と親和性が高い気がする。
構成は
序章 SFから人間拡張工学を考える
第1章 人間の身体は拡張する
 1 拡張身体とは何かー「補綴」から「拡張」へ
 2 どこまでが拡張身体なのかー脳と道具の間にあるもの
 3 どこまでが身体なのか?ー曖昧な身体の境界線を探る
第2章 インターフェイスとしての身体
 1 現実世界はひとつなのか?ー五感がつくる現実感
 2 新たな現実はつくれるのか?ー感覚と情報がつくるバー
 3 人間は離れた場所に実在できるのかー脱身体として
第3章 ポスト身体を考える
 1 ロボットはなぜヒト型なのか?ー分身ロボットとヒューマノイド
 2 他人の身体を生きられるのか?ー分身から変身へ
 3 身体は融け合うことができるのか?ー融身体・合体からポスト身体社会へ
あとがき
となっていて、南アフリカの義足の陸上選手の話からスタートし、パワードスーツなどへと続いていく。
このあたりは、人間の「身体」のフツーの拡張話であるんだが、
人間は「道具を使っている」こと自体を、自らの身体を使っているときのように無意識化できる
 
であったり、
近年になり、もしかしたらラバー・ハンドという物理的な存在がなくても、人間は信じるだけで自分の身体がそこにあると感じるかもしれないという応用の実験がでてきた。
 
といった話が出てくると、人間が自分の身体として意識しているのは、肉体としての身体だけでなく、空間軸的にも時間軸的にも拡大し、境界の意識を失っていき、「身体」そのものが変質していく
 
そして、さらに「バーチャル・リアリティ」という技術によって、「人間の心」「人間の意識」が、肉体という身体から、空間的にも時間敵にも「離れていく」「解放される」というSF的な幻想にかられてしまうのである。
個人は一つでなく「分人」として「複数の顔」を持ちうる、さらには
 
もしかしたら、人間は複数の分身体をスケジューリングしながら操るようになるのかもしれない。現地に行く必要が生じた場合は、そこに焦点を合わせて自分を光の速さで飛ばして実在させる。未来の人間は、複数の世界を時間によって漂う存在になっている可能性すらあるのだ。
 
といった話になると、「おい、おい、本当かよ」と当方のようなおっさんは、途方にくれてしまうのであるが、Skypeを使ってのインターネット会議などが常態であるむきには、そうした身体感覚と意識との分離は、容易に想像できる範囲なのか?とも思い直してみるのである。
 
まあ、当方が若かりし頃、PCはNECのPC-8800といったのが個人利用では最先端でありましたが、この30年間、とんでもない進化を遂げているのは事実。しかも、こうした技術的進化は倍々のペースで進むという話もある。これから数年間、Ai、ビッグデータ、ロボット、生化学と様々な分野が倍々で進化し、それらが融合すれば、当方が思ってもみない世界が現出するのかもしれませんね。