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「アート」を「贅沢品」と考えているうちに、日本の文化的優位性は下がっているのかも — か宮津大輔「現代アート経済学」(光文社新書)

「アート」「芸術」といえば、なにかしらハイソサエティで、高尚で、どちらかといえば「贅沢品」という印象が強い。そのため、財政が厳しくなると、真っ先に切り込まれるものの代表格であるのだが、そうした「アート観」を揺さぶってくるのが本書。
 
構成は
 
第1章 アートの経済力と政治性
第2章 アートが地域の鍵を握る
第3章 アートフェアの時代
第4章 過熱するアジアのオークション
第5章 時代を動かすキー・プレイヤー
終章 経済は文化の僕ー日本文化の過去・現在・未来
 
となっていて、本書によれば、ヴェネチア芸術祭は
 
統一から5年後、ヴェネッィアはイタリア王国にようやく編入されたものの、共和国としての独立的地位を失っただけでなく、イタリア統一に出遅れたことで、そのプレゼンスは著しく低下していました。
長引く低迷を脱するため、ヴェネッィア市は1895年に第2代イタリア国王ウンベルトー世(1844〜1900年)の銀婚式を記念し、国王夫妻臨席のもと、「第1回ヴェネッィア市国際芸術祭」を開催します。
会期中に躯万人以上もの観客が集まるという大成功を収めたため、これ以降、同市は隔年の芸術祭開催を決定、万国博覧会をモデルとして事業の拡大を図っていくことになります。
 
であったり、韓国は
 
初の大型国際展を開催するにあたって「都市おこし」型の「ヴェネッィア・ビエンナーレ」ではなく、政治的なメッセージを世界に向けて発信する「ドクメンタ」を、その範にしたといえます。
 
であるそうだから、芸術祭というのも、実はとても地域振興的な、あるいは国威をあげるといった、少々「生ぐさ」なものを包含しているものであるらしい。
 
しかし、日本の場合は
 
ところが日本は、政権交代(特に民主党による事業仕分け)や東日本大震災の多大な影響から、継続的なノウハウ蓄積や、長期的な視野に立った戦略の立案・実行が遅々として進んでいません。

といったことが実情であるらしく、その辺は認識不足というよりも、日本人の「アート」「芸術」に関する「聖域観」が影響しているように、当方的には思う次第。このあたり、国王や大富豪の行った自分の勢威を見せるデモンストレーションの側面を否定しない欧米的な考え方に比べて、日本人の好む「求道」と芸術が結びついてしまったことの負の影響を感じざるをえない。すくなくとも、「芸樹」を地域振興のテーマとするなら、このあたりは邪魔になるよね、と思う次第。
 
ただ、各国の芸術祭が過熱し
 
「都市おこし」のための国際展も、狭い国土の中で増え続ければ、自ずと淘汰が進み、明確な独自性、差異化を打ち出せなければ、アジア諸国に大きく水をあけられるといった事態を免れません。
 
といった事情がありつつ、
 
税収の低下にともなって、公立美術館の維持・運営や、新しい所蔵作品の購入が年々困難になっていく中で、・・・このままでは、古美術から現代アートまで、国内にある名品・優品は海外へ流出する一方であり、新しいアートの価値創りを行う人材も枯渇してしまうでしょう。私たちの楽天的な誤解とは異なり、残念ながら電化製品やデジタル端末機器同様、日本の文化的プレゼンスは、今やアジアの中で著しく低下し続けています。
 
といった苦い現実は噛み締めなければなるまい。クール・ジャパン、日本の伝統・職人の技は素晴らしい、と自画自賛しているうちに、足下の亀裂はどんどん大きくなってしまっているような気がしますね。果たして、日本文化は、その価値を保てるんであろうか?「工場の論理」に我々はあまりにも傾注しすぎているのかもしれない。
上っ面の生産性向上やら地方創生やらでがちゃがちゃしているうちに、根幹の優位性が落とし穴にはまり込んでしまっているかもしれませんね。
 

主人公の「お末」ちゃん、頑張れと声援をおくってしまう時代小説 — 西條奈加「上野池之端 鱗や繁盛記」(新潮文庫)

時代は、田沼意次が威勢をふるってから50年ぐらい後、徳川十代将軍家斉の治世も最後のほうに差し掛かった頃、半分以上騙されて、田舎から上野池之端の料理茶屋「鱗や」へ奉公にだされた「お末」を主人公にした時代小説である。
 
収録は
 
蛤鍋の客
桜楼の女将
千両役者
師走の雑煮
春の幽霊
八年桜
 
の六編。いずれも、一話完結型のミステリー仕立てである。
半ば、騙されて、というのは、お末が奉公にでる原因は、従姉妹で、先にその店へ奉公に出ていた「お軽」が持ち逃げした金の責任をとらせるためであったのだが、そのことを知らされずに奉公にだされたからなのであるが、その「お軽」の話も、「鱗や」の店のもっと大きな謎へ結びついているので、読者の方も、あまり信用し過ぎて読み進むと、作者の仕掛けるどんでん返しに、嵌ってしまうのでご注意を。
 
