「個人の意見」を集めた「・・・目線」といった分析やプランニングでは失敗する

こんなツィートをした。

こう思ったのは、とある山陰の自治体で「女性だけ」の施策検討チームが、いろんな施策を「女性目線」で点検したり、改善策を盛り込もうと組織された、という地方紙の記事を見てちょっと「ガリッ」ときしんだせいである。

もちろん人類のほぼ半分を占める「女性」の意見や考え方が行政施策や商品開発などなどに、その人口比に見合うだけ反映されているのか、というと疑問のところはあるのだが、いくら「女性」を集め、考えさせても、それはそれぞれの「個人」の限られた経験などに基づくものから脱却できないのでは?という疑問である。商品開発などでモニターの意見をいくら集めても、一般の意見を吸い上げた「普遍的」なものにならない事例とよく似ているのである。

これは「女性目線」の場合だけでなく、「消費者目線」「保護者目線」、はては「オタク目線」などなど、いわゆる「視点」をかえて分析や立案してみようとするときに陥りやすいことで、「個人」をいくら集めて意見を聞いても、それは「個人」の意見を集めたものに過ぎず、「集合知」にならないのである。

「集合知」とするためには、個人の意見を単に集めたり、その属性の人が集まってわやわや会議するより、〇〇世代の地方部に住む△△の「思考パターン」や「生活様式」「休日の過ごし方」といったことを体現した「ペルソナ」をつくって、彼なら、彼女ならこう考えるんだろうな、こう行動するんだろうな、ここは困るだろうなといったことを「想像」していくといったやり方のほうが有効なような気がしている。しかも、しっかりとした「ペルソナ」をつくることができれば、それを運用するのは、その属性の人でなくてもある程度運用することが可能となり、実用性は高くなるのである。なので、とある山陰の自治体のやり方は、ちょっと前近代的かな、と思っている次第である(とある山陰の自治体の女性関係者の皆さんゴメンナサイ)。

ではそういう属性の人が集まってどうこうするのが全く意味がないのか、というとそうでもなく、集まった人たちが、「ペルソナ」を作り上げることの中心になればいいのでは、と思うんである。

ペルソナづくりには、それぞれのベタベタした個人的な経験・体験が基礎にないと、ウソっぽいものしか出来上がらないから、そのあたりへのデータ提供は大事な要素となる。そんなあたりに力を注いでは、と思うんでありますがどうでしょうか。


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