信陵君率いる五カ国軍、撤退する秦軍を追い詰めるー王欣太「達人伝」26・27

二百年続いた中国戦国時代の晩期。西方の強国・秦が周辺諸国に強大な力を背景に強圧をかけつつあるが、他の五国にまだ、秦の強権的なやり方に反抗する力の残っていた時代に、荘子の孫「荘丹」、伝説の料理人・包丁の甥「丁烹」、周の貴族出身ながらある事情でそれを捨てた「無名」び三人の男が、「法律」と「統制」で民衆を縛る秦の中原統一の野望に抵抗する姿を描く『王欣太「達人伝ー9万里を風に乗りー」(アクションコミックス)』シリーズの第26弾から第27弾。

前巻で安国君の薨去後、王位を継いだ子楚も重病となり、本国帰還が命じられた蒙驁軍に対し、五カ国連合軍が猛追をしていくのが本巻です。
しかし、巧みに兵をまとめて損害を最小限にまとめる絶妙の采配をする蒙驁や戦場へ入り込んでいた秦の太子「政」を追い詰めることができるか、が描かれます。

【構成と注目ポイント】

第26巻 五カ国軍、秦軍を圧倒。そして鯨骨が最期を迎えるが・・

第26巻の構成は

第百五十一話 熱き愛
第百五十二話 勝機の跫
第百五十三話 白馬のじいさん
第百五十四話 覇気、伝播!
第百五十五話 黒い嵐
第百五十六話 宿敵!!

となっていて、秦の牢獄から脱獄し、秦王宮から宝物を盗み出した後は、根拠地で潜んでいた九代目盗跖が、いよいよ秦vs五カ国軍の大決戦へ参加することを決意します。

ネタバレすると、九代目は志半ばで倒れてしまうのですが、しっかり子種は残してあるようなので、展開次第では後巻で十代目の活躍もあるかもしれません。

秦vs五カ国軍の決戦のほうでは、魏の曹賁将軍を倒した董摎将軍に、信陵君の軍師・蔡要、荘丹たち丹の三侠が仇を討うと追いすがります。高齢をものともしない蔡要の猛撃を原書で御覧くださいね。

さらに五カ国連合軍の草創期から義勇軍で参加している楚の項燕と秦の蒙驁将軍の息子・蒙武との一騎打ちが見られます。この二人は、後日、秦が中国を統一する戦いの最終盤に楚で対決をしています。ちなみに、この戦いの前に、キングダムの主人公のモデルとなっている李信が項燕に敗れています。
今回の二人の対決は、項燕優位に進むのですが、蒙武の父・蒙驁が割って入って息子を助け出しています。

さらに、ここで九代目盗跖こと玄修も戦線に加わり、厚みを増す一方の五カ国連合軍は退却する秦軍を攻め立てます。
そこに乱入してきたのが、戦場の中にあって冷酷な目線で戦況を見ていた秦の太子・政と彼の護衛となっている鯨骨です。戦線の後方にいた彼らは、蒙驁軍を追撃する五カ国軍に背後から追いつき、董摎将軍の捨て身の反撃で負傷して後軍にいた信陵君の軍師・蔡要を血祭りにあげます。これを見た「丹の三侠」、盗跖たちが鯨骨へ攻撃を加えるのですが・・・といった展開です。

https://amzn.to/2RNS7mt

第27巻 退却する秦軍、函谷関へ逃げ込み、五カ国軍の重要人物死す

第27巻の構成は

第百五十七話 太子の戟
第百五十八話 アンファン テリブル〜政と邦
第百五十九話 函谷関警護部隊
第百六十話  天命ー終わりの始まりー
第百六十一話 気炎、怒涛のごとく
第百六十二話 宣告

となっていて、前巻の最後で父親の仇敵・鯨骨を斃した九代目盗跖・玄修だったのですが、隙をついて背後から秦の太子・政が彼を襲います。

もともと武術などは修得していないはずなのですが、ためらいのない攻撃は彼の冷酷さゆえでしょうか。確実に盗跖の急所を攻撃し、八代目に続き九代目も非業の死を遂げることとなります。うーむ、こういうキャラの使い方は無駄遣いっぽい感じが残ります。九代目盗跖にはもっと活躍してほしかったところです。

そして、盗跖を斃したのが、秦の太子・政であることに気づいた荘丹は、秦の太子がいることを大声で自軍に知らせます。彼は

と、この太子・政が後に秦の「始皇帝」として行った数々の悪行を予知しているかのようです。

しかし、秦軍のほうも必死です。総司令官・蒙驁自らが太子・政を保護し、国境の函谷関めがけて馬を走らせます。この函谷関に配備されているのは国境警備隊なのですが、他国への侵攻が常態となっている秦国の国軍の中では手柄を上げる機会もほとんどない、国軍内の「底辺」であるようですが、その分、規格外の強兵もいるようです。ここでは警備隊長の麃公、桓齮、楊端和といった秦の全国統一戦争の際に活躍した武将の世に出る前のビフォーの姿を見ることができます。

こんな感じで、強力な武将が次々と投入されてくるのが「秦」の強さなんでしょうね。

https://amzn.to/2RNSdul

レビュアーから一言

秦の太子「政」は荘丹や春申君の軍勢の追撃を受けながらも、函谷関へ逃げ込んでなんとか助かるのですが、そこで

と戦況分析をするなど、冷静というより冷酷な側面を見せています。まるで「白起」の思想が入り込んでいるようです。これは、実父の呂不韋も

と評しているほどなのですが、この傾向は生来のものなのでしょうか、あるいは7年間の趙での幽閉生活で形作られたものなのでしょうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました