カテゴリー別アーカイブ: ワークスタイル

電子国家、電子地方政府の進展は、人手不足対策の有効策と思うが、それには働き方モデルケースの確立が必要と思う

PLANET WAY on ASCIIのサイトで、「安倍首相のエストニア訪問で高まる機運、日本が電子国家に向けて本格稼働」として、

インターネット、クラウド、人工知能などデジタルテクノロジーの発展と普及は世界の変化スピードを加速させている。デジタルテクノロジーをうまく取り込んだ国は、これまでとは異なる発展経路を辿り、猛烈な勢いで変化・成長を遂げている。

そのような状況下で、かつて世界2位の経済大国であった日本の地位や影響力は相対的に弱まっている。少子高齢化や人口減少にも歯止めがかからず、この先さらに国力が衰退していくことも考えられる。

変化スピードが加速する世界で日本が生き残っていくためには、デジタルテクノロジーをフル活用することが必要不可欠といえるだろう。

として、安倍首相のエストニア訪問を題材に日本の電子国家化についてのニュース、提案がされている。

 

エストニアといえば、電子国家の先陰の国といってよく、サイトでも、オンライン上で電子住民になれる制度とか、これにより、エストニア内で会社を設立したり制度が紹介されている。

 

電子国家というとe-Taxとか、電子申請とか一頃大流行であったのだが、今はなんとなく閑古鳥が鳴いている感がする、例えば。鳴り物入りで始まった個人情報カードも、仮カードでなく、本カードをつくっている人は2017年10月時点で10%というぐらいであるので、電子国家の実現には程遠い状況である。

で、安倍首相がエストニアに行ったから、じゃあ電子国家化が格段に進むか、というと当方としてはけして、そうは思えない訳で、それは、日本の今には、ネットとか、電子の世界で生きるという概念がまだ未成就であるからだと思っている。

だって、考えてもみてくださいな、「電子住民」というのは、けして「実体」としてあなたの側に住んでいるわけではないのだが、「住民」として受け入れるということが必要になるわけですよ。そして、ひょっとすると、ネットを通じ自治体の議会や公聴会にも参加ってなことも受け入れる必要もでてくるんである。そして、そのためには、ガチガチのセキュリティを考えつつも、オープンなシステムが前提となると思うんである。

 

当方としては、電子国家化とかなんとか言う前に、テレワークに対応した労働法制とか、あるいはワークスタイルの模索であるとか、その辺を地道に創っていくことが先決であると思うのであるがどうであろうか。例えば、セキュリティを確保した形でのホームワークのモデルケースづくり、とか、テレワークを前提として会議とか、意思決定とか、勤務時間管理とかのシステムづくりとか、民間にあれこれとテストケースを押し付けるんではなく、政府や地方政府がその鉄板のパターンを創ってみるっていうのが、海のものとも山のものともわからない分野には有効な場面も多いのではないだろうか。人口減少の中で、人手不足をどうにかするのは、今の「会社社会」から締め出されている層(老人とか介護離職、育児離職をしている人)をいかに労働力として活用するかにかかっていると思っていて、それにはテレワーク、モバイルワークに代表される「電子ワーク化」と「副業化」ではないかと思うんであるがいかがであろうか。

自然が豊富だからと言って、「自然回帰(バイオフィリア)志向のオフィス」が移転してくわけではないと思うよ

NewsPicksに「バーや卓球台は時代遅れ、オフィスの最新トレンドは「自然回帰」」ということで、Amazonやサムスン、アリババの本社オフィスで、従業員の満足度と生産性を維持するために、今までのバーや卓球台をオフィスに備えることに代わって、オフィス内に植物を大量に植えたり、庭や滝をつくったり、ということがブーム(「バイオフィリア」というらしい。)になっているらしい。

こうした先端企業のトレンドは時間をおいて、日本でも流行するのはGoogleのオフィスを真似たオフィスがあちこちにできたのと同様、きっと東京ででてくるよね、と思う。

