カテゴリー別アーカイブ: ブックレビュー

☆山深き里の怪物譚ではあるが、深い因縁話も混じり込んでおるな — 宮部みゆき「荒神」(朝日新聞出版)

最近、ビジネス系のレビューが続いていて、少々、生真面目さが鼻についてきたきらいがあるので、ここらで気分転換。手練による時代物のホラーといこう。

時代は、江戸時代の元禄頃。江戸市中では、生類憐れみの令による嵐が吹き荒れていた頃。舞台は、東北の山深い小藩、竜崎家の永津野藩と、その支藩ではあるが、江戸初期からすでに半独立の状態にある瓜生家の香山藩というところが舞台になるのだが、実際の地理にあてはめるとどこそこという詮索はこの物語では無用であろう。むしろ、山深い、日本のどこにでもありそうなところと認識したほうが、この物語の普遍さを感じさせてくれる。

構成は

序 夜の森

第一章 逃散

第二章 降魔

第三章 襲来

第四章 死闘

第五章 荒神

結 春の森

となっていて、両藩の藩境の香山側の村に、得体の知れない怪物の現れるところから始まる。その姿は、蜥蜴ともツチノコともなんともしれないものなのだが、「人を食う」巨大な化物である。

で、話の大筋は、藩境で人を食らう化物が、村を襲っていく様と、それを退治しようとするものであるのだが、最初の方で、この化物が、永津野藩の、山を開拓したり、植林する「山作り」のせいでは、といったリードがある。なので、これは環境破壊ものであるのだな、といった先入観を持ちながら、化物の物凄さと、村が襲われ壊滅していく様子を読み進めていくと、後半の方で、宮部みゆき氏の物語らしく、「どんでん」をくらうのが、なんとも気持ち良い。

そして、これを支えているのが、心根の優しい「小台様」と呼ばれる、永津野藩の執政の妹である「朱音」という女性、彼女の住む館に居候する胡散臭い浪人 榊田宗栄、絵師ではあるが何やら秘密らしきものを抱える相模藩御用絵師の菊池圓秀、怪物から逃れてきた「蓑吉」という子供。そして、香山藩の藩主の子供の病死騒ぎで山へ逃れてきた小日向直弥という若侍、そして、朱音の兄で永津野藩の成り上がりの冷酷な執政、曽谷弾正といったキャストであろう。

特に弾正と朱音の関係は、この物語の謎解きになんか深い関係あるぞ、と思わせながら物語が進んでいくのだが、先の物語の「どんでん」のような展開に結びつくのであるが、ネタバレは”なし”にしておこう。

だいたいに、宮部みゆき氏の時代物ホラーは、おどろどろしいのに加えて、よく考えると結構陰惨な因縁話を散りばめて、つくりあげられるにもかかわらず、最後の「光明」を見せてくれるのがよろしいところで、この物語も定番通り、たくさんの「人死に」が出るのだが、終章で

裏山の森のさらに向こう、大平良山の高みに、澄み渡る青空の下に、朱音様はいらっしゃる。これからはずっと、ずうっと。

今やっと、このお山に、ここに生きる人びとすべての上に降りかかった出来事が見えた。心の目に見えて、呑み込めた。

それが終わったことも、わかった。

春の山の香りに包まれて、おせんは一人、いつまでもいつまでも佇んでいた。

と災厄の終わりを春の和やかさで朱音の菩提を弔うところは、怪物の由来に荒む読者の心をほっとさせる。

そして怪物退治に絵師として貢献した、圓秀が心身喪失となり、死ぬ間際に心を取り戻して描いた絵を、その養父が寺に預けて封印し、

圓秀畢生の傑作だが、残念ながら、この世にあってはならぬもの、人が目にしてはならぬものを描いている。

だから後世、この絵を見た者は、誰もいない。

と締めくくることで、怪しい物語が悪さをしないよう収めるあたり、流石というものでありますな。

かなりの大部のお話ではあるが、ぐんぐんと引き込まれて読み進めてしまうので、睡眠不足にご注意である。

「成功物語」で自らを元気づけないとやってられない時もあるよね — 田村潤「キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え」(講談社+α新書)

「ブラック企業」といった働き方改革ものをレビューした直後に、こうした企業成功ものである。節操が無いと言えばないのであるが、精進料理の後は、がっつりとした肉も食いたくなるというものなのでお許しを願いたい。

