戦国期の北九州が舞台の若き武将の恋と戦の青春群像=赤神諒「立花三将伝」

北九州の豊後、豊前、築後に覇を唱えた、鎌倉以来の武家の名門「大友一族」の戦国末期の興廃をテーマにした「大友二階崩れ」「大友落月記」や「大友の聖将(ヘラクレス)」といった作品で北九州の戦国絵巻を描き、(失礼ながら)あまりメジャーとは言えない地方の戦国史を時代・歴史小説の全国級に押し上げた筆者による、大友氏と毛利氏の狭間に翻弄された「立花氏」を支えた若き武将たちの姿を描いたのが本書『赤神諒「立花三将伝」(講談社文庫)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

序 関ケ原前夜
第一部
第一章 立花の二俊
第二章 それぞれの主君
第三章 敗残の知将
第四章 折れかんざし
第二部
第五章 憧れの将
第六章 決別
第七章 西郷原
第八章 筑前擾乱
第九章 哀しき金獅子
第十章 鬼と虎
結び

となっていて、序章のところでは、関ケ原の戦いが始まる前、京極高次の居城・大津城を包囲する立花宗茂の陣中から始まります。大津城の降伏が決まり、城の受け取りが近づく中、立花家の重臣・薦野家の嫡男・吉右衛門に、同じく重臣の米多比三左衛門が、彼の本当の父親、かつて立花鑑戴が大友に叛旗を翻した時に敗死した武将の子供であると告げる所から始まります。激しく反発する吉右衛門に、三左衛門が当時の戦乱のことを語り始め・・という筋立てです。

本筋の物語は、関ケ原の戦から遡ることおよそ40年前の北九州の筑前から始まります。この地を領する立花家の城下の藤木家の剣術の稽古場に腕試しにやってきた米多比三左衛門がが、この藤木家の惣領息子で、始終酒を呑んで酔っている藤木和泉にあっさりと負かされ、弟子入りすることとなります。

弟子となった三左衛門は、和泉の妹の佳月の頼みで、絶交中の和泉と、同じく立花家の重視の薦野一族の嫡男・弥十郎との和解を画策することとなるのですが・・という筋立てです。

第一部のあたりは、本来は仲のよいはずなのに、双方が意地っ張りのためなかなか和解できない和泉と弥十郎、主君・立花鑑戴の姫君ながら藤木家で暮らしている皐月と藤木家の一人娘・佳月を慕う男達の様子など、立花家の未来を担う「立花の二俊」(和泉と弥十郎)、「立花の二佳」(皐月と佳月)と三左衛門たちの姿が描かれています。

もっとも、ふわっとした戦国青春物語風の味つけはあるものの、彼らの家を取り巻いている政争の臭いや、立花家を取り巻く、北九州の大友家、中国地方の毛利家、宿敵の宗像家の思惑も渦巻いていて、あまり平雄な青春物語とはいかないようです。

第二部はそれから七年後、三人は立花勢を支える猛将となった藤木和泉、軍師となった薦野弥十郎、彼らのもとで一隊を率いる武将となった三左衛門と成長の姿を見せています。しかし、七年の間に、主君・立花鑑戴が大友に叛旗を翻しながら失敗し、和泉の父は謀反の責任をとって切腹し、三左エ門の家は謀反に反対したため幽閉されるという目にあっています。

この謀反は毛利勢の支援を得て計画されたもので、このため家中に親・大友派と親・毛利派の対立が生まれています。さらに、以前は盤石であった大友家の北九州支配も、大友の由六家臣であった高橋鑑種の反乱や、山陰の尼子を滅ぼし、中国地方の多くを手中にした毛利家の攻勢といったことから、大友家の支配が揺らぎいで立花家の周囲はほとんどが毛利方となってしまい、それに従って、家中の対立もが激しくなってきています。

三人の藤木家、薦野家、米多比家は以前とかわらず「大友派」に属しているのですが、藤木和泉が、藩主・鑑戴の娘・皐月を嫁にもらい、藩主の義理の息子となったあたりから、雲行きがあやしくなってきます。

もともと主君の立花鑑戴は実家を大友義鑑によって滅ぼされ、その際に実兄が殺されたことから、大友家からいつか独立することを胸中に秘めていたのですが、立花家内の有力者で家内での勢力伸長を図る安武右京と組んで毛利と手を結び、手土産に大友派の重鎮である三左衛門と弥十郎のそれぞれの父親を血祭りにあげ、大友家で二度目の謀反を起こしたことから、和泉=毛利派、三左衛門、弥十郎=大友派と別れて戦い合うこととなります。

一方、謀反を起こされた大友方では、「戦神」と呼ばれ、九州内で怖れられている猛将・戸次鑑連が大軍を擁して、立花家殲滅のために向かってきます。立花山城を舞台に繰り広げられる戦の行方は・・ということで、ここからは原書のほうでお楽しみくださいね。

レビュアーの一言

この「立花鑑戴の謀反」は1568年におき、この敗戦によって立花鑑連は戦死、嫡男の親善が生き延びたものの「立花家」復興は許されず、謀反を鎮圧した戸次鑑連の養子・統虎(後の立花宗茂)によって家名が継がれているのですが、実質的には「名跡」だけもらったような感じなので、宗家の系統は断絶したと考えていいでしょうね。

この謀反を藤木和泉は最後まで止めようとしていたのですが、2年後の1570年に今山の戦いで竜造寺隆信に敗れ、1578年に島津義久に耳川の戦いで大敗しているので、結果論ではありますが、もう少し時機を待っていてもよかったのかもしれません。

ただ、その後、豊臣秀吉の九州攻めが行われるので、謀反自体が「悪手」だったのかもしれません。

ちなみに、本書の主人公となる「藤木和泉」は作者のフィクションかな、と思っていたのですが、作者がこの作品について語ったインタビューによると、この「立花鑑戴の乱」で激戦地となった西郷原の戦いで敗れた人物として、地元史には残っているようですね。

(この作品についての、「Tree」による作者のインタビュー記事はこちらからどうぞ)

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