カテゴリー別アーカイブ: ブックレビュー

情報活用のオール・イン・ワン的な手引本 — 池上彰「情報を活かす力」(PHPビジネス新書)

おなじみの池上彰さんの今回の本のテーマは、「情報を活かす」。

構成をみると

序章 情報活用力をいかに高めるか

第1章 私の情報収集術

第2章 私の取材・インタビュー術

第3章 私の情報整理術

第4章 私の読書術

第5章 私のニュースの読み解き方

第6章 私の情報発信術

1 情報発信のためだけでなく、自分の考えを整理するために文章を書く

2 書いたものを発表してみよう

3 相手への想像力を働かせ、わかりやすい説明の工夫をしよう

となっていて、書籍・新聞・人といったリソースからの情報の集め方、そして情報の発信の方法といったことが内容で。情報の整理活用といった狭い範囲でないのが、本書のおトクなところであろう。

で、その一端は

メディアの人間や専門家という人種は「視聴者や聞き手は何がわからないか」がわからなくなっている(P24)

といった反省を踏まえながら

民放の夜のニュースは、大都市部のサラリーマンの視点で番組がつくられる(P42)

東京で読んでいる全国紙は東日本のブロック紙、九州で読んでいる全国紙は九州のブロク紙なのだと心得ておくべき(P47)

といったメディアの世界で長く活躍してきたらしい辛口コメントがでてくるのが興味深い。

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ガンガン前へ進んでいける劇薬的特効薬ですな — 堀江貴文「本音で生きるー一秒も後悔しない強い生き方」(SB新書)

堀江貴文さんという存在は、当方的には、アドバイスを生かす所、人生のどう行く局面で、「堀江氏」という薬を使うかということで、好き嫌いと効用の具合がはっきりしているように思う。

当方は、不遇感に苛まれている時とか、世間の低評価にしょげそうになっているときに、結構効き目がある「劇薬」で、場合によっては、生き方の体質改善効果をもたらすことすらある。

構成は

序章 なぜ、本音で生きられないのか

1章 言い訳をやめる

2章 バランスをとるな

3章 本音で生きられない理由は「自意識」と「プラウド」である

4章 すべてを最適化せよ

5章 本音で生きるために必要なこと

となっていて、表題をみるだけで、結構乱暴な処方箋であることが理解できるだろう。

その幾つかをレビューすると

誰かがあなたについてどう思おうが、それは自分の問題ではなく、相手の問題だ。  他人が誰を嫌おうと、何を考えようと、それはあなたの人生にはかかわりのないことだ。  一刻も早くそれに気づいて「放っておく」

とか

実現可能性をまず考えて尻込みするような人間は、リスクをとらないこと自体が最大のリスクだということに気づいていない。  こうして結局、小利口な人ほど、成功から遠ざかる。

といったあたりは、世間的な常識をゴンと壊すような音が聞こえて小気味いい。

かといって乱暴な言説ばかりかというと、そうではなくて

僕が見るところ、たいていの人は得意でないことまで無理に自分でやろうとして、パンクしてしまっている。あるいは、自分の持っているスキルや資格にこだわりすぎて、それに関係した仕事は全部自分でやらなければいけないと思い込んでいる。  自分がすべき本当の仕事、自分の持つ「コアバリュー」が見えなくなっている

自分のコアバリューが何かなど、頭で考えていてもわかりはしない。スキルや資格があるからといって、それがコアバリューとは限らないのである。

まずは、やりたいと思うことはすべてやろうとすること。そして、自分一人ではどうしようもなくなった時に、人に仕事を任せていき、そぎ落としたあとに残ったものがあなたのコアバリューだ。

とか

自分の意見をうまくアウトプットできないと悩む人もいるが、それはたんにインプットしている情報量が足りていないだけだ。インプットの量とスピードを増やせば、自然とアウトプットの量やスピードも増え、自分なりの考察が自然と湧き出てくるようになる。頭を使うべきは、自分の考察をどうひねり出すかではなく、インプットの量とスピードをいかにして向上させるかなのだ。