さて、今回はビールの老舗、「キリン」の復活物語である。

構成は

第一章 高知の闘いで「勝ち方」を学んだ

1995年 高知の夜は漆黒だった

1997年 健康になろう

1998年 V字回復が始まった

2001年 ついにトップ奪回

第二章 舞台が大きくなっても勝つための基本は変わらない

四国での闘いー違う市場でも基本を貫く

東海地区での闘いー現場主義の徹底

全国での闘い、そして勝利

第三章 まとめ:勝つための「心の置き場」

となっていて、キリンの社長も勤められた、田村潤氏の高知支店長時代から、四国、東海の地区本部長、そして本社の営業本部長と、一旦はトップの座をアサヒに明け渡したキリンが、一位を奪還するまでの道筋を、現場から経営まで一貫して牽引役であった人の、中興の物語である。

で、その基本というのは、

海外で闘うにしても、やはりまず日本の地方のあるエリアで勝ち方を極めていることが非常に大事なのだそうです。そのエリアをよく見て、エリアの特性や住んでいる人、風土とか、チャネル全部ひっくるめて最も適切な正しい実績を上げることができた人間こそ、海外に行っても通用する。(P4)

ということらしいので、意外に現場主義で、理論より実践かな、という感じなのである。

そのあたりは、

結局、行動スタイルを変えることができるかどうかは、簡単に言えば視点や心の置き方を変えてみられるかどうかですし、人によっては身をすてられるかどうかということでしょう。すべてを投げ打って集中すると見えなかったものが見えてくる。当然、壁にもぶつかる。しかし、そこで死にものぐるいで壁を乗り越える。そこで今まで見えなかった景色が見える。そして自分の成長に気づく(P104)

といったところでも明らかであろう。

続きを読む

ブラック企業問題の芯にある原因は「気綺麗事の社会」であるか — 今野晴貴「ブラック企業2 「虐待型管理」の真相」(文春新書)

前作「ブラック企業」で、日本の労働問題の重要な課題となっている、ブラック企業の実態を赤裸々にしたのであるが、本書は、その第2弾。

構成は

序章 ブラック企業問題とはなんだったのか?

第1章 わかっていても、入ってしまう

第2章 死ぬまで、辞められない

第3章 絡め取り、絞りつくす

第4章 国家戦略をも侵食するブラック企業

第5章 なぜ取り締まれないのか?

第6章 奇想天外な「雇用改革論」

第7章 ブラック企業対策ー親、教師、支援者がすべきこと

終章 「ブラック国家」を乗り越えて

となっていて、前半が「ブラック企業」ということが言われるようになってもなぜ若者はブラック企業に入るのか、後半は著者の「ブラック企業」対策。

当方として興味深く読んだのは、前半の「若者はなぜブラック企業に入ってしまうのか」といったところで、

結論から言えば、被害者の多くはブラック企業に積極的に入社し、また、ムズから「辞めない」で働き続けている(P4)

といったところから始まるところは、「ブラック企業」の原因の複雑さを垣間見せる。

さらに

厄介なことに「上昇志向が強い」学生ほど、巧みにブラック事業に絡め取られ、「自ら」入社してしまうリスクが高いのである。そしてこの事例が意外にも多い(P41)

「ブラックだ」という噂が多少あっても、「自分は大丈夫」「自分を信じているから」「自分の目で確かめたから」といった「殺し文句」で自分自身を煽り立てていくのである(P57)

といったところは、ブラック企業問題が、実は今の「競争こそが正義」という思考の現れであることを示しているし、

問題の根には、日本全体に潜む「過剰労働への憧れ」があるように思うのだ。

両親の話、テレビで見た成功者の物語、ある種の「伝説」のようなかつての成功談を「自分の像」と重ね合わせる。苦労して歴史に残るようなプロジェクトを達成したビジネスマン、リーダーたちを見聞きして育った世代。たとえ、10人に1人の成功者で、うつ病になる人が絶えないといわれようとも、勝ち残った「成功者」こそがめざすべき「自己像」だと思う。そんな若者の心理こそが、ブラック企業が付け入るものの正体ではないだろうか。(P63)

というところは、「ブラック企業」問題が、実は、日本の雇用や成功神話に裏打ちされているもので、けして、アウトロー企業の問題ではない、ということを明らかにしているのである。

