「座右の・・」シリーズの三作目。今回とりあげられている「福沢諭吉」は、「ゲーテ」「ニーチェ」と違って、冷めた傾向の人物であるので、前作とは斎藤孝氏の言いぶりも、ちょっと勝手が違うようだ。
構成は
Ⅰ 独立の章
1 精神はカラリとしたもの
2 喜怒色に顕わさず
3 浮世を軽く見る
4 血に交わりて赤くならぬ
5 他人の熱に依らぬ
6 世間に無頓着
7 運動体の中心になる
Ⅱ 修行の章
8 書生流の議論はしない
9 大事なのは「意味を解す」ということ
10 活用なき学問は無学に等し
11 勉強法の根幹は自力主義
12 自分の基本テキストを持つ
13 修行期間を自ら設定する
14 最高の師匠を選ぶ
Ⅲ 出世の章
15 人生をデザインする
16 まず相場を知る
17 大きな間違いを起こさない
18 たくらみも方便
19 贋手紙の効用
20 有らん限りの仕事をする
21 空威張りは敵
22 莫逆の友はいなくていい
23 極端を想像す
Ⅳ 事業の章
24 なぜすぐにやらないのか
25 時節柄がエラかっただけ
26 「自分探し」は時間の無駄
27 才能より決断
28 パブリックとおいう意識を持つ
Ⅴ 処世の章
29 雑事を厭わず
30 大切なのは健康とお金
31 運動は米搗薪割
32 理外には一銭金も費やすべからず
33 家計は現金主義
34 必要な金ならば使え
となっていて、勝手が違うと表現したのは、斎藤氏流の解釈というか、福沢諭吉の言葉に託して、斎藤氏の主張を展開するというところが希薄になっている気がして、そこのところは、
福沢がその時代には珍しく、「精神がカラリと晴れた」、合理的な考え方に徹した人物だったからだ。彼はどんな 閉塞 状況にあっても、あるいはどんな難しい事態に 陥っても、まったくへこたれるところがなかった。パニックにならずに対処し続ける。無駄なことには一切悩まない。自分のやりたいことがうまく進むように具体的な手だけを打っていく男
というところに象徴されるように、諭吉の言葉が明晰で「解釈のブレ」をゆるさないせいであろうか。
特に
福沢は人間を解剖学的に見てしまうところがある。それだけに、人間という存在に向き合ってその深層を理解したいと思う人にとっては物足りなさを覚えるタイプかもしれない
福沢は人間を解剖学的に見てしまうところがある。それだけに、人間という存在に向き合ってその深層を理解したいと思う人にとっては物足りなさを覚える
というタイプであるから、「座右の・・」も、ウエットなもの侵入を許さないので、とても乾いた印象を受ける。ただ、そういう人物の行動が計算高く、高所かた観察するという態を取ることが多いに対し、
確かに、自分一人で何かを始めるのはつらい。それゆえ、自分から動くことが普通の人はなかなかできない。また、人を 焚きつける空気を持ち込む人がいても、最初は抵抗感がある。 しかし、まどろんでいる状態が幸せか、覚醒している状態が幸せかと言えば、覚醒して何かに燃えている状態のほうが断然面白い。福沢にはその実感があった。一カ所にとどまるより、自らが運動体となって発電機のように放熱していこうと啓蒙活動をした。
といった風に、冷めた活動家であるところが未だに評価を落としていない所以であろうか。そして、
福沢は、読書を中心に置いたからこそ見識があって、世の中のために多くのことを成し遂げることができた。その力があったから人から期待されることも多く、他に類を見ないほどの広い人間関係を築くことができた。読書を柱として人生を打ち立てると、これほど豊かに生きられることを見せてくれた人物である。
といったところにもあるようで、いわば「冷めた行動的な古典主義者」であるところが、筆者が「諭吉」を好む理由であるだろうか。
さて、筆者によれば
私が福沢について説明するなら、「彼はプロフェッショナルの 啓蒙 家だった」と言わせてもらう。日本のために八面六臂の活躍をした実業の部分の実力はものすごい。しかし、もっとも讃えられるべきは、人々が精神までをも近代化しなければいけなかった時代に、旧態依然とした思想を突き壊し、真に蒙を 啓 くために活動したこと
ということであるらしく、旧来の価値が壊れていく上に、AIという「人間の知性」を揺さぶってくる存在が出現した今日、「福沢諭吉」という存在をもう一度、再考察してもいいかもしれんですね。
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