といったあたりは、ネットビジネスの世界に大旋風を巻き起こした、異能の経営者の姿が垣間見える。

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こういう類の忍者の話は今までなかった — 和田 竜「忍びの国」(新潮社文庫)

しばらくは歴史・時代小説から離れていたのだが、映画化がされるということで久々に読んでみたのが、この「忍びの国」

時代背景は、織田信長が天下統一に乗り出している時で、場所は「伊賀」。

伊賀は、当方のような年代にとっては、横山光輝氏の「伊賀の影丸」であったり、白戸三平の「サスケ」の故郷、甲賀の敵方であったりとか、忍者者の舞台として、史実は別として馴染みの深い国名ではある。

筋立ては、伊賀の国の隣国「伊勢」の名門、北畠家の当主で、織田信長の息子、信雄を養子にさせられている北畠具教が、譜代の部下たち、長野左京亮、日置大膳らによって誅殺されるところから始まる。

この長野、日置は物語の重要な相手方の役割を果たしていて、いわば、伊賀の国に代表される「忍び」の対極にある存在といっていい。

で、話を大筋は、これをきっかけにして、織田信雄が伊賀の国に攻め込まざるをえないように仕向けられるのだが、伊賀の忍者たちが、どうやって伊勢の大軍を退けたかというもので、「のぼうの国」と同じような感じではあるのだが、主人公が手練の忍者「無門」であるせいか、伸びやかな感じは薄い。その一方で、忍びの技を伴う戦闘の迫力や、権謀術数の数々は、本書の方が上手で、このへんは好みがわかれるところであろうか。

もう一つ言うと、「銭」しか信用しないはずの下忍が一人の女性の歓心をかうために、我が身を賭け、戦争をリードするようになるあたりは、フィクションとはいえ、「男」の哀しさが滲み出ている感がある。

史書も物語の随所に引用されていて、どこまでがフィクションなのか定かではなくする工夫も十分生きてはいるのだが、まあ、難しく詮索せず、筆者の掌で、お話を楽しんだほうがよいですな。

さらには、「天正伊賀の乱」という、通常の国盗り物語の中では、殆ど語られることのない、忍者宇野国の戦争譚は、ウンチクの種としても使えそうな気がいたします。

 

斎藤メソッド満載の「ノート」の真髄本 — 斎藤 孝「頭の良さはノートで決まる 超脳内整理術」(ビジネス社)

表題の「頭の良さは・・・」という表現にはぎょっとするが、内容的には、ごく真面目で、ノートを使っていかに仕事の質をあげるか、たくさんの仕事をするか、といった「ノート」についての啓発本。ただ、

第1章 頭の良さはノートで決まる

第2章 ノートはビジネスパーソンの必須スキル

第3章 頭と心がスッキリする斎藤式ノート術全公開

第4章 仕事のスキルを上げるノートのとり方

第5章 セミナー・勉強に役立つノートのとり方

第6章 心が軽くなるノートのとり方

といった構成で推察されるように、ノート術の「技術論」が展開したあるわけではなく、「ノートを使った仕事術」の風合いなので、ノートのテクニックやノウハウを求めている人にはちょっとピントが違うかもしれない。

ただ方法論のヒントがないわけではなく

東大合格生は、板書を写すだけでなく、授業の中で話された先生の言葉も自分のスタイルできれいに整理している。私はこれが基本だと思う。「板書+先生の言葉」というかたちだ。(P26)

とか、「頭をよくするノートの取り方」は

「攻撃的な意識」でノートをとること

話をきいている時点で「次に自分が話すのだ」と思ってノートにしないと、再生することはできない。これが受動的jにノートをとるのか、攻撃的にノートをとるのか、という意識の差だ。意識のあり方によって、話の吸収率が全然違う

もうひとつは、話されていることとリンクする自分の経験をメモすることだ。(P33)