であるなら、その解決は、労働意識そのものを変えないといけないわけだが、筆者の言うような

「全員が会社の中核的社員になって、年功賃金をもらうようにしなければならない」「エリートを目指さなければならない」という固定観念が支配している限り、「ブラック企業の労務管理」は成功してしまうのだ。(P152)

ということを解決するために、日本人の意識があちこちと分散するのはちょっと現実的でない。むしろ、

「生きることよりも仕事」という理想像は、あまりにも純粋で、従来の仕事へと没入した日本的「エリート像」からも圧倒的にかけ離れているのである(P149)

といったことを肯定し、仕事はたくさんの生計費を得たいから、といった生な声をより言える社会にするほうが近道のような気がするのだがいかがであろうか。

ブラック企業の悪影響の大きさと悪辣さに愕然とすべき — 今野晴貴「ブラック企業ー日本を食いつぶす妖怪」(文春新書)

残業の削減とか、パワハラ・セクハラといった職場環境の問題は昔からとりあげられてきていたのだが、それが国家的な課題として政府や自治体を動かし始めたのは最近のことのように思う。もちろん、電通事件のようなセンセーショナルなものが引き金となったのは間違いないが、それ以上に、本書で取り上げる「ブラッキ企業」や「ブラックな雇用形態」が、あちこちにはびこり始め、特定の業種や個人の運不運の問題としてかたづけられなくなったことの現れではあろう。

構成は

第一部 個人的被害としてのブラック企業

第1章 ブラック企業の実態

第2章 若者を死に至らしめるブラック企業

第3章 ブラック企業のパターンと見分け方

第4章 ブラック企業の辞めさせる「技術」

第5章 ブラック企業から身を守る

第二部 社会問題としてのブラック企業

第6章 ブラック企業は日本を食い潰す

第7章 日本型雇用が生み出したブラック企業の構造

第8章 ブラック企業への社会的対策

となっていて、もちろん、社会的な課題解決の方策を考えるために本書を読んでもいいし、それが本来なのであろうが、21世紀日本の労働形態の一断面を垣間見るルポ的な眼で読んでもよいだろう。

それは、「ブラック企業」という問題が、雇用という個人的な問題ではなく

「若年者雇用問題=非正規雇用の不安定」という構図の理解は、しかしながら新しい問題を引き起こすことになった。非正規雇用という貧困状態への恐怖が、今度は若者を正社員をめざす苛烈な競争に駆り立てたのである(P18)

という、我が国の雇用に関しての意識が生み出したものに相違なく、ブラック企業の特徴が

共通する特徴は、入社してからも終わらない「選抜」があるということや、会社への極端な「従順さ」を強いられるという点である。また両社とも新興産業に属しており、自社の成長のためなら、将来ある若い人材を、いくらでも犠牲にしていくという姿勢においても共通している。経営が厳しいから労務管理が劣悪になるのではなく、成長するための当然の条件として、人材の使い潰しが行われる。(P61)

ということからしても、現代日本の社会が生み出した、構造的な問題であることが明らかであって、そこは「雇用改善」という表層的なことでは解決せず、「日本の意識」そのものを変えていく壮大な努力が必要な課題であるかもしれないのである。

とはいうものの

選別のために辞めさせるも、辞めさせずに使いつぶすも彼ら次第。いわば、ブラック企業は「生殺与奪」の力を持っている。また、ブラック企業はこうした支配の力を、利益を最大化させるために用いるという意味で、行動に一貫性を持っている。「辞めさせる」ことも「辞めさせない」ことも、同様に、あくなき利益追求に端を発している(P99)

部下や社員には見ず知らずの他人以上に何をしてもいいのだというおかしな価値観が、職場を支配している(P100)

といった職場環境、企業環境が放置されて良いはずはないのだが、さて、政府の「働き方改革」はどこまで、切り込めることができるんでありましょうか。とりわけ、インターシップの利用による過重労働は、日本企業だけでなく、グローバル企業共通の話として聞かないわけでもなく、なんとなく、ラスボスの強敵さにドギマギっしてしまうのであるが・・。

たまには「日本古代史」はいかが — 関 裕二「沈黙する女王の鏡」(ポプラ社)

