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若者は「地元」は好きだが、田舎が好きなわけではない — 阿部真大「地方にこもる若者たち」(朝日新書)

地方に在住し、上昇志向よりも地元で仲間たちと仲良く暮らしていく、新しい地方在住層を見出した「ヤンキー経済」が2014年に出版されている、本書は2013年出版であるので、ほぼ、「ヤンキー経済」の論考と軌を一にする。しかも、本書の対象が「岡山・倉敷」といった地方中枢都市をとりあげていることで、「ヤンキー経済」の現象が全国的な現象であることを証明しているようだ。
 
構成は
 
現在編 地方にこもる若者たち
 第1章 若者と余暇
 第2章 若者と人間関係
 第3章 若者と仕事
歴史編 Jポップを通して見る若者の変容
 第4章 地元が若者に愛されるまで
未来編 地元を開く新しい公共
 第5章 「ポスト地元の時代」のアーティスト
 第6章 新しい公共のゆくえ
 
となっていて、本書の注目点は、今現在の分析だけではなく、「歴史編」で
 
BOOWYの楽曲で歌われる自分らしさとは、何らかの充実した中身がそこにあるわけではなく、(あるとしてもたいして重要ではなく)自分らしさを抑圧するものに背を向けること自体にある(P101)
 
から
 
(B’Zの)曲には、社会への反発というモティーフは一切なく、現状のシステムのなかでいかに生き抜き、自分の夢を叶えるかということが歌われる(P115)
 
へと、そして、
 
ミスチルは、不安定な社会において変わらないもの(キミとボクの世界)を探し求め、そこに精神の安らぎを見いだす「関係性」とでも余分べき表現の方法をとった。・・・ここで重要になるのは、890年代後半の「関係性の時代」はB’Z的なギラギラした「自分らしさ」をも消し去ったということである(P129)
 
と、時代のヒット・ソングに、その時代の若者をリードする「思想性」を明らかにしたことであろう。
 
筆者の分析する、「いまどきの若者」像を見てみると、イオンモールが
 
彼らにとって、それは楽しむ場所のない家のまわりを離れ、1日かけてドライブを楽しみ、ショッピングを楽しみ、映画を楽しみ、食事を楽しむことのできる、極めてよくできたパッケージであり、まさしく「遠足」と呼ぶにふさわしい余暇の過ごし方なのである(P25)
 
であって、一見すると「地元が好き」といった平板な分析に陥りがちなのだが、筆者はその先の
 
若者の「地元志向」が強まっていると言うとき、彼らの思い描く「地元」の姿は、旧来の「地元」の姿とまったく違うものになっていることに注意しなくてはならない。彼らがノスタルジーを感じる「地元」とは、モータライゼーション以降の「ファスト風土」、ショッピングモールやマクドナルドの風景なのである。そしてそんな郊外の姿に若者たちはノスタルジックな気持ちすら抱き始めている(P87)
 
 
(地元志向の若者が)地元が好きなのはわかるのだが、都会と田舎という単純な二項対立で彼らの地元志向を理解しようとすると間違うことになる。・・彼らが愛してやまないのは、昔ながらの田舎ではなく、ショッピングモールやコンビニ、ファミレスが立ち並び、マイホームとそれらの間を自由に車で行き来することのできる快適な消費空間である。つまり彼らは地元は好きだが田舎が好きなわけではない(P150)
 
といったところに及ぶことによって、地方公共団体の繰り広げる「移住定住」策が陥りがちの「田舎賛美」が、実は、呼び返したい若者の志向とは微妙にずれてしまう可能性のあることを示していることは、地方行政関係者はもっと認識しておくべきであろう。
 
さて、筆者は
 
彼女ら(ギャル)が「地方にこもる若者たち」を外に向かって開くポテンシャルをもっていることは明らかである。
彼女らの特徴は、第一に身近な人間関係の多様性に意識的だということである。だから同室的な仲間集団に対する愛着心は強い(だからギャルはギャル同士でつるむ)。・・・そのうえで、異質な他者とのコミュニケーションのチャンネルを確保している。これは「統合」と呼ばれるモノで、極めて高度なコミュニケーション能力が必要とされるものである。
 