といったあたりは、ノートの現物が掲載されていなくても、自分なりに工夫できる範囲であろう。

さらに「斎藤式ノート術」(P74)として  続きを読む

オーソドックスな「手帳・ノート術」 — 鈴木真理子「仕事のミスが激減する「手帳」「メモ」「ノート」術」(明日香出版)

仕事をしていく上で、欠かせないのがスケジュール管理と仕事の記録というもので、これをうまく管理する方法論の百花繚乱が、「ビジネス本」といっても過言ではないだろう。

で、そのツールも、最近ではパソコン、スマホ、タブレットとデジタル・ガジェットの勢力が強くなってきていたのだが、最近になって、手帳、ノートを推奨する傾向がまた出てきていて、その理由は「手書きの効用」ということであろう。

本書も、そういったアナログ・ツールの再評価という路線にのったものといってよく、

構成も

第1章 手帳の基本

第2章 手帳の実践的な使い方

第3章 メモの基本

第4章 メモの実践的な使い方

第5章 ノートの基本

第6章 ノートの実践的な使い方

第7章 夢や目標を叶えるための記録術

といった形で、デジタル・ツールに関する記述はほとんどない。そのあたりは、

スマホの最大の難点は電話をしながら見られないこと(P29)

画面を出すまでにパスワードを入力するなどの操作が必要(P30)

仕事中にスマホをいじっていると、私用との区別がつきにくく・・・(P30)

といったところに顕著で、”そこまでデジタルを貶めなくてもいいのでは”とデジタル派の当方としては少し不満に感じるところもないではない。

ただまあ、デジタル・アナログ共通の仕事のノウハウ、スケジュール管理や記録のノウハウというものはあって、

ミスをなくすには、予定をできるだけひとつのツールで管理してください(P24)

とか

取引先やお客様を訪問する日付のところに、持っていくものを書き添えておくと忘れものがなくせます(P46)

仕事とプライベートは区別せず、むしろ両方書く(P62)

手帳は段取りを整える最善のツールですが、仕事のことばかり書くと、やる気が下がり品質低下やミスにつながります(P62)

注意したいのは、いつでも、なんでもかんでも、付箋をメモがわりに使うこと。付箋に書ききれなかったり、貼ったり剥がしたりするうちになくす心配もあるため、メモ帳を用意してください。(P74)

といったところは、デジ・アナ共通で使える部類であろう。 続きを読む

時事解説ではなく、「歴史書」として読むべきか — 池上彰「池上彰のこれが「世界のルール」だ!」(文藝春秋)

国際問題や時事問題の解説本というのは、少し古くなった旅行記と共通のものがあって、時間の経過とともに事態が動いてしまっていたり、本が書かれた時点では、さてどうなりますかとなっていたことが、あっと驚く結末になっていたりする。

なので、あまり未来予測的であったり、志向性の強いものは、後になると、読むに絶えないものになることが多いのだが、池上彰氏の時事解説は、その時点の、その事態に至った歴史的な経緯もしっかり書き込んであることが多いので、原稿時点からの推移をこちらで補足していけば、おおむね冷静な時事評論として読むことができるのがよいところであろう。

本書は2015年時点で再整理されたもので、構成は

RULE1 組織拡大術ー「イスラム国」が急成長したわけ

RULE2 トラブル解決法ー間違いの誤り方が勝負だ

RULE3 ホンネを見抜くー公開情報から推理する

RULE4 歴史の勉強法ー社会人は教科書「世界史A」を読もう

RULE5 究極のリーダー術!?ー独裁・中国はどこに行く

RULE6 お金、マネー、資本を知ろう

RULE7 交渉術、プレゼンテーションを磨け

RULE8 ビジネスのカギは科学にあり

RULE9 インタビュー術!ー「いい質問」をする秘訣

となっていて、イスラム国(現時点では”IS”か)、STAPLES細胞、TPP、スコットランドの独立といった、執筆時点からかなり事態の変化したものも多いのだが、

フランスの風刺画はキリスト教も対象に取り上げます。しかし、イスラム教の預言者ムハンマドを風刺すると、イスラム教徒の心を傷つけてしまう事態になるのです。

イスラム教徒にとって、ムハンマドとは、どんな存在なのか。彼は預言者です。予言者ではありませんよ。「神の言葉を預かった」人です。神は、ムハンマドを選び、人々に神の言葉を伝えるように命じられた、ということになっています。ということは、ムハンマドへの風刺は神の宣託を風刺すること。神への冒瀆と感じてしまうのです。

