「名門の凋落」に、組織の衰亡の原理を見いだせるか? — 立石康則「さよなら、僕のソニー」(文春新書)

話の大筋は、日本の「高性能・高機能・高品質」の代表であったソニーが、その頂点から、出井社長、ストリンガー社長と経て、凋落していく様子の物語である。構成は
 
第一章 僕らのソニー
第二章 ソニー神話の崩壊
第三章 「ソニーらしい」商品
第四章 「技術のソニー」とテレビ凋落
第五章 ホワッツ・ソニー
第六章 黒船来襲
第七章 ストリンガー独裁
最終章 さよなら!僕らのソニー
 
となっていて、ソニーを愛してやまなかった筆者が、半分、恨み節も込めながら綴ったのが本書ではあるのだが、一つの企業体であるソニーの凋落物語にとどまらず、一世を風靡した組織が、なぜ下り坂を迎え、転がるように落ちていったのか、といった「組織の衰亡」の物語として読むのも”あり”と思う。
 
その衰亡の原因は、人によっていろいろ解釈があって、本書のいう
 
残念に思ったのは、その当時のソニー全体を覆っていた雰囲気に負けたのではないかということである。
ソニーという会社の本質は、過去の成功体験や教訓に「解」を求めないことになると思っている。つねに、未来に、自分の目で見つめる未来の中に「解」を求めてきた会社であると思っている。(P101)
 
というように、「創業の精神」やというものが失われていったことや
 
「ソニーの顔」となるトップ(井深、盛田、大賀)は、具体的なソニーらしい製品の開発・ヒット商品と結びついて一般消費者に理解されている
それに対し、出井氏、中鉢氏、ストリンガー氏の三人には、そのような商品は存在しない(P148)
 
というように、キラーコンテンツが生み出されなかった、あるいは生み出そうとしなかった、ということも正しいと思う。
 
とはいいながら、ここで当方なり違ったか解釈をするとすれば、凋落の原因となったトップが目指した「変化」が、その組織のDNAに合わなかったのでは、という解釈もできるのではないか、と思う。つまりは。ソニーのような「ものづくり」のDNAを根幹においている企業は、金融とかエンターテインメントとかの「ことづくり」を目指すことは、組織の転換をもたらすのではなく「自壊」、すなわち
 
(リーマンショックで16000人の人員削減を発表した際に本社の広報の女性管理職は)
「いえ(本社の社員には)動揺なんてありません。人員削減といっても工場などほとんど製造現場が対象ですから、本社には関係ありません」(P126)
 
といった「組織の分解」を産んでしまったのであろう。
もちろん、その変化を噛み砕いて、組織自体が上手く変身していけるところ(花王と3Mとかがそうかな)もあるのだが、ソニーのように、ある分野で秀でてしまった組織は、他の分野に転身しようとすると、組織のあちこちの細胞が「癌化」して、自らを食い荒らしてしまうといった現象が生じてしまう、そして、適合するかどうかは、その時に社員の多くが、その変化に頷くかどうかであるのかな、ということを本書の
 
「抽象的な」話ばかりなので、それが現場でどう理解され、日常の業務にどのように活かされているのかを知りたくて取材するのだが、現場の社員からは「諦め」と「戸惑い」しか返ってこなかった(P187)
 
といったあたりに感じてしまう。
 
本書は、大賀氏の死去の所で終わるのだが、その後、ストリンガー氏の退陣、平井社長の誕生、そして業績回復に兆しが見えた所での吉田社長へのバトンタッチ、とソニーの経営陣もその後、変化している。この中に、組織の凋落、そして復活といった普遍原理をどう見出すか、難問でありますな。
 

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