と、地方のこもる若者たちが新しいステップに上がっていくキーワードに「ギャル」のもつ「聞き上手」な点に注目し、彼女たちに、今までの男性文化からの強制的な「同化」ではなく、それぞれの個性を尊重しながら、まとまる「統合」への可能性を期待している。
 
これから、AIやテレワークの進化によって、彼女たちの手法が中心となって、今までの強権的な「統合」や「吸収」ではなく、地方に若者が「在住」しながら、緩やかに「まとまっていく」。そんな社会のあり方がでてくると嬉しいですね。
 

「アート」を「贅沢品」と考えているうちに、日本の文化的優位性は下がっているのかも — か宮津大輔「現代アート経済学」(光文社新書)

「アート」「芸術」といえば、なにかしらハイソサエティで、高尚で、どちらかといえば「贅沢品」という印象が強い。そのため、財政が厳しくなると、真っ先に切り込まれるものの代表格であるのだが、そうした「アート観」を揺さぶってくるのが本書。
 
構成は
 
第1章 アートの経済力と政治性
第2章 アートが地域の鍵を握る
第3章 アートフェアの時代
第4章 過熱するアジアのオークション
第5章 時代を動かすキー・プレイヤー
終章 経済は文化の僕ー日本文化の過去・現在・未来
 
となっていて、本書によれば、ヴェネチア芸術祭は
 
統一から5年後、ヴェネッィアはイタリア王国にようやく編入されたものの、共和国としての独立的地位を失っただけでなく、イタリア統一に出遅れたことで、そのプレゼンスは著しく低下していました。
長引く低迷を脱するため、ヴェネッィア市は1895年に第2代イタリア国王ウンベルトー世(1844〜1900年)の銀婚式を記念し、国王夫妻臨席のもと、「第1回ヴェネッィア市国際芸術祭」を開催します。
会期中に躯万人以上もの観客が集まるという大成功を収めたため、これ以降、同市は隔年の芸術祭開催を決定、万国博覧会をモデルとして事業の拡大を図っていくことになります。
 
であったり、韓国は
 
初の大型国際展を開催するにあたって「都市おこし」型の「ヴェネッィア・ビエンナーレ」ではなく、政治的なメッセージを世界に向けて発信する「ドクメンタ」を、その範にしたといえます。
 
であるそうだから、芸術祭というのも、実はとても地域振興的な、あるいは国威をあげるといった、少々「生ぐさ」なものを包含しているものであるらしい。
 
しかし、日本の場合は
 
ところが日本は、政権交代(特に民主党による事業仕分け)や東日本大震災の多大な影響から、継続的なノウハウ蓄積や、長期的な視野に立った戦略の立案・実行が遅々として進んでいません。

といったことが実情であるらしく、その辺は認識不足というよりも、日本人の「アート」「芸術」に関する「聖域観」が影響しているように、当方的には思う次第。このあたり、国王や大富豪の行った自分の勢威を見せるデモンストレーションの側面を否定しない欧米的な考え方に比べて、日本人の好む「求道」と芸術が結びついてしまったことの負の影響を感じざるをえない。すくなくとも、「芸樹」を地域振興のテーマとするなら、このあたりは邪魔になるよね、と思う次第。
 
ただ、各国の芸術祭が過熱し
 
「都市おこし」のための国際展も、狭い国土の中で増え続ければ、自ずと淘汰が進み、明確な独自性、差異化を打ち出せなければ、アジア諸国に大きく水をあけられるといった事態を免れません。
 
といった事情がありつつ、
 
税収の低下にともなって、公立美術館の維持・運営や、新しい所蔵作品の購入が年々困難になっていく中で、・・・このままでは、古美術から現代アートまで、国内にある名品・優品は海外へ流出する一方であり、新しいアートの価値創りを行う人材も枯渇してしまうでしょう。私たちの楽天的な誤解とは異なり、残念ながら電化製品やデジタル端末機器同様、日本の文化的プレゼンスは、今やアジアの中で著しく低下し続けています。
 
といった苦い現実は噛み締めなければなるまい。クール・ジャパン、日本の伝統・職人の技は素晴らしい、と自画自賛しているうちに、足下の亀裂はどんどん大きくなってしまっているような気がしますね。果たして、日本文化は、その価値を保てるんであろうか?「工場の論理」に我々はあまりにも傾注しすぎているのかもしれない。
上っ面の生産性向上やら地方創生やらでがちゃがちゃしているうちに、根幹の優位性が落とし穴にはまり込んでしまっているかもしれませんね。
 