で、こうした時、地域振興の従事者が勘違いしがちなのは、自分の地域では自然がもっと豊富なのだがら、オフィス移転も夢ではない、本社機能の移転も現実になるぞ、という幻想に陥ってしまうことだろう。

 

よく考えて欲しいのは、バイオフィリアを導入したといわれる企業のオフィスの所在地は全て都会地にあるということ。

つまりは、企業活動の生産性と便利さを犠牲にするつもりはなく、あくまでも社員の生産性を増加するために一つの手段である、ということ。なので、いくら巨大なバイオフィリアだと、自然の真っ只中のオフィスをつくっても、オフィス移転には結びつかないのでは、と思うのである。

 

むしろ、考えるべきは、会社全体で自然回帰するつもりはなくても、個人として自然回帰したがっている人は増加しているということにいかに対応すべきか、ということであろう。それはおそらく、自然豊かな環境の中でシームレスに仕事ができるテレワーク環境の整備であろうし、地域全体で、テレワークができる環境をつくる、あるいはテレワークに的sた揮毫や個人の移転を支援するといった取り組みなのではないだろうか。

「自然があれば、必ず人はやってくるよ」といった、自然幻想は早々に捨てたほうが良いと思いますね。

「一兵卒」という言葉への批判に思わず我が身を振り返ってしまった・・・

PRESIDENT ONLINEでコラムニストの河崎 環さんが『「一兵卒」という言葉に酔う男たちの限界』という表題で、滅私奉公、軍隊的な組織への忠誠心といったことに象徴される「男中心の会社(日本的組織)社会」についての辛口のコラムを寄せている。

原本は

http://president.jp/articles/-/24292?display=b

で確認してほしいのだが、偏見を恐れずに感想を言えば、女性目線からの切り口が尖すぎて、結構、切れ味するどい。

 

彼女の言う

自覚的なようで無自覚な「一兵卒マインド」の怖さは、その視線が組織の中の人間関係にしか向いておらず、判断基準が組織で共有されるローカルルールにすぎないということだ。したがって本人はグローバルだったり、名が知れたりの大組織の一隅に所属する者として視野が広いつもりが、残念ながら極狭小で、組織外から見る人々の違和感や拒否感、すなわち世間との乖離に鈍感なのだ。

どうやら男にとって、何かに所属して頭と運命を預け、「部品になる」ことというのは、えも言われぬ快感なんじゃないか? そう考えなきゃ、学生時代や若手の頃はあれほどまでに優秀だったはずの人材たちが、喜んで大きな機械に組み込まれ、歯車やネジとなって周りも見えずにうっとりグルグル回っている様子に、納得がいかない。

といったところには、当方も男として「そうはいうが・・」と反論を試みつつも、そういえばな・・、と組織の中にいる心地よさと根拠のない安心感に思い当たって唖然とするのである。

ただ、これが「男性」特有の病理・性向であるといった主張には、素直には首肯できなくて、要は組織内に取り込まれることが男性が多かったゆえであって、現在のように、女性も組織の中に取り込まれることが一般化した企業社会では、男女とも「一兵卒」幻想に取り込まれる可能性は、どちらも一緒、、という気持ちがしている。

もちろん、組織に所属したいという意識がどちらかといえば男性に強いことは否定しないが、女性の過労死の事件などを見るに、好む好まないにかかわらず、男性・女性とも、「組織)の「内部化」される傾向は同じになっているのではないだろうか。

もちろん、こういう組織への一体化がバラ色ということを言いたいのではなく、むしろ、組織と一定の距離をおいた「個」としての働く場、働き方を確保することが必要と考えている。ただ、個人的には、それはフリーランスのような「個人企業」的な働き方ではなく、「モバイルワーク」「ノマドワーク」のように、組織に属しながら、「働く」行為は組織の外にあるという方法論のほうが、実現性が高い、のではないだろうか。

 

まあ、「一兵卒」という言葉に象徴される「組織所属の幻想」からは、一定の距離を置いとけよ、という主張には大賛成。あとは、その方法論をあれこれ考えないといけないですよね。

”Amazon Go”によってキュレーション能力のない社員は淘汰される?

