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「世間」から如何に逃れるか。といってもグローバリズムは鬼畜の仕業と心得るべし — 鴻上尚史「「空気」と「世間」」(講談社現代新書)

政策選択ではなく、どの「空気」を選択するのか?といった選挙が始まったところなのであるが、もともと日本の閉塞感を生み出したと思う人達に、あれこれ言われてもな、と思う反面、それを選択したのは我々だよな、と思うと、気が滅入ってくる昨今なのであるが、そうした「日本の閉塞感」とそれがもたらした新しい時代風景についての論述が本書。
 
構成は
 
はじめに
第一章 「空気を読め!」はなぜ無敵か
第二章 世間とは何か
第三章 「世間」と「空気」
第四章 「空気」に対抗する方法
第五章 「世間」が壊れ「空気」が流行る時代
第六章 あなたを支えるもの
第七章 「社会」と出会う方法
おわりに
 
となっていて、帯に「「空気」を読まずに、息苦しい日本を生き抜く方法」とあるのだが、そう単純化して語るものではないだろうと思う次第。
というのも、「空気読め」といった言葉が市民権を得たのは、いわゆるグローバル化信仰で、日本の雇用形態とかなにやらが、ぐずぐずに崩れたあたりと時期を同じくするようで、それは、ワーキングプアとか官製ワーキングプアとか、「働く」という美徳が崩れ去ったときと符合しているような気がしている。そして、その「空気」の正体は、筆者によると
 
僕は「空気」とは「世間」が流動化したものと考えていると書きました。
「世間」とは、あの「世間体が悪い」とか「世間を騒がせた」とかの「世間」です。
その「世間」がカジュアル化し、簡単に出現するようになったのが、「空気」だと思っているのです。
けれど「世間」と「空気」を共に内側から支え、構成しているルールは同じだと考えています。(P32)
 
ということであるので、実は「日本的価値観」と同一視していいものであろう。
 
で、当然、この「旧来の日本的価値観」へのアンチテーゼとして論陣が張られるのであるが、残念ながら、その旧来の価値観がすでに崩壊寸前であることが少し異質ではある。ただ、いわゆる新自由主義者や渡航帰りのMBA取得者や声高の教条主義者のいうこととちょっと違って
 
あらかじめ言っておきますが、こうやって相対化できるからアメリカ人の方が成熟している、なんていう言い方を信じてはいけません、
彼らは、神のこと以外は、すべて相対化の視点で語ることができるのです。
 けれど、神のことに関しては、まったく相対化できません。(P126)
 
であったり、
 
相手を批判するうちに、批判する言葉が絶対的なものになってしまって、批判していた本人自信がにっちもさっちも動けなくなる、という状況が日本では普通の光景だということです。
(中略)
そして、結果は、相手に対する100%の勝利か0%の負けかという、相手を殺すか自分が死ぬか、という絶対的な選択しかないと思いこんでしまうのです。(P132)
 
 
「空気」の支配は、議論を拒否するのです。それが自分にとって都合がいいと思っていても、必ず、都合の悪い「空気」が支配的になる時がきます。どんなに怒っていても、議論を放棄して「空気」の支配に身を任せてはまずいのです。いつかきっと、強烈なしっぺ返しが来るのですから(P134)
 
といったところに妙に信頼感を感じてしまうのは当方だけであろうか。
 
まあ、本書での「空気」の支配から逃れるには
 
日本人が「共同体」と「共同体の匂い」に怯えず、ほんの少し強い「個人」になることは、実は楽に生きる手助けになるだろうと僕は思っています(P213)
 
つまり、前向きに「世間」と「社会」を往復するのです。
それは「複数の『共同体』にゆるやかに所属する」ということです(P243)
 
不安ゆえに、ひとつの共同体にしがみつけば、それは「世間」となります。・・・不安だからこそ、複数の共同体に所属して、自分の不安を軽くするのです。(P247)
 
といった、身軽な所作が大事であるようだ。精神的に自らを拘束したり、どこかに縛ってしまうようなことはできるだけ切り離していくことが大事でありますかな。