「プロフェッショナル」と「ジェネラリスト」についてのエントリーをあげたばかりなのだが、その発端は、池上彰さんが、NHKの論説委員になれずに、今のフリーになった経緯に触発されたところもある。
本書は、そんなあたりのことを「越境」という表現で表して、専門化を賛美する風潮への警鐘ととってもいい。
構成は
第1章 「越境する人間」の時代
1 「知の越境者」が求められている
2 政治と経済の越境
第2章 私はこうして越境してきた
1 逆境は独学で切り抜ける
2 自分の足りないものを点検し、補う
第3章 リベラルアーツは越境を誘う
1 画期的アイデアが生まれる背景
2 すぐ役立つものは、すぐに陳腐化する
第4章 異境へ、未知の人へ
1 使える「ゆるやかな演繹法」
2 この人びとに惹かれる
3 人こそ異境である
第5章 「越境」の醍醐味
1 守られているものは弱い
2 歴史への越境、歴史からの越境
3 南スーダンと戦後日本の共通項
第6章 越境のための質問力を磨く
1 愚かな質問はない、愚かな答えがあるだけだ
2 想定外の質問を投げかける
終章 越境=左遷論
1 「事実」が揺らいでいる
2 ムダなことが後で生きてくる
となっているのだが、そもそも、池上さんが「越境」というか、専門特化ができなかったのは
この「越境」は、自発的に「越境」したのではありません。やむをえず、受け身の「越境」を繰り返しているうちに、こんなに各方面について語る立場になってしまった
とするとともに
私は図らずも会社の都合で専門性を持つことがなかったわけで(それはそれで楽しんだのですが)、それなのに、「専門性がない」とは。解説委員になれば、それなりのレベルのことができるという自負はありました。いや、専門家に勝てないまでも、渡り合えることはできるだろう、との思いがありました。 しかし、解説委員室への扉は閉じられてしまった
と、左遷ないしは出世の道が閉ざされたことがもともとの原因らしく、このあたっり、当方的にも「うむうむ」と頷いてしまうのである。この専門家が出世するというのは、欧米流のシステムが流布してからと思いがちなのだが、
MITで印象的だったのは、こちらが当然のように、「最先端のことを教えてらっしゃるんでしょうね」と先生方に尋ねたところ、「いや、そんなことはありません」という答えが返ってきたことです。 「いま最先端のことは4年程度で陳腐化します。すぐに陳腐化することを教えても仕方ありません。新しいモノを作り出す、その根っこの力をつけるのがリベラルアーツです。すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなります
といったところから見ると、むしろ、それは
日本には一つのことをやり通すことがいい、という牢固とした思想があります。それがスポーツであろうと、人生という長いスパンであろうと、われわれの選択肢を狭めている可能性があります。
といった、日本に顕著な、「その道一筋」「求道」の精神に負うところが多くて、実は、最近、日本が力を失ってきた原因も、専門家偏重がもたらす「硬直性」のゆえかもしれず、その解決の道は、本書の言う「越境」によって、自由なアイデアを提供する、あるいは、今までとは違ったポジションから物事に取りくっんで見る、といったあたりにあるかもしれないな、と妄想してみるのである。
そして、「越境」ということが我が事にように思えるのは、やはり不遇のとき、左遷されたと思う時で、本書のアドバイスに従えば
ビジネスパーソンにとって「自発の越境」と「受け身の越境」のどちらが多いかというと、圧倒的に後者ではないかと思うのです。その最たるものが「左遷」ではないでしょうか。本人の意思に反して、別の場所に置かれるわけです。 そこで、「左遷」などと受け止めないで、「越境」だと考えたらどうか、と提案したいのです。会社から越境させてもらった、とポジティブに考えてはどうか、と思うのです。左遷されなければ絶対に経験できなかったところに行けるわけです。
ということで、出世街道から外れたな、と思ったときにも「越境」は有益な対処方法であるようだ。
さて、左遷に悩む時はその対処法保が大事である
若者、ばか者、はぐれもの――いずれも越境のエネルギーを持った人たちばかりです。この人たちは、簡単に越境します。この人たちが未知の領域に進むおかげで、未来が 拓けるのです
といった気持ちで、「越境」を楽しみましょうかね。
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