一話ごとの「謎」は、料理茶屋とか名ばかりで、連れ込み宿代わりに使われる店でおきることなので、例えば、「蛤鍋の客」の二人連れの客の煙草入れが盗まれる話であるとか、二話目の「桜楼の女将」での浅草今戸の料亭「桜楼」での病身の主人殺しで、女将が疑われる話など、けして社会全体を揺るがす大事件はない。だが、それに巻き込まれたり、女将の濡れ衣を心配する「お末」の健気さに感情移入させていくに十分な仕立てではある。
 
もう一つの愉しみは、話にでてくる料理。「桜楼の女将」の「桜めし」であったり、「師走の雑煮」の鮟鱇を使った「白雪雑煮」であるとか、描写は控えめながら、その料理の姿と旨味を想像しながら読んでいくところであろう。
 
バリバリの時代小説というより、時代小説の枠を借りたミステリーというイメージが強い本書なので、あれこれと筋立てをレビューするとネタバレがすぎてしまうが、最後の方で明らかになる「鱗や」の先代にまつわる謎や「お軽」が逃げ出した顛末は、ちょっと陰惨な風が漂うのだが、時代小説の大定番である「勧善懲悪」の原理原則はちゃんと守られているので、大安堵でる。
 
 
主人公の「お末」が奉公に出たての頃は、あらゆるものに怯える田舎娘であったのが、鱗やの若旦那・八十八朗の助けを借りながら、同僚の女中・お甲や板長の軍平らとなじみ、成長していく姿は読んでいて、おもわず彼女を応援したくなる清々しさも覚える時代小説でありますね。
 

江戸の下町風味の庶民的ピカレスク・ロマン — 西條奈加「善人長屋」(新潮文庫)

騙りや情報屋、あるいは盗品故買といった裏稼業をもちながら、表面的には、「善人」として暮らしている輩が集まった長屋に、裏稼業のない「指物師」の加助という男が引っ越してくる。さて、何が起きるか・・・・。といった設定で始まるのが本書。
 
収録は
 
善人長屋
泥棒簪
抜けずの刀
嘘つき紅
源平蛍
犀の子守唄
冬の蝉
夜叉坊主の代之吉
野州屋の蔵
 
と、それぞれが独立した掌編なのだが、頭の先から爪先まで善人の「加助」が人助けで引き込んでくる「被害者」たちを長屋の面々が、その裏稼業の技を使いながら助けていく、というのが共通点。
 
もっとも、この長屋の住人の裏稼業というのがかなり魅力的なものが多くて、唐吉・文吉兄弟の裏稼業は「美人局」なのだが、その「美人」役の「おもん」は絶世の美女なのだが、その正体はなんと・・、といったあたりがその象徴。
 
そして、懲らしめる相手も、自らの許嫁を嫉妬から殺した同僚の侍であったり、男女の仲になっていることを隠すために、縁者のいない嫁をもらい、彼女を殺した義母と息子であったり、とか、表面は真っ当な風をしているが、一皮むけば邪悪さ極まりない輩であったり、人殺しをなんとも思わない盗賊であったり、であるので、作者の仕掛けにのっかって、長屋の小悪党たちの活躍を応援してしまうのである。
 
最初の話の「善人長屋」では、実家の質屋の商売(裏稼業の方だけど)を嫌っていた、「お縫」が、加助の持ち込む人助けの案件の数々を、長屋の住人たちの力を借りて解決していくうちに、自家と長屋の住人に誇りをもっていく姿が、ピカレスクものではあるが、ほんわりとした暖かさを感じさせる一作でありますな。
 

シルバー世代が持つ隠された力とは — 寺島実郎「シルバー・デモクラシー 戦後世代の覚悟と責任」(岩波新書)

日本のベビーブーム世代(団塊の世代)とは1947年〜1949年に生まれた層で、この期間の出生数は合計すると800万人を超えるらしい。この団塊の世代も今は70代にさしかかろうとしているわけだが、本書は、この団塊の世代を先頭に昭和20年代の終わりぐらいの世代についての論述。なのであるが、この本で取り上げる世代が当方にとても近く、レビューが難しいなー、というのが本音ではある。
 