古代史っていうのは、定説が定まらないか、異論があるところのものが一番面白くて、邪馬台国あたりの「日本の成立秘話」のところがその最たるものであろう。

といっても、宇宙人がどうこう、とか、ユダヤ人が日本の古代に、といった話までいってしまうとついていけなくなるのだが、関 裕二さんの古代史ものは、安心して異論逆説を楽しめるところに位置している。

構成は

第1章 闇に消えた卑弥呼の鏡

第2章 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と卑弥呼の鏡

第3章 二つの邪馬台国・卑弥呼と台与の確執

第4章 邪馬台国の深層

第5章 トヨの悲劇

終章 邪馬台国とカゴメ歌

となっていて、「伝日田出土・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(P4)を発端に

日田は歴史的には福岡県側の文化圏・商業圏にありましたが、なぜか行政的には大分県なんんですよ。つまり、トヨの国です。不合理な行政区分が、古代から現代まで続いているんです(P5)

と九州の「日田」をスタートにして、邪馬台国、ヤマト王権の成立秘話を明らかにしようというもの。

で、「その秘密は」ということになると、余り引用が過ぎると営業妨害になりかねないので、

三世紀の西日本は、大きく分けてふたつの枠組みの中にあった。瀬戸内海から畿内にかけて大同団結した吉備や出雲を中心とするグループ・ヤマト。そしてもうひとつは、かつての栄光を取り戻そうと魏との外交戦に活路を見出そうとしていた北部九州のグループ・邪馬台国である。

しかし、おそらく、日の出の勢いのあるヤマトの差し向けた神功皇后(トヨ)の軍勢が、九州の邪馬台国を討ち滅ぼし、日田と高良山を我が物にしていたのに違いない(P156)

ヤマト建国に貢献した出雲が、直後に没落したのかというと、ヤマトに排斥されたかららしい(P163)

といったことが重要なヒントで、神功皇后や「出雲神話」の謎も一挙に解いてしまおうという結構大胆な歴史モノであることはたしかであるし、

近年、蘇我氏に対する評価も変わりつつある。「日本書紀」の記述とは裏腹に、蘇我氏は、日本の近代化に積極だったのではないか、と疑われはじめている(P149)

ではなぜ蘇我氏と出雲は深い関係にあったのかといえば、私見では蘇我氏が、出雲を代表する豪族であり、その祖が、出雲神事代主神に違いないから、とにらんでいる。(P150)

瀬戸内海=吉備にすれば、日本海と北部九州が結びつくのは、最悪のシナリオであった、なぜなら、万一、ヤマトとトヨが反目し、北部九州と出雲が共謀して関門海峡を封鎖してしまえば、再び瀬戸内海は死に体となり、ヤマトは干上がるからである。トヨにその気はなくとも、ヤマトの吉備(物部)にとって、これは潜在的な脅威であり、それこそ疑心暗鬼は募る一方であったろう。(P169)

といったところは、「蘇我氏の正体」「物部氏の正体」に通じるものであろう。

定説の定まらないグレーなところに焦点をあてた古代史本は、何かを学ぶとか、それを使ってビジネスに活かすとかといった観点から見ると、なんの益もないように思う御仁もあるかとは思うが、「無用の用」という言葉もあるし、自分と遠い所にある歴史に遊んでみるのは、このうえない気晴らしにもなる。

ビジネス本に疲れたら、こういうジャンルのものも精神の「薬」となると思うのであるがいかがか。

リーダー、組織の再生はどうすればよいか — 池上彰・佐藤優「新・リーダー論ー大格差時代のインテリジェンス」(文春新書)

現代日本屈指のジャーナリストと国際政治分析家の二人による「リーダー」の在り方についての論及である。

構成は

1 リーダー不在の時代ー新自由主義とポピュリズム

2 独裁者たちのリーダー論ープーチン・エルドアン・金正恩

3 トランプを生み出したものー米国大統領選1

4 エリートVS大衆ー米国大統領選2

5 世界最古の民主主義国のポピュリズムー英国EU離脱

6 国家VS資本ーパナマ文書と世界の富裕層

7 格差解消の経済学ー消費増税と教育の無償化

8 核をめぐるリーダーの言葉と決断ー核拡散の恐怖

9 リーダーはいかに育つか?

