カテゴリー別アーカイブ: 歴史・時代物

やはり登場人物の多さと複雑さは変わらないな — 石ノ森正太郎「マンガ日本の歴史 22ー王法・仏法の破滅−応仁の乱」(中央公論新社)

久々の歴史書のベストセラーとなった呉座勇一氏の「応仁の乱」を買ってみたはいいのだが、登場人物の多さと人間関係・政治的関係の複雑さに目と脳が眩んでしまって、あえなく頓挫。

そんな折に、知人から勧められたのが、この「マンガ日本の歴史22ー王法・仏法の破滅ー応仁の乱」。

こういった、歴史の通史シリーズは、最初発刊の頃は、発行する側も読む側も勢いが良くて、元気よく購入し読むのだが、時間が経過するにつれ気力も萎えてくるもの。おかげで、邪馬台国やせいぜい平安朝の頃までは、シリーズは変わっても読むのだが、室町時代あたりになると、とっくに興味は別のものに移っていて、恥ずかしながらこの時代の歴史書を読んだ記憶がほとんどない。

本書の目次は

序章 都、灰燼に帰す

第1章 幕府の乱れと守護家の内紛

第2章 仏法王法ともに破滅す

第3章 山城国一揆の興亡

となっていて、年代的には1454年頃から1493年9月までのほぼ40年間で、おおまかにいえば、人の一生分の期間というところ。

で、マンガ版であるから少しは・・・、と思ったんだが、やはり時代のもつ特徴のせいか、政治模様の複雑さと離合集散の激しさは変わらない。室町幕府の将軍家が跡目争いで叔父甥が争えば、有力大名の山名・細川の争いと畠山家の家督争いなどなど、おまけに後半の方では、いままで都の有力者に牛耳られていた地方の国人たちが反乱を始めるし・・と言ったことに加えて、それぞれが結託する先が、敵の敵は味方といった考えでやるので、素人目にはハチャメチャにしか映らない

ただまあ、歴史の研究家ではない当方としては、その時代の歴史の持つ雰囲気とかうねりのような感覚が味わえればよくて、人の名前はある程度すっ飛ばしても実害はない。戦国時代に続く、応仁の乱当時の室町時代の、あちこちで人の思いや欲望が、ぷつっ、ぷつっと、中から発酵して吹き出していく感じを体感するのはマンガ版で十分するぐらいであろう。

お盆の帰省中の箸休めにいかがであろうか。

 

 

茶人大名、小田原でさらに脱皮する — 山田芳裕「へうげもの 五服」(講談社文庫)

さて、本日は続いて「へうげもの 文庫版」の第五巻をレビュー。

年代は1588年1月~1590年5月

歴史的なエポックは、小田原の北条攻め。

先立って、あの山上宗二が北条氏に厄介になり彼の居場所を発見するのだが、これが彼の悲劇的な死の発端になるのだから、人生というものはわからない。辛口の評論家として比叡山にいたり、諸国を放浪して悪態をついていたほうが、ひょっとすると命は伸びたのであろう。

そして、このあたりから石田三成がいろんな案件の、プランナー、仕掛け人としてやたらあちこちに登場してくる。例えば、千利休の茶頭筆頭からの追い落としであるとか、山上宗二殺しなどなどで、のぺっとした顔立ちに、能吏ばりばりのいけ好かなさで、「やな野郎」感がよくでてますな。

また、「のぼうの城」で有名な、忍城攻めの三成の失敗の場面も描かれているのだが、彼の「企画好き」の「現場嫌い」の様子が少し悪意を込めて描かれていると思うのは、当方の勘違いないしは錯覚であろうか。

さらに、これはご当地の読者には顰蹙買うかもしれないが、伊達政宗の天下統一を夢見る、「夜郎自大」さが強調されていて、筆者は政宗ちゃかしも極まれり、である。

まあ、歴史事実のほどは別として、一風変わった戦国ものコモックとして、脂がのってきておりますな。

禁令の出た時の立ち居振る舞いに、人の本質は顕になるものであるな — 山田芳裕「へうげもの 第四服」(講談社文庫)

さて、引き続き、古田織部のコミックもの「へうげもの」に文庫版第4巻をレビューしよう。

年代は1586年~1587年。歴史的な出来事としては、家康の上洛、秀吉の九州攻め、禁教令の発布、聚楽第の完成と大茶会といったところで、秀吉の天下がこれから爛熟に向うところである。