もう少し”Amazon Go”で世の中がどう変わるかを妄想してみよう。

”Amazon Go”では、いわゆるレジ機能はほぼ人間を互換することになるので、単純に考えれば、「店員さん」 の職場はかなり影響を受けることになり、場合によっては、この職業が無くなるんでは、といった話が早晩出てくるんであろうが、当方としては、AI+Amazon Goが「店員」の職を駆逐するということでなく、「店員さん」の二極分化を招く、というところであろう。

で、「二極」とは、扱っている商品についての「キュレーション」ができる人とできない人である。そして、残念ながら、「キュレーション」のできない、いわゆるレジ打ちだけの人の職場は徐々に無くなっていく。

そして、この範囲は、今は「コンビニ」という限られた場面なのだが、徐々にほとんどの「物を売る」現場に及んでいく。将来的には、そこで扱っている商品のキュレーションをAIを駆使しながら客に対して行う、ごく少数の「スーパー店員」と、自動運転の配送車やドローンで配達される商品を陳列したりするごく単純な役割しかない人々といった「二極化」が、当方の予測する、販売現場の「将来図」である。

ただ、商品の供給や陳列といったところは、これまたロボットに置き換えられていって・・・、といった感じでなんとも寒々とした風景が浮かんでくる。

 

こういうAiの導入による職場変化は、おそらく急激に進んでくるであろう。政府や自治体が声高に言う「働き方改革」は生産性の向上や時間外勤務の縮減といった旧来の価値観の延長線上ではなくて、こうした「環境」の大変化の前に、働く人の能力を転換するトレーニングとして何を提供し、「職業が消失する」環境をどうコーディネートするか、といったことにあるような気がするのだが、どうであろうか

100歳まで生きる社会での、働く年齢と、働く分野はどう考えるべきか。

NewsPicksで「2018年、我々はどう働くか」というシリーズが始まっていて、「Life Shift」の著者のリンダ・グラットン氏がインタビュー記事を寄せている。
 
AIによって奪われる仕事や、その地理的範囲といったことにも言及してあるのだが、ここはごく身近に、我々は、いつまで働くことになるのか、といったことが今の関心事。
 
というのは、ごく個人的なことで、今年、正確には来年度末で定年を迎えることになるから。
 
で、氏によると
 
「結論から言うと、私たちは、これからすべての人が「75歳」という年齢まで働くことを認識すべきだと考えています
 
 
寿命が伸びても。引退年齢が変わらなければ、老後の生活は破綻してしまいます。そこで。3ステージの人生にとってかわるのが、「マルチステージの人生」です。
 
マルチステージの人生とはその名の通り、生涯に2つや3つの仕事を持つなど、数々のステージを持つ人生です。
この人生が普通になれば、私たちは人生で多くの「移行」を経験するようになります
 
とのこと。
 
で、これに幾人かの人がコメントを寄せているわけだが、50歳代の日本M&Aセンター常務の大山氏が、「最悪の選択は定年延長、または撤廃で、会社や社会の上層部を老人が占めることによる進歩への阻害」の危険性を指摘し、「経済的にも、社会的にも高齢者が同じフィーフィールドで働くべきでないこと」を主張しておられるのだが、最近、中小企業の経営者の方と話をする機会が多くなっている当方としては、ちょっと割り引いて考えたい所。
 
というのも、60歳から70歳までの、かなり元気なご老体が多いからである。さらに60歳を過ぎてから、新しいビジネス分野に乗り出している方も見受けるので、そう一律に考えなくてもよいと思うのである。
 
もちろん、若い人と職場を争ったり、若い人を押しのけるのは控えないといけないだろうし、がむしゃらに大量に働くことはムリなのだが、若者と良い意味での競争をしながら現役生活をおくれる社会と言うのが、これから日本の社会が目指すべきではないかと思う次第である。
 
