下川裕治「タイ語の本音」(双葉文庫)

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「旅行記」というのは、しばしば厄介なもので、旅行記によっては、書かれた旅の時期に注意しないと、その国の姿を誤解してしまうことにもなりかねず、特になにかを一所懸命に主張する色合いの強いもの、イデオロギー色の強いもの、真面目なものにそうした傾向がある。一方で、旅の時期に関係なく、その国あるいは民族の普遍の姿を表現している「旅行記」があり、下川裕治氏の「タイ」をはじめとするアジアものはその典型であろう。
本書は、下川氏お手の物の「タイ」について「タイ語」を媒介として語ろうとする旅行記である。
構成は
はじめに
本書の読み方


第1章 揺れるタイ


第2章 タイ語でタイ化


第3章 最新タイ語事情


第4章 タイ語で暮らす


第5章 もっとしっかりしたいタイ語


第6章 覚えたいタイ語


第7章 覚えなくてもいいタイ語


第8章 僕流の便利タイ語


第9章 タイ在住日本人のタイ語


コラム タイ在住日本人の本音


 妻も夫も飽きてしまったタイ料理


 食べることができない、を食べる日本人


 日本人オヤジは愛玩動物?


 いちばん有名な日本人はコボリ?


 マイペンライは言葉の武器


コラム タイ語上達の近道


 タイ語の辞書を引くという茨の道
 タイ語の文章を前に天を仰ぐ
となっていて、「デーン(グ)」に始まり、」「オクサァーン」に終わる、タイ語を肴にした「タイ」あるいは「タイ人」のエセーといっていい。

基本的に、筆者のタイ、タイ人への目線は、
サバーイは本来、気持ちがいいといった快適な気分を伝える言葉だ。しかしこのタクシー運転手は「楽」の意味でつかっている。「楽」なことは「快適」という、タイ人らしい発想に裏打ちされているわけだ(P42)
や「ユーチューイチューイ」という言葉の項での
ボーッとする感覚には、国によって基準がある気がする。日本人に比べると、タイ人のそれはずいぶん低い。その境界はわかりにくいが、日本人が「ボーッとしちゃって」という状態は、タイ人にとってごく普通に生活していることを指すと思っていい。タイ人のボーッ状態は、もう本当に虚ろな状態になってしまう(P60)
といったように、そのいい加減さも含めて好意的である。
それは、
アジアを歩いていて、ミャンマー(ビルマ)とバングラディシュの国境あたりでひとつの栓が轢かれる気がする。謙譲が美徳の文化圏と、自己主張が美徳の文化圏の境界である。(P210)
タイ人はひとを傷つけることを好まない。ひとを傷つけて恨まれるようなことは極力避けようとする。だから、ハッキリとしたいいまわしを避ける。うやむやにする。ときにその場しのぎのウソもつく、タイ人と長く接してようやくわかってきた。(P301)
といった風に、タイの中に日本人との親和性を見出しているせいでもある。それは、タイ人の
人口からみても、タイのなかで都会といえる街はバンコクしかない。
(中略)
しかしバンコクに棲む人たちが都会人か、というと僕は首を傾げてしまう。都会のテンションを身につけている人はいないわけではないが、つきあってみると、どこか田圃の稲の香りが漂ってくるような人も多い。
(中略)
バーンノー(ク)というときにバンコクっ子の表情は複雑である。田舎をさげすむ一方で、どこか癒やされているような顔つきをするのだ。確かにタイのバーンノー(ク)は豊かではない。現金収入の道は限られている。しかし金がなくても生きていけるのがバーンノー(ク)の暮らしでもある。そんな世界から、ワンランク上の生活を望んでバンコクに出てくるのだが、心や体はそう簡単に都会に馴染めないのだ。(P117)
といった田舎への愛着を残しているところが、日本人の消えることのない「ふるさと(故郷)志向」と似通っているせいなのかもしれない。とはいっても、何から何まで一緒というというのはないわけで
タイ語でアロイは「おいしい」という意味だが、この言葉を解釈すると
「いっぱい味がある」
ということになる、トムヤムクン(グ)のように、少なくともふたつ以上の味がないとおいしくないのだ。
といった味覚の感覚は,一つの味の純粋さを求めがちな日本人とは遠いところにあって、そうした違いを見出すのも旅行記あるいは旅行エッセイの楽しみでもある。
今年の夏も「箸」に追われてなかなか旅にでることも叶わぬ状態。せめて、旅行記を読みあさることにしましょうかね。

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