ただ時代が熟していくことと比例して、今まで培われてきた人間関係が壊れていったり、不和の種が芽吹いたり、といったことはいつの世も変わらぬもので、大茶会の開催は、実は千利休を筆頭茶頭から罷免しようという秀吉の企みが隠れていたり、とかなんとも生臭い。

ただ「爛熟の時代」は人の姿もまた熟れさせ、その人となりも拡大して見せてくれるようで、キリスト教の禁教の際に、高山右近が「幾年月も培ってきた南蛮趣味を鶴の一声で変えさせられてはたまりません。」とキリスト教者と南蛮趣味の茶人の意気地を見せる一方で、織田長益(後の有楽斎)は、「南蛮趣味を控えねばならなくなった今・・・世の流れはこちらに軍配が上がるかも。」と南蛮趣味を早々に見限りながら、利休の「わびさび」の将来性を感じ取る目先のきくところを見せたりと、人様々であるな、と自分の身近な実際の人々を思い浮かべ、改めて実感する。

さて、この巻では、南蛮趣味から「わびさび」といった茶の湯で代表される日本的な価値観があちこちとでてきて、風流を解さぬ当方は、ぼーっとコミックを読む以外はないのだが、そうした価値観、流行を追うことに血道をあげている権力者が、

「詰まるところ、茶の湯には台子も何も無いのです。

全て各人それぞれの作法、趣向でもてなせば良いのです。

決まりごとなど無いというのが極意にございます」

「関白様は、その本質がわからぬゆえ、台子手前を許可制になさり、茶の湯に格をつけておられる。」

なんて様子で冷水を浴びせられたら、そりゃ打ち首にもしたくなったんだろうな、と思いつつ、権力者の好みに合わせていくのも、そりゃ草臥れるよなと、同情もしてみるのである。

さて、こういった権力者と芸術家の争いに、皆様は何を感じ取りますかね~。

太平になりそうになると、なにやら蠢くのが世の常か — 山田芳裕「へうげもの 三服」(講談社文庫)

このところ、続けてエントリーしている、古田織部シリーズの文庫版第三巻。

時代的には1582年6月〜1586年6月。本能寺の変の後、秀吉の中国大返し、そして光秀が破れて秀吉の天下となるところ。市井の説による、明智光秀が天海僧正となる話は、どうやらこの「へうげもの」ではとらぬらしい。

三巻目の読みどころは

・光秀の実直さと民を思うが裏切られる切なさ

・徳川家康の田舎くさいほどの真面目さ

・石田三成の「いかにも」というあざとさと裏なり瓢箪さ

というところか。

さらに織部本人が、本能寺の変の真相を知って、秀吉の業の深さに恐れつつも、自らの武人としての限界を悟るあたりもポイントではありますな。

さらには、本能寺の変自体が、千宗易(利休)のト書きのもとに、秀吉が黒子を勤め、明智光秀が演じる、ということなのであるが、座付作者と興行主との確執が生まれつつあるのだが、それは次の巻以降の展開であろうか。

おまけとして、お茶々が秀吉の側室となる時も、この巻にはあるんだが、秀吉の乱破らしい出自を垣間見せる「茶々の緊縛」があるので、お好きな方は本書で鑑賞あれ。

茶人大名の「本能寺」 — 山田裕裕「へうげもの 第二服」(講談社文庫)

茶人大名 古田織部を主人公にした歴史コミックの文庫版第二巻。

構成は

第十四席 mt.富士レストラン

第十五席 レイン フォール ダウン!?

第十六席 今宵はイートイット

第十七席 幻惑されて

第十八席 天下を憐れむ歌

第十九席 未来への讃歌

第二十席 非情のライセンス

第二十一席 哀しみの天主

第二十二席 無法の都

第二十三席 焼け跡の余韻

第二十四席 孤立のメッセージ

第二十五席 信長 ON MY MIND

第二十六席 ホワイト キャッスル ブルース

第二十七席 転がる糞のように

第二十八席 SUKIYAKI

となっているのだが、これを読んでも何のことやらわからない。

収録作の年代的には1582年。武田攻めから本能寺の変、光秀と秀吉の戦まで。

この巻の中心はお見込みのとおり「本能寺の変」で、信長を攻め殺したのは明智光秀であるところは、きちんとおさえながら、さて、その黒幕は、そして信長を殺したのは誰ってところに作者の独自の工夫があるところが光っている。

