名所絵の浮世絵師「歌川広重」の見事な「遅咲き」の大成功=梶よう子「広重ぶるう」

八代洲河岸の定火消同心を務めながら浮世絵の副業をはじめ、東海道五十三次の宿場を描いた名所絵を世に出し、その藍色の美しさから、ヨーロッパで「ヒロシゲ・ブルー」と呼ばれ、ゴッホやモネなどの「印象派」に大きな影響を及ぼした、江戸後期を代表する浮世絵師・歌川広重の「遅咲き人生」を描くのが本書『梶よう子「広重ぶるう」(新潮社)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

第一景 一枚八文
第二景 国貞の祝儀
第三景 行かずの名所絵
第四景 男やもめと出戻り女
第五景 東都の藍

となっていて、冒頭では、馬場先門外の八代洲河岸の定火消御屋敷内の同心長屋で、喜多川歌麿などの錦絵を版行している老舗の版元・栄林堂の主人「岩戸屋喜三郎」から説教されている、本篇の主人公「歌川広重」こと定火消の安藤重右衛門の姿から始まります。

数日前に店に顔を出すよう言われていたのをすっぽかしたのが原因なのですが、けして画業が忙しくて暇がなかったというわけではなくて、版元からの依頼はほとんどなく、岩戸屋から紹介された曲亭馬琴のところへ絵を持参して草紙の挿絵の依頼を期待したのですが、全く音沙汰なしで、現在では有名な「広重」像とは真逆で「売れない絵師」の典型のようです。

この当時、広重は家付き娘だった母と入婿にはいってきた父を相次いで亡くし、定火消同心の家督を継いだのですが、家禄はわずか三十俵二人扶持のため、生計を助けるため浮世絵を描いているのですが、それが全く「売れない」という境遇です。

世間の評判では、美人画は「色気がない」、役者絵は「似ていない」、春画は「そそらない」ということで、酷評ばかりですね、彼は、自分が売れないのは、同じ歌川門下でも売れっ子の「豊国」門下に入れず、その兄弟弟子の「豊広」門下に入ってしまったせいだと自分を納得させているのですが、葛飾北斎や渓斎英泉といった自身の才能でのし上がってきた絵師もいることで、その僅かな自負も崩れていきます。

そんな中、葛飾北斎が藍摺で富士山を三十六景描く「富嶽三十六景」と、渓斎英泉の絵買描いた団扇への「藍色」に魅せられます。それは、ドイツのベルリンでつくられ、はるばる輸入されてきた「ベロ藍」と呼ばれている藍色の顔料です。広重は、彼が好む江戸の景色をこの「藍色」を使って描かせろと版元にねじ込むのですが・・という展開です。

残念ながら、この時に刊行された「東都名所」の錦絵はほとんど売れず、江戸の風景画によって売れっ子になるのを夢見ていた広重の思惑は大外れになるのですが、これがきっかけになって、新興の版元「保永堂」から、江戸っ子の「旅好き」なところを狙って「東海道五十三次」の名所絵を出さないかという企画が入ります。

京都の朝廷へ馬を献上する「八朔御馬進献」の随行として上京し、途中の景色を書き留め続けた経験に裏打ちされた、広重のこの名所絵は大当たりをとり・・ということで、「広ヒロシゲブルー」といわれ、ヨーロッパの印象派に大きな影響を与えた広重の「快進撃」が始まります。このとき、すでに広重は30代後半になっていたのですから、当時の平均寿命が33歳から44歳といわれることを考える、相当の「遅咲き人生」といっていいですね。

そして、東海道や京都、近江を題材にした広重の名所絵は、幕府の奢侈禁止令が厳しくなり、歌川国貞の美人画・役者絵や歌川国芳の武者絵が厳しく取り締まられる中、人気がどんどん高まっていきます。

しかし、度重なる飢饉と倹約令のために、景気はどんどん悪くなり、浮世絵を取り巻く環境も厳しさを増していくのですが、そこにおきたのが江戸を中心とした大地震です。江戸を中心部を壊滅状態にした「安政江戸大地震」です。多くの人々が家を失い、地震で起きた火事で焼け出され避難生活となり、さらに広重の愛した「江戸」の名所が破壊された状態で、彼がとった行動は・・ということで、歌川広重晩年の傑作である「名所江戸百景」の誕生秘話へと展開していきます。

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レビュアーの一言

歌川広重こと安藤重右衛門の生家の家業である「定火消」は、今川翔吾さんの「羽州ぼろ鳶組」シリーズでは、加賀藩や新庄藩の大名火消や、町火消にくらべて、安定した地位に安住していて評判はあまりよくないのですが、今巻中では、重右衛門も炎にまかれながら、取り残された老婆を救出したり、と火消しとして活躍をしています。

ちなみに、定火消は明暦3年(1657年)に四千石以上の旗本四家に火消し屋敷を与えて火事を常時警戒する体制をとったことに始まり、宝永四年(1707年)には旗本十家に増やし、駿河台、小川町、四谷門内、八代洲河岸、御茶の水、半蔵門外、赤坂門外、飯田橋、市谷左内坂、赤坂溜池に火消し屋敷が置かれていて、それぞれが寄騎6騎、同心30人、臥煙100人から200人の大部隊が常置されていたようです。
広重が若い頃を過ごした「八代洲河岸屋敷」は今の千代田区丸の内二丁目の「明治生命館」のあたりにあったといわれています。

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