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「夢」を思い描かずに目的を達成する方法について考えてみる

先だって、「成功する人は自分の目標を言わない」という自己啓発系の真逆のアドバイスについてエントリーしたのだが、今回は、同じく自己啓発系への挑戦とも言える

人間の脳は、幻想と現実を見分けるのが得意でないことが、明らかにされている(だから映画はスリリングなのだ)。何かを夢見ると、脳の灰白質はすでに望みのものを手に入れたと勘違いしてしまうので、自分を奮い立たせ、目標を成し遂げるのに必要な資源を集結させなくなってしまう。そのかわりにリラックスしてしまうのだ。

するとあなたはやるべきことを減らし、達成すべきことも減らし、結局夢は夢で終わってしまう。残酷な話だがポジティブシンキングそれ自体は、効果を発揮しないのだ。

という記事(「夢を思い描く」が人生の及ぼす悪影響」)をPRESIDENT Onlineに発見。

 

要点は

・ポジティブシンキングそれ自体は、夢の実現に結びつかない。夢に描くことは目標達成前に達成感を与えてしまうので、目標達成の活力を失わせる

・夢を実現するには、夢見て満足するのではなく、実現のための道のりと立ちはだかるものを見つける。そしてその克服方法を考える

・さらに「もしも(if)」と「そのときは(Then)」を考える、つまり障害をあらかじめたくさん想定し、いざというときに脳が自動的反応できるようにしておく。

が大事ということで、夢を本当に叶えるには

①自分の願いや夢をイメージする

②願いに関して自分が望む成果を具体的に思い描く

③現実を直視し、目標達成への具体的な障害について考える

④障害に対処する計画を考える

というステップを踏むべき、というもの

 

言われれば当たり前のことで、いわゆる自己啓発本が、夢の実現についてあまりに精神論的な処方箋だけを提示することが多いことへの批判でもある。ただm自己啓発本を弁護するわけではないのだが、夢をあたかもそれが叶ったよおうにイメージしろ、というのは、「夢」の達成のいあまりにも遠い道のりからくる絶望感を麻痺させるという効果を狙っているところもあるので、あながち全否定すべきものでもないと思う。

 

大事なのは、夢が叶っているときの幸福感をイメージしつつも、それが叶っていな現在の飢餓感や焦燥感を忘れない、あるいはそれ以上に、現在の不完全な状態をイラつきながら噛み締めて、次の行動をする、ということであるように思う。

つまりは、今が不完全な状態あること、夢から遠く離れていることから逃げずに、やるべきことを「象い歩みのように」着々とやれ、ということなんであろう。なにやら、一昔前の「スポ根」ものと基本のところは変わらない、ということであるようだ。闘争心は大事、ということだな、とまあ勝手に総括いたしましたが、いかがでありましょうか。

 

加茂川の桜

米子への単身赴任も三年目を迎えた。飽きがきた頃ではあるのだが、「宮仕え」ゆえやむを得ぬ。まあ腐らずに勤めるとするか、と我が身を説得する。

というところで、本日は加茂川の桜。松江の堀川の桜ほどのメジャー感が出ないのが寂しいところではあるが、風情はそこそこある。陽も暖かく、米子の春の昼下がりでありました。

ミレニアル世代の食生活の特徴に何を見るか?

ミレニアル世代の食生活は、今までの世代に比べ、外食を好み、調理済みの食品を好むという傾向があるらしい。
古くを辿れば、明治時代も牛鍋という新たな食を手に入れ、戦後もインスタントラーメンという食を手に入れ、文化が変わった。今回も、将来的には文化そのものを変えていく可能性が高いかもしれない。

その食事の持つ特性というものが、人の考えを規定し、人の行動を規定していく。そんな因果関係があるように思えるのである。明治は、江戸時代の因習からはなれ、肉食という文化を手に入れることによって、今までの文化を破壊した。戦後は、インスタントという手軽さを手に入れ、行動の軽さを手に入れるともに生活を妙に軽くした。

今度は、どんな変化がやってくるのだろう。外食の増加はすでに、SNSの拡大という形で現れているのかもしれない。さて、調理済み食品というのは、何をもたらすのであろうか。