主人公の「お末」ちゃん、頑張れと声援をおくってしまう時代小説 — 西條奈加「上野池之端 鱗や繁盛記」(新潮文庫)

時代は、田沼意次が威勢をふるってから50年ぐらい後、徳川十代将軍家斉の治世も最後のほうに差し掛かった頃、半分以上騙されて、田舎から上野池之端の料理茶屋「鱗や」へ奉公にだされた「お末」を主人公にした時代小説である。
 
収録は
 
蛤鍋の客
桜楼の女将
千両役者
師走の雑煮
春の幽霊
八年桜
 
の六編。いずれも、一話完結型のミステリー仕立てである。
半ば、騙されて、というのは、お末が奉公にでる原因は、従姉妹で、先にその店へ奉公に出ていた「お軽」が持ち逃げした金の責任をとらせるためであったのだが、そのことを知らされずに奉公にだされたからなのであるが、その「お軽」の話も、「鱗や」の店のもっと大きな謎へ結びついているので、読者の方も、あまり信用し過ぎて読み進むと、作者の仕掛けるどんでん返しに、嵌ってしまうのでご注意を。
 
一話ごとの「謎」は、料理茶屋とか名ばかりで、連れ込み宿代わりに使われる店でおきることなので、例えば、「蛤鍋の客」の二人連れの客の煙草入れが盗まれる話であるとか、二話目の「桜楼の女将」での浅草今戸の料亭「桜楼」での病身の主人殺しで、女将が疑われる話など、けして社会全体を揺るがす大事件はない。だが、それに巻き込まれたり、女将の濡れ衣を心配する「お末」の健気さに感情移入させていくに十分な仕立てではある。
 
もう一つの愉しみは、話にでてくる料理。「桜楼の女将」の「桜めし」であったり、「師走の雑煮」の鮟鱇を使った「白雪雑煮」であるとか、描写は控えめながら、その料理の姿と旨味を想像しながら読んでいくところであろう。
 
バリバリの時代小説というより、時代小説の枠を借りたミステリーというイメージが強い本書なので、あれこれと筋立てをレビューするとネタバレがすぎてしまうが、最後の方で明らかになる「鱗や」の先代にまつわる謎や「お軽」が逃げ出した顛末は、ちょっと陰惨な風が漂うのだが、時代小説の大定番である「勧善懲悪」の原理原則はちゃんと守られているので、大安堵でる。
 
 
主人公の「お末」が奉公に出たての頃は、あらゆるものに怯える田舎娘であったのが、鱗やの若旦那・八十八朗の助けを借りながら、同僚の女中・お甲や板長の軍平らとなじみ、成長していく姿は読んでいて、おもわず彼女を応援したくなる清々しさも覚える時代小説でありますね。
 

江戸の下町風味の庶民的ピカレスク・ロマン — 西條奈加「善人長屋」(新潮文庫)

騙りや情報屋、あるいは盗品故買といった裏稼業をもちながら、表面的には、「善人」として暮らしている輩が集まった長屋に、裏稼業のない「指物師」の加助という男が引っ越してくる。さて、何が起きるか・・・・。といった設定で始まるのが本書。
 
収録は
 
善人長屋
泥棒簪
抜けずの刀
嘘つき紅
源平蛍
犀の子守唄
冬の蝉
夜叉坊主の代之吉
野州屋の蔵
 
と、それぞれが独立した掌編なのだが、頭の先から爪先まで善人の「加助」が人助けで引き込んでくる「被害者」たちを長屋の面々が、その裏稼業の技を使いながら助けていく、というのが共通点。
 
もっとも、この長屋の住人の裏稼業というのがかなり魅力的なものが多くて、唐吉・文吉兄弟の裏稼業は「美人局」なのだが、その「美人」役の「おもん」は絶世の美女なのだが、その正体はなんと・・、といったあたりがその象徴。
 
