「平成」の時代は何だったのか — 堀井憲一郎「やさしさをまとった殲滅の時代 」(講談社現代新書)

昭和の時代が昭和天皇の生物的な衰えと死という終わり方をしたのに対し、平成の時代が「退位」という形で、とても「人工的」に終わろうとしている。「平成」は年数的には、1998年に始まり、2019年に終わる約31年間の、明治より短く、大正より長い、なんとも中途半端な長さの時代である。

おそらくは今年後半あたりから「平成時代」の総括といったことが始まるのだろうが、当方的にも振り返ってみようと、「平成」の時代風景を評しているものを探していたところ、行き当たったのが本書。
 
構成は
 
序章  たどりついたらいつも晴天
第1章 00年台を僕らは呪いの言葉で迎えた
第2章 インターネットとは「新しき善きもの」として降臨した
第3章 「少年の妄想」と「少女の性欲」
第4章 「若い男性の世間」が消えた
第5章 「いい子」がブラック企業を判定する
第6章 隠蔽された暴力のゆくえ
第7章 個が尊重され、美しく孤立する
終章  恐るべき分断を超えて
 
となっていて、「平成」は、想定はしていても「今」とは思わなかった天皇崩御に始まっていて、その気分は
 
明治のむかしは「坂の上の雲」だけを見上げてただ歩けばいい時代であった、とは昭和の人から見た「明治への憧標」である。
平成の世から見れば昭和が同じように見える。
 
といったように、どうしても「昭和」の息子、しかも、従順だがひ弱な時代イメージがつきまとうのは致し方ない。
では、「昭和の延長」と考えていいのか、となると当方的にはそうは思えなくて、1995年のWindows95に始まった「インターネット」がデフォルトの技術となったし、「黒電話」という固定式の電話が主流であった「昭和」の時代から、あっという間に「携帯」→「スマホ」と万人のネットの時代へと突入していき、まさに「テクニカル」な「革命」の時代であったと思う。
 
ではあるのに
 
何かがあったとは言えない10年なのに、大きなものが変わってしまっている。頭と身体が別々に反応して、そのまま統合されていないような、そういう嫌な感じがのこる。
だからべつだん00年代の総括をしなければいいだけだ。僕も、べつに無理に総括してもしかたがない。
 
というのが、「平成」の時代の、なにかヌメッとした分かりにくさであるのだろう。とりわけ、失われた20年代といわれて、経済的な停滞の時代であるといわれてはいるのだが、実は
 
90年代は停滞した。不景気の時代だとおもわれていた。とんでもないことだ。われわれは経済的理由で、つまり豊かさ貧しさの指標では、自分たちをはかれなくなってしまったのだ。物理的な尺度を手放した。気分のほうが大事になった。早い稲が、前よりも豊かになってわがままになっただけである。ただ、そう自覚しなかった。つねに悪いのは経済だとおもっていた。
そのまま不景気という、実感を伴わない標語を掲げて、90年代を過ごしてしまった。
不景気というのは「楽しくお祭り騒ぎができない」という気分だけを反映したものであった。
 
ということで、あまりにも経済的な視点だけで、この時代をとらえて勝手に沈んだ気分になっていたのかも、と思わないでもない。
 
しかしながら、一方で
 
高速道路が国の端々まで延ばされ、すべての川に橋が架かり、電話ひとつで大きな荷物をどこまでも運んでくれ、クリックすればあらゆる商品を家まで届けてくれる、しかも一般人は軍事に関わらなくていい社会では、若い男の役目はあまりないのである。
便利になれば、男は要らない。
数千年を超える暮らしにおいて、初めて僕たちはそのことを知ったのである。若い男の力が十全に発揮できる場所がない。
個々に小さく解体された者たちで作られる「便利な都市生活」では、余らせた男子のカをどうやって有効に活用すればいいのか、まだ見つけられていない
 
といった風に、巨大な「母性」で包まれた世界でもあり、
 
ライトノベルだけを読んでいてはまずいというのは、「僕が僕であるだけで、世界は僕を必要としてくれる」なんてζとはまず絶対にありえないし、「美少女が意味なく友人になってくれる」ということも、今生では起こりえないとわかっているからである。でも、抜けられない。
 
といった、ある意味、「非現実」が生身の世界に侵入していきている時代でもあり、
 
システムが洗練されているというのは、こういうことだ。誰もが組み込まれており、誰もがそのシステムの恩恵を被っている。だから、破壊衝動が生まれない。破壊を企画した人物がいたとしても、連帯できないし、アジられるとともない。人類がもともと進もうとしている道の真ん中にあるシステムである。とれを壊すζとは、自分たちの一部を壊すことであるのはよくわかっている。
 
といったように、個々が分断されつつも、全体的の組み込まれている世界でもある。こんなところが、「平成」の時代を覆う、ちょっと実感のない「幸福感」と「疎外感」であるのかもしれない。

さて、昭和は、物理的な側面でも、経済的な側面でも「戦争」の御代であった。平成は、次の年号の世代から、どう表現されるのでありましょうかね。
 

コメント

タイトルとURLをコピーしました