再び「歴史性のもつ神秘さ」が求められる時代がやってきたのではないか

ここのところ、鳥取県の「大山」(「だいせん」と読みますな)というところの行事やイベントに関わっている。
今年は、ここの中腹にあるお寺が1300年前にできたという伝承があって、歴史とアウトドアの二色のイベントが、多く開催されるのだが、今の次点で思うのは、「歴史」とか「神秘」(宗教的な部分も含むよね)という色彩が強いもののほうが評判が良いような気がしている。
もちろん、「歴史イベント」と「アウトドア・イベント」「スポーツ・イベント」では、好む層がかなり違うのは間違いないのだが、双方のコアなファン以外の、いわば浮動層とでもいえるところは、どちらかといえば「歴史」を好み始めたような気がしている。
 
その潮流は、全国的な傾向でもある。例えば「御朱印帳」であったり「刀剣女子」「歴女」といった女性が主導するブームに乗っかっていると思うのだが、その背景にあるのは、仕事の側面は別として、グローバリスムや効率主義で「フラット」になってしまった自分たちの生活に、なにかしら今までとは違う色合いを、多くの人が求め始めている証左ではないだろうか。
 
世界の「フラット化」は確かに生活や労働の無駄をなくし、すべてを明らかにくっきりとしてくれはしたが、「無駄」の中に混在していた、「暗闇の中にある休息感」とか「混沌の中にある安心」とかの、黄昏のような世界もなくしてしまった。そして、それは私達に、白昼に素っ裸で広場に立っているような居心地の悪さを感じさせ、黄昏時の薄暗がりの中に、何かに包まれる安堵感を求めさせているように思うのである。
 



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