日本の幸福度ランキングが低いのはなぜ。

今年も、世界幸福度ランキングが発表され、第一位はフィンランド、第二位はノルウェー、第三位はデンマークと北欧の諸国が栄冠に輝いた。ランキング好きの日本は、というと54位という成績で、去年より順位を落としたらしいので、アベノミクスによる景気回復もなんとも気勢があがらない。

ノルウェーは2016年は4位だったので、ランクアップしたのだが、ノルウェーが幸福度が高い理由は、Diamond Onlineのこの「インスタ映えの対極、デンマーク人の人生観に癒やされる人多数」の記事では、デンマーク人特有の「ヒュッゲ」という言葉に現されるとしている。「ヒュッゲ」と、「ほっこり」とした気分のことのようで、「自然体で温かい人とのふれあいを尊重すること」を言葉にしたもののよう。

で、この記事では、デンマーク人が自身を幸せだ、と思う根拠として、「ヒュッゲ」を重んじる国民性と、充実した社会保障にもとめているのだが、当方としては、「社会保障」のあたりは??と思う所。

高レベルの社会保障の裏打ちは「高額な税金」もあるのだが、北海油田でかなり国の財政も豊かにになっていることもあると思うので、景気の良さとハイレベルの社会保障ということもあるのだが、日本でも2012年には40位にランクしており、社会福祉や景気の部分がどこまでリンクしているか疑問に思える。

 

それよりも、主要なキーは「自己肯定感」ではないだろうか。「ヒュッゲ」とは親近感を生み出すもの” や “魂が快適だと感じる環境” 、“苛立ちがない状態” など、様々な「快適さ」を指すものでるともいう。

そうした快適感の裏打ちは、現状を「良きもの」として受け入れる。であるなら、デンマークの人たちが「良きもの」として感じるものと、日本人が感じるものは同じものではないかも、と思ってもみる。

 

案外に、ランキング上位のところと比較して、あそこにはこれがあるが、日本にはこれがないから、といった単純な比較論で議論することこそ、幸福度が上がらない理由なのでは・・。

 

安易な他国比較に走らず、我々がどういう状態の時に幸せと感じるか。そこをもう一度振り返った方が良い気がするのですがね。

「信長の野望 大志」のアンケートで”上司・部下にしたい武将”でどちらにもエントリーされている武将がいる

C-net Japanで「コーエーテクモ 「信長の野望・大志」調べの”上司・部下にしたい戦国武将”」として、武将のアンケートランキングがレポートされている。

上司にしたい武将は、一位 織田信長、二位 武田信玄、三位 北条氏康

部下にしたい武将は、一位 竹中半兵衛、二位 石田三成、三位 片倉小十郎

ということで、まあ、手堅い得票である。上司にしたい武将は「部下を思いやる」という点、部下にしたい武将は「軍師タイプ」で「的確な助言をしてくれそう」といったところが評価のポイントらしい。

ただ、当方が、「ほーっ」と思ったのは、上司にしたい武将・部下にしたい武将のいずれも七位が黒田官兵衛、上司にしたい武将九位・部下にしたい武将十位に豊臣秀長、がエントリーされているところ。

いずれもナンバー2あるいは副将・軍師格で、智謀に長けているが、黒田官兵衛は秀吉に自分の死後、天下をとるのはあいつ、と警戒され、中央から遠ざけられた人物でもあるし、豊臣秀長は名調整役で豊臣政権の屋台骨を支えながら、彼の死後、豊臣政権がガタガタと崩れていったというのが当方の理解で、いずれも一筋では語れない武将という感じが強い。

上司・部下にしたい武将、いずれにもエントリーされているのは、この二人だけ。どうやら、上位の人気武将だけではなくて、こういう曲者・ナンバー2も、時代が求めている人物像であるのかもしれないですね。

News Week 「イギリスで進む「脱」民営化」で思う「顧客」の変化と民営化の理念の風化

News Weekで「イギリスで進む「脱」民営化」という記事がでていて、サッチャー時代に一世を風靡し、日本でもいまだに影響力の強い「民営化」について批判的な内容。