で、その原因が、信長の家族偏重。股肱の臣たちが広げた領土が、信長の一族に分け与えられることが明確になってきて、今まで粉骨砕身してきた努力が報いられない恐れがでてきたと解釈しているところは、信長の一族というか信長の息子偏重という会社とともに斬新であるように思う。

そして、本能寺の変の黒幕は、明智をそそのかした、後の関白であったといったところも、「こう、もってきたか」と感服。もっとも、信長を倒した人物の設定は、たしかにもともとの素性が忍者・乱破あがりという説はあるものの、乱暴が過ぎませんか、と思ったところではある。

さらに、この「へうげもの」シリーズの楽しみの一つは、例えば高山右近や中川清秀であるとか、信長の外国人小姓であった「弥助」といった、歴史の英雄の側で、実は当時は様々な光を発していたであろう人物が細かに描かれている、小技の冴えを読むことでもある。

そして、この巻の登場人物で玩味したいのは、まずは、千利休で、「黒」にこだわる業に深さにちょっと引いてしまいながら、明智光秀、徳川家康の他の歴史ものではでてこない「実直もの」という評価であるかな。

人間というのは、光の当て方で、千変万化の色合いがあるものでありますな。

茶人大名という異色の人物を主人公にした戦国歴史もの — 山田芳裕「へいげもの 第一服」(講談社文庫)

歴史コミックの構成は、もちろん、歴世の英雄をもろにとりあげる「良い子の伝記」モノのようなものもあるのだが、コミックとしてきちんと読めるものは、英雄の側に異物(例えば、未来からタイムスリップした高校生なんてのだよね)をすべりこませるか、歴史上の人物ではあるが一般人はあまりなじみのない人間の姿を借りて物語を紡ぐか、といった二つに絞られる。「へいげもの」は後者に属していて、茶道を嗜む人や骨董に造詣が深い人なら知っているのだが、普通の人なら名前を聞いたことがあるのがせいぜい、という茶人大名の「古田織部」が主人公。

で、こうした忘れられた英雄を取り上げるときに、注意すべきは、フィクションの部分がどんどん大きくなって、本当の歴史とはかなり乖離してしまい嘘くささがでてくることであるのだが、「へいげもの」は少なくとも文庫版第1巻を読む限り、そんなところはないのでご安心あれ。

構成は

第一席 君は”物”のために死ねるか!?

第二席 黒く塗れ!?

第三席 椀LOVE

第四席 茶室のファンタジー

第五席 天界への階段

第六席 強き二人の情事

第七席 京のナイトフィーバー

第八席 カインド・オブ・ブラック

第九席 天下よりの使者

第十席 決意のかけひき

第十一席 運命’82

第十二席 武田をぶっとばせ

第十三席 愛して欲しい

となっているのだが、まあ、これを見ても時代設定はわからないので、あえて記すと、1577年の松永弾正の謀反のところから武田攻めの1582年まで。

たった5年ではあるのだが、戦乱の世の目まぐるしさもあるのだろうが、松永弾正が平蜘蛛という茶釜をふっとばすところから、鉄張りの大安宅船の親水、荒木村重の謀反と中川清秀の織田方への寝返り、武田攻めで仁科盛信に城外へ蹴落とされるところ、と歴史上の事件も多い上に、エピソードも多い。

さらに、戦国ものの特徴であろうか、謀反をそそのかす茶人や、落城の瀬戸際で今生の名残に敵の使者とセックスしようとする側室とか、まあ様々な人物が登場するし、本書の信長は、唐天竺の征服を夢想する野心家でありながら、一族、特に息子に全てを残そうとする家族主義者であったり、と一風変わった人物の登場がまた良い。

そして、ひとまずは異色の歴史ものとして読むのもいいし、数寄をとるか武功をとるか、すなわち、自分のやりたいこと(趣味でもよし、独立起業でもよし)をとるか、組織内の出世をとるか、といったビジネスものとして読むのもよかろう。ひさびさに様々な読み方のできる歴史コミックである。

で、本巻の名言は、自らの牙城を織田方に包囲された荒木村重が落ち延びる時(この本ではなんと茶道具の名物を抱え込んで逐電なんだよね。これは歴史事実かは、当方は浅学にてわからない。)に言う

