「学校と世間の常識」の呪縛から逃れる方法はいかに? — 堀江貴文「すべての教育は「洗脳」である」(光文社新書)

数回続けて、堀江貴文氏の著作をレビューするのだが、いくつかの共通点、ダブっている所はあるのだが、「本音で生きる」から「多動力」へつながっていく著作の間をつなぐと思われるのがこの「すべての教育は「洗脳」である」であろうか。

構成は

第1章 学校は国策「洗脳機関」である

第2章 G人材とL人材

第3章 学びとは「没頭」である

第4章 三つの「タグ」で自分の価値を上げよ

第5章 会社はいますぐ辞められる

となっていて、論述の多くは、「学校」という装置の洗脳機能というか、学校が個人を、国家あるいは集団向きに「仕立て上げてしまうか、ということと、いかにそれから逃れるかといったところ。

そして、それは近代の象徴でもある「工場」からの脱却である。それは氏が「G人材とL人材」の章で述べてもいるのだが、「G人材}=グローバル人材と「L人材」=ローカル人材を対比しながら、よくあるグローバル主義の論述のように「ヤンキー」で象徴される「L人材」を排除しないところにもある。

こので排除されるべきものとして標的にされるのは「N人材」=ネーション人材というものであるのだが、この「N人材」、今まで我々の社会の中心的な存在であったエリート層、指導者層と重なり合っているとこrが、この書の危険性でもあり、また毒性でもある。

それは

大切なのは、GとLの二つから、うまみのありそうな方を選ぶことではない。自分のやりたいこと、大切にしたいものを理解することなのである。その結果どちらを選ぶことになろうと、あなたの”本音”と合致している限り、幸せな生き方は追求できるはずだ。

といったところで明確なように「個人主義」的生き方の宣言でもある。

ただ。この生き方、学校で教わるものではないだけに

「みんながやっている努力」をやってもいきなり突き抜けることは難しいが、「誰もやっていなかった」領域なら、一足飛びで大きなリターンが生まれる確率は高い

とか

自分のやってきたことや、すでに持ってくるものから「やること」を決めてはいけないのだ。

と言った風に、とにかく独創性に基づいた

「老後の楽しみのために苦しい会社勤めに耐える」という考え方を捨て、「楽しく続けられる好きな仕事を、やる気が尽きない限り続ける」

という、結構、ワガママな生き方でもある。

さて、本書は、何かのカタルシスを感じたい時、結構オススメでありますよ。

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