個人的には、分野によって得手不得手はあろうが、例えば、80歳代のプログラマーとして活躍中の「若宮正子」さんを見習って、若者を押しのけないが、若者とほぼおなじ分野で競い合うってのが理想のような気がしますが。

サラリーマンにいつか訪れる「定年後」を機嫌よく生きるための処方箋 — 楠木 新「定年後 50歳からの生き方、終わり方 」(中公新書)

自営業やフリーランスの人、あるいは経営者の方々には、「定年」なんて他人に決められた物事に様々なことを左右されるなんて、といった思いがるだろう。しかし、今のところ、日本の多くの人は「勤め人」であることに間違いはないし、ましてや、高度成長からバブル、ロスト・ジェネレーションの時代と時は巡っても、未だに「勤め人」「サラリーマン」になるために、就職戦線が活発なことは間違いない。
 
本書は、そういう「定年」を扱ったもので
 
プロローグ 人生は後半戦が勝負
第1章 全員が合格点
第2章 イキイキした人は2割り未満?
第3章 亭主元気で留守がいい
第4章 「黄金の15年」を輝かせるために
第5章 社会とどうつながるか
第6章 居場所を探す
第7章 「死」から逆算してみる
 
となっている。読後感としては、どうしても「男目線」からの定年論となっているのは筆者が「男性」であるゆえかも知れず、さらには、同じ勤め人であっても、家庭経営という別事業を抱えながら働いている「キャリアウーマン」とは、会社や役所への依存感が違うからかも知れない。
 
とはいっても「男性」であり、かつ結構、「社畜」であったと思う当方にはこの「定年」本は身にしみることも多くて
 
会社員生活を直線的な上昇イメージの連続で捉えると、いずれ自分の老いや死の現実にたじろがざるを得なくなってしまう。
逆に、上昇するイメージにとらわれなくなると、年齢を経ながら新たな自分を発見できる可能性が広がり、同僚や上司だけでなく子どもや老人の素晴らしさも実感することができる。
また会社や家族、自分の住む地域の姿も違って見えてくるのである。
社内の中高年の時期を自分の到達点と見る考えから脱出しなければならない。
 
といったあたりは、会社人生も最終コーナーに至り、自らの着順がはっきりしてきた我が身を思わず振り返って、今まで置いてきたものに思いをはせてしまうんである。
 
まあ、今まである程度「会社人間」でなければ、会社人生を振り返って「定年」という強制的な退場に思いをはせることはない。ただ、人生80年はおろか、100年となろうとする中では、会社の「定年」で人生が終わらないことは明白で、会社人生を人生の一コマと割り切り覚悟ないと、どうも機嫌よく寿命を全うできない時代であるらしい。
 
本書によれば
 
私は、中高年以降に新たな働き方を見出した数多くの会社員を取材してきた彼らの多くは、会社員人生から見れば「挫折」と思えるようなことを経験して、そこからイキイキとした働き方、生き方を見出している人が多い。
 
ということで
 
それでは会社の仕事以外のものを手にするのにどのくらいの時間軸で考えればよいのだろう。
中年以降に会社員から転身して別の仕事を始めた人たちのインタビューを繰り返していた時に「一区切りつくまで3年」と発言する人が多かった。
 
ということを前提に
 
1点目は、何に取り組むにしても趣味の範囲にとどめないで、報酬がもらえることを考えるべきである
 
2点目は、望むべくは自分の向き不向きを見極め、自らの個性で勝負できるものに取り組むことだ。
 
ということが定年後の長い人生を機嫌よく暮らすことには重要であるようだ。
 
要するに、定年後は
 
定年後にイキイキと過ごしている人たちの共通項は何かと、ノートに一人一人を書き出して眺めていた時に、はたと気がついた。
彼らは、このローカル路線バスの旅をしているのではないかと思ったのだ。
つまり目的地へ向かうコースを自ら選択して、周囲の人の助けを借りながら進む。
高速バスやタクシー、鉄道に乗るのとは違って、自分が進む道筋を自分で切り開いている。
決して他人任せにしていないのである
 