「松永弾正は武人としては立派やった。だが、あいにく・・・わしのほうが業は上や」

といったあたり。生死にかかわる場面でありながら、名品に執着する「人の業」といったものがでていて、なんとも「人臭い」ですな。

司馬史観にちょっとブレーキをかけてみる — 一坂太郎「司馬遼太郎が描かなかった幕末 松蔭・龍馬・晋作の実像」(集英社新書)

司馬遼太郎氏の著作は、大物経済人や政治家などなど多くの大物の方々が、座右の書としているどころか、坂本龍馬や高杉晋作に関する著作、例えば「龍馬がゆく」とか「世に棲む日々」とかは、多くの若者が熱狂するものでもあるのだが、そういったことに、横からざぶんと冷水を浴びせるのが本書。

構成は

第1章 吉田松蔭と開国

第2章 晋作と龍馬の出会い

第3章 高杉晋作と奇兵隊

第4章 坂本龍馬と亀山社中

第5章 描かれなかった終末

となっていて、時代的には、吉田松陰から始まって、長州征伐、薩長同盟、亀山社中の設立といったあたりの、司馬作品と史実との不具合のあちこちがぼろりぼろりとでてくる。

例えば奇兵隊については

司馬太郎ははっきり書いていないが、庶民が奇兵隊に入っても武士になれるわけではない。兵士になっても身分はもとのままである。戦争が目的だから当然庶民も刀や銃は持たせてもらえるが、姓(苗字)は公認されない。

であったり、高杉晋作が「俗論派」を倒すために功山寺で兵をあげたとされるのも

晋作は、長府や功山寺で「挙兵」したつもりなどないだろう。曹洞宗の功山寺は、支藩である長府藩主毛利家の菩提寺だ。支藩で「挙兵」したなら、おのずと事件の意味は変わってくる。宗藩にケンカを売るなら、やはり宗藩領で決起、挙兵しなければならない。

とかである。さらには新政府が出来上がる時、龍馬が新政府の官職に就かず、世界の海援隊をやるといったあたりでも

司馬太郎は触れなかったが、龍馬と共に新政権の人事案を練った戸田雅楽(尾崎三良)の回顧談(『尾崎三良自叙略伝・上』昭和五十一年)があり、その「職制案」には「参議」として「坂本(龍馬)」の名が出ている。これは三条実美に仕える戸田が草し、龍馬に示した案だという。「坂本之を見て手を拍つて大いに喜んで曰く、是れ今日行ふべし」とある。  これによれば、龍馬はしっかり新政権の、しかも「参議」という権力の中枢に、西郷や大久保と並んで座るつもりでいたようだ。

と手厳しい史料があるようで、なんとも、司馬ファンには心穏やかではない。

ただ、司馬作品を歴史書と読むか、歴史上の人物に託した司馬遼太郎氏の思想書であるかは、読者の手に委ねられているし、例えば歴史書である、「史記」も司馬遷その人の思想を仮託した”歴史書”といっていい。

であるなら、史実に基づくかどうかは別に、司馬史観が日本人の歴史観として根っこをはっているのは間違いなく、そのあたりは司馬ファンも安堵しよかろう。

押さえておかないといけないのは、司馬遼太郎氏の著作は、あくまでも司馬史観の書であって、歴史事実と異なる場面があるということであろう。その意味で司馬史観も、戦前の国史観と共通の危うさをもっているちうこと認識しながら、それに従うということが司馬ファンにも求められるということであろう。事実は苦くもあるが、そこから目を逸してはいけない、ということでもあるのでしょうな。

こういう類の忍者の話は今までなかった — 和田 竜「忍びの国」(新潮社文庫)

しばらくは歴史・時代小説から離れていたのだが、映画化がされるということで久々に読んでみたのが、この「忍びの国」

時代背景は、織田信長が天下統一に乗り出している時で、場所は「伊賀」。

伊賀は、当方のような年代にとっては、横山光輝氏の「伊賀の影丸」であったり、白戸三平の「サスケ」の故郷、甲賀の敵方であったりとか、忍者者の舞台として、史実は別として馴染みの深い国名ではある。

筋立ては、伊賀の国の隣国「伊勢」の名門、北畠家の当主で、織田信長の息子、信雄を養子にさせられている北畠具教が、譜代の部下たち、長野左京亮、日置大膳らによって誅殺されるところから始まる。

