幕末の狂乱踊りの陰に坂本龍馬の陰謀が隠れている?=谷津矢車「ええじゃないか」

江戸時代の末期、慶應3年の8月から12月にかけて、近畿、四国、東海地方でおきた、地域の神社やお寺の御札が撒かれたことをきっかけに、つながりのない民衆が集団となって「ええじゃないか」という囃子言葉を唱えながら踊り狂った社会現象「ええじゃないか」に関わった、幕府の御庭番と扇動者を描いたのが本書『谷津矢車「ええじゃないか」(中央公論新社単行本)』です。

あらすじと注目ポイント

構成は

三河国編
幕間
京都編

となっていて、ざっくりいうと「三河国編」が「ええじゃないか」の発祥譚、「京都編」がそれが発展して日本の政治を揺るがす社会現象となった秘密が描かれています。

まず「三河国編」は、流れ者の渡世人・普八が、浜松の宿場で「ましら」と名乗る老婆に、賭場の負けを負担してもらったいきがかりで、老婆から博打の儲けを奪おうとするヤクザ者を殺してしまうところから始まります。これがきっかけで、普八は老婆から用心棒に雇われ、老婆に同行している「乙吉」という子供と三人連れで旅をしていくことになります。

で、吉田宿までやってきた三人は、そこで起きた「打ちこわし騒動」の原因が、休みがほしい若衆と村を治める乙名衆との反目にあり、最近、近くの王西村で木の上から「御札」が降ってきたことを理由に、若衆が「祭り」の開催を要求して騒動になりかけていることを知ります。「ましら」はこの対立を利用して、双方の仲介をして一儲けを企むのですが・・という展開です。

一方、もう一人の主人公となる、幕府の御家人・和多田市之丞という青年も浜松で「増多屋」という旅籠の暖簾をくぐろうとしています。彼の家系は徳川吉宗が創設した幕府御庭番を務めていて、今回、浜松と名古屋の中間地点にある、松平刑部大輔信古が治める「三河吉田宿」でおきた打ちこわし騒動を調べるために、当主である父・権兵衛とともに幕命を請けて派遣されてきています。当時、御庭番の活動は、各地で商売をしながら調査・諜報活動をする「御用町人」を使って行われるのが通例で、権兵衛と市之丞はこの地域を所管する「増多屋」に宿泊しながら、その調査結果を待つこととなります。
しかし、初めての「御用」で、やる気満々の市之丞は、実際の調査を行う「増多屋」の娘・お里とともに自ら調査を始めるのですが、それはかえって「お里」の邪魔をするばかりで・・という筋立てとなっています。

そして、王西村の騒動で一儲けし、さらに他の村へも「祭り」の開催を通じた二重仲介で稼ごうとする「ましら」や「普八」の動きを掴んだ市之丞とお里が彼らを捕らえようと乗り出すのですが、そこに、普八を江戸から追ってきた殺し屋・大鉈の正十郎と、市之丞の講武所の先輩で正十郎を追ってきた関八州を取り締まる関東取締出役を務める藤井が絡んできて、という筋立てで、吉田宿近くの市場港を舞台に大アクションシーンが展開されていきます。

そして物語の後半となる「京都編」では、市場港から船で脱出したましらと普八と乙吉の三人組と彼らを追って京都までやってきた市之丞とお里が描かれます。
ましらと普八と乙吉の三人組は、市場港から船出して伊勢へと逃れたのですが、そこから奈良、京都へと、吉田宿でおこした「御札降り」と「祭礼の仲介」で荒稼ぎをしながら移動してきています。そして、南山城のあたりで、「御札降り」の祭りで踊る人々に、「ましら」の故郷で踊る盆踊りをアレンジした踊りを「エエジャナイカ」踊りと名付けて伝授したところ、これが大受けして、「ましら」と「普八」たちがプロデュースする祭りではこの踊りがついてまわることになっています。この踊りの指導を「乙吉」がやっているわけですね。

そして、一つの流行現象となった「ええじゃないか」に、ある維新志士が目をつけます。それが大政奉還を実行して、政治の実権を徳川幕府の専制から徳川家と諸藩との合議制へと移行させることを考えている「坂本龍馬」です。彼は、普八たちに京のあちこちで「ええじゃないか」踊りとそれに伴う打ちこわしの騒動を起こさせることによって世情不安を巻き起こすことを考えている、というわけですね。
この坂本の企みを請けて、「ええじゃないか」踊りを誘導する普八たちに対し、新選組の屯所に寄宿した市之丞とお里が、新選組の隊士とともに騒動の調査に乗り出してきて、という展開です。

市之丞たちの追及をかわしながら「ええじゃないか」踊りを拡散していく普八とましらなのですが、いつしか「ええじゃないか」は彼らの統制のきかない社会現象となっていきます。京都のあちこちで無差別的に発生する「ええじゃないか」踊りの中で、再び普八を狙ってきた大鉈の正十郎と彼を追う関東取締の藤井、そして市之丞たちによる四つ巴のバトルが、今度は京都を舞台に繰り広げられていきます。

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レビュアーの一言

筆者も参考文献にあげている『「ええじゃないか」の伝播』によると「ええじゃないか」現象は
①第一段階:慶応3年5月、長州征伐の高札が下ろされた後、京都の三条大橋で集まった群衆が踊り始めたことをきっかけとした社寺参詣が始まる。
②第二段階:6月半ばから三河地方で御桑百年祭が始まり、この「御札降り」と「ええじゃないか」踊りが三河から尾張、遠江、駿河へと広がっていく
③第三段階:9月から大和伊勢街道沿いに久々の豊作を祝って伊勢の「御蔭祭」が再現され、京都へと広がっていく
④第四段階:10月14日の大政奉還をきっかけに京都で大爆発し、大阪へ伝播。さらに中国四国へと広がっていく。9月頃までに駿河まで広がっていた「ええじゃないか」がさらに東進し、江戸市中まで広がる。
⑤第五段階:12月9日の王政復古とともに終熄へと向かう
の五段階に分類されていて、東海・近畿を中心に西は中国・四国を経て福岡の博多まで、北は長野、福井あたりまで、東は江戸を経て、埼玉の大宮、千葉の房総半島まで及ぶ大狂乱となっています。
ただ、本書によると学術的には攘夷志士たちによる扇動活動の痕跡は見つかっていないらしいのですが、トンデモ史的にはそのほうが面白いですよね。

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