構成は
 
第1章 戦後民主主義の総括と新たな地平
 ー「与えられた民主主義」を超えて
第2章 戦後世代としての原点回帰
 ー1980年という時点での自画像
第3章 それからの団塊の世代を見つめて
 ー21世紀に入ってからの二つの論稿
第4章 2016年参議院選挙におけるシルバー・デモクラシーの現実
 ーなぜ高齢者はアベノミクスを支持するのか
第5章 2016年の米大統領選挙の深層課題
 ー民主主義は資本主義を制御できるのか
第6章 シルバー・デモクラシーの地平
 ー結論はまだ見えない、参加型高齢化社会への構想力
 
となっていて、第1章から第3章までは、筆者の戦後世代についての以前の論述の再掲。第4章から最終章までが、それを踏まえての、さて、その戦後世代(筆者は昭和20年代生まれを戦後第一世代、昭和30年代以降生まれを戦後第二世代と読んで区別すべきとしている)についての論述である。
 
戦後世代といっても年齢もとり、世の中に影響力など何もないのでは、と思われる向きもあるかもしれないが、それに対して筆者は
 
英国のBREXITに対し、43歳以下の若者の多くが反対したことは・・言及したが、米大統領選挙においても、出口調査などを参考に判断すると、若者の多くは究極の選択の中で、トランプよりもヒラリーに表を入れた。・・ここでも世代間ギャップが際立ち、シルバー・デモクラシーの陰の問題が透けて見えるのである(P135)
 
と、実はその影響力がバカにならないことをまず示していて、
 
都会の高齢化は容易ならざる問題を顕在化させつつある。80年論稿の主役とした都市新中間層、つまり、都市近郊型の団地、ニュータウン、マンションなどに人口を集積させて産業化を進めたためにつくりだされた存在が、いま急速に高齢化し、それらの人たちの精神状況、社会心理が、これからの日本のシルバー・デモクラシーの性格を決めかねないような重要な要素になってきている
サラリーマンとして企業、団体、官庁などで働き、つまり機能集団としてのゲゼルシャフトに帰属じていた人生を送ってきた人たちは、ひとたびそこから去ったら、多くの場合、もはややることがないのである。
 
この社会的に孤立化しかねない高齢化した都市新中間層の社会心理が時代を動かすマグマとなって蓄積されつつある。(P166)
 
 
とあるように、これからの国の方向性を左右するのは、人口ボリュームとして多い「高齢層」が力を依然もっているということをまず押さえておかなければなるまい。そして、これらを踏まえながら筆者は、
 
高齢化し単身化している都市新中間層を、再び社会的な接点を拡大して、経済的にも精神的にも安定した主体にしていく構想(P172)
 
が必要であるとし、
 
やがて日本人は「食と農」に関われることが幸福の要素であり、そうした参画の仕組みを通じた社会との接点の拡大が、シルバーデモクラシーの質を高めることに気づくであろう。「食と農」を至近距離に引き寄せる社会システムを実現することが、高齢者に安定した豊穣な人生をもたらし、日本の産業構造を一段と重心の低いものにするであろう。(P177)
 
と、最近のリニア新幹線構想など新しい交通インフラも使いながら、都会と地方をつなぐ、新たな「農本主義」を提唱するのであるが、当方の思考は「戦後世代の影響力」といったところで立ち止まってしまう。
 
というのも、平成28年の人口統計で、60歳から70歳までの人口の合計は約1970万人、全体人口約1億2700万人の15%である。2040年代には高齢者が人口の4割を占めるという推計はさておき、選挙権は一人一票であることを考えると、現在においても、その影響力は巨大であるといっていい。そして、筆者の提案はありつつも、その「戦後世代」の動きは方向付けられておらず「バラバラ」のように思えるのである。すなわち「混沌」が我が国の方向性を決めているということではなかろうか。
 
といって「では・・」と方向性を提案することは本ブログの本旨ではない。「混沌」が力をもっていること、「混沌」が支配するところは方向性が予測できないゆえに「予測できない可能性」も秘めていること、そしてなんとなく、そんな「可能性」がよき可能性であることを期待していること、を表明して、まとまりがつかなくなったので本稿は終わりとするか。
 

「天保の改革」の本当の姿はどうだったのか — 西條奈加「涅槃の雪」(光文社)

時代小説でよくある時代設定は、江戸時代では、武張ったものでは享保、幕末。町人ものでは、元禄、文化文政といったところが多いのだが、本書は、遠山の金さんこと、遠山北町奉行を登場人物に加えるとはいえ、時代的には少々暗い、天保時代である。

収録は

茶番白洲

雛の風

茂弥・勢登菊

山葵景気

涅槃の雪

落梅

風花

となっていて、遠山景元が北町奉行として登場するあたりから、天保の改革の嵐がう吹き荒れ、突然に水野忠邦の失脚と側近たちの処刑まで。主人公は、北町奉行所の吟味方与力の「高安門佑」で、彼が、端女郎の「お卯乃」に出会うところから物語は始まる。