といった本書の最後の方のアドバイスをもとに、自分の目線と判断で、自分の好きなこと・やりたいことをやっていくってことが必要なのかもしれません。でも、これって、今時、勤め人でなく、フリーランスを薦める場合に言われていることに似てませんか・・。
 

「礼」に始まり「礼」に終わる「掃除」で評判を勝ち得た会社の真髄は? — 遠藤功「新幹線お掃除の天使たち」(アサ出版)

最近、偽装やら違法な検査体制などが続発して、日本企業の美点といわれていたものが、かなり揺らいでいる。しかも今まで評判の高い企業でおおがかりな不正がでてくるものだから、企業の成功物語や好事例をとりあげると、あとから「あらら〜」となることがあるのだが、本書で取り上げられている「テッセイ」は、評判になったのが2016年のはじめで、そこから評判を落としたと言ったニュースもネット上にはく、まずは安心してレビューしよう。
 
構成は
 
プロローグ なぜ新幹線の車両清掃会社がこれほど私達の胸を打つのか?
第1部 「新幹線劇場」で本当にあった心温まるストーリー
    〜エンジェル・リポートから〜
第2部 「新幹線劇場」はどのようにして生まれたのか?
 「地ならし」のための600日
 変革の「芽」を育てた1100日
 「幹」を育てた700日
 新たなステージに向う100日
 
となっていて、JR東海の新幹線などの車両内の清掃やプラットフォームの案内業務を行っている「テッセイ」という会社のルポである。
 
ただ、この会社、そんじょそこらの清掃会社ではなく
 
テッセイの車両清掃チームは、担当する列車が入線する3分前にホームに到着し、ホーム際に一列に整列します。そして、列車がホームに入ってくると深々とお辞儀をして出迎えます。(P25)
 
に始まり、素晴らしいチームワークで、停車中の「7分間」でトイレから座席までの清掃をピカピカに仕上げる会社で、
おおまかには、プロローグはテッセイという会社の解説。第1部は、この会社に勤務する人のレポート。第2部は、この会社の
 
で、まあこの会社の素晴らしさ、組織やチームづくりといったことは、今まで多くの記事などで取り上げられているので、当方が蛇足を加える愚は避けて、「おや」と思ったのは、「組織の正式な一員になること(本書では「正社員になること」)への意欲、あるいは「組織へ参加すること」への意欲のあたり。
 
それは、パートから正社員になるための面接で、
 
面接で社員になりたい動機を聞かれ、親類に隠していた話、少しづつ仕事に誇りを持てるようになった話をして、こう締めくくりました。
「私はこの会社に入るとき、プライドを捨てました。でも、この会社に入って、新しいプライドを得たんです。」(P43)
 
であったり、
 
人間は、形から入る、格好から入ることが大切なこともあるのです。
スポーツでよく言われるのは、道具や靴がその人の潜在能力を呼び覚ますことがあるということです。私は野球やスキーをやっていて、道具の大切さをわかっています。みんなで同じものを身につけて共通の意識を持てるようになるということも、そこで実感してきたことです(P130)
 
といったように、「掃除」という”3K”でもある仕事にプライドを持たせ、チームとしての一体感をつくっていくという営みが続けられる中で、”組織体との帰属感”というものが、強い会社、頑張る組織づくりにかなりの効果をもっているように思え、このへんは「ちきりん」さんや「メイロマ」さんには、認識不足と時代錯誤を叱られるかもしれない。
 