といったイスラム国での記述は、テロが個別のテロとなり、それがアメリカやヨーロッパの移民論争、ひいてはトランプ政権の誕生に至る発端を示すものであるし、

仮にスコットランドで独立賛成派が過半数を獲得していたら、ヨーロッパ全体が混乱に陥ったでしょう。  しかし一方で、長期的に見れば、地域への帰属意識を基盤とした、実にエネルギッシュで多様性のある世界に転換する、重大な分岐点になっていた可能性もあります。

というスコットランド独立の騒動に関する記述は、イギリスのEU離脱という当時は思ってもいない事態への”予兆”を敏感に感じたものといえなくもない。

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ビジネスの人間分析の手法として押さえておくべき — 松波晴人「ビジネスマンのための「行動観察」入門」(講談社現代新書)

本書によれば「行動観察」とは、「観察者が様々なフィールドに入って対象となる人間の行動をつぶさに観察した上で分析し、問題解決法を提案する手法」ということらしい。

構成は

第1章 行動観察とは何か?

第2章 これが行動観察だ

1,ワーキングマザーの隠れた欲望

2,人手にぎわう場のつくり方

3,先頭をもっと気持ちのいい空間に

4,優秀な営業マンはここが違う

5,オフィスの残業を減らせ

6,飲食業を観察する

7,達人の驚異の記憶術に学ぶ

8,工場における生産性向上と品質向上という古くて新しいアプローチ

9,元気の出る書店をつくろう

第3章 行動観察とは科学である

ということで、本書の多くの部分は、依頼をうけた具体的な案件での「行動観察」の実例が示されていて、たとえば「人でにぎわう場のつくり方」の

販売説明員がディスプレイから離れて、通路をはさんで逆側に立つと、お客さんが自由に展示機器にアプローチでき、機器を見ているお客さんは時間当たり5倍に増え、機器の売り上げは3倍になった(P74)

とか「優秀な営業マンはここが違う」の

「声を出しているスタッフのほうが、お客さんとの話に入りやすい」ということである。「いらっさうませ」と声を出し続けていると、お客さんはその声に親しみを持つ。そのため、いざ直接お客さんに話しかけたときも、快く受け入れてもらえる可能性が高い(P137)

といったような気になるエピソードが掲載されているのだが、それとあわせて本書ですくいとっておかなければならないのは、

①必ず現場に行って、人間の行動を観察すること

②根拠のあるソリューションを提案すること

「自分の価値観で観察対象者を批判的な目で見てはいけない」

といった「行動観察」の基本原則であり、

結果について先入観を与えるので「結果がまとまるため、クライアントに安易に途中経過を話さないほうがいい」

普通の人間は他者評価よりも自己評価が高い

といった多くの人間の行動の背後にある共通点であろう。

「人間観察」「行動観察」のデータとして読み込むもよし、それによって導かれる「基本原則」を探すも良しなのであるが、人間のなせる技の分析手法として押さえておいたほうがよいのでしょうね。

現代の「貧困」のなんともやりきれない側面 — 鈴木大介「最貧困女子」(幻冬社新書)

不景気であるとか、動乱といった物事は、最終的には、世間で一番弱い者たちに及んで結末を迎えるのが常なのであるが、その「弱い者」たちとは往々にして、子供や女性であることが多いと思う。