その後、遠山景元の部下として市井の情報を入れる任務を与えられ・・といった形で、天保の改革によって、江戸の華である芝居や、商売の基礎であった「株仲間」の破壊の現場に立会うといった、”改革”による庶民の暮らしの大変化の集合体が本書である。

であるので、主たる読み方は、遠山景元、矢部定謙といった庶民派と、水野忠邦、鳥居耀蔵といった改革断行派とのせめぎあいが読みどころであるのだが、通常なら「悪役」としての色合いが強い「改革断行派」も実は、幕府の行く末を慮っての所作であり、しかも立脚点が、食を断って自死した矢部の死に方をめぐって、お卯乃の

どんなに泣いて頼んでも、常松は食わなかった……あたしら一家は、常松の命を食って生き延びたんだ!

という言葉と、鳥居耀蔵の

先の飢饉で餓死した民百姓のおうが、よほど無念というものだ

あの飢饉で、国中でどれほどの百姓が餓え死んだことか。それを承知であのような死に様は、ご政道を預かる者として言語道断だ

という言葉が重なる時、どちらが正か邪か、グラついてくる。

とはいうものの、こうした四角張った物語の読み方以外に、お卯乃が高安の家に「お預け」になって、同じ屋根の下で暮らし始め、彼女の越中での弟との悲しい思い出を聞いたり、江戸市中の見回りや芝居見物を一緒にしたりとか、くっつきそうでくっつかない二人の仲をやきもきしながら読み進める別の楽しみもある。

二人の仲がどうなるか、最後の方でおもわぬ仕掛け人によるどんでん返しがあるのだが、それは本書でお確かめあれ。

血湧き肉躍る活劇でもないし、胸がすっきりする捕物もないのだが、なにやらしっとりと読める時代小説でありますよ。

「51対49で勝利できれば御の字」と肩を押してくれる先達のアドバイスは嬉しい — 出口治明「本物の思考力」(小学館新書)

最初に乱暴な感想をいうならば、「また叱られたけど、頑張れよ、肩を押してもらったな」というところ

なにせ、昨今の、「日本人エライ」の論調の向こうをはって「誤解を恐れずに言ってしまうなら、僕は「日本人の特性」など存在しないとさえ思っています。」から始まるんである。

構成は

第1章 根拠なき「常識」が蔓延する日本

第2章 日本の教育を再考する

第3章 腹に落ちるまで考え抜く

第4章 怠け癖には「仕組み化」

第5章 構想する力

となっていて、ライフネット生命に会長から、今は環太平洋大学の学長に就任された出口治明氏の、考えることを放棄している日本人への警鐘と辛口のエールが本書。

 

警鐘というあたりは

日本の戦後復興は「ルートが目の前に一本道でハッキリと見えていた状態で臨む登山」だったわけです。

日本人の「考える力」が弱いのは、キャッチアップモデルによる戦後経済の価値観がそのまま続いていることも一因ではないでしょうか。

といったところに明らかで、工業モデルに特化してうまくいっていた日本の戦後復興。高度成長の思考形態・行動形態が制度疲労を起こしているということを認識しなればいけないようで、このあたり、地域振興といえば工業誘致と求人確保がすべてといった、地方政府の役人たちはこの人の声に耳を傾けたほうがよい。

かといって、成長モデルを小馬鹿にして、精神的な豊かさを偏重する輩に対して

「酸っぱいブドウ」の心理は、ある種の退行現象といえます。経済成長を目指さなくてもいい、と唱える人は、これからの日本をどう生き長らえさせていくつもりなのでしょうか。精神的な豊かさを追求すれば、これからの時代を生きる子どもたちに素晴らしい社会を残していけるのでしょうか。

といった論調は切れ味が尖すぎて、怪我人が出そうではある。

 

とはいいつつも、辛口のエールであるのは、日本人の工業モデルに偏した思考形態の硬直性や、英語ができても「話すべきコンテンツ」が「少ない」といった教養不足を批判したり

日本社会の不幸な点は、社長は偉い、部長は偉い、課長は偉い……といった具合に、単なる機能にすぎない組織内でのポストが、社会的評価と同一視されていること

と断じる一方で、「人間はみんなチョボチョボである」という視点を提示しながら

人間、「おもしろそうだ」と思えたら、勝手に手が出てしまうもの。それなら、楽しく仕事ができるように、自分で設計図をつくってしまえばいいのです。

どうしても納得いかないのであれば、その場所にこだわる必要はありません。「この職場は、自分の能力を評価できない人々の集まりだ」と考えて、他の職場を探せばいいのです。置かれた場所で咲くことにこだわる必要は、まったくないと思います。置かれた場所で咲ければそれでいい。でも、頑張っても咲けないのであれば、咲ける場所を探せば、それでいいのです。世界は広いのですから。

