「論理的思考」は究極の仕事術ではないかも — 山口 周「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」(光文社新書)

「美術」といえば、当方の学生時代は、よほど成績が良くて、しかも絵心のあるというかなり特殊な、語弊を恐れず言うと、コミックの中でしかないようなものだったのだが、どうやら、エリートというか組織の決定権を持つ人にとっては、重要な価値判断は「美意識」が肝なのよ、ということらしい。
構成は
はじめに
名門美術学校の意外な上顧客
忙しい読者のために
本書における「経営の美意識」の適用範囲
第1章 論理的・理性的な情報処理スキルの限界
第2章 巨大な「自己実現欲求の市場」の登場
第3章 システムの変化が早すぎる世界
第4章 脳科学と美意識
第5章 受験エリートと美意識
第6章 美のモノサシ
第7章 どう「美意識」を鍛えるか?
おわりに
となっているのだが、基本のところは、コンサルタントが力説する「ロジカル」なんとか、とか、論理性などいうことは実はマジックワードではなくて
確かに、過去の経営史を紐解いてみれば、優れた意思決定の多くは、論理的に説明できないことが多い。つまり、これは「非論理的」なのではなく「超論理的」だということです。一方で、過去の失敗事例を紐解いてみると、その多くは論理的に説明できることが多い。つまり「論理を踏み外した先に、いくら直感や感性を駆動しても、勝利はない」ということです。
といったことらしく、これはよくある社内研修やらMBAの真似事研修を、真っ向から否定するもので痛快ではあるし、
億万長者で、ステレオコンポ会社のCEOであるハーマンは、MBA取得者を雇うことにまったく値打ちを感じないのだという。その代わりに、と彼は言う。 「『詩人をマネージャーにしなさい』と言うんだ。詩人というのは独創的なシステム思考ができる人だからね。彼らは自分たちの住む世界を観察し、その意味を読み取る義務を感じている。
といったあたりには、今までの「デキる人」という認識を揺さぶってくる。
で、そうした論理的思考がもたらすものが、ともすれば「常識」とか「世間知」というものから離れがちであることはなんとなく感じていて、そこを
わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「有り様」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。
と看破する論調は小気味良い。
そして、では、そうしたシステムに用意される判断基準から離れた時の「基準は何か
」ということについては
「自分がいいと思うかどうか、ピンとくるかどうか」が最終的な意思決定の立脚点であって、データや説明などは参照しない、むしろそんなものが必要になっている時点で、そのデザインはダメだというわけです。
システムの内部にいて、これに最適化しながらも、システムそのものへの懐疑は失わない。そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる。
といった、ちょっと「ヒネ」た対応が必要となるようだ。
なんにせよ、「エリートの判断ミスによる業績凋落」や「組織的隠蔽による企業危機」といったことが、どぷやら日常茶飯のように生じている今、
システムを改変できるのはシステムの内部にいて影響力と発言力を持つエリートですが、そのエリートが、システムの歪みそのものから大きな便益を得ているため、システムの歪みを矯正するインセンティブがない。システムに参加しているプレイヤーが各人の利益を最大化しようとして振る舞うことで、全体としての利得は縮小してしまうわけで、これはゲーム理論でいうナッシュ均衡の状態です。これが、現在の世界が抱えている問題がなかなか解決できない本質的な理由です。
といった、「はぐれ者」の処世方法が有効になっているようなのであるが、さて、個人的にどうこなすか、結構、難しい処世術ではありますな。

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