そして、懲らしめる相手も、自らの許嫁を嫉妬から殺した同僚の侍であったり、男女の仲になっていることを隠すために、縁者のいない嫁をもらい、彼女を殺した義母と息子であったり、とか、表面は真っ当な風をしているが、一皮むけば邪悪さ極まりない輩であったり、人殺しをなんとも思わない盗賊であったり、であるので、作者の仕掛けにのっかって、長屋の小悪党たちの活躍を応援してしまうのである。
 
最初の話の「善人長屋」では、実家の質屋の商売(裏稼業の方だけど)を嫌っていた、「お縫」が、加助の持ち込む人助けの案件の数々を、長屋の住人たちの力を借りて解決していくうちに、自家と長屋の住人に誇りをもっていく姿が、ピカレスクものではあるが、ほんわりとした暖かさを感じさせる一作でありますな。
 

シルバー世代が持つ隠された力とは — 寺島実郎「シルバー・デモクラシー 戦後世代の覚悟と責任」(岩波新書)

日本のベビーブーム世代(団塊の世代)とは1947年〜1949年に生まれた層で、この期間の出生数は合計すると800万人を超えるらしい。この団塊の世代も今は70代にさしかかろうとしているわけだが、本書は、この団塊の世代を先頭に昭和20年代の終わりぐらいの世代についての論述。なのであるが、この本で取り上げる世代が当方にとても近く、レビューが難しいなー、というのが本音ではある。
 
構成は
 
第1章 戦後民主主義の総括と新たな地平
 ー「与えられた民主主義」を超えて
第2章 戦後世代としての原点回帰
 ー1980年という時点での自画像
第3章 それからの団塊の世代を見つめて
 ー21世紀に入ってからの二つの論稿
第4章 2016年参議院選挙におけるシルバー・デモクラシーの現実
 ーなぜ高齢者はアベノミクスを支持するのか
第5章 2016年の米大統領選挙の深層課題
 ー民主主義は資本主義を制御できるのか
第6章 シルバー・デモクラシーの地平
 ー結論はまだ見えない、参加型高齢化社会への構想力
 
となっていて、第1章から第3章までは、筆者の戦後世代についての以前の論述の再掲。第4章から最終章までが、それを踏まえての、さて、その戦後世代(筆者は昭和20年代生まれを戦後第一世代、昭和30年代以降生まれを戦後第二世代と読んで区別すべきとしている)についての論述である。
 
戦後世代といっても年齢もとり、世の中に影響力など何もないのでは、と思われる向きもあるかもしれないが、それに対して筆者は
 
英国のBREXITに対し、43歳以下の若者の多くが反対したことは・・言及したが、米大統領選挙においても、出口調査などを参考に判断すると、若者の多くは究極の選択の中で、トランプよりもヒラリーに表を入れた。・・ここでも世代間ギャップが際立ち、シルバー・デモクラシーの陰の問題が透けて見えるのである(P135)
 
と、実はその影響力がバカにならないことをまず示していて、
 
都会の高齢化は容易ならざる問題を顕在化させつつある。80年論稿の主役とした都市新中間層、つまり、都市近郊型の団地、ニュータウン、マンションなどに人口を集積させて産業化を進めたためにつくりだされた存在が、いま急速に高齢化し、それらの人たちの精神状況、社会心理が、これからの日本のシルバー・デモクラシーの性格を決めかねないような重要な要素になってきている
サラリーマンとして企業、団体、官庁などで働き、つまり機能集団としてのゲゼルシャフトに帰属じていた人生を送ってきた人たちは、ひとたびそこから去ったら、多くの場合、もはややることがないのである。
 
この社会的に孤立化しかねない高齢化した都市新中間層の社会心理が時代を動かすマグマとなって蓄積されつつある。(P166)
 
 
とあるように、これからの国の方向性を左右するのは、人口ボリュームとして多い「高齢層」が力を依然もっているということをまず押さえておかなければなるまい。そして、これらを踏まえながら筆者は、
 
高齢化し単身化している都市新中間層を、再び社会的な接点を拡大して、経済的にも精神的にも安定した主体にしていく構想(P172)
 
が必要であるとし、
 
やがて日本人は「食と農」に関われることが幸福の要素であり、そうした参画の仕組みを通じた社会との接点の拡大が、シルバーデモクラシーの質を高めることに気づくであろう。「食と農」を至近距離に引き寄せる社会システムを実現することが、高齢者に安定した豊穣な人生をもたらし、日本の産業構造を一段と重心の低いものにするであろう。(P177)
 
