「本能寺の変の真相」の通説をおさえておこう ー 金子拓「信長家臣 明智光秀 」

「信長のシェフ」も第二次木津川の戦が終わった天正6年以降に入って、だんだんと天正十年の明智光秀が織田信長を討つ「本能寺の変」に近づいているわけなのだが、その「本能寺の変」の動機については、諸説あるのは皆さんご存知のとおり。

その「謎」を解くには、いろんなアプローチがあって、光秀の未だ全貌が明らかになっていない、前半生や出自から解き明かすものは、一種の「秘伝」「隠されていた歴史」的なところがあって、好奇心をそそるところはあるのだが、そういうものばかりに偏ると、バランスを欠いてしまうのは間違いない。
本書『金子拓「信長家臣 明智光秀 」(平凡社新書)』は、筆者の東京大学の史料編纂所の教授という役職にある方らしく「良質な史料が残る、信長どりをきちんとたどるなかでこそ、「本能寺の変」の謎に迫ることが可能だろうと考える」という「正統派」のスタンスから書かれた「本能寺の変」と「明智光秀」の人物像である。

【構成と注目ポイント】

構成は

第一章 織田信長と足利義昭のはざまで
第二章 「天下」を維持する
第三章 明智光秀と吉田兼見
第四章 明智光秀の書状を読む
第五章 明智光秀と丹波
第六章 織田信長殺害事件

となっていて、「光秀の前半生に迫るこころみには踏みこない」というスタンスに忠実に、年代的には、室町将軍の足利義輝が殺害され、後の将軍・足利義昭が流転しながら諸国の大名に決起を呼びかけていたころ、すなわち、光秀が将軍・義昭と信長の二君に仕えていた、とされていたことから本能寺の変にいたるまでの間について、光秀の書状や彼の交友・交流関係で残された記録などをもとに、本能寺の変の光秀の動機を推理する、といった仕立てになっている。

そこで描かれている光秀像は、島津義久の弟・家久が伊勢神宮参詣のため上洛した時(ちょうど長篠の戦の頃ですね)に、彼を歓待しながらも、

「織田との束国の陣立の程なれは、なくさみのかたには如何候とて(信長が東国に出陣しているさなか、娯楽のやり方としてどうなのだろうかと考えて、参加していない

であったり、越前攻めがされていた天正二年から天正三年のあたりの

光秀は村井貞勝とともに都市京都の行政に携わり、また朝延o公家に関わる仕事をこなした・そのいっぱうで、大和や摂津・河内など畿内における軍事指揮官としても重要な役割を果たし、越前攻めでも秀吉とともにめざましい活躍をした。さらに、信長が支配下に置いた越前や加賀の戦後処理にも能力を発揮した。これらのことが、信長が安土城に移り、天ド人としての畿内支配を展開するなかで、丹波攻略ゃ「近畿管領」をゆだねられたことへとつながっていったと思われる。

といったもので、主君に忠実で、礼儀正しい「能吏」という姿に描いてますね。このあたりは、「センゴク」に出てくる、化粧をし、神出鬼没に主君・信長を助けながら、天下をどう采配するかの案を練っていた「光秀」像や、ルイス・フロイスが「日本史」の中で描いている「非常に悪賢く狡猾」なイメージとはちょっと違ってますね。

このほか、同僚や部下の武将が負傷をしたり、陣中の不衛生のために病気に罹ったことを見舞う「手紙」「書状」が、豊臣秀吉、丹羽長秀、滝川一益ら光秀の同輩武将の場合はほとんどないに対し、光秀の場合は数多く残されている、といった話や

彼が背負った仕事は丹波攻略のみではなかった。じっくり腰を落ち着けて丹波攻めに専念することができなかったのである。
それは、たとえば天正四年には、関自二条晴良の邸宅を報恩寺の敷地へ移転するための奉行になる(『言経卿記』)など、それ以前の仕事の延長線上にある京都に関わる仕事であったり、大和守護となった筒井順慶よりも上位の立場で大和における問題処理に関わるといった「近畿管領」としての顔、また信長の命に応じて軍勢を率いて丹波以外の場所へ馳せ参じる遊軍(畿内方面軍)の司令官としての顔など、それらを追いかけて述べるだけでそれぞれ一章分の分量になりそうな活動をこなしている。

といったところを読むと、信長政権における、彼の立場の大事さと影響力の多さを改めて感じてしまいます。

で、そんな光秀がなぜ「本能寺の変」(本書では、いろんな説が飛び交う「本能寺の変」という名称をあえて避けて「信長殺害事件」と言っているのだが)を起こした理由としては、従来から出ている

①怨恨説・・光秀が信長に恨みを抱くようなできごとが起きて殺意を生じさせ、それが原因となったとする考え方。
②野望説・・光秀が信長に代わって「天下」を取りたいと考え、信長を討ったという考え方。
③黒幕説・・光秀の背後に彼を動かした(あるいは彼と協力した)人物(朝廷とか)を想定し、光秀に殺害させたという考え方

の3つの説ではなく、怨恨説の変形ともいえる

信長の四国政策転換(長宗我部氏の処遇)の問題や、美濃稲葉氏と光秀との間に起きた斎藤利三・那波直治の召抱えに関する確執

といった天正十年におきた信長との思惑のすれ違いに起因して、家康饗応の席などで相次いで「面目を潰された」ことに求めているのだが、その論拠とかは本書のほうで。

【レビュアーから一言】

「新書」で手軽に読む、オーソドクスな「本能寺の変」の真相としては、光秀の性格的なことにもふれながら、丁寧にまとめてあります。「本能寺の変」の真相というところでは、筆者の説は奇想天外なところは少ないのですが、奇説・珍説を楽しむためにおさえておきべき「通説」として読むにはコンパクトでおすすめです。

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