階級論争や、資本主義・社会主義論は、当方が大学時代には、少し以前の話になっていたのだが、新自由主義やグローバリズムへの反省から、再びあちこちで論じられるようになている気がするのだが、さて「資本主義とは何」って聞かれると、浅学非才の当方には・・・、の感が強い。
そして、そういう輩にも「日本型の資本主義」を明治期から戦後までの歴史を分析しながら解説してくれるのが本書。
構成は
序章 資本主義を日本近代史から読み解く
第1章 日本資本主義はいかに離陸したか
第2章 日本資本主義はいかに成熟したか
第3章 国家hあいかに資本に介入したか
第4章 資本主義はいかに変貌したか
となっているのだが、講学的な、難しいところは本書を読んでいただくとして、例えば
日本の資本主義の特徴は
重要なポイントは、日本のように後発で資本主義を導入する国ほど、純粋な資本主義すなわち原理論的状況とは異なるプロセスを踏んでいくということです(P72)
といったことを基礎にして、
日本の植民地は、食料の確保と工業製品の輸出市場という役割が中心であり、植民地に投資をして儲けるという資本輸出はあまり見られませんでした。
なぜか。資本輸出をするためには、国内に余剰資本がなければいけません。しかし日本は、日露戦争の戦費や戦後の軍事費のかなりの部分を外国債でまかなっており、国家財政に余裕がありません。(P129)
とか、日本の共産主義者の二つの流れについて
講座派を勉強した共産党系の人と、労農派を勉強した人の違いは、会うとだいたいわかります。労農派は、物事を相対的に見る視点を持っています。「ものごとを突き放してみる」と言ってもいいかもしれません。なにごともワンオブゼムで考える思考的習慣がついているのでしょう。
一方で講座派は、教条的で自分の考えに固執しやすい。前述のように「日本の伝統はほかの国にはない良さがある。だからこそ素晴らしい」というよな日本特殊論が大好きな人たちです。
さらに言えば、たとえ宇野経済学を学んでいなくても、日本人の思考は労農派と講座派に分かれる(P159)
といったところでは、知り合いのその系の人達の具体の顔が思い浮かぶことも、場合によってはあろう。(当方の場合は、「講座派」らしい人の顔は浮かびましたな)
さらには、前世紀以降、戦争が絶えないのは
現代の資本主義のもとでは、新自由主義と帝国主義とが同時に進行しているとみるべきでしょう。
では、そういった現代の資本主義の最大の課題は何でしょうか。
それは、資本の過剰をどう処理するかということです。(P180)
帝国主義になると、恐慌は周期性を失います。だからといって恐慌は完全にコントロールできるものではないので、起きる時は起きる。
ただ、同時にそれぞれの帝国主義は、貿易や資本輸出を強化することで、恐慌の必然性を排除しようとする。第三章で見たように、それが列強の対立を深め、戦争を招来するわけです。
したがって、帝国主義のもとでは、資本の過剰は恐慌か戦争のどちらかで処理されることになる(P181)
といったことかと新知識を得て、悦にいってみてもよい。
では、筆者は、こうした資本主義あ、あるいは現在の新自由主義+新帝国主義の世界を肯定しているかというとそうではなく、
キリスト教神学によれば、私たちはみな、終末にいたる「中間時」すなわち「時のあいだ」を生きています。中間時を生きる人間の社会構造には、悪が容易に忍び込んできてしまう。しかしこの悪の問題は、いつかは解消される。それが終末であり、この終末の日に備えて自らを律して生きるのがキリスト教徒の仕事です。
私はこの終末を、資本主義からのラディカルなシステム転換だと捉えています。いつかは資本主義も終焉するでしょう。でも、それはいつのことかわからない。
ならば、焦らずに待つ、待つことにおいて期待する。
これを神学者のカール・バルトは、「急ぎつつ待ち望む」と言いました。
その時がくるまで、私たちは高望みせず、しかしけっしてあきらめない。そして、その時が到来したときこそ、私たちは資本主義を超えた、良い社会をつくらなければならないのです。(P233)
が本旨で
高望みはせず、しかしあきらめないこと。飛び交う情報に踊らされず知識を蓄え、自分のアタマで考えること。平凡なようですが、これが資本主義とつきあうキモです(P228)
としたたかに生存の戦略を練らねばならないようだ。
日々のビジネスや、近くにある社会問題にどうしても時間と手間をとられてしまうのだが、たまには、こうした経済学の基礎的なものも読んでおいたほうが、雑談力も深くなるのかもしれないですね。
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