悪逆の犬公方・綱吉の本当の姿は・・ー朝井まかて「最悪の将軍」

生類憐れみの令や、一度は決着していた高田騒動の蒸し返しをしたり、あるいは、老中を遠ざけて専制型の側近政治を展開したり、といろんなところから批判されることの多い犬公方こと徳川幕府の第五代将軍「徳川綱吉」公を、真面目で野蛮なことが大嫌いな将軍として、新たな視点からとらえ直したのが本書『朝井まかて「最悪の将軍」(集英社文庫)』です。

構成と注目ポイント

構成は

一 将軍の弟
二 玉の輿
三 武装解除せよ
四 萬歳楽
五 生類を憐れむべし
六 扶桑の君主
七 犬公方
八 我に邪無し

となっていて、物語は綱吉の兄である四代将軍・徳川家綱の死期が近いあたりから始まります。
徳川将軍家は、八代理将軍の吉宗のときと、十五代将軍・慶喜のときに系統が代わっているのですが、どちらも直系の男子がいなかったためで、四代将軍・家綱が死去したときは、秀忠直系の子供・綱吉がいながら、加賀の前田綱紀を将軍にするとか、京都から宮将軍を招聘するとか、徳川宗家が将軍位を失う最大の危機を迎えていた時。
この危機的な状況の中で、堀田老中の詐欺っぽいお膳立てのお陰があったにせよ、将軍位を継いだ綱吉には、とんでもない幸運が舞い降りた、という感覚と、旧臣の専横を打破し、将軍に実権を取り戻すという使命感が強かっただろうことが、本書から読み取れるところですね。

で、暴君として扱われることの多い綱吉なのですが、世間の評判に反して、秩序維持を大事にし、平和希求の意識の強いところが本書では強調されていて、それは将軍位を継ぐ時に、御三家や幕閣との合議の場で、自分を面前にしながら、統治の才がないと罵倒して「宮家将軍」を主張する「酒井大老」に対し

宮将軍などを迎えれば、徳川家の権威が地に堕ちるは必至だ。
ただでさえ、兄、家綱の文治政治は酒井の大老政治によって停滞している。このまま徳川家が求心力を失えば、天下取りの機を窺い続けてきた雄藩が次々と狼煙をを上げるやもしれぬ。血を好む古き武士(もののふ)どおは、再び戦場を駆ける日を垂涎の思いで待っている。
綱吉は暗澹として、斜め前に坐する酒井を見た。酒井は薄い笑みを泛べている。
おのれ。うぬの描いた絵図のいずこに大義がある。己が掌中に収めんとしている権益と引き換えに、いかほどこの世が乱れるかわからぬか。

と怒りを覚えたり、酒井大老を干上がらせた上で退けた後、酒井が実質的な決定を下した越後高田藩のお家騒動の裁定を再吟味し、家中の対立を放置した高田藩の藩主・松平光長に対し、

徳川家の藩屏たる者、家中を安寧に治め、争いも穏便に差配するが務めである。それを光長は内乱寸前になるまで手をこまねき、自ら何の対策も講じなかった。
何たる怠慢か。
ただでさえ、火種を見るやそこに火のついた矢を射込み、魂を荒ぶらせる者共が五万といるのだ。一藩の内乱が諸方に飛び火し、またも天下に戦乱を招かぬと、誰が言える。

と自ら、越後松平家をお取り潰しにしたところに現れていますね。ここらあたりは、天下が治まったとはいえ、まだあちこちで火種がくすぶっているのを統制し、幕府統治を万全にした綱吉の事績は評価したほうがよいですね。

これは、戦国時代以来の「価値観」の大改変といってよく、

戦場では、勇んで命を捨てる者が多く必要だったのだ。それが人生の手柄となり、家の誉として子や孫に伝えられてきた。いや、その死をもって手に入れた軍功によって家を保ち、禄を受け取る仕組みであったのだ。
命の重さ軽さだけでなく何を尊ぶかという考えも、生命を受け継ぐ仕組みも異なっていた。
それを五代将軍、綱吉は変えようというのである。
慈愛の心がまさに「文」であり、その力によって武を制し、真の太平を導く

といったところをみると、「太平の世」の到来は、この綱吉が仕掛けた「意識改革」によって完成したといっていいかもしれません。

その意味で、彼の治世の間におきた「赤穂浪士」の事件は、彼が実践し、積み上げてきた政治への反逆といってよく、

「深夜に忍び込むとは、夜盗と同じではないか。武士にあるまじき仕方ぞ」
顎がわななく。
殿中で刃傷沙汰を起こした末に家臣が討ち入りとは、何たる士道ぞ。
いや、彼奴らは武士ともいえぬ。世は断じて許さぬ。
打首だ。

と激怒したのは、彼の思考経路を考えると頷けるのですが、老中の処分案や世間の赤穂浪士への評判を考えると、綱吉の「理想」がこの時点では世間とのズレが生じていたのかもしれません。

レビュアーから一言

世上、評判の悪い「生類憐れみの令」なのですが、本書によると、その根底には

将軍御成りの道筋に大猫が出ても構わぬと触れを出したのは、今から三年前貞享二年のことだ。だが長年の慣いはなかなか改まらず、調べさせれば酒に酔って大猫を斬殺する者がまだ後を絶たなかつた。犬を喰う風習がいまだ残っているためもあったが、事はもつと根深い。
江戸の大名だ敷では主に席狩に用いるため、百匹を超える大が飼育されてきた。が、躾が行き届かず逃げ出す犬もおり、市中に主のいない野犬が増えたのである。餌を与えられない犬は捨子を喰らい、町人の幼子を襲った。
一方、諸国の大名家では今も鷹の餌として百姓に大を上納させる習わしが続いている。

といった事情があるようですが、綱吉の真意はちょっと世の中に伝わらなかったような気がいたします。

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