この長野、日置は物語の重要な相手方の役割を果たしていて、いわば、伊賀の国に代表される「忍び」の対極にある存在といっていい。

で、話を大筋は、これをきっかけにして、織田信雄が伊賀の国に攻め込まざるをえないように仕向けられるのだが、伊賀の忍者たちが、どうやって伊勢の大軍を退けたかというもので、「のぼうの国」と同じような感じではあるのだが、主人公が手練の忍者「無門」であるせいか、伸びやかな感じは薄い。その一方で、忍びの技を伴う戦闘の迫力や、権謀術数の数々は、本書の方が上手で、このへんは好みがわかれるところであろうか。

もう一つ言うと、「銭」しか信用しないはずの下忍が一人の女性の歓心をかうために、我が身を賭け、戦争をリードするようになるあたりは、フィクションとはいえ、「男」の哀しさが滲み出ている感がある。

史書も物語の随所に引用されていて、どこまでがフィクションなのか定かではなくする工夫も十分生きてはいるのだが、まあ、難しく詮索せず、筆者の掌で、お話を楽しんだほうがよいですな。

さらには、「天正伊賀の乱」という、通常の国盗り物語の中では、殆ど語られることのない、忍者宇野国の戦争譚は、ウンチクの種としても使えそうな気がいたします。

 

☆山深き里の怪物譚ではあるが、深い因縁話も混じり込んでおるな — 宮部みゆき「荒神」(朝日新聞出版)

最近、ビジネス系のレビューが続いていて、少々、生真面目さが鼻についてきたきらいがあるので、ここらで気分転換。手練による時代物のホラーといこう。

時代は、江戸時代の元禄頃。江戸市中では、生類憐れみの令による嵐が吹き荒れていた頃。舞台は、東北の山深い小藩、竜崎家の永津野藩と、その支藩ではあるが、江戸初期からすでに半独立の状態にある瓜生家の香山藩というところが舞台になるのだが、実際の地理にあてはめるとどこそこという詮索はこの物語では無用であろう。むしろ、山深い、日本のどこにでもありそうなところと認識したほうが、この物語の普遍さを感じさせてくれる。

構成は

序 夜の森

第一章 逃散

第二章 降魔

第三章 襲来

第四章 死闘

第五章 荒神

結 春の森

となっていて、両藩の藩境の香山側の村に、得体の知れない怪物の現れるところから始まる。その姿は、蜥蜴ともツチノコともなんともしれないものなのだが、「人を食う」巨大な化物である。

で、話の大筋は、藩境で人を食らう化物が、村を襲っていく様と、それを退治しようとするものであるのだが、最初の方で、この化物が、永津野藩の、山を開拓したり、植林する「山作り」のせいでは、といったリードがある。なので、これは環境破壊ものであるのだな、といった先入観を持ちながら、化物の物凄さと、村が襲われ壊滅していく様子を読み進めていくと、後半の方で、宮部みゆき氏の物語らしく、「どんでん」をくらうのが、なんとも気持ち良い。

そして、これを支えているのが、心根の優しい「小台様」と呼ばれる、永津野藩の執政の妹である「朱音」という女性、彼女の住む館に居候する胡散臭い浪人 榊田宗栄、絵師ではあるが何やら秘密らしきものを抱える相模藩御用絵師の菊池圓秀、怪物から逃れてきた「蓑吉」という子供。そして、香山藩の藩主の子供の病死騒ぎで山へ逃れてきた小日向直弥という若侍、そして、朱音の兄で永津野藩の成り上がりの冷酷な執政、曽谷弾正といったキャストであろう。

特に弾正と朱音の関係は、この物語の謎解きになんか深い関係あるぞ、と思わせながら物語が進んでいくのだが、先の物語の「どんでん」のような展開に結びつくのであるが、ネタバレは”なし”にしておこう。

だいたいに、宮部みゆき氏の時代物ホラーは、おどろどろしいのに加えて、よく考えると結構陰惨な因縁話を散りばめて、つくりあげられるにもかかわらず、最後の「光明」を見せてくれるのがよろしいところで、この物語も定番通り、たくさんの「人死に」が出るのだが、終章で