この記事の筆者は電気サービスとか年金とか、公営から民営に移管されたサービスを比較し、最後に

どうやら公営企業は、民間企業に改善を促すような新基準を打ち立てる役割を果たしているようなのだ(たとえば公営のNESTの「脅威」に対抗するために、民間企業の年金ファンドは手数料を下げるようになってきた)。

さらに公営企業は、民間よりしっかりと顧客ニーズに対応できる(民間企業では株主と経営者の利益が最優先だ)。そして公営企業は、大量の顧客を獲得し、効率的な経営ができる。

僕は民営化に対して賛成、反対の確固たる自説があるわけではない。でも僕(自由市場でいろいろな情報を手にしている一消費者だ)の最近の行動を見てみれば、おのずと見えてくる。僕が「消費行動という投票」によって、民営化に反対票を突きつけているということが。

といったことで締めくくっている。

サッチャー首相以来のイギリスの民営化といえば、鉄道からエネルギー産業、年金システムまで、ほぼありとあらゆるものを民営化の対象とし、国営や公営は非効率の極みであるような扱いがされていたもの。この影響は、日本にも強く及んで、いまだに行政改革といえば「民営化」「民間委託」がいの一番にでるぐらい。

その民営化の本国というところでの「批判」なのだが、記事を見て思ったのが、「民営化」のシステムがどうこうというのではなく、民間企業ではあるが、サービスの基本、「顧客は誰」というところがおろそかになっているのが原因では、と思った次第。

もともと、国営や公営の欠点といわれるのが、いわゆる「お役所仕事」で顧客たる国民や県民をみていない、ということであったのだが、どうやら、物事が安定化すると「顧客」を見失ってしまうのは、国営だろうが、公営だろうが、民営だろうが関係なくて、要は「惰性」によるシステム疲労を来しているかどうかということであったのかもしれない。

となると、運営主体をどうこうすれば物事は解決するんじゃなくて、いかに「顧客」をブレさせないシステムを維持するかっていうのが大事であって、それは、競合状態を常に確保しておく、つまりは「独占」をいかに排除するかっていうことにつきるのかもしれないですね。

フェイスtoフェイスなしのSNSでは孤独感は癒やされない

c-net Japanに「SNSで過ごす時間が長い人ほど孤独感を強く感じている」という記事が出ていて

Primack氏の研究チームは今回、19~32歳の1787人を対象に聞き取り調査を実施した。そのデータに対し、社会的孤立の程度を測定する一般に受け入れられた手法を適用した。

結論はこうだ。社会的要素と人口統計的要素を除外した場合でさえ、1日のソーシャルメディアの利用時間が2時間を超える人は、30分未満の人と比較すると、社会的孤立を2倍強く感じていた。

「人間は生まれつき社会的な生き物だが、現代の生活は、われわれをひとつにまとめるのではなく、区分する傾向がある。ソーシャルメディアは、そうした社会的な隙間を埋める機会を提供するように思えるかもしれない。しかしこの調査は、ソーシャルメディアが人々の望んだ解決法ではない可能性があることを示唆していると、私は考えている」(Primack氏)

ということであるのだが、SNSだのなんだの、と難しい理屈でなくて「リア充」かそうでないかということでは、という思いにかられる。

というのも孤独感を感じるかとどうかというのは、かなり原始的なもので、他者と皮膚的な接触があるかどうか、物体的に近しい状態にあるかということが重要であって、精神的な近さ、特にSNSのような「ユルイ」関係で孤独感がなくなるようには、多くの人は進化あるいは変化しきれていないように思う。

それは、テレワークやモバイルワークが、面談とか会議とかでフェイスtoフェイスという物理的なこと抜きではうまくいかない例が多い、というのと共通であろう。

生物的な衣をまとっている以上、身体的な接点をまったくもたずに「ネットワーク」するということでは「孤独感」という根源的な感情は払拭できないんでしょうな。

「大学の学費無償化」のための教育国債ってのは・・・

Yomiurli Online(http://sp.yomiuri.co.jp/politics/20170203-OYT1T50001.html)によると

自民党は、大学などの高等教育の授業料を無償化した場合の財源として、使い道を教育政策に限定する「教育国債」発行の検討に着手する方針を決めた。

 高等教育の無償化は、安倍首相が検討に前向きな姿勢を示している。1月20日の施政方針演説では「憲法が普通教育の無償化を定め、義務教育制度がスタートした。高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」と述べた。