自分のことを評価してくれない組織であれば、他に自分のことを評価してくれる組織を探せばいい

といった単方向ではない、複線的な道筋をすすめてくれるあたりで、この辺は、日本生命時代に出世競争で涙を飲みながら、その後ライフネット生命の立ち上げなどの飛躍をした氏ならではの説得力がある。

しかも、こうしたエールは、普通なら次世代を担う「若者」に向けてされることが多く、当方のような定年間近に年配者は放っておかれることが多いのだが、氏の著述の場合は

僕は医師に「どうすれば健康寿命を延ばせますか」と尋ね歩いたことがあります。答えは全員「働くこと」でした。

働く元気があるお年寄りには、できるだけ長く働き続けてもらうほうがいいのです。  そうであれば、政府がまず着手すべきは「定年制の廃止」です。それを政策として打ち出し、法定すれば、それだけで状況は一気に好転すると考えます。

人間は誰でもいまがいちばん若いのです。明日になれば1日分歳をとります。やりたいことや、おもしろいことに、みなさんもっともっとチャレンジしましょう。 「環境が、あなたの行動にブレーキをかけるのではありません。  あなたの行動にブレーキをかけるのは、ただ一つ、あなたの心だけなのです」

といったところが嬉しいところである。

さて、本書によれば「51対49で勝利できれば御の字です。」とのこと。若者を助ける意味で、年配者もひと頑張りしましょうかね。

 

菓子の甘さに隠された江戸の「家族」の人情話 — 西條奈加「まるまるの毬」(講談社文庫)

親子三代で営む、小さな江戸の菓子屋「南星屋」を舞台にした時代小説。
 
収録は
 
「カスドース」
「若みどり」
「まるまるの毬(いが)」
「大鶉(おおうずら)」
「梅枝(うめがえ)」
「松の風」
「南天月(なんてんづき)」
 
の7編。
 
主人公は、五百石の旗本の次男でありながら、菓子屋となっている「治兵衛」、その娘の「お永」、孫娘の「お君」、そして治兵衛の弟で大刹・相典寺の大住職「石海」が主人公たち。「主人公たち」と書いたのは、解説でも触れられているように、一人ひとりではなく、彼ら「家族」が活躍する「ファミリー・ストーリー」として読みべきであるから。
 
そして、店の主「治兵衛」が実は高貴な武家の落し胤で、幼い頃、実の親から各地の銘菓が届けられていたことや、修行の過程で全国の菓子屋を渡り歩いて、諸国の名物といわれる菓子をつくることができる、というのが設定の肝。このために第1作目の「カスドース」では、平戸藩の門外不出のカステラ菓子の製法を盗んだ疑いをかけられるし、最終話の「南天月」で、次兵衛一家だけでなく、実家の岡本家が大きな災厄に見舞われる原因ともなる。
 
本来なら一話ごとにネタバレ寸前のレビューをするのが、この書評ブログの常であるのだが、この「まるまるの毬」は、一話一話が独立しているのだが、全体として、家族がまとまって危難に対応し危難を切り抜けていく物語であるんで、今回は一話ごとのレビューはパス。
それは、最終話で、南星屋を陥れようとした柑子屋の「あんたは何ひとつ失くしてなぞいないのだから」という捨て台詞にも現れていて、家族が一つであれば何も恐れることはない、という昔ながらの家族神話の物語として、この一冊を読むべきだろう。
 
そして、この話のキーになるのは「お菓子」。でてくるものをいくつかレビューすると「まるまるの毬」の
 
ゆでた栗を裏ごしし、砂糖をまぜて弱火で練る。手順は栗餡と一緒だが、水の加減を少なくして、粉ふき芋のようにぽろぽろとさせる。これを団子の上半分にまんべんなくまぶして、いが餅にするつもりであった。
 
とか、「松の風」の
 
小さめの歌留多の札にような、四角い薄焼きを手にとって、しげしげとながめる。・・・見てくれは煎餅に近いが、干菓子のひとつであった。
水に白砂糖を煮溶かし、麦粉を入れて、よく練って桶に寝かせておく。冬なら七日、夏なら三日で、表面にぷつぷつと泡が出てくる。そこへさらに白砂糖を加えてかきまぜて、薄くのばして焼いたもので、表にはたっぷりと白胡麻をかけてある
 
という「松風」という菓子であるとか、ちょっとお目にかかれない当時(?)の菓子の風情を楽しむのも一興。殺人事件とか盗みとかの物騒な話はでてこない、少々軽いタッチの人情時代小説でありますな。

「教養」という言葉で何を連想しますか? — 出口治明「人生を面白くする 本物の教養 」(幻冬舎新書)