ただ、本書を読むと、旧来型の勤め人をしてきて、組織への帰属になんとはなしの安心感を得ている、大多数の「サラリーマン」に属するであろう当方としては、
 
このプロジェクトでは、現場への大幅な権限委譲を行いました。
これまでは、現場からよいアイデアが生まれても、それを実行に移すためには本社での審議・承認が必要でした。
答が出るまでに時間がかかったり、待たされた挙句にNOの答がでることもありました。それでは、現場のやる気も萎えてしまいます。
そうした弊害をなくすために、現場を散り仕切る現場長に予算と権限を与え、現場のアイデアに即座に対応できるようにしたのです。これおによって、大規模な予算を伴うものでなければ、それぞれの現場で判断し、実行に移すことができます。
「褒める」仕組みも、それぞれの現場での独自性を認めるようになりました。(P180)
 
といった組織運営の修正パッチはいくつかあてつつも、この「組織への帰属感」というものが、スムーズに組織を運営し、業績を上げる上で、まだまだ大きな力を残しているように思えるのである。
 
このあたり、本書では
 
経営は「常」と「変」のバランスが命です。変えるべきものは大胆に変える一方で、変えてはいけない常なるものは、愚直に継続することが大切です(P183)
 
という言葉もある。何を「常」とすべきで、何を「変」とすべきか、それぞれの置かれた状況に応じて、流行りに流されることなく、よくよく見極めないといけないのかもしれんですね。

「世間」から如何に逃れるか。といってもグローバリズムは鬼畜の仕業と心得るべし — 鴻上尚史「「空気」と「世間」」(講談社現代新書)

政策選択ではなく、どの「空気」を選択するのか?といった選挙が始まったところなのであるが、もともと日本の閉塞感を生み出したと思う人達に、あれこれ言われてもな、と思う反面、それを選択したのは我々だよな、と思うと、気が滅入ってくる昨今なのであるが、そうした「日本の閉塞感」とそれがもたらした新しい時代風景についての論述が本書。
 
構成は
 
はじめに
第一章 「空気を読め!」はなぜ無敵か
第二章 世間とは何か
第三章 「世間」と「空気」
第四章 「空気」に対抗する方法
第五章 「世間」が壊れ「空気」が流行る時代
第六章 あなたを支えるもの
第七章 「社会」と出会う方法
おわりに
 
となっていて、帯に「「空気」を読まずに、息苦しい日本を生き抜く方法」とあるのだが、そう単純化して語るものではないだろうと思う次第。
というのも、「空気読め」といった言葉が市民権を得たのは、いわゆるグローバル化信仰で、日本の雇用形態とかなにやらが、ぐずぐずに崩れたあたりと時期を同じくするようで、それは、ワーキングプアとか官製ワーキングプアとか、「働く」という美徳が崩れ去ったときと符合しているような気がしている。そして、その「空気」の正体は、筆者によると
 
僕は「空気」とは「世間」が流動化したものと考えていると書きました。
「世間」とは、あの「世間体が悪い」とか「世間を騒がせた」とかの「世間」です。
その「世間」がカジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているのです。
けれど「世間」と「空気」を共に内側から支え、構成しているルールは同じだと考えています。(P32)
 
ということであるので、実は「日本的価値観」と同一視していいものであろう。
 
で、当然、この「旧来の日本的価値観」へのアンチテーゼとして論陣が張られるのであるが、残念ながら、その旧来の価値観がすでに崩壊寸前であることが少し異質ではある。ただ、いわゆる新自由主義者や渡航帰りのMBA取得者や声高の教条主義者のいうこととちょっと違って
 
あらかじめ言っておきますが、こうやって相対化できるからアメリカ人の方が成熟している、なんていう言い方を信じてはいけません、
彼らは、神のこと以外は、すべて相対化の視点で語ることができるのです。
 けれど、神のことに関しては、まったく相対化できません。(P126)
 
であったり、
 
相手を批判するうちに、批判する言葉が絶対的なものになってしまって、批判していた本人自信がにっちもさっちも動けなくなる、という状況が日本では普通の光景だということです。
(中略)
そして、結果は、相手に対する100%の勝利か0%の負けかという、相手を殺すか自分が死ぬか、という絶対的な選択しかないと思いこんでしまうのです。(P132)
 