ということなのだそうだが、これって返済の停滞とかで問題も出てきている貸与型の奨学金制度の姿をかえ、しかも返済を全国民に広げたものじゃないの、という疑問を覚えた。

もちろん、義務教育と高等教育の境界が曖昧になってきていて、大学全入時代もすごそこに来ているのかもしれないのだが、その経費を安易に「国債」として後世の世代の負担にもっていくというのはどうかな、と思う次第。

もともと奨学金自体、就職難などの影響で返済が困難になっている個人が増えたために、給付型やあるいは、地方や故郷へのUターンや地元就職を条件にした無償化などの動きが強まっていて、その方向には異論はないのだが、それを均質にしかも「国債」という全国民負担の形で行うことで、都会(東京都)と地方のアンバランス、東京集中の問題を助長するだけのような気がするんである(ここらは東京在住の人には異論があるよな、多分)。

日本全体の人口減少が言われる中、個人的には都会への集中、いわゆるスマート・シティ化をめざすんではなく、地方、田舎への偏在というかバラけた居住をすすめるべきで、ITの整備と合わせれば、そのほうが国土全体の有効活用と地域の力ひいては国力の担保にもつながると思っているので、ここは一律な国債による対応ではなく、地方への紐付き財源の提供と進むべきでないか、と妄想するんであるがいかがか。

女官と廷臣は遠ざけるべきであるか・・・

久々にリアルに大河ドラマの最終回を見た。

今年は「真田丸」ということで、判官びいきで、敗者の好きな日本人のはしくれである当方としても好みのネタで、大蔵卿であるとか、大野修理の迂闊さとか、豊臣秀頼の若ぼんらしい優柔不断であるとか、あちこちにはまりどころが三谷幸喜氏の絶妙な手練卓だが仕掛けられている。

とはいうものの、真田幸村の大阪の陣の敗戦は、やはり豊臣秀頼自らの出陣が叶わなかったということにつきるように思え、そこはやはり、彼を出陣させなかった体制というか周囲の人材の影響が全てのような気がする。

で、その原因はやはり、宮中の中にしか情報と判断の基礎をもっていなかった女官と廷臣が影響力を持ちすぎたのであろうな、と当方として確信している。

もちろん、女官、廷臣とも主君のことを思わないではないし、むしろ、野戦の将より主君大事であるとは思うだが、如何せんその判断の基礎が限定的なことが大局を誤ったというべきことであろう。

ただ、野戦の中にこそ情報があり、野戦のなかにこそ戦の勝機もあるということが大事であるということに気づかないことがよくあるのではないでしょうかね。

「二拠点生活」の試み

職場が本拠より離れて十数日が経過した。
特急電車で1時間、車で1時間45分程度なので、まあ通勤も可能ではあるのだが、緊急時とかの対応もあるので、いわゆる「単身赴任生活」となった次第。
ただ、これぐらいの距離であると、車での日帰りも十分可能で、実家の家族と長期間離れたままというのも味気ないので、「単身赴任」ではなく、将来的なリタイアに備えて、「二拠点生活」の試みをしてみようと思い立っている。
そんなに難しいことは考えてなくて、ひとまず、実家と赴任先でどちらでも同じように仕事や下準備、ブログ書きなどが両方で同じような環境でできるようにしておき、その時の気分に応じて生活する所を選べるようにしてみようか、と思っていて、それがいわゆるテレワークであったりの実験にもなるのかな、と思っている次第である。
もっとも二拠点を用意するといっても、服やら電子機器をそっくり同じものをダブルで用意するほど財力もないので、そこらは必要最低限にならざるを得ないが、テラバイトレベルのクラウドストレージサービス、スキャナ、モバイルの通信環境、そして両拠点での光レベルの通信環境・据え置きPCは一先ず用意出来たところである。
あとは両拠点の滞在日数を如何に平均化していくか、ということであるのだが、こいつばかりはおいおい実態をみてやっていくしかないようですね。