「教養」という言葉ほど、日本の近現代の中で、明治から昭和初期の頂上のあたりから、バブル崩壊後グローバリズム全盛期の底辺期まで、毀誉褒貶のアップダウンが激しかった言葉もないような気がしている。
 そして、現在の混沌期も「教養」というものに対するう胡散臭そうに見る目は衰えていないように思えるのだが、そんな時に「教養」の価値を高らかに訴える「出口治明さんの言説は小気味いい。
構成は
第1章 教養とは何か
第2章 日本のリーダー層は勉強が足りない
第3章 出口流・知的生産の方法
第4章 本を読む
第5章 人に会う
第6章 旅に出る
第7章 教養としての時事問題ー国内編ー
第8章 教養としての時事問題ー世界の中に日本編ー
第9章 英語はあなたの人生を変える
第10章 自分の頭で考える生き方
となっているのだが、この順番のとらわれず、出口流の「教養主義」と思って自由に楽しんで読んだほうが良い気がする。
で、そういう読み方をする場合、気になった言葉、フレーズをあちらこちら書き散らのも許されるはずと勝手に思ってレビューしてみよう。
最初に「うっく」となるのは冒頭の方の
教養」とは生き方の問題ではないでしょうか(P18)
といったところで、ひさびさに「教養」というものをここまで持ち上げる話は見ないですね〜、と驚かされる。
さらには、アメリカの学生の
米の大学生が在学中にどのくらい本を読んでいるかを調べた調査がありました。
それによると、日本の大学生が平均約一○○冊の本を読んでいるのに対して、アメリカの大学生は平均約四○○冊という結果が出ていました。
じっに日本の四倍、勉強量に圧倒的な差があります。
とか、イギリスの
「インドを失った連合王国はもはや今後大きく成長することができない国家です。
いわば、没落が運命づけられている国です。学生たちには、そのことをしっかり認識してほしいと思っています。オックスフォードは明日の連合王国を担っていくエリートを輩出する学校ですから、未来のリーダーたちに、連合王国の現実を過不足なくしっかり理解してもらいたいのです。そして、没落を止めることはできないまでも、そのスピードを緩めることが、いかにチャレンジングな難しい仕事であるかを理解し、納得してもらいたいと考えています。」
といったところに世界帝国である(あった)国の矜持に感嘆するとともに、留学生の状況や今までの歴史的蓄積から、日本は中国に抜かれ離されるのであろうかな、という危機感と、「あぁ、やはり日本は武辺のくにであったのか・・」と嘆息してしまうのである。
まあ、こんな偏屈な読み方はしなくても、一つの分野を極める方法として
たとえば、何か新しい分野を勉強しようとするときは、まず図詳館で、その分野の厚い本を五、六冊借りてきて読み始めます。
分厚い本から読み始め、だんだん薄い本へと読み進んでいく。
これが新しい分野を勉強しようとするときの私の読み方のルールです。
分厚い本には詳しく商度なことがたくさん評かれていますから、岐初は何が沸いてあるのか分からず、読むのが大変です。しかし、「この分野について勉強しよう」と決めているのですから、辛抱してていねいに読みます。それでも、たいていは部分的にしか理解できませんので、岐初の一冊は「点の即解」にとどまります。
二冊目を読むと、こんどは少しずつ点と点が結びついてこれまで理解したことがつながり始めます。「線の理解」、すなわち線が浮かんでくるのです。分厚い本を五冊ぐらい読んでから薄い本を読むと、それまでの点がすべて線になってつながり、さらには「なるほど、この分野はこういうことなのか」と全体像が見えてきて、一挙に「面の理解」に広がります。
極論すると、いままで読んだ本すべてが、同時に脈に落ちるのです。
一カ月ぐらい時間をかけて一○冊ほど読むと、もう大丈夫です。
その分野に詳しい人と話をしても、何を言っているのかが分かり、会祇が楽しくなります。私はこのようなやり方で、新しい分野を開拓してきました。
といった一種の実用的なテクニックも披瀝されているので、その点はご安心を。
ただまあ、本書の効用は、「生産性」あるいは「効率」だけの議論で、心が荒れてきた時に
どのような問題であれ、「幹」と「枝葉」を峻別して考えていくことが必要です。
どんな事例でも一○○%メリットだけという話は存在しません。
必ずメリットとデメリットが混在しています。
まだら状のなかにあって肝心なことは何か、何が「幹」で、何が「枝葉」かを見極めていくことが、大局的な判断を謝らないために求められているのです。
(P200)
といったことを胸において、書物とともに着々と人生の「歩」進めていくべきことが大事であること教えてくれるところなのかもしれんですね。

アート(美術)は「美」の側面だけで語るものではない — 山本豊津「アートは資本主義の行方を予言する」(PHP新書)