書かれた時期が少々古いので、トランプ大統領の誕生やイギリスのEU離脱などは、まだ可能性の段階で書かれているので、時事解説として読むのは適当ではないが、新帝国主義の時代と言われる現代の「リーダー論」としては最も最新の情勢を踏まえたものといっていい。

もっとも現代にでるべきリーダーについての対談として読むか、あるいは普遍のリーダー論として読むかは、各々の好み次第で、当方としては、後者の読み方のほうが、曲者的な読み方で好みにあう。

それは

世界的に見ても、民主主義は岐路に立っているようです。各地で「強いリーダー」を求める声が高まっています(P23)

強いリーダを育成しようとしても、これだけ個人が砂粒のようにバラバラにアトム化しているところでは、リーダーは出てきようもありません。(P24)

と「リーダー不在」ではなく「リーダー誕生」が難しい「個」の時代の特性をあぶり出し、

リーダーが現れているのは、宗教があるか、あるいは「敵」のイメージがあるところです。アトム化していない、耐エントロピー構造があるところだけに、リーダーが出てきている。イギリスには、リーダーはいないが、スコットランドにはいる。沖縄にもいる。何らかの差別を受けている集団、特殊なイデオロギーや特殊な宗教によってまとまっている集団の中にはリーダーがいる(P231)

とするあたりは、経済も文化も成熟した日本の国家情勢の難しさに嘆息させる。

もっとも、明確なリーダーがいた時代が幸福だったかといえば、日本の場合はむしろ、明確なリーダーではなく、リーダー群あるいは、小粒ではあるが厚みのあるリーダー層がいた時代の方が、江戸期をはじめとして”幸福”であったのが、余計にリーダー論を不毛にしている所以でもあろう。

とはいうものの、明確なリーダーもおらず、能天気で傲慢なリーダー層がいる時代がもっとも不幸であることは間違いなくて、そのあたりは現代が

会社という組織も、国家と同様に、業績が傾きかけてくるとトップの独裁権が強くなります。部門で言えば、総務部主導になる。(P32)

といった時代であることを考えれば、やはり一定のリーダーは必要だ、という結論にならざるをえない。

さて本書によれば

どの組織でも、下士官暮らすのリーダーがうまく育っていない、シールズにような運動では、下士官クラスのリーダーは生まれようがない。

日本でもう一度システムを活性化させるには、やはり企業が重要ではないでしょうか。中小企業でも大企業でも、何らかの形で終身雇用があって、帰属意識が生きている企業、そういうリーダーシップはある企業は生き残るし、その企業がある地域は強くねっていく。あるいは職能組合や地域活動がしっかりしているのなら、それでもいい。人間が成長するには、やはり何かに帰属することが大事です。(P238)

「リーダー」と「組織」は相互に補完的な関係にあります(P239)

とのことである。そろそろ「個」の偏重による組織運営論ではなく、かつての「集団」による組織運営論に立ち返らないと、リーダーはいつまでも不在で、かといって時代の変化に耐えて我々を守護してくれる「組織」も再生せぬままなのかもしれないですね。

「The 読書」  である — 斎藤 孝「大人のための読書の全技術」(KADOKAWA)

読書の効用は様々なところで言われるのであるが、「本」を読み取ること、たくさん「読む」ことと言うのは、気合だけではちょっとうまくいかなくて、「技術」「テクニック」ということをきちんと知識として学習しておく必要があるように思う。

本書は、有数の読書家でもある、斎藤孝明治大教授によるレクチャーが、本書。

構成は

序章 社会人にこそ、読書術が必要な理由

第1章 読書のライフスタイルを確立する

第2章 読書の量を増やすー速読の全技術

第3章 読書の質を上げるー精読の全技術

第4章 読書の幅を広げるー本選びの全技術

第5章 読書を武器にするーアウトプットの全技術

終章 社会人が読んでおくべき五〇冊リスト

といったところで、見るからに読書の技術論の「総浚い」といった具合であるのだが、結構乱暴な「技術」もあって

たとえば「速読の技術」では

より多くの本をよむためには、速読する本と精読する本をきちんと選別して、効率化を図るべきなのです。

ただし、そのとき、あなた自信が、短時間で内容を把握する「速読モード」と、ゆっくり読む「精読モード」の二つのギアを持っている必要があります。(P70)

まず自分がたくさん読みたい分野の本を、集中的に何冊か読んで下さい。そうすると、その分野の知識が効率的に蓄積され、六~七冊読み終わった頃には、もう八割以上も事が理解できている状態になります。

その結果、はじめて手に取った本でも、残り二割だけを理解すればいいということになります。(P88)