 
「空気」の支配は、議論を拒否するのです。それが自分にとって都合がいいと思っていても、必ず、都合の悪い「空気」が支配的になる時がきます。どんなに怒っていても、議論を放棄して「空気」の支配に身を任せてはまずいのです。いつかきっと、強烈なしっぺ返しが来るのですから(P134)
 
といったところに妙に信頼感を感じてしまうのは当方だけであろうか。
 
まあ、本書での「空気」の支配から逃れるには
 
日本人が「共同体」と「共同体の匂い」に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、実は楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています(P213)
 
つまり、前向きに「世間」と「社会」を往復するのです。
それは「複数の『共同体』にゆるやかに所属する」ということです(P243)
 
不安ゆえに、ひとつの共同体にしがみつけば、それは「世間」となります。・・・不安だからこそ、複数の共同体に所属して、自分の不安を軽くするのです。(P247)
 
といった、身軽な所作が大事であるようだ。精神的に自らを拘束したり、どこかに縛ってしまうようなことはできるだけ切り離していくことが大事でありますかな。

「自分商店」化ってどういうこと? — 谷本真由美「日本人の働き方の9割がヤバい件について」(PHP)

2015年8月の著作であるので、今、政府が言い出して、選挙でチャラになりそうな「働き方改革」より前の出版。最近の「働き方」に関する議論は、ネットワーキング、在宅勤務といった「働き方のツール」に関するものが大半で、「働き方の理念」「働き方のスタイル」を扱うものが少ないように思うのだが、さすが辛口の論客の谷本真由美氏は真っ向からこのあたりに論陣をはるのが流石というところ。
 
構成は
 
第1章 働き方に悩みまくる日本のサラリーマン
第2章 あなたが悩むのはニッポンの「働き仕組み」がおかしいから
第3章 働き方の激変はグローバルな潮流
第4章 生き残りたければ「自分商店」を目指せ
第5章 来るべき時代に備えよ
 
となっているのだが、イギリス在住というアドバンスを活かして
 
イギリスでも1980年代に20代〜30代だった人々というのはバブル世代です。(P134 )
 
当時のサラリーマンはローリスク、ローリターンで、現在のように、ホワイトカラーの仕事までもが海外に外注されるとは夢にも思っていませんでした。また、サッチャー改革があったとはいえ、今よりも、製造業の仕事が多く、ロースキルの若い人でも安定した雇用にありつけた時代でした(P134)
 
と今の日本人の働き方だけが特殊だったのではなく、かなりの国に共通の働き方であったことを看破しながら、
 
親がバブル世代の子供たちは、誰もが「自分商店」、つまり、組織に頼らずに、知識やスキルを売りに、不安定な一雇用の中で生きていかなければならない世界で大人になりました。
彼らの競争相手は他国の人々であり、圏内の人々とだけ競争していればよかった時代は過ぎてしまったのです。
 
と日本の労働者の未来を予言するのであるが、その働き方の姿は
 
OECDの報告書によれば、多くの先進国で、労働規制の改革により、レイオフが簡単になったり、非正規雇用の社員を雇いやすくなったりしています。一方で、働く人の流動性が高まったので、能力がある人は以前より高収入を得るようになっています。
つまり、組織に依存するのではなく、スキルを売りにする個人が、自分の都合に合わせて、様々な組織を渡り歩いて働く、という形態が増えているのです。(P188)
 
というスタイルであるらしい。
 
もっとも、このスタイル、氏が指摘するように
 
一方で、日本やインドのようなハイコンテクストカルチャーは、その反対です。
この文化圏では、社会の基本単位は集団です。
ハイコンテクストとは、同じ集団の中であれば、はっきりとものを言わなくても意味が通じることを指します。
つまり、それだけ、集団の中における個人の距離が近いのです。
このような文化閣では、個人は、その人の考え方よりも、どこに所属するかで判断されます
 
といった社会で、スムーズに浸透するかどうかは、今の「働き方」議論が「働くツール」や「働く場所(しかも会社か家か)」の議論が中心となっている現状をみると「黒船」的にどっと変化の波に襲われるという状況が一番ありうるかもしれない。
 