「アート(美術)」というものは、古くは王侯貴族のものであったように、資本主義経済の隆盛と切っては切れないものとは思っていたのだが、国の覇権獲得活動にも重要であるなど、「アート(美術)」に対する新たな視点を開いてくれる。
構成は
第1章 資本主義の行方とアートー絵画に見る価値のカラクリ
第2章 戦後の日本とアートー東京画廊の誕生とフォンタナの衝撃
第3章 日本初のアートと東京画廊の歩みー脱欧米と「もの旅」
第4章 時代は西欧からアジアへー周縁がもたらす価値
第5章 グローバル化と「もの派」の再考ー世界と日本の関係
第6章 「武器」としての文化ー美の本当の力とは
となっているのだが、まず最初に度肝を抜くのが
価値の伸びシロが一番大きいゆえに、お金持ちが投資する究極の対象は絵画だと言われます。・・・お金持ちが絵画を資産として持つ理由は他にもあります。絵画ほどkさ張らず、軽く、持ち運びに便利な資産は他にはないのです。(P21)
といったあたりで、芸術と資本というものの微妙な関係を示してくれる。
さらに、当方が「ほぉ」と思ったのが、
キュレーターは美術を知っているだけではダメなのです。アートの歴史や価値を知っているだけでなく、経済や経営、社会学や心理学に至るまで幅広い知識と見識を持ち、なおかつ企画ができるというアイデアマンでなければいけません
といったところや
世界では経済におけるグローバルスタンダード化が進んでいます。
美術においても、アートフェァを通じて世界のギャラリーが集まり情報公開することで、美術の価格のグローバルスタンダード化が進んでいるわけです。
これは価格だけではありません。
アーティストや作品自体もグローバルに広がっていきます。
といった「美術」の意外な側面であり、
自分の国の美術品の価値を高め、それを世界に示すことで文化的な優位性や自信、そして美のスタンダードを握ろうというのは、欧米諸国や中国などの目指すところであり、悲願なのです。
(中略)
そうした国々はかつて世界の覇権を取った経験のある国であり、民族です。ヨーロッパ諸国ならイギリスやフランス、スペインやオランダ。イタリアはかつてのローマ帝国。それから第二次世界大戦後の米国に、以前のアジア全体の中心であり、今なお中華思想の根強い中国など。
そういった剛々とその民族は、覇権を握るということがどういうことかを知っているのです。軍事力で領土をおさえるだけでは不十分、経済力で上回るだけでも足りない。最後は文化の力が必要だということをー。
といった、実は「美術」を始めとする「文化」が、国の支配領域の拡大、ひいては覇権争いの主要な部分であると教えてくれるところであろう。
とはいうものの、正統な美術好きの方々には、日本の銀座の画廊の変遷などなど日本の美術史についてもきちんととりあげられているのでご安心を。
そして、この「アート(美術)」と我々の祖国・日本との関係であるが、本書によれば
文化歴史と文化の断絶を埋めるためにも、そして資本主義や国家主義の限界を乗り越えるためにも、近代以降の価値観を一度見直し、価値の転換を図ってはどうでしょうか?私が提案したいのは、回帰です。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです
であったり
これからの日本、そして世界を考えたとき、アートの力が大きな意味を持つのではないかと考えています。激動の時代、閉塞した時代だからこそ、これまでの価値にとらわれない自由な視点が大切なのです。既成のものを乗り越えて新たな価値を生み出すパワーが必要なのです。
と日本の復活に「アート(美術)」の力の有用性を訴えるのだが、今まで金銭的価値や効用でしか、政策や施策のメルクマールを持たなかった歴史が塗り替えられるかどうかは、「・・・」でありましょうね。
さて、たまには、美術展に行きますかね・・・。

「叱る」「叱られる」どちらも難しくなった時代の対処法 — 阿川佐和子 「叱られる力」(文春新書)

