初恋の人、親友の死、そして天保の飢饉を経て「僧」はどこを目指すのか ー 西條奈加「無暁の鈴」(光文社)

西條奈加さんの時代小説は、「善人長屋」をはじめ、人情深いながらも、明るさをもったものが多いように思っていたのだが、本作「無暁の鈴」は、僧侶を主人公としているせいか「暁」にような薄明るさはあるものの、少々暗めの話である。

それは話の舞台でもわかることで、高崎の寒村の貧乏寺、江戸深川櫓下の岡場所、島流し先の八丈島、そして最後の舞台が羽黒山と湯殿山といった設定になっていて、一番明るそうな「八条島」ですら流刑される場所であるので、気候とは別に重苦しいのである。

 

 

 

【あらすじと注目ポイント】

時代は、始まりのころは定かには書かれていないが、最後の羽黒山・湯殿山の修行時代が天保の飢饉の頃なので、寛政の終わりか享和の頃から天保の中頃の頃と思われる。この頃、文化文政の文化の爛熟時代と寛政の改革や天保の改革の行われた緊縮の時代とが交互にやってきていて。価値観があっちこっちする時代である。

本書の筋は、おおまかに「高崎・江戸」「八丈島」「羽黒山。湯殿山」の3つに分けられる。

まず「高崎・江戸」の時代は、この話の基本設定というところで、無暁が武家の出であることや、預けられた寺を出奔した経緯、そして、彼の生涯の友と思う「万吉」と出逢い、江戸の遊郭で顔役になった果に出入りで殺人を犯すまでなのだが、初恋の人「しの」や「万吉」の死といった本書の筋立ての基調となるところですね。

中盤の「八丈島」のところはいわば、無暁は今までの悪行の業の深さに気づいて、「僧」として再び生を受けるところ。最初は島の人はおろか同じ流人仲間からも疎まれていた無暁が、浄化される章ですね。ただ、好意を持ちあった島の有力者の娘と一緒になれなかったのが、娘の母親の反対があったからなのだが、その理由が流人はいつか本土へ帰ってしまうかもしれないから、というのは否応もなく流人を受け入れさせられてきた島の人々の恨みってなものが凝集した発言のような気がしますね。

終盤の「羽黒山・湯殿山」は八丈島からやっと赦免になった無暁が目指したところは、修験の聖地である「羽黒山・湯殿山」。ここで再度、正式な「僧」として得度した彼が千日行といった荒行の末に目指したのは・・・、という展開なのだが、天保の飢饉がその行動を導いたともいえるのだが、うーむ、そこかな〜というのが当方の率直な感想でありますな。少々、アクション満載に成り上がり的時代小説の影響を受けすぎているのかもしれんですね。

【レビュアーから一言】

作者の意図とはちょっと違うのだろうが、当方が本書で一番好きなのは、八丈島の章。その中でも「棘の岬」で彼が毎日唱えた念仏のおかげで、島の人々に受け入れられ、「僧」として再生するところで、全体として暗いトーンの本書の展開の中で、太平洋の島のもつ底抜けの空を青さを思い浮かべさせてくれて、心が寛ぐのだが、読み方としては邪道であるのかな〜。

無暁(むぎょう)の鈴(りん)
無暁の鈴

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