熟すれば「数寄」と「統治」は袂を分かち始めるのだね — 山田芳裕「へうげもの 八服」(講談社文庫)

第8服の「へうげもの」文庫版は。1595年2月伏見邸の完成から1596年伏見城の山里丸が建築される頃まで

ざっくりと、この巻で筋をレビューすると

前巻で、伊達政宗と大騒ぎをした、蒲生氏郷は病死している。

織部は唐津務めを良いことに朝鮮に渡り焼き物の窯探しをする。秘密の渡朝ゆえ松浦党の世話になるが、これが後で裏切られて難渋することになるのだが、事を逸るといろいろ問題が起きるという典型であろうか・

朝鮮では、慶尚道の今の梁山市で両班の妾の子で、女性陶芸家の柳英子(ヨンジャ)と出会う。

この英子が、日本へ渡り、唐津焼の窯を起こす、といった筋立てに成っていて、この時期多くの陶工が朝鮮から日本へ連れてこられたらしいのだが、その象徴として描かれているような気がする。

朝鮮国の義勇兵軍に攻められ退却。途中、難破しそうな船の中で英子とまぐあう。これを妻の「おせん」に正直に感想を込めて打ち明けたために別居になりつつも、

織部は茶頭筆頭として、新しい茶室や茶碗の考案と作成、伏見酒の育成といったことで、数寄の道と利殖の道双方をずんずんと歩む。ところが1596年閏7月の伏見大地震で茶碗も酒もみなひしゃげ、破産の瀬戸際といった事態に。

ところがこれが、妻おせんとの仲がもどったのは不幸中の大幸であろう。ちなみに、加藤清正も秀吉のもとにいち早く駆けつけ、蟄居を解かれている。

1596年は慶長の役の1年前、関ヶ原(1600年)の4年前、古田織部の「数寄」の姿が見えつつあるのと、徳川家康が朝鮮の役で兵役の費用捻出に困る大名に金を融通して勢力を広げるといった、徳川幕府の礎石が着々と敷かれていっている時代風景でありますな。

この巻で特徴的なのは、徳川家と織部の歩むところの違いというか、齟齬が如実に鳴り始めるところ。

それは徳川秀忠が。淀君の妹である「お江」と婚姻するときに、家康と伏見の徳川屋敷で語り合うところが顕著で

(家康)

賢き者は爪を隠してでも己を前へ田さんとするもの・・・

出さんとすればまた争いが起こる・・・

この流れを止めねばならん

(秀忠)

民に余計な思案は不要・・・

要るのは忠義・・・

清廉潔白なる心のみと、申されるのですな・・・

といったやりとりがあるのだが、秀忠は古田織部がパトロンをしている美濃焼きの茶碗を割ろうとするのだが、まだオーソドックスな風情のある美濃焼きですら「数寄が過ぎる」という感覚なのであるから、織部が唐津で創ろうとしている「めぎゅわ」のような茶碗なんてのは言語道断であろうな、と徳川政権と古田織部の将来の暗雲を感じてみるのである。

謹厳実直が大本の徳川幕府と「数寄」が命の織部では、もともと折り合うことは困難であったのであろうが、これは、文化が爛熟した時にお決まりの事態ではありますかな。

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