といった風で、かなりのスパルタ読書論の風合いを感じさせる。

さらには速読術で「目次を読む」ことの重要性を訴える本は数々あるのだが、

最初に目次を読むことで、本の概要を知り、大事なところろをはっきりさせることができます。どこをしっかり読めばいいかをあらかじめ把握することで、読書スピードは確実に上がります(P98)

締め切りを設定するという意味では、本を買ったら、すぐに喫茶店に入るというのもおすすめです。

(中略)

具体的には、喫茶店に入って、一冊につき二〇分ぐらいかけて、サッサッサッとページをめくりながら、その本の内容を人に話せるぐらいまで把握します。

それをやっておくと、次に取り出すときには、もう天日干しした状態なので、いつでもすぐ食べられる(読める)状態になっていることになります。

だからこそ、本を買ったら、その日のうちにさばいておく。つまり、一目惚れしたテンションのまま、一気に中身を把握しておくべきなのです。

そのために最適な場所が喫茶店です。そもそも、喫茶店にはいつまでもいるわけにはいきません、せいぜい一時間といったところでしょう。(P99・P100・P101)

といった具合に叱咤激励する「読書術」の本はそうあるものではない。

さらには

まずはタイトルを確認して、次に帯、カバー袖の文書に目を通します。その後、目次や小見出しにサーッと目を通すことで、その本のおおよその主訴をつかんでいるのです。

それなら二、三分もかかりません。

そのうえで、その本の要点だと目星をつけた箇所に目を通し、パラパラとページをめくって、周辺情報を加えて全体を補強します。

そうすれば、新書一冊の内容を五分程度で要約することもできるようになるというわけです(P103)

肝の部分を書き始めるのは、三、四章からで、自分が一番いいたい結論は最後の終章にとめるのが一般的です。それなら、何も最初から読む必要はありません。すべてを要約してある最後の結論から読めばいいわけです。

このように本を逆から読む方法を、私は「逆算読書法」と読んでいます。(P105)

といったところは、かなりのネタバレと言わざるをえない。

「読書」というのは、「趣味ない人の趣味」みたいな扱いであったり、仕事をする上での道具みたいな扱いをうけることが多いのであるが、なかなかに歯ごたえのあるものでありますな、

よりよく「伝える」には ”技術” が必要 — 池上 彰「わかりやすく<伝える>技術」(講談社現代新書)

ここのところ、池上彰さんの「伝える」ということをテーマにした本を続けてエントリーしているのだが、今回は、「わかりやすく<伝える>技術」。

「伝える力」の第1版は2007年、「伝える力2」の第1版が2012年で、本書「わかりやすく<伝える>技術」が2009年なので、「伝える」シリーズの中間どころのレクチャー本という位置づけだろう。ただ、「伝える」「伝える2」との違いは、講談社現代新書らしく、かなり細かなテクニックも紹介されているところ。

それは構成にも現れていて

第1章 まず「話の地図」を相手に示そう

第2章 相手のことを考えるということ

第3章 わかりやすい図解とは何か

第4章 図解してから原稿を書き直す

第5章 実践編 三分間プレゼンの基本

第6章 空気を読むこと、予想を裏切ること

第7章 すぐ応用できるわかりやすく<伝える>ためのコツ

第8章 「日本語力」を磨く

第9章 「声の出し方」「話し方」は独学でも

第10章 日頃からできる「わかりやすさ」のトレーニング

といった成り立ちで、「話す」といったことに限定しないで、「表現する」「説明する」上での技術論が添加されている。

それは、

一つの長い文にすると、文章の中身の要素同士が論理的につながっていなくても、まるでつながっているように思えてしまうのです。(P61)

わかりやすい説明をするうえでは、「絶対に必要な情報」と「あってもなくていい情報」を峻別し、「絶対に必要な情報」だけを伝えること。「ノイズ」をカットした、クリアな情報が必要なのです(P85)

パワポには。文章を書いてはいけません。文章にすると、聴衆は、画面の文字を読んでしまいます。そんなことなら、そのパワポをプリントして聴衆に配ればいいのです。

プリントにしないのであれば、文章にせず、伝えたい要点、キーワードだけを抜き出すのです。(P91)

パワーポイントは1枚40秒で見せていく(P114)

3つの項目に組み立てて、パワポの見出しは文章にしない(P121)