と、最近のリニア新幹線構想など新しい交通インフラも使いながら、都会と地方をつなぐ、新たな「農本主義」を提唱するのであるが、当方の思考は「戦後世代の影響力」といったところで立ち止まってしまう。
 
というのも、平成28年の人口統計で、60歳から70歳までの人口の合計は約1970万人、全体人口約1億2700万人の15%である。2040年代には高齢者が人口の4割を占めるという推計はさておき、選挙権は一人一票であることを考えると、現在においても、その影響力は巨大であるといっていい。そして、筆者の提案はありつつも、その「戦後世代」の動きは方向付けられておらず「バラバラ」のように思えるのである。すなわち「混沌」が我が国の方向性を決めているということではなかろうか。
 
といって「では・・」と方向性を提案することは本ブログの本旨ではない。「混沌」が力をもっていること、「混沌」が支配するところは方向性が予測できないゆえに「予測できない可能性」も秘めていること、そしてなんとなく、そんな「可能性」がよき可能性であることを期待していること、を表明して、まとまりがつかなくなったので本稿は終わりとするか。
 

「天保の改革」の本当の姿はどうだったのか — 西條奈加「涅槃の雪」(光文社)

時代小説でよくある時代設定は、江戸時代では、武張ったものでは享保、幕末。町人ものでは、元禄、文化文政といったところが多いのだが、本書は、遠山の金さんこと、遠山北町奉行を登場人物に加えるとはいえ、時代的には少々暗い、天保時代である。

収録は

茶番白洲

雛の風

茂弥・勢登菊

山葵景気

涅槃の雪

落梅

風花

となっていて、遠山景元が北町奉行として登場するあたりから、天保の改革の嵐がう吹き荒れ、突然に水野忠邦の失脚と側近たちの処刑まで。主人公は、北町奉行所の吟味方与力の「高安門佑」で、彼が、端女郎の「お卯乃」に出会うところから物語は始まる。

その後、遠山景元の部下として市井の情報を入れる任務を与えられ・・といった形で、天保の改革によって、江戸の華である芝居や、商売の基礎であった「株仲間」の破壊の現場に立会うといった、”改革”による庶民の暮らしの大変化の集合体が本書である。

であるので、主たる読み方は、遠山景元、矢部定謙といった庶民派と、水野忠邦、鳥居耀蔵といった改革断行派とのせめぎあいが読みどころであるのだが、通常なら「悪役」としての色合いが強い「改革断行派」も実は、幕府の行く末を慮っての所作であり、しかも立脚点が、食を断って自死した矢部の死に方をめぐって、お卯乃の

どんなに泣いて頼んでも、常松は食わなかった……あたしら一家は、常松の命を食って生き延びたんだ!

という言葉と、鳥居耀蔵の

先の飢饉で餓死した民百姓のおうが、よほど無念というものだ

あの飢饉で、国中でどれほどの百姓が餓え死んだことか。それを承知であのような死に様は、ご政道を預かる者として言語道断だ

という言葉が重なる時、どちらが正か邪か、グラついてくる。

とはいうものの、こうした四角張った物語の読み方以外に、お卯乃が高安の家に「お預け」になって、同じ屋根の下で暮らし始め、彼女の越中での弟との悲しい思い出を聞いたり、江戸市中の見回りや芝居見物を一緒にしたりとか、くっつきそうでくっつかない二人の仲をやきもきしながら読み進める別の楽しみもある。

二人の仲がどうなるか、最後の方でおもわぬ仕掛け人によるどんでん返しがあるのだが、それは本書でお確かめあれ。

血湧き肉躍る活劇でもないし、胸がすっきりする捕物もないのだが、なにやらしっとりと読める時代小説でありますよ。

「51対49で勝利できれば御の字」と肩を押してくれる先達のアドバイスは嬉しい — 出口治明「本物の思考力」(小学館新書)

最初に乱暴な感想をいうならば、「また叱られたけど、頑張れよ、肩を押してもらったな」というところ

なにせ、昨今の、「日本人エライ」の論調の向こうをはって「誤解を恐れずに言ってしまうなら、僕は「日本人の特性」など存在しないとさえ思っています。」から始まるんである。

