久遠智彦「ワーカーズ 「労働」をめぐるアジアの旅」(現代書館)

アジアの「労働の現場」を訪ねるルポである。ただ、「労働の現場」といっても、こうした国々でも共通となった「ホワイトカラー」の仕事現場では当然ないし、人々の暮らしにしっかりと根付き、ある意味、普遍の労働現場である「飲食」の仕事現場でもないのが特徴。
構成は
第1章 フィリピン
 ゴミの世界で働く者たち
 銃の製造現場を歩く
 バナナの葉の陰で
第2章 タイ・カンボジア
 孤独病としてのエイズ
 国境を越える性
 自立と絆
第3章 インドネシア
 汗と生命力
 被災の特効薬
 線路界隈で見た家族の肖像
第4章 バングラデシュ
 幼き労働者たち
 廃船哀史
 塀の中の物語
第5章 インド
 彷徨える宗教家
 聖者受難の時代
 天職者たちの愛
となっていて、スカベンジャーと呼ばれるゴミ拾い業、売春宿、廃船の解体、火山地帯での硫黄の採取といったところから、エイズ治療の病院、町工場と色とりどりである。
ほとんどに共通しているのは「スカベンジャーを生み出す原因は腐敗した政治だけではない。多国籍企業の進出もその一因(P23)」に象徴されるように、非搾取と搾取の構造が国を超えて存在し、そして、その搾取の方側におそらくは、日本に住むほとんどの人がいるであろう、ということで、時折、教条主義的な感じを受ける筆者の主張をうるさく思いつつも、こうした構造の中の強者として弱者の上で暮らしている「自分」というものを自覚しておかなくてはなるまい。

イジェンの硫黄運びの姿を見ていたチェコ人の女性の
「この仕事はきついのにみんな笑みを浮かべているのが不思議でならないの。チェコで仕事が始まるとみな憂鬱そうな顔つきになるのに・・」
といった言葉や
みな家族と身を寄せて暮らしていた。どの家庭も経済的に恵まれていないからこそ、強結束力を保っていた。それはバラバラに解体された日本の家族とは対照的な光景だった。(P147)
といった言葉に一抹の救いをみるにしても、大勢を変えるには至らない。そして、そうした労働の現実から、筆者は
私は年齢を重ねるにつれて、汗をかくことを避けてきた。肉体を脱ぎ捨ててきたといってもいい。身体と距離を置くほど、なぜか生の手応えは遠ざかっていった。喜びや悲しみ、怒り、楽しみが具体的に感じられない。汗を忌避してきたことで、知らぬ間に生命力が落ちていたのかもしれない。(P119)
とした上で
労働とは個を打ち立てる手段ではないか。「個立」こそ、資本への対抗手段となるのではないか。(P267)
 
私達は自分の掌中に仕事を取り戻さなけれなならない。それはとりもなおさず生の主権を奪い返すことでもある(P268)
と仕事・労働の価値の復権を狙うのであるが、クラウド化など、ますますに手仕事のような「リアル」と離れていく我々の仕事の現実を覆す力があるかどうか、さてさて、というのが実感である。

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