といったところでも明らかであろう。

続きを読む

「伝える」テクニックの第二弾 — 池上 彰「伝える力2」(PHPビジネス新書)

前作「伝える力」で、伝達することの、かなりのテクニカルなものを披瀝されたのだが、その第2弾。前作から第二作の間に、東日本大震災があり、その際の政府や電力会社の情報を「伝える技術」の稚拙さが話題になっただけに、注目されたのも事実なニオであるが、それから数年経過した今は、少々は冷静に評価しつつ読んでもよいだろう。

構成は

第1章 東日本大震災と「伝える力」

第2章 テレビの現場から私が学んだこと

第3章 世間にあふれる「わかりにくい表現」「伝わりにくい言葉」

第4章 もっとわかりやすく伝える方法 1

第5章 もっとわかりやすく伝える方法 2

第6章 気になる言葉、気になる表現

第7章 日本語は乱れているのか

第8章 かつて私も「伝える力」に悩んでいた

となっているのだが、「伝える」テクニックを学ぶのであれば、第5章あたりまででよいかもしれない。

で、今回は他の著作でも共通のテクニックとして出てくるものがあって、例えば

わかりやすい説明をするには、相手にまず「話の地図」を渡す(あるいは示す)ことが大切だと私は思っています。

「話の地図」とは話の全体像で、最初に伝えるべき内容でもあります(P32)

といったあたりがそう。

さらに、この本で引用されている事例はちょっと古いが、最近のトランプ大統領の演説を聞くと

印象的な言葉を何度も繰り返す。この演説の酒保言うはアメリカ人がよく用います。

最近では、アメリカのオバマ大統領の”Yes We Can”があります(P49)

野田総理の所信表明演説が”アメリカ流”だったのは、同じフレーズを繰り返すことだけではありません。国のため、公のため、人々のために命がけで尽くしてくれた人をその名前まで出して紹介したことも、アメリカ流(P50)

といったところは、アメリカの演説のセオリーを教えられる。

まあ、「力」とは表現されているが、様々なテクニックの集合体が「力」になるものと考えれば、小さなテクニックをこつこつ学習していくことが有効であるような気がする。

何事も「積み重ね」ということでありますかな。

ラーメンを題材にした歴史論的奇書 — 速水健朗「ラーメンと愛国」(講談社現代新書)

「新書」というジャンルは幅が広いせいか、結構な曲者が何食わぬ顔ではいりこんでくることがあって、おなじ講談社現代新書の坂口恭平氏の「独立国家のつくり方」が最たるものであろうと思うのだが、この「ラーメンと愛国」も、個人的には、そうした「魅力ある奇書」に分類してよいと思っている。

構成は

第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略

第二章 T型フォードとチキンラーメン

第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー

第四章 国土開発とご当地ラーメン

第五章 ラーメンとナショナリズム

となっていて、前半の章は、ラーメンを題材にして、日本の近代から現代までの歴史を俯瞰するといった態で、

(明治から大正期にかけて)当時の支那そばとは、あくまで「都市下層民」が「真也飲食の楽しみ」として「娯楽的」に食していたもの、もしくは、深夜労働者たちが安価な夜食として食していたものだった(P18)

とか

日本人の食生活にラーメンが入り込んできた最初のタイミングは、戦後の闇市である(P20)

や、かって一世を風靡した「渡る世間に鬼はなし」をとりあげて

(戦後の)ドラマや漫画におけるラーメン屋は、庶民的であることや貧困な生活の象徴として用いられる(P106)

キミの世代にとっての「幸楽」とは生きていくためになりふりかまわずしがみつく生きるための場所。勇・五月の世代にとっての「幸楽」とは、成長・拡大させていくビジネスの場。愛・眞にとってみれば、育った場所ではあるが自分が引き継ぎ、守る対象ではなく、捨て去るべき古き時代のものである(P109)

といったあたりは、ラーメンというものが大正、昭和初期、太平洋戦争、戦後日本、高度成長と、アップダウンと揺れの激しかった日本の歴史を表す「シンボル性」を有しているところを明らかにしていて、歴史論には「ラーメン」を語りことが必須なのでは、と思わせるところもある。

ただ、後半になると、ちょっとその様相が変化してきて、「ラーメン」に仮装される日本人論、あるいは日本文化論、地域論のようになってきて

続きを読む