「平成時代」の序章として1980〜1990年代を読み解く — 堀井憲一郎「若者殺しの時代 」(講談社現代新書)

先日、1990年台の終わりから2010年頃にかけての時代風景について論じた、同じ筆者の「やさしさをまとった殲滅の時代」をレビューしたところなのだが、時代風景というものは戦争とか内乱・革命のない限り、ガラッと一挙に変わるものではなくて、連続性のもとにあるのが通常であろう。
であるなら、今の「平成」の時代の萌芽あるいは序章は、1980年台から90年台に準備されつつあると考えてよく、本書を、ある意味1998年から始まる「平成」に先駆ける『「前」平成時代』の時代論評として読んでみた。
 
構成は
 
第1章 1989年の一杯のかけそば
第2章 1983年のクリスマス
第3章 1987年のディズニーランド
第4章 1989年のサブカルチャー
第5章 1991年のラブストーリー
第6章 1999年のノストラダムス
終章 2010年の大いなる黄昏
   あるいは2015年の倭国の大乱
 
となっていて、まずは、当時は聞かないことのなかった「一杯のかけそば」の話から始まり、その現象を通して、
 
自分が貧乏であったかどうかは別として、1972年にはたしかにすぐそこに貧乏があった。貧乏と接してない人はいなかった。
1989年は、その貧乏が伝えられる一番最後のところに来ていたのだ。テールエンドである。ここを過ぎるとたぶんもう意味がわからなくなるだろう、ということで、最後、僕たちは『一杯のかけそば』を賞賛して受け入れ、あっという聞に捨てていったのである。
貧乏を一瞬振り返って、でもその後二度と振り返らなくなった。
そういう意味で、1980年代はまだ貧乏人の時代だった
 
つまり、バブルは貧乏人の懸命のお祭りだったのだ。
 貧乏人が無理をして必死で遊んでいたのがバブルである(P36)
 
と評していて、バブル景気は1986年から1991年までとなっているから、つまりは、「平成」時代の時代的準備は、バブル崩壊後の現象によってなされたといってよさそうだ。
 
で、その現象とは、クリスマスが「大消費」として位置づけられたことであり、バレンタインデーが熱気を帯び、そうした祝祭の象徴として、ディズニーランドが聖地化し、
 
女の子の好きなものが、世界を動かし始めたのだ。男の子はそれについていくしかない。(P82)
 
となり
 
連続テレビ小説の視聴率が高かった時代は、まだ男が元気だった時代である。
オスらしさを前に出せばもてるという幻想を、まだ誰も叩き壊してなかった、古き良き時代である。でもラブホテルからいかがわしさがなくなり、観念的清潔さに満ちたディズニーランドがデート場所になり、クリスマスが恋人たちのものになると、オスくささは無用のものになって、そして連続テレビ小説は見られなくなったのだ。
 
という時代で、ある意味、平成における「女性のオタク」化の先駆け、「母性優先)の時代の準備ととらえていい。
 
また、
 
ポケベル時代は1993年から1997年まで。足かけ五年しかなかった。
ただ、このポケベルによって、個人通信が高校生レベルでも可能になった。(P148)
 
という現象が、平成を彩る、「携帯・スマホ」文化の基礎をつくったことは間違いない。そして、技術の進化は、
 
機械が発達すると、便利になる。人は人と接触しなくてすむ。
便利な世界の困ったところは、二度、その世界に入ると、もう元には戻れないということだ。
 
という世界に誘導し、通信の進化と普及は、地方と都会の間の物理的障壁を突き崩し
 
都市と田舎のバランスも崩れだした。
都市のほうが圧倒的にえらくなりだしたのだ。
都市化が進んでいった。
東京が突出しはじめる。
 
という「平成」を彩る状況の招来であったようだ。
 
ここまで、本書を「前・平成」の時代の社会論として読んだのだが、最後に「不吉な予言」が本書では提示される。
 
そもそも社会システムの1タームの基本はおよそ60年である。
それは一人の人聞が使いものになる期聞が、だいたい60年だからだ。15歳から75歳くらいまで。社会システムの耐用年数と人一人ぶんの生涯と、だいたいリンクしている。それはシステムの継続が人聞の記憶をもとにしているからだ。
(略)
1945年システムは、アメリカ依存型である。
(略)
アメリカが世界で一番強く、アメリカが世界の警察であり続け、日本がアメリカ東アジア戦略の基点であるかぎりは続けられる。でもそんな不思議なシステムを三百年も四百年も続けていくわけにはいかない。どこかで終わる。残念ながら早晩終わるだろう。
早ければ2015年を過ぎたころに、大きな曲がり角仁出くわしてしまう。
僕たちの社会が大きく変わるのは、つねに外圧によるものだ。
アメリカの力と、中国の目論見しだいて、大きく変わってしまう。早ければ2015年に倭の国は乱れる。
 
というものだ。
2018年の今、予言のような「大乱」は生じてはいないが、アメリカの政権交代、中国の専制化と北朝鮮の変化などなど、この予言を匂わせることは起きつつある。「平成」はいうなれば、戦後体制の最後の最後の黄昏といってよく、その「平成」は来年で終わる。さて、次の時代を象徴する言葉が「乱」でないことを祈るばかりである。
 

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