裏山の森のさらに向こう、大平良山の高みに、澄み渡る青空の下に、朱音様はいらっしゃる。これからはずっと、ずうっと。

今やっと、このお山に、ここに生きる人びとすべての上に降りかかった出来事が見えた。心の目に見えて、呑み込めた。

それが終わったことも、わかった。

春の山の香りに包まれて、おせんは一人、いつまでもいつまでも佇んでいた。

と災厄の終わりを春の和やかさで朱音の菩提を弔うところは、怪物の由来に荒む読者の心をほっとさせる。

そして怪物退治に絵師として貢献した、圓秀が心身喪失となり、死ぬ間際に心を取り戻して描いた絵を、その養父が寺に預けて封印し、

圓秀畢生の傑作だが、残念ながら、この世にあってはならぬもの、人が目にしてはならぬものを描いている。

だから後世、この絵を見た者は、誰もいない。

と締めくくることで、怪しい物語が悪さをしないよう収めるあたり、流石というものでありますな。

かなりの大部のお話ではあるが、ぐんぐんと引き込まれて読み進めてしまうので、睡眠不足にご注意である。

たまには「日本古代史」はいかが — 関 裕二「沈黙する女王の鏡」(ポプラ社)

古代史っていうのは、定説が定まらないか、異論があるところのものが一番面白くて、邪馬台国あたりの「日本の成立秘話」のところがその最たるものであろう。

といっても、宇宙人がどうこう、とか、ユダヤ人が日本の古代に、といった話までいってしまうとついていけなくなるのだが、関 裕二さんの古代史ものは、安心して異論逆説を楽しめるところに位置している。

構成は

第1章 闇に消えた卑弥呼の鏡

第2章 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と卑弥呼の鏡

第3章 二つの邪馬台国・卑弥呼と台与の確執

第4章 邪馬台国の深層

第5章 トヨの悲劇

終章 邪馬台国とカゴメ歌

となっていて、「伝日田出土・金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(P4)を発端に

日田は歴史的には福岡県側の文化圏・商業圏にありましたが、なぜか行政的には大分県なんんですよ。つまり、トヨの国です。不合理な行政区分が、古代から現代まで続いているんです(P5)

と九州の「日田」をスタートにして、邪馬台国、ヤマト王権の成立秘話を明らかにしようというもの。

で、「その秘密は」ということになると、余り引用が過ぎると営業妨害になりかねないので、

三世紀の西日本は、大きく分けてふたつの枠組みの中にあった。瀬戸内海から畿内にかけて大同団結した吉備や出雲を中心とするグループ・ヤマト。そしてもうひとつは、かつての栄光を取り戻そうと魏との外交戦に活路を見出そうとしていた北部九州のグループ・邪馬台国である。

しかし、おそらく、日の出の勢いのあるヤマトの差し向けた神功皇后(トヨ)の軍勢が、九州の邪馬台国を討ち滅ぼし、日田と高良山を我が物にしていたのに違いない(P156)

ヤマト建国に貢献した出雲が、直後に没落したのかというと、ヤマトに排斥されたかららしい(P163)

といったことが重要なヒントで、神功皇后や「出雲神話」の謎も一挙に解いてしまおうという結構大胆な歴史モノであることはたしかであるし、

近年、蘇我氏に対する評価も変わりつつある。「日本書紀」の記述とは裏腹に、蘇我氏は、日本の近代化に積極だったのではないか、と疑われはじめている(P149)

ではなぜ蘇我氏と出雲は深い関係にあったのかといえば、私見では蘇我氏が、出雲を代表する豪族であり、その祖が、出雲神事代主神に違いないから、とにらんでいる。(P150)

瀬戸内海=吉備にすれば、日本海と北部九州が結びつくのは、最悪のシナリオであった、なぜなら、万一、ヤマトとトヨが反目し、北部九州と出雲が共謀して関門海峡を封鎖してしまえば、再び瀬戸内海は死に体となり、ヤマトは干上がるからである。トヨにその気はなくとも、ヤマトの吉備(物部)にとって、これは潜在的な脅威であり、それこそ疑心暗鬼は募る一方であったろう。(P169)

といったところは、「蘇我氏の正体」「物部氏の正体」に通じるものであろう。

定説の定まらないグレーなところに焦点をあてた古代史本は、何かを学ぶとか、それを使ってビジネスに活かすとかといった観点から見ると、なんの益もないように思う御仁もあるかとは思うが、「無用の用」という言葉もあるし、自分と遠い所にある歴史に遊んでみるのは、このうえない気晴らしにもなる。

ビジネス本に疲れたら、こういうジャンルのものも精神の「薬」となると思うのであるがいかがか。