まあ、筆者によれば
 
働く人の自分商店化は、50年前の状態に回帰しただけであり、そもそも、終身届用や働く人の多くが、正社員として、新卒で一括採用される仕組みの方が異常であった、ということがいえるでしょう。
たかだか50年程度しか歴史のない仕組みが、「日本固有の雇用体系」といえるかどうかは疑わしいですし、戦後の高度成長期の産業構造に合わせて、最適化された雇用体系にすぎなかったというわけです
 
であるらしいから、ここらで無理やりにでも自分なりに意識を変えて、来そうな未来に備えたほうがよろしいかもしれんですね。

昔の定年ノウハウ本を、マイルドな「組織からの逃げ方」の仕方として読む — 江坂 彰「あと2年」(PHP研究所)

2005年の出版で、Amazonでも新刊の紹介はなく中古でしか手に入らないようであるし、直接には「団塊の世代」へ向けた「定年を迎える書」である。定年への手引書としては少々古びているのかもしれないのだが、当方的には、定年を前にした「仕事」や「組織」への向き合い方、という感じで読ませてもらった。
 
構成は
 
プロローグ 人生八十年時代の定年の迎え方
一 「妻と二人生活」が基本スタイル
二 モノより思い出
三 定年までに捨てるもの
四 あなたの住処はどこにする
五 熱中できる趣味を最低二つ
六 旅は定年後の必修科目
七 自分の健康法を持っている?
八 最後には貯金通帳をゼロに
九 仕事意外の友人をつくろう
十 好みの外食店を見つける
十一 物事を好きか嫌いかで決める
十二 しっかりと認めよう、体の衰え
十三 ゲートボールより若い友人
十四 親の世話をそうするか
十五 人生は起承転々で進むべし
エピローグ 団塊の世代へのメッセージ
 
となっているのだが、先述のように、今の若い世代のようにドライに「組織」に向き合えない「旧世代」に属する身としては
 
人によってはむずかしい立場にいる場合もある。
サラリーマンでソフト・ランディングに失敗した人たちを兄ると、役員直前で「はい、お終い」とやられた人が多い。
こういう人は自分も嫁さんも、会社を離れて生きる準備ができていない。
 
 
自分がもしもそんな立場になってしまったら、役貝と定年のどちらでも行けるようにしておくのがよい。
好き嫌いをはっきりさせながら、それをあまり目立たせない
 
といったあたりは、我が身に結構堪える言葉で、おもわず「そうか」と頷いた次第。
もともとサラリーマンを長くしてきた当方と同じような年代・環境の方は、高度成長の後のバブルとその後の冷え切った経済環境のどちらも経験してはいるものの、やはり組織の中で働いてきた人が多いはず、今の若い世代のようにフリーランスにもなかなかなる勇気もないが、それなりの一所懸命働いてきた、というところである。
ところが、年金の支給も心もとなく、働く期間だけは長くなりそうな気配であって、「うむむ」という思いにかられる時は、組織との付き合い方を、本書のようにソフトに替えていくというところが精神的にもハードルが低い。
 
それは
 
嫌いなほうは意思を明らかにせず、やらなければいいというだけの話である。
大事なことは、「好きか嫌いか」「自分がやりたいことか、やりたくないことか」の価価尺度を自分の中に持つという一点だ。
 
 
人生とはこういうものだと妙な結論をつけないで、起承転々で流れていけばいいではないか。
六十歳で人生の「結」に入ったなどと考えなくてもよろしい。
会社の定年と自分の定年は関係ない。
定年は人生が終わったのではなくて、階段で言えば「踊り場」だ。
 
といった風。どうです、これなら人目を気にするあなたもデキそうな気がしませんか。
なんにせよ、組織に属し、組織内で働くことが常態であった、当方と同じような団塊アフターの世代こそ、こういうソフトトランディング的な「組織からの逃走」の仕方が精神的にも楽でありそうですね