構成は

第1章 根拠なき「常識」が蔓延する日本

第2章 日本の教育を再考する

第3章 腹に落ちるまで考え抜く

第4章 怠け癖には「仕組み化」

第5章 構想する力

となっていて、ライフネット生命に会長から、今は環太平洋大学の学長に就任された出口治明氏の、考えることを放棄している日本人への警鐘と辛口のエールが本書。

 

警鐘というあたりは

日本の戦後復興は「ルートが目の前に一本道でハッキリと見えていた状態で臨む登山」だったわけです。

日本人の「考える力」が弱いのは、キャッチアップモデルによる戦後経済の価値観がそのまま続いていることも一因ではないでしょうか。

といったところに明らかで、工業モデルに特化してうまくいっていた日本の戦後復興。高度成長の思考形態・行動形態が制度疲労を起こしているということを認識しなればいけないようで、このあたり、地域振興といえば工業誘致と求人確保がすべてといった、地方政府の役人たちはこの人の声に耳を傾けたほうがよい。

かといって、成長モデルを小馬鹿にして、精神的な豊かさを偏重する輩に対して

「酸っぱいブドウ」の心理は、ある種の退行現象といえます。経済成長を目指さなくてもいい、と唱える人は、これからの日本をどう生き長らえさせていくつもりなのでしょうか。精神的な豊かさを追求すれば、これからの時代を生きる子どもたちに素晴らしい社会を残していけるのでしょうか。

といった論調は切れ味が尖すぎて、怪我人が出そうではある。

 

とはいいつつも、辛口のエールであるのは、日本人の工業モデルに偏した思考形態の硬直性や、英語ができても「話すべきコンテンツ」が「少ない」といった教養不足を批判したり

日本社会の不幸な点は、社長は偉い、部長は偉い、課長は偉い……といった具合に、単なる機能にすぎない組織内でのポストが、社会的評価と同一視されていること

と断じる一方で、「人間はみんなチョボチョボである」という視点を提示しながら

人間、「おもしろそうだ」と思えたら、勝手に手が出てしまうもの。それなら、楽しく仕事ができるように、自分で設計図をつくってしまえばいいのです。

どうしても納得いかないのであれば、その場所にこだわる必要はありません。「この職場は、自分の能力を評価できない人々の集まりだ」と考えて、他の職場を探せばいいのです。置かれた場所で咲くことにこだわる必要は、まったくないと思います。置かれた場所で咲ければそれでいい。でも、頑張っても咲けないのであれば、咲ける場所を探せば、それでいいのです。世界は広いのですから。

自分のことを評価してくれない組織であれば、他に自分のことを評価してくれる組織を探せばいい

といった単方向ではない、複線的な道筋をすすめてくれるあたりで、この辺は、日本生命時代に出世競争で涙を飲みながら、その後ライフネット生命の立ち上げなどの飛躍をした氏ならではの説得力がある。

しかも、こうしたエールは、普通なら次世代を担う「若者」に向けてされることが多く、当方のような定年間近に年配者は放っておかれることが多いのだが、氏の著述の場合は

僕は医師に「どうすれば健康寿命を延ばせますか」と尋ね歩いたことがあります。答えは全員「働くこと」でした。

働く元気があるお年寄りには、できるだけ長く働き続けてもらうほうがいいのです。  そうであれば、政府がまず着手すべきは「定年制の廃止」です。それを政策として打ち出し、法定すれば、それだけで状況は一気に好転すると考えます。

人間は誰でもいまがいちばん若いのです。明日になれば1日分歳をとります。やりたいことや、おもしろいことに、みなさんもっともっとチャレンジしましょう。 「環境が、あなたの行動にブレーキをかけるのではありません。  あなたの行動にブレーキをかけるのは、ただ一つ、あなたの心だけなのです」

といったところが嬉しいところである。

さて、本書によれば「51対49で勝利できれば御の字です。」とのこと。若者を助ける意味で、年配者もひと頑張りしましょうかね。

 

「今」は、威勢のよい進軍ラッパより、クレバーな撤退戦のプランが必要な時なのかも — 平田オリザ「下り坂をそろそろ下る 」(講談社現代新書)

