「10万円給付」に触発されて「ベーシック・インカム」本を読んでみた。

新型コロナウイルスによる所得減少世帯なでへの支援策として1世帯当り30万円の支給から、全国民への一律10万円の現金給付に切り替わったせいなのか、いままで生活保護や生活困窮世帯への支援策として、案としては昔からあったものの、非現実的な施策として無視されていたに近い「ベーシック・インカム」について、関心が高まっているようです。

今回の「10万円給付」については、政治家は辞退しろ、であるとか、高額所得者へ給付した分は税金としてとりかえせ、とかいった議論とか、県職員に支給される分は県の基金として積み立てる、といった知事さんまででてきて喧々諤々であるあるのだが、そもそも、この給付制度の素形とされている「ベーシック・インカム」ってのはなんなのだ、ということで二冊ほど読んでみたのでレビューしておきましょう。

【構成と注目ポイント】

読んだのは『山森亮「ベーシック・インカム入門ー無条件給付の基本所得を考える」』と『井上智洋「AI時代の新・ベーシックインカム論」(光文社新書)』で、それぞれの構成は

『山森亮「ベーシック・インカム入門ー無条件給付の基本所得を考える」』が
 
はじめに ベーシック・インカムとは
第1章 働かざる者、食うべからず
 ー福祉国家の理念と現実
第2章 家事労働に賃金を!
 ー女たちのベーシック・インカム
第3章 生きていることは労働だ
 ー現代思想の中のベーシック・インカム
第4章 土地や過去の遺産は誰のものか?
 ー歴史のなかのベーシック・インカム
第5章 人は働かなくなるか?
 ー経済学のなかのベーシック・インカム
第6章 <南>・<緑>・プレカリティ
おわりに 衣食足りて

『井上智洋「AI時代の新・ベーシックインカム論」(光文社新書)』が

第1章 ベーシックインカム入門
第2章 財源論と制度設計
第3章 貨幣制度改革とベーシックインカム
第4章 AI時代になぜベーシックインカムが必要なのか
第5章 政治経済思想とベーシックインカム

となっているのですが、前著が2009年、後著が2018年で、「ベーシックインカム」を、「収入の水準に拠らずにすべての人々に無条件に最低限の生活を送るのに必要なお金を一律に給付する制度」とすることは同じでも、「AIによる失業」が声高く言われるようになりはじめたことを反映して、後著のほうは、単なる困窮者対策だけでない色合いも持ってきているようですね。

もともと歴史的なことをいうと、ベーシック・インカムは、18世紀末から19世紀初等にイギリスあたりを中心に、共有地や開放耕地の「囲い込み」によって収入の途を失って困窮した人への救済思想としてでてきたもののようなのですが、よりその思想性が端的に現れたのが、「家事労働に賃金を」という運動と密接に関係したあたりで、女性の人権問題と障害者の福祉、あるいは労働運動と関連しての議論が多くなっていたようですね。

さらに、こうした政治的ベクトルの色合いと同時に、「すべての人に、一律に」というところが、「働かざるもの食うべからず」の昔から私達が言い聞かされてきた道徳論と絡み合った、なかなか現実の議論となっていない理由でもあるのでしょう。

そのあたりについては、前著ではヴァン・パレイスの

ベーシック・インカムが保附されているもとでは、生存のために労働を強いられるということはないはずであるから、より多く働く者は、引分の意思でそうしているのであり、市純化のために、金銭に相対的に強い価値を置いていると考えることができよう。他方、より少なく働く者は、m純化すると、時間に相対的に強い価値を置いていると考えることができよう
(略)
後者を「怠け者 Lazy」と呼ぶことがもし許されるのであれば、前者を「クレージlー crazy」と呼ぶことが許されるだろうか、とヴアン・パレイスは論を進める。
ベーシック・インカム制度のもとでは、レージーな生き方も、クレージーな生き方も、あるいはそれほど両極端ではない「どっちつかず bazy」の生き方も、自由に選択することができる

といった反論が紹介されているのだが、これはちょっと難しすぎるな。

むしろ、後著の

特化AIが一つの職業を奪ってしまったとしても、失業者は他の職業に転職することができる。別のいい方をすれば、特化型AIは一つの職業(あるいはそのうちの一つのタスク)と代替的ではあるが、人間そのものと代替的なわけではない。
それに対し汎用AIは、汎用的な知性を持った人間という存在そのものと代替的だ。汎用AIの方も軟体動物のように自在に形を変えて、様々な職業に対応できるからだ。そうすると、汎用AIのコストが人間の賃金よりも低い場合、あらゆる職業において人間の代わりに汎用AIの方が雇われることになる

という議論のほうが、ほとんどの人が「人間の力の限界のために働けなくなる」という現代の課題の中で、どう需要をつくり社会を維持していくか、ということの答えになっているような気がするのですが、当方としては、「働かなくてももらえる」というところに、まだモヤモヤ感が残ります。どうしても近代のピューリタニズムや二宮尊徳的倫理観から脱却するのは難しいですね。

ただ、金銭給付でなく無料の生活必需品の供給は、必要以上にたくさんとってしまう「欲張り消費」により効果をそがれる、といった話や、生活保護などについてまわる「ステイグマ(恥辱感)」の問題などは、社会保障に関連する人間心理の「陰」の部分を教えてくれてますね。

そして、ベーシックインカムが「全員に、一定額を支給する」理由の一つである

生活保護は適用にあたって、救済に値する者と値しない者により分けなければならない。「資力調査」と呼ばれるそのような選別が、多額な行政コストを要するにもかかわらず、しばしば失敗に終わる。不正受給が度々指摘される一方で、生活保護の受給額イカの所得しか得られていないワーキングプアが野放しになっていたり、毎年のように餓死者が発生したりする

ということは、いかに早く、より広く、困っている人を救済するか、を優先した場合と選別することによる行政コストを考えると、ロスや不公平な部分を呑み込んでしまわないといけないところもあるんだな、と今回の「10万円支給」話に関連して印象に残ったところでありますね。

とりあえず、ベーシックインカムに関する新書を二冊読んではみたのですが、今回の新型コロナの補償給付の話とベーシックインカムの話はちょっと区別して考えたほうがよいのかな、という感じです。ベーシック・インカムの話は、今回のような時限的な一回限りのものとごっちゃに語るよりも、おそらくは長く続くであろう「withコロナ」の時代の社会福祉政策として考えていくべきものなんでしょうね。

【レビュアーから一言】

今回は社会福祉政策、貧困救済の関連で、ベーシック・インカム関連本を読んでは見たのですが、なんとなく、AIが普及し、働く場や、人間のやることがなくなっていく世界での生き方みたいな視点で考えていったほうがよいような気がします。
そういえば、筒井康隆さんの「にぎやかな未来」は、Aiで自動化された世界をふらふらと生きていく青年の、明るく虚無的な暮らしを描いていたような気がするのですが、どうだったでしょうか。

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