本書は、雇用の確保が声高に言われていた時のものなので、今のような人手不足のときとは少し様相が異なるかもしれないが、「セックスワーク」であるとか「シングルマザー」の問題は、今に至るも解決しているとは思えない。

構成は

第1章 貧困女子とプア充女子

第2章 貧困女子と最貧困女子に違い

第3章 最貧困女子と売春ワーク

第4章 最貧困少女の可視化

第5章 彼女らの求めるもの

となっていて、前半の普通の「貧困女子」の話から始まって、彼女たちが「貧困」の結末として「セックスワーク」に取り込まれていく状況と、その生活がルポされていく。

ただ、こうした貧困をテーマにしたルポ本であるが、

貧乏とは、単に低所得であること。低所得であっても、家族や地域との関係性が良好で、助け合いつつワイワイとやっていれば、決して不幸せではない。一方で貧困とは、低所得は当然のこととして、家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い、もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人はいない。貧乏と貧困は別ものである。

といった冷静な認識をもとに

本来の居所を飛び出して家出生活に入る少女たちは、一見して「見るからに可哀相な、怯えた少女」だろうか? 多くの場合、それは誤った認識だ。彼女らは、基本的に「非行少女」だった。

とか

地元で近しい境遇にある者同士で同年代コミュニティを作る。貧困の要因である三つの無縁でいえば、「家族の縁」(親の縁)が虐待などで断たれ、「制度の縁」が地元児童福祉の不整備などで彼女らの求めるQOLを満たせなかった分、その寂しさや欠乏状態を「地域の縁」としての同年代コミュニティで補ったわけだ。  だが実はここで、大きなどんでん返しがある。こうして地域の縁の中に吸引された少女らが、なぜか売春ワークへと取り込まれてしまうケースがあまりに多いのだ。というのも、そうしたコミュニティでは年長者の中に既に売春・援交行為をしている者が少なくない。家出生活ほどの経済的な逼迫状態にはないものの現金には飢えているため、はじめは「売り子」として下着を売ったり、先輩から紹介された男相手の売春をしてみたりもする。

といった形で、「貧困問題」、そしてそれにまつわる「セックスワーク」の問題を、地域的な「構造」の課題としてとらえるなど、悲憤慷慨して悦にいってしまう、夜会改革本ではないところに注意が必要である。そして

昼職の所得が少なくて、「やむを得ず」風俗に副収入を求めたのではない。むしろ彼女らから感じたのは「デリヘルで稼げる自分への誇り」のようなものだ。驚くことに、愛理さんは、なんと週一のデリヘル勤めが既に職場の人間にバレているという。それどころか、弟も知っているし、カミングアウトしている友人も少なくない。あまり大っぴらには言えないけど、決して恥ずかしいことではないし、そうして自らの「資質」を活かして地元同年代の中では高所得をキープしていることを誇りに思っている節があるのだ。  デリヘル店長は、こうも言う。 「あくまで、彼女たちは『選ばれた人たち』です。

といったところに、「現代の貧困」の複雑さがあるといえよう。

どうも、現代の「貧困問題」は、”こうだよね”といった脳天気な処方箋を提示できるほどヤワいものでもない。今ある「現実」をしっかりと分析しながら、ひとりでも多くの人が「望まぬ貧困」から脱していく手立てを一つずつ提示していくしかないのか、となんとも頼りないレビューで、この稿は勘弁してくださいな。

日本の食文化の重要要素として無視できない「チェーン店」という存在 — 村瀬秀信「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」(講談社文庫)

当方の子どもたちがまだ、幼いころ、「外で御飯食べるぞ−」となると、行くのは決まって「チェーン店」であって、子どもたちも、テレビのCMにでてくる店で食事ができるということに大喜びしてしまうというのが、「辺境」に住まう家族の寂しいところ。

