食エッセイというものは、得意不得意が当然あって、食べ歩き的なものが得意な筆者もおれば、手料理もの・自分ちの台所ものが得意な筆者もいるのだが、どちらも「良し」という作者はなかなかいないのだが、そんな稀有な例が、平松洋子氏であろう。
収録は
Ⅰ 台所で考える
こんなものを食べてきた
漆と別れる、出会う
飲みたい気分
夜中にジャムを煮る
Ⅱ 鍋の中をのぞく
わたしのだし取り物語
ぴしり、塩かげん
おいしいごはんが炊きたい
手でつくるー韓国の味
手でつくるーうちの味
旅日記・韓国のごはん
Ⅲ わたしの季節の味
お茶にしましょ
夏はやっぱりカレーです
麺をつるつるっ
蒸しもの名人になりたい
炭を熾す
Ⅳ いっしょでも、ひとりでも
今日は何も食べたくない
ひとりで食べる、誰かと食べる
となっていて、手料理ネタから、外食ネタまでが色とりどりに収録されている。
例えば手料理ネタは
酒の肴はおいしすぎてはいけない。あくまで主役は酒なのだ。脇に控えてくいっと酒の味わいを引き立ててくれれば、もう、それで。(P54)
酒の肴はちょっとものさびしい暗いのが好きである。焙ったお揚げにはなんとはないひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。けれどもいったん箸でつまんで味わえば、確かな滋味をじわりと滲ませて満足をもたらす。これがいったいに酒を引き立てる肴の条件であり、ごはんとおかずとの境界線ではないか(P55)
や表題作の「ジャムを煮る」の
ジャムを煮るのである。
おたがい、いちばん幸福なときに鍋の中で時間を止めてしまう。そうすれば哀れにも腐らせたり、だめにすることもない。今がいちばんいいとき。そのときにおたおたしていたら、容赦なく時間に打ちのめされる。だから、先回りしてジャムをつくる。(P67)
ジャムは夜更けの静けさの中で煮る。
世界がすっかり闇に包まれて、しんと音を失った夜。さっと洗ってへたをとったいちごをまるごと小鍋に入れ、佐藤といっしょに火にかける。ただそれだけ。すると、夜のしじまのんかない甘美な香りが混じりはじめる。暗闇と静寂のなかでゆっくりとろけていく果実をひとり占めして胸いっぱい幸福感が満ちる。(P70)
のように、単に原を塞ぐ、あるいは美味を堪能するための手料理ではなく、「生活を楽しむ」という視点からの「手料理」を提案しているように思えるし、食べ歩きのジャンルでも
韓国では、野菜を和えるとき、決して箸を使わない。頼りにするのは、自分の手であり、指である。(P130)
指先に力を託すのではない。にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染み込むことを了解したうえで指を使うのである。ここが日本の料理法と大きく道を分けるところだ。日本料理では、野菜は鋭く研ぎ澄ました鋼の包丁でぴしりと切り揃える。だいこんの千六本もにんじんのせん切りも、断面はきりっと切り立っている。その美しさを最大限に生かしながら、菜箸で「ふわあっ」と盛り付けるのだ。野菜の扱いひとつとっても、韓国と日本では要諦は間逆である(P131)
といった感じで、美味自慢というより、料理人たちの「手仕事」の素晴らしさに着奥するあたりが只者ではないところ。
さらには、
食べたくないとき、今日は食べるのをよしておこうというとき、わたしがいそいそ齧るのは煮干しです。(P231)
煮干しにはいろんな味がある。うまみ、塩味、苦み、えぐみ、甘み、カメば噛むほどじわりじわり。天日に干されていっそう濃度を増した海の生命が踊っているような。(P232)
のようの食欲のない時の「煮干し」の味であったり、腎臓病を患っていた愛娘の入院先での食事の悲しさ、とか「食」エッセイを「生活」のエッセイにしてしまうのが、はり手練の技でありますな。
まあ、こういった手練の技はあれこれ論評するより、味わってみるのが一番。どうぞ御賞味あれ。
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