熊撃ち猟師は鳥居耀蔵の陰謀でスナイパーになる=井原忠政「人撃ち稼業」

ベストセラーシリーズ「三河雑兵心得」で、大軍を率いて敵を殲滅する武将でも、お家の犠牲になる姫君でもなく、槍一本を手に戦に出て、こつこつと功を積み上げて出世をしている百姓上がりの戦国武士の物語を描いている筆者が、江戸時代の後期、11代将軍。家斉から12代将軍・家慶へ代替わりする天保の頃、熊撃ち猟師あがりのスナイパーを描いたシリーズの(おそらく)第1弾が本書『井原忠政「人撃ち稼業」(時代小説文庫)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

序章  朝、川原で
第一章 罠に落ちた狩人
第二章 気砲と狭間筒
第三章 度胸試し
終章  邂逅

となっていて、物語は天保12年の一月、相州丹沢、現在の神奈川県の北西部に広がる東西約40キロ、南北約20キロの丹沢山地から始まります。この山系は最高峰の蛭ケ岳でも1673mと中程度の標高なのですが、尾根と谷沢が複雑な地形を形成し、東京圏から近いことから登山者に人気のあるところですね。

この丹沢山系の「大山(おおやま)」近くの伊勢原の高台に住む三代続く熊撃ち猟師の「玄蔵」がこの物語の主人公です。猟師というと、つい矢口高雄さん系の「マタギ」を思い浮かべてしまうのですが、玄蔵は曾祖父が引退した猟師から借金の担保流れで手に入れた火縄銃を使って、祖父が撃った熊が10両で売れたことから農業をやめて熊撃ち猟師となったことから始めたもので、古来から猟を生業とするマタギのような由緒正しい猟師ではありません。

ただ、熊撃ちの技術のほうはかなり優秀で、神田佐久間町の廻船問屋・平戸屋で女中をしていた美人で気立てのよい女房・希和と息子の誠吉、娘の絹と一緒に不自由なく暮らしているという境遇です。

しかし、ここに、幕府の目付・鳥居耀蔵の配下で徒目付をしている「多羅尾官兵衛」という侍が訪ねてきて、「ある仕事を引き受けてもらいたい」と持ちかけてきたところから、彼の境遇が激変していきます。
多羅尾は、玄蔵がその仕事を引き受けないようであれば、妻や子が「隠れ切支丹」であることを暴露すると脅し、江戸へ連れてこられるのですが、多羅尾のいう「ある仕事」とは、鳥居耀蔵が指名する「悪党を撃つ」スナイパーの仕事です。

熊や鹿は撃ったことはあっても、人を撃ったことはない玄蔵はなんとか断ろうとするのですが、妻子が隠れ切支丹という、天下の御法度を犯している秘密を握られ、妻と子供はどこかに囚われ、さらに妻・希和の奉公していた平戸屋にも脅しが入っていることを知り、やむなく承諾するのですが、狙撃する悪人の数はなんと「十人」と大量です。さらに、玄蔵の狙撃の腕を確かめるため、約50m先で妻。希和と子供たちが頭上に掲げる「蜜柑」を撃ち抜くという、和風ウィリアムテルもどきの試験を受けることになり・・という筋立てです。

今巻の後半では、「十人の悪人狙撃」を実行するため、スナイパーの玄蔵のほか、プランニング担当の、気障で女癖の悪い蘭学者「是枝良庵」、標的となる人物の似顔絵を描く絵師の「千波開源」、玄蔵の監視役兼護衛の冷たい美貌の女忍者「千代」、徒目付の「多羅尾官兵衛」というチームが組織され、盗賊の手引きをした罪で鈴ヶ森の刑場で処刑される商家の丁稚が刑吏の槍で苦しんで絶命するまでに、眉間を撃ち抜いて絶命させるという初のスナイパー業務を遂行することとなるのですが、その詳細は原書のほうでどうぞ。

このほか、スナイパー仕事に使われる、気砲、今の空気銃を入手したり、大型のライフル銃・狭間筒を手配するあたりは、当時の銃のコアな知識が手に入ります。

Bitly

レビュアーの一言

鳥居耀蔵は水野忠邦の下で渋川忠直、十三代後藤庄三郎とともに水野三羽烏と呼ばれ、目付や南町奉行として市中統制にあたり、渡辺崋山などの蘭学者の弾圧をした人物として有名です。ただ、天文や医術など実用的なものはその価値を認めているので、ひょっとすると、彼の権勢欲・出生欲が影響しているのかもしれません。

ちなみに時代劇では「遠山の金さん」こと遠山景元を邪魔するボスキャラとして登場することが多いですね。

作中の玄蔵が希和の掲げる蜜柑を撃ち抜くエピソードは、鳥居はごりごりの守旧派で、西洋の学問や西洋風は大キライで、ウィリアム・テルの故事を知っていたわけではないでしょうから、作者によるお遊び的エピソードと思われます。

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