もっとも当方がガキの頃は、外食できるところといえば、街のうどん屋か蕎麦屋がせいぜいであったので、牛丼、ピザ、ステーキ、焼肉、ハンバーガーといった様々なもの(料理というと反論されそうなのであえて”もの”と言っておく)を、安価に、手軽に食せるというのは、日本の食文化の画一化を進めたという批判はあるにせよ、地方部の「食」を都市部のそれに近づけた、おおげさに言えば、「食」を介した日本人の「意識の共通化」「日本人という共通意識の強化」に貢献したといえなくもない。

収録されているのは

吉野家/山田うどん/CoCo壱番屋//びっくりドンキー/餃子の王将/シェーキーズ/サイゼリヤ/かっぱ寿司/ハングリータイガー/ロイヤルホスト/マクドナルド/すき家/レッドロブスター/蒙古タンメン中本/やよい軒/牛角/カラオケパセラ/くるまやラーメン/とんかつ和幸/PIZZAーLA/ビッグボーイ/鳥良/築地 銀だこ/日高屋/バーミヤン/ケンタッキーフライドチキン/てんや/どん亭/Sizzler/A&W/リンガーハット/ビリー・ザ・キッド/東京チカラめし/野郎ラーメン/ファミール

といった、外食チェーンの大所が多いのだが、例えば「ハングリータイガー」や「ビリー・ザ・キッド」「てんや」など、辺境に住まう当方には出張の折りぐらいしかお目にかかれない店もあるのだが、例えば、

「かっぱ寿司」の

「た、楽しい・・・」。かっぱ寿司を寿司屋と対比してはいけない。これは、総合フードエンタメなのだ。店内を見渡せば、同じように新幹線から寿司をとってニヤニヤするおっさん客の姿があちこちにある。ああ、楽しかった。店を出ると、一言もしゃべらなかったことに気がついた。

「牛角」の

筆者にとって、チェーン焼肉といえば、「牛角」だった、そのはじめての出会いの衝撃は今でも昨日のように覚えている。まずは肉質。焼肉というものを知らぬハタチそこその貧乏人にとって、牛角の肉は、まだ見ぬ松阪牛と錯覚するほどの実力を感じずにはいられなかった

といったあたりは、都市部、地方部共通であろう。さらには、「とんかつ和幸」の

思い返してみれば、とんかつ専門店という概念も知らなかった子供時代、筆者の家庭の事情ゆえなのかもしれないが、店で食べるとんかつといえば、30円の駄菓子〝ビッグカツ〟の親玉か、太ったハムカツ程度の代物で、下手なとこだと一口食べれば衣から豚肉がスッポリ抜けるガッカリとんかつが主流だった。  現在のようなぶ厚くジューシーな本物の〝とんかつ〟。あれに出会った瞬間、とんかつはとんかつでなくなり、ビッグカツは携帯用とんかつでないことを思い知る。

というところでは、高級洋食であった「とんかつ」を、皆の手元にもってきたのは、チェーン店の功績というべきであろう。

さて、こうしたチェーン店が元気なうちは、国の勢いも盛んであるようなのだが、チェーン店から高級志向への。「食の嗜好」が移るにつれ、なにやら世の中が難しくなって、世の中の熱気もなくなってきたように感じる。熱気があればよいものではないのだろうが、やはり世の中の「熱気」というものはある程度ないと、社会自体が衰えていくようだ。難しいことは、ちょっと置いておいて、家族と「チェーン店」へ行って、盛大に注文をしてみませんか。

新自由主義・新帝国主義のもとでの日本的資本主義論 — 佐藤 優「資本主義の極意」(NHK出版新書)

階級論争や、資本主義・社会主義論は、当方が大学時代には、少し以前の話になっていたのだが、新自由主義やグローバリズムへの反省から、再びあちこちで論じられるようになている気がするのだが、さて「資本主義とは何」って聞かれると、浅学非才の当方には・・・、の感が強い。

