「戦の時代」を再び振り返ってみよう=本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル』

ロシアのウクライナ侵攻といった21世紀のヨーロッパで起きるとは思ってもいなかった武力侵攻・衝突のリアルがおきて、防衛問題や、国際外交といったことが新型コロナ・ウィルスにかわって世の中の話題の中心となっていたのですが、この日本でも80年ほど前は世界を相手に戦争をしかけて敗北し、それより前も、幕末の動乱(「明治維新」というきれいな言葉はあるのですが、内情は「内乱」ですよね)、応仁の乱に始まる下剋上の戦国時代と「戦乱」がごく身近にあった時代がありました。

その中でも鎌倉、戦国時代に中心をおいて、「軍事」「戦乱」の歴史を『今』の視点で捉え直してみたのが本書『本郷和人『「合戦」の日本史 城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル(中公新書ラクレ)』』です。

構成と注目ポイント

目次を紹介しておくと

第一章 合戦の真実
 合戦とは何か
 なぜ日本史では軍事研究はタブー視されたか
 合戦は人間の「命のやりとり」であることに立ち返って考える
 合戦における勝敗の大前提
 合戦における勝敗の大前提
第二章 戦術ードラマのような「戦術」「戦法」はあり得たか
 戦術のリアルを考える
 いかに兵の士気を上げるか
 奇襲戦のリアルを考える
第三章 城ー城攻め・籠城・補給・築城
 なぜ城攻めをするのか
 城郭とは何か
 籠城とは何か
 「本城+1」の戦いとは何か
 兵站が勝敗の鍵を握る
 築城戦を考える
第四章 勝敗ー勝利に必要な要素とは
 合戦の勝敗を改めて考える
 敗戦は指揮系統の崩壊によって引き起こされる
 農民たちの士気を上げる

となっていて、まず、「はじめに」のところで、戦国時代以降、集団戦・総力戦となる中で、多くの農民が戦場に駆り出され、「殺すのも殺されるのも恐くてたまらない」、武士から見れば「臆病者」が「戦」の中心だったとしてるところに注目しましょう。戦国モノのドラマや小説では、武将や侍といったところが中心となって描かれることがほとんどなのですが、このあたりから本書のスタンスが異なっていることがわかりますね。

このスタンスのユニークさというのは第二章の「戦術ードラマのような「戦術」「戦法」はあり得たか」のあたりに顕著に表れているようで、時代劇の戦国モノは「合戦」の取り上げ方が、武将中心というか、個人と個人の戦闘というベクトルで描かれることが多く、戦の勝ち負けも名だたる武将の死亡数で判断したりすることが多いのですが、筆者は勝ち負けの判断基準に「合戦の目的」という視点を持ち出してきています。

なので、例えば武田・上杉の引き分けないしは有力武将が多く戦死しているため武田勢の敗北と語られることの多い「川中島の合戦」なのですが、筆者はこの合戦の焦点は「北信濃の領有権争い」にあるとして

武田軍は副将や重臣を失いながらも、最後まで戦場となった北信濃に残っていました。この地を諦め、撤退したのが上杉軍なのです。実際にこの戦いの後も、北信濃一〇万石は、武田信玄の支配下にあり続けました

ということで、武田勢の「勝ち」と判定しています。川中島の武田信玄と上杉謙信の一騎打ちのシーンで、もうちょっとのところで信玄を討ち損ねた謙信に同情する謙信ファンにはちょっと許しがたい分析かもしれませんね。

さらに、織田勢vs武田勢の戦いについても

①戦いとは数である
②経済を制した者が勝利する

という、ある意味、ロマンのかけらもない、(筆者いわく)「勝利の大原則」から、通常では戦国一の強兵集団「武田」勢に挑む「弱小な」織田勢という説を覆して、「100石あたりおよそ兵士3人の動員力」という数式に基づいて

20年かけてやっと甲斐、信濃60万石を手に入れた武田信玄。30代半ばで、150万石を手に入れた織田信長。信長が天下統一までリーチをかけられたというのは、ある意味、必然だったとも言えます。仮に信長と信玄が正面から戦えば、兵力に換算すれば4万人対1万5千人と圧倒的な兵力の差で、信長が負けるはずがありません。
言うなれば、生まれてきた場所の違いが大きかったのです。この地政学的な差は決定的でした。

と身も蓋もないことをおっしゃいますし、信長が奇襲戦で一躍名を上げた「桶狭間の戦」にしても、今川義元の支配地であった駿河・遠江・三河あわせて70万石と信長の当時の支配地が尾張57万石を比較すると、動員できた兵力は今川が1万5000人、信長が1万人と、けして織田方が極端に寡兵であったとはいえないと分析しています。

こうなると、たいていの大河ドラマの感動的な筋書きはちょっとお手上げになるので、ドラマ的には、軍事など語らずに「武将同士の戦い」にスポットライトをあてたほうが受けがいいような気がします。

このほか、集団戦が中心になり、戦闘の中心が武士と言う戦闘のプロ集団から、足軽と言うアマチュアへと中心が移っていった戦国時代において

昨日まで鍬や鋤を持っていた農民が、槍や刀を持って戦場に放り出されるわけですから、はっきり言って、怖くて仕方ない。逃げ出したいと思うのが当然です。ですからそういう人間で編成された軍隊がそのまま、「島津の釣り野伏せ」のような戦術を速やかに遂行できたかというと、いささか疑問なのです。

と、いわゆる「軍師」が考える意表を突く戦術を否定したり、

秀吉が亡くなった後に政権を支えている石田三成や長束正家ら五奉行たちは皆、補給のプロ、兵站のプロなのです。つまり、秀吉の政権というのは、戦場で槍を振り回して戦う人間よりも、きちんと兵站のことを考え補給を実行することができる人間が中枢を担っていたと考えたほうがいいでしょう。

と合戦における「兵站」「補給」の重要性が改めて指摘されていたりと、リアリスティックな戦国史が展開されています

レビュアーの一言

筆者によると「戦乱」「軍事」というのが戦後、歴史研究で「タブー視」されてきたということで、いわゆる個人プレーに着目したものではなく、それぞれの「領国」全体の「合戦」「戦」の分析が進んでいなかったのかもしれません。

ただ、2022年当初の東ヨーロッパの国際情勢をみても、世界は「平和的な話し合い」だけでは対立が解消しない時代に再び戻っているようです。こんな時代に自らの「羅針盤」を手に入れるために、かつて我が国にあった「戦の時代」の総合的な分析が必須なような気がします。

「合戦」の日本史-城攻め、奇襲、兵站、陣形のリアル (中公新書ラクレ 758)
戦後、日本の歴史学においては、合戦=軍事の研究が一種のタブーとされてきました。このため、織田信長の桶狭間の奇襲戦法、源義経の一ノ谷の戦いにおける鵯越の逆落としなどは、「盛って」語られはしますますが、学問的に価値のある資料から解き明かされたこ...

コメント

タイトルとURLをコピーしました