「働き方改革」はWorkの根本課題に取り組めるか — 常見陽平「なぜ、残業はなくならないのか」(祥伝社新書)

過労死問題をきっかけに「働き方改革」が声高に主張されはじめているところで、管理者側、労働者側あるいは政府側から、様々に論じられている最中なのだが、感情論が混じってしまいがちで、熱っぽい議論ほど薄っぺらに感じてしまう。

そうした中にあって、どちらかというと斜向いから論じてくる常見陽平氏の論は、先の「就活」や「モバイルワーク・ノマドワーク」を論じていた時と同様に一面的でない視点を提供してくれて貴重なものといえる。

本書の構成は

第1章 日本人は、どれぐらい残業しているのか

第2章 なぜ、残業は発生するのか

第3章 私と残業

第4章 電通過労自死事件とは何だったのか?

第5章 「働き方改革」の虚実

第6章 働きすぎ社会の処方箋

となっていて、そもそもの労働時間の分析から始まって、

イギリス、スウェーデン、フランス、ドイツなどよりも一人あたり平均年間総実労働時間は長いものの、日本「だけ」が長いわけではない。1980年代から現在にかけての30年の変化をみると、労働時間は徐々に減ってきている

と冷静に現状を分析するあたり、熱に浮かされた議論が始まりがちな労働問題にはちょうどよい冷たさであろう。さらに、こうした「働き方」論における欧米礼賛に向かって

これはシステムの違いとして捉えるべきである。好況期には残業で対応し、不況期には残業と賞与を抑制して乗り切る国と、その分の人員を削減することで乗り切る国のモデルの違いである。

というあたりも小気味よくはある。かといって、単純な「日本優位論」ではもちろんなくて

日本における残業の根本的な問題は、仕事の任せ方である。残業は仕事の任せ方に起因する部分があるのだ。

言うなれば「仕事に人をつける」のか「人に仕事をつける」のかという違いである(P67)

「仕事に人をつける」という世界観では、業務内容や責任などを明確にすることができる。そうであるがゆえに、仕事が定型化しやすい。仕事の引き継ぎもしやすい。採用時も仕事が定型化、標準化しているので、選考時にその業務にあった人材かどうかを判断しやすい。

一方、「人に仕事をつける」という世界観においては、ある人に複数の業務が紐付けられることになる。特に中堅・中小企業においては、営業、企画など職種を超えた仕事が任されることになる。これを繰り返していくと、仕事の範囲が無限に広がっていく (P68)

といったように、日本型の「働き方」の功罪を的確にいいあてるところは、労働問題・働き方について厳しくはあるが冷静な視点が揺るがない筆者らしいところであろう。さらに「労働生産性」「ダイバー・シティ企業」といったものについての

(国際比較でいわれる)労働生産性が高い国とは、金融センターか資源を持っている国、あるいは都市国家など小規模の国だ(P178)

このコンテスト及びレポートについて、1点目は「ダイバーシティ」「ワーク・ライフ・バランス」を推進するメリットについて、擬似相関の疑いがあることだ、2点目は、紹介されている取組の成功要因が、真因だと言えるのかという疑いである。 (P182)

というあたりは少々手厳し過ぎるかもしれない。

途中、電通過労死事件の教訓として、会社の認識の甘さを指摘しつつも、「社内ではいつも新しい仕事が生まれており、変化している」「「なんでもやる」「成長を求められる」日本型正社員モデル」「会社と居場所」という新たな問題の提示もしつつ、最後のほうで

・1週間のうち、働く時間を決める

・一つの仕事にかける時間を決める

・時間が美しく流れるようにする

・仕事の命中率を上げる

・時間のへそくりをつくる

・楽しいアポから先に入れる

・朝の時間を活用する

・自分だけで抱え込まない

・お金で時間を買うという手もある

・自分のキャラを理解してもらう

という筆者なりの「すり減らない働き方」の提案もあるので、詳細は原本で確認してほしいとこ。

筆者も言うように

「働き方改革」は所詮「働かせ方改革」である。・・だからこそ「いかに働かないか(働かせないか)」「いかに一生懸命働かないことを許容するか」という発想がないかぎりは、画餅に帰してしまうのである(P234)

というところを踏まえて、昨今の論議が、「時間外短縮」という些末なことではなく「働き方」の論議となれば、と思うところなのである

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