そして、そういう輩にも「日本型の資本主義」を明治期から戦後までの歴史を分析しながら解説してくれるのが本書。

構成は

序章 資本主義を日本近代史から読み解く

第1章 日本資本主義はいかに離陸したか

第2章 日本資本主義はいかに成熟したか

第3章 国家hあいかに資本に介入したか

第4章 資本主義はいかに変貌したか

となっているのだが、講学的な、難しいところは本書を読んでいただくとして、例えば

日本の資本主義の特徴は

重要なポイントは、日本のように後発で資本主義を導入する国ほど、純粋な資本主義すなわち原理論的状況とは異なるプロセスを踏んでいくということです(P72)

といったことを基礎にして、

日本の植民地は、食料の確保と工業製品の輸出市場という役割が中心であり、植民地に投資をして儲けるという資本輸出はあまり見られませんでした。

なぜか。資本輸出をするためには、国内に余剰資本がなければいけません。しかし日本は、日露戦争の戦費や戦後の軍事費のかなりの部分を外国債でまかなっており、国家財政に余裕がありません。(P129)

とか、日本の共産主義者の二つの流れについて

講座派を勉強した共産党系の人と、労農派を勉強した人の違いは、会うとだいたいわかります。労農派は、物事を相対的に見る視点を持っています。「ものごとを突き放してみる」と言ってもいいかもしれません。なにごともワンオブゼムで考える思考的習慣がついているのでしょう。

一方で講座派は、教条的で自分の考えに固執しやすい。前述のように「日本の伝統はほかの国にはない良さがある。だからこそ素晴らしい」というよな日本特殊論が大好きな人たちです。

さらに言えば、たとえ宇野経済学を学んでいなくても、日本人の思考は労農派と講座派に分かれる(P159)

といったところでは、知り合いのその系の人達の具体の顔が思い浮かぶことも、場合によってはあろう。(当方の場合は、「講座派」らしい人の顔は浮かびましたな)

さらには、前世紀以降、戦争が絶えないのは

現代の資本主義のもとでは、新自由主義と帝国主義とが同時に進行しているとみるべきでしょう。

では、そういった現代の資本主義の最大の課題は何でしょうか。

それは、資本の過剰をどう処理するかということです。(P180)

帝国主義になると、恐慌は周期性を失います。だからといって恐慌は完全にコントロールできるものではないので、起きる時は起きる。

ただ、同時にそれぞれの帝国主義は、貿易や資本輸出を強化することで、恐慌の必然性を排除しようとする。第三章で見たように、それが列強の対立を深め、戦争を招来するわけです。

したがって、帝国主義のもとでは、資本の過剰は恐慌か戦争のどちらかで処理されることになる(P181)

といったことかと新知識を得て、悦にいってみてもよい。

では、筆者は、こうした資本主義あ、あるいは現在の新自由主義+新帝国主義の世界を肯定しているかというとそうではなく、

キリスト教神学によれば、私たちはみな、終末にいたる「中間時」すなわち「時のあいだ」を生きています。中間時を生きる人間の社会構造には、悪が容易に忍び込んできてしまう。しかしこの悪の問題は、いつかは解消される。それが終末であり、この終末の日に備えて自らを律して生きるのがキリスト教徒の仕事です。

私はこの終末を、資本主義からのラディカルなシステム転換だと捉えています。いつかは資本主義も終焉するでしょう。でも、それはいつのことかわからない。

ならば、焦らずに待つ、待つことにおいて期待する。

これを神学者のカール・バルトは、「急ぎつつ待ち望む」と言いました。

その時がくるまで、私たちは高望みせず、しかしけっしてあきらめない。そして、その時が到来したときこそ、私たちは資本主義を超えた、良い社会をつくらなければならないのです。(P233)

が本旨で

高望みはせず、しかしあきらめないこと。飛び交う情報に踊らされず知識を蓄え、自分のアタマで考えること。平凡なようですが、これが資本主義とつきあうキモです(P228)

としたたかに生存の戦略を練らねばならないようだ。

日々のビジネスや、近くにある社会問題にどうしても時間と手間をとられてしまうのだが、たまには、こうした経済学の基礎的なものも読んでおいたほうが、雑談力も深くなるのかもしれないですね。