登山では、上りよりは下りのほうが難物で、下手をすると足腰を痛めたり、高山であれば下山の方が命を落とす確立が高いという。
国の勢いも、人生も同じらしく、高みに登った後で、それからどうするかが一番の難所であるらしい。
 
本書は、劇作家・演出家の平田オリザ氏が、「日本」という国の「今」について論述したもの。その視点は「劇作家とは、つくづく因果な商売だと思う。およそあらゆる職業の人々は、人間の幸せを願うように出来ている。しかし劇作家は、人々がどうすれば困るかだけを考えている。いつも、意地悪な視点でものを見ている。」と自身が言うだけあって、温かいようで冷静であるのだが、けして冷たくはない。
 
なので、いわゆる地方の人口流出に対しても
 
大学の教員を一五年やっていて、「地方には雇用がないから帰らない」という学生には、ほとんど会ったととがない。彼らは口を揃えて、「地方はつまらない。だから帰らない」と言う。そうならば、つまらなくない街を創ればいい。
あるいは、地方に住む女性たちは口を揃えて「ζの街には偶然の出会いがない」と言う。そうであるなら、偶然の出会いが、そとかしζに潜んでいる街を創ればいい
 
と雇用創出や企業誘致が人口減少対策の特効薬であるかのような、地方行政の動きにちょっと斜からの視線が関係者としては少々痛いのだが、
 
豊岡市の方針は、「東京標準では考えない。可能な限り世界標準で考える」というものだ。東京標準で考えるから若者たちは東京を目指してしまう。しかし、世界標準で考えていれば、東京に出て行く必要はなくなる。あるいは出て行っても戻ってくる
 
という当方の住まう所と近い市の地方都市への温かい目線は嬉しい。
 
で、話を日本の「今」の戻すと、氏によれば
 
私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ととに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がつきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。
一つは、日本は、もはや工業立国では・ないというとと。
もう一つは、もはや、との国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだというζと。
そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないというζと
 
といういささか寂しい認識でいなければならないようで、当方のように高度成長の少し後に生を受け、バブルを経験し、といった右肩上がりの時を経験している者にとっては、かなりの勝ち点感が必要となる。
そして、その時のリーダーシップの在り方も、今までの勇ましいあり方だけではなく
 
これからの日本と日本社会は、下り坂を、心を引き締めながら下りていかなければならない。そのときに必要なのは、人を、ぐいぐいとひっばっていくリーダーシップだけではなく、「けが人はいないか」「逃げ遅れたものはいないか」あるいは「忘れ物はないか」と見て回ってくれる、そのようなリーダーも求められるのではあるまいか。滑りやすい下り坂を下りて行くのに絶対的な安心はない。オロオロと、不安の時を共に過ごしてくれるリーダーシップが必要なのではないか
 
ということであり、
 
いまの日本と日本人にとって、もっとも大事なことは、「卑屈なほどのリアリズム」をもって現実を認識し、ζこから長く続く後退戦を「勝てないまでも負けない」ようにもっていくこと
 
であるらしい。
 
本書の始まりは。司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」の冒頭をもじって「まことに小さな国が、衰退期を迎えようとしている。」というくだりから始まり、「そろそろと下る坂道から見た夕焼け雲も、他の味わいがきっとある。夕暮れの寂しさに歯を食いしばりながら、「明日は晴れか」と小さく舷き、今日も、ζの坂を下りていこう。」というくだりで終わる。
 
当方を含め、国の成長期を知っている世代の務めは、しっかりと撤退戦の殿軍をつとめ、若い世代に引き継ぐことであるかもしれない。その撤退戦の後にこそ、新たな地平線を次世代が見出すことができるのかもしれませんね。
 
 