「聞く力」で大ヒットを飛ばした、エッセイスト阿川佐和子さんの「力」シリーズ第2弾が「叱られる力」である。当方が育った世代は、親や教師のみならず、近くのおじさんおばさんまでもが何か悪さをすると「叱る」世代である。なので、「叱られる」ことに何の力が入り用なのか、と思ってしまうのだが、どうも世間全体が、「叱り」「叱られる」こと双方に不慣れな状態に突入して、上手に「叱り」「叱られる」ことに特別な力、メソッドが必要な時代環境になったようだ。
構成は
1 叱る覚悟と聞く力
 「ステキ」を褒め言葉に変換する/「私、人見知りなんです」は甘えじゃないの?/最初に本性をさらけだす/「下心」で人見知りを克服/「失礼ですが・・・」は失礼です/後輩を叱る覚悟/怖い顔の利点/スマートな叱り方とは/叱るルール/部下の叱り方①ー借りてきた猫の法則/部下の叱り方②ーセクハラと飲み会/「酒場の本音」を肝に銘じる/正解を求めない/叱られる覚悟/親は嫌われる動物と思うべし
2 叱られ続けのアガワ60年史
 その1 「家なき子」事件/その2 涙の誕生日事件/その3「お父さんにそっくり」事件/その4 「一人暮らし」奇襲作戦に成功せり/その5 「子供に人権はない」宣言/その6「志賀先生がお読みになると思え」の訓示/その7 「対処法」を会得?
3 叱られる力とは?
 「別れ話」の乗り越え方/「最悪経験」を尺度にする/ゴルフに学ぶ人づきあいのマナー/下心のススメ/嫌な言い回し/上手な叱り方/ユーモアと落語の効用/叱られたとき、悲しいとき/言い訳は進歩の敵
ちょっと真面目な、あとがき
となっていて、「1」と「3」は「叱られる」技術、それを敷衍した「叱る」技術についてのあれこれが綴ってあるのだが、本書の特徴は、稀代の怒りん坊である阿川弘之氏から娘・阿川佐和子氏の「叱られ続けた」エピソードの数々が「2」の章に満載となっていて、これがまた、理不尽でありながら、親近感のエピソードばかり。
それは例えば、「涙の誕生日事件」のように、
お誕生日会で来てくれた友人が少なくて寂しい思いをしていると、それを見た父の阿川氏から「誕生日会禁止」を申し渡される。その理由は、寂しがっている娘を見ていられなくて、ではなくて・・・
とか「お父さんにそっくり事件」のように
父に不条理に叱られる身の上を友人に愚痴を言っている筆者が「私、本当はあの家の子供じゃないんじゃないか」とこぼしたところ、近くを通りかかった教師から「そんなことはないわよ」、「だってあなた、お父さんに◯◯(◯◯は原書で確認してくださいね)」と言われて逆にショックを受けたり・・
といった、著者本人は当時真面目に悩んだこともあったのだろうが、結構抱腹絶倒な
エピソードが満載なのである。
もちろん、それだけでなく、叱る技術として有効らしい「借りてきた猫の法則」
かー感情的にならない
りー理由を話す
てー手短に
きーキャラクター(性格・人格)に触れない
たー他人と比較しない
ねー根にもたない
こー個別に叱る
(P88)
といった法則が紹介されたり、
日本語の成り立ちから言って、日本人は意思を伝えるとき、欧米人のように確固たる自分の主張を持って喋るのではなく、目の前の空いての顔色を伺いながら言葉を選ぶ傾向があります。
日本語の文法は、文章の最後尾で肯定か否定かを決定するように作られています。いっぽう、たとえば英語の場合は、主語の直後に肯定否定を決めなければいけません。自分の意思は先に決定しておいて、それから目的語を示す順番です。でも、日本語の場合は、話の流れや空気を見ながら、最後に意思を固めればいい(P186)
といった、日本語の文法が、日本人の意思決定の所作に影響しているのでは、といた話がでてきたり、妻との関係を円滑にする秘訣の一つは、妻の話を聞くことだが
「妻の話にとりあえずオウム返ししなさい」(P230)
男という動物は、相手の相談事に対して「解決策を示す」ことこそ最大に親切だと思っているきらいがあります。が、女という動物は、必ずしもそれを望んでおりません。
女は話を親身になって聞いてもらいさえすれば、それで気持ちがスッキリするのです。
(上級編は)ただのオウム返しではありません、英語に直して繰り返すのです(P234)
という、男性である当方としては、「あ、そうだったのか」と実体験に照らして膝を叩いて納得するようなアドバイスもあり、阿川家の話だけでなく有益有効な話も含まれているので、お買い得であることは間違いない。
さらには、あとがきのところで「聞く」「叱られる」という。ついこの間までは「フツー」のことのように扱われていたものが特別扱いされたり、感情や行動の起伏の激しい人の増えている背景には
誰もが喜怒哀楽の感情を抑えすぎているせいではないかと思いたくなるのです。普段、抑えているぶん、何か特別な状況に陥ると、その反動かと思われるほどの感情の爆発が起こるのではないか(P242)
と類推し、
喜怒哀楽。その四つの感情の「喜」と「楽」という、いいとこ取りをすることが、「中庸」への道ではないのではないか。人間には「喜」「楽」だけでなく、「怒」と「哀」も同様に思う存分、発散することが必要なのではないか(P242)
という処方箋が提示されているあたり、只者ではない風情を漂わせるエッセイでもある。
そういえば、本書の中で
一般社会で叱るといえば、それはもっぱらオトコの役割だった時代がありました(P77)
とあるように、「三丁目の夕日」に代表される時代はそうでありましたが、すでに、はるか遠い昔となりました。「叱ること」「叱られること」どちらも難しくなった今、皆が「喜怒哀楽」の感情をうまく出しあって暮らしていく、そんなことが大事になっているんですかね〜。