プリニウスを通して描かれる「ローマ帝国」の健全さと退廃 — ヤマザキマリ「プリニウス」(新潮社)1〜6

テルマエ・ロマエで一挙に人気作家となった、ヤマザキマリ氏がとり・みき氏と組んでのローマもの。
個性ある二人の合作で、しかも題材が、稀代の博物学者プリニウスである。
物語はヴェスヴィオ火山の噴火の場面から始まるのだが、これは全体のプロローグ。第一巻は、プリニウスの書記官となるエウクレスと、噴火直後のエトナ山の麓で出会うところから始まる。
いまのところ、6巻までしか出版されていないので、全体の展開をどうこういえないのだが、プリニウスの諸国遍歴の旅の物語というよりも、プリニウスの歩く、特にポンペイを廃墟にしたヴェスヴィオ山の噴火をはじめとするローマとその周辺地域の自然と、皇帝ネロに代表される都市国家ローマの退廃が、このシリーズの主人公であるような感じ。
ただ、それらを演ずる役者たちが、プリニウスとその護衛官フェリクス、書記官エウレクスをはじめとして、哲学者にして大金持ちのセネカ、皇帝ネロ、その妻のポッペイアなどなど。塩野七生氏が火をつけた「ローマ好き」の人々には、とんでもなく垂涎モノには違いない。しかも、山や野原、街の佇まいなど、背景描写が、もう本当に精緻で唸らせられること多し。
さらには、ウニコルズス(ユニコーン)や頭がなく口と目が胸についているブレミュアエ族とか革の紐のようなヒマントポデス族とか、妙ちきりんなものもでてくるので、諸星大二郎ファンにも向いているのかもしれない。
なにはともあれ、「アナザー・ローマ人の物語」的な奇妙な魅力に溢れたシリーズであることには間違いないですな。

菓子の甘さに隠された江戸の「家族」の人情話 — 西條奈加「まるまるの毬」(講談社文庫)

親子三代で営む、小さな江戸の菓子屋「南星屋」を舞台にした時代小説。
 
収録は
 
「カスドース」
「若みどり」
「まるまるの毬(いが)」
「大鶉(おおうずら)」
「梅枝(うめがえ)」
「松の風」
「南天月(なんてんづき)」
 
の7編。
 
主人公は、五百石の旗本の次男でありながら、菓子屋となっている「治兵衛」、その娘の「お永」、孫娘の「お君」、そして治兵衛の弟で大刹・相典寺の大住職「石海」が主人公たち。「主人公たち」と書いたのは、解説でも触れられているように、一人ひとりではなく、彼ら「家族」が活躍する「ファミリー・ストーリー」として読みべきであるから。
 
そして、店の主「治兵衛」が実は高貴な武家の落し胤で、幼い頃、実の親から各地の銘菓が届けられていたことや、修行の過程で全国の菓子屋を渡り歩いて、諸国の名物といわれる菓子をつくることができる、というのが設定の肝。このために第1作目の「カスドース」では、平戸藩の門外不出のカステラ菓子の製法を盗んだ疑いをかけられるし、最終話の「南天月」で、次兵衛一家だけでなく、実家の岡本家が大きな災厄に見舞われる原因ともなる。
 
本来なら一話ごとにネタバレ寸前のレビューをするのが、この書評ブログの常であるのだが、この「まるまるの毬」は、一話一話が独立しているのだが、全体として、家族がまとまって危難に対応し危難を切り抜けていく物語であるんで、今回は一話ごとのレビューはパス。
それは、最終話で、南星屋を陥れようとした柑子屋の「あんたは何ひとつ失くしてなぞいないのだから」という捨て台詞にも現れていて、家族が一つであれば何も恐れることはない、という昔ながらの家族神話の物語として、この一冊を読むべきだろう。
 
そして、この話のキーになるのは「お菓子」。でてくるものをいくつかレビューすると「まるまるの毬」の
 
ゆでた栗を裏ごしし、砂糖をまぜて弱火で練る。手順は栗餡と一緒だが、水の加減を少なくして、粉ふき芋のようにぽろぽろとさせる。これを団子の上半分にまんべんなくまぶして、いが餅にするつもりであった。
 
とか、「松の風」の
 
小さめの歌留多の札にような、四角い薄焼きを手にとって、しげしげとながめる。・・・見てくれは煎餅に近いが、干菓子のひとつであった。
水に白砂糖を煮溶かし、麦粉を入れて、よく練って桶に寝かせておく。冬なら七日、夏なら三日で、表面にぷつぷつと泡が出てくる。そこへさらに白砂糖を加えてかきまぜて、薄くのばして焼いたもので、表にはたっぷりと白胡麻をかけてある
 
という「松風」という菓子であるとか、ちょっとお目にかかれない当時(?)の菓子の風情を楽しむのも一興。殺人事件とか盗みとかの物騒な話はでてこない、少々軽いタッチの人情時代小説でありますな。