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育休と女性活用の「明けない」夜明けー中野円佳「育休世代の」のジレンマ

正直のところ、当方が「男性」で「男性優位」な時代に生きてきたせいか、この「育児休業」と「女性の活躍」のジャンルは少々苦手である。
であるのだが、今読んでおかねば、と思ったのは、制度は整いつつも離職が出てしまう「育児と企業社会」が制度が整いつつも、なにか「幸福感」が漂わないのはなぜなんだ、と思ったのである。
本書『中野円佳「「育休世代」のジレンマ 女性活用はなぜ失敗するのか?」(光文社新書)』は筆者の、大学院時代の修士論文を加筆修正したもので、執筆はおそらくは第三次安倍内閣の2014年の頃に書かれたものではと推測している。その後「働き方改革」の議論も本格化しているのだが、どうも、先に述べた「すぅすぅ感」が拭いきれず、ひょっとすると、この原因が「働き方改革」の議論全てに共通するのではないか、と思ったところでもある。

【構成は】

序 なぜ、あんなにバリキャラだった彼女が「女の幸せに目覚めるのか?
1章 「制度」が整っても女性の活躍が難しいのはなぜか?
1)辞める女性、ぶら下がる女性
2)どんな女性が辞めるのか
2章 「育休世代」のジレンマ
1)働く女性をめぐる状況の変化
2)「育休世代」にふりかかる、2つのプレッシャー
3)「育休世代」の出産
3章 不都合な「職場」
1)どんな職場で辞めるのか
2)どうして不都合な職場を選んでしまうのか
4章 期待されない「夫」
1)夫の育児参加は影響を及ぼすか
2)なぜ夫選びに失敗するのか?
3)「夫の育児参加」に立ちはだかる多くの壁とあきらめ
5章 母を縛る「育児意識」
1)「祖父母任せの育児」への抵抗感
2)預ける罪悪感と仕事のやりがいの天秤
3)母に求められる子どもの達成
6章 複合的要因を抱えさせる「マッチョ志向」
1)二極化する女性の要因
2)「マッチョ志向」はどう育ったか
補1)親の職業との関連
補2)きょうだいとの関連
補3)学校・キャリア教育との関連
7章 誰が決め、誰が残るのか
1)結局「女ゆえ」に辞める退職グループ
2)複数の変数に揺れ動く予備軍グループ
3)職場のジェンダー秩序を受け入れて残る継続グループ
8章 なぜ「女性活用」は失敗するのか
1)「男なみ発想」の女性が「女ゆえ」に退職するパラドクス
2)企業に残る「非男なみ」女性と、構造強化の構造
3)夫婦関係を侵食する夫の「男なみ」
4)ジェンダー秩序にどう抗するか?
5)オリジナリティと今後の課題(意義と限界)
おわりにーわたしの経緯
新書を出すにあたって

となっていて、内容的には、インタビューにかなり時間と利労力をかけてまとめてあって、かなりの労作であることを評価したい。

【本書の注目ポイント】

まず「ありゃ」と思ったのは、

米国の先進的なファミリーフレンドリー企業において、社員が家庭生活を外注できるよう様々なサービスを提供し、働きやすい職場を作ることで、むしろ家庭が効率を求め疲弊するという、家庭と職場の逆転現象を指摘する(P81)

というところ。どうも、育児も含めた「働きやすい環境」の整備が、家庭にとって幸せな結果ばかりを産まないのは、日本だけではないらしく、先進地であるアメリカでも、といったところのなにやら、根が深そうなものを感じる。

さらに

「仕事」も「夫」も得ようとする女性もいるものの、「自分よりも仕事の上で有能な男性を勝ち得ることが自分の「性的魅力」を確認させてくれる」が、自分が仕事をしている場合は特に、「自分よりも高い社会的地位の男性の妻となると、そうした男性たちが「家事・育児」に割くことができる時間的資源をほとんどもっていない場合が多い」ため、「『性的魅力』による異性獲得競争に勝利することが、結果として自分自身の『社会的地位』競争において相対的に不利になる(P127)

というところには、女性特有のジレンマを感じてしまって、なんとも複雑な思いにかられてしまいますな。この件で女性が「満足感」「達成感」を得るには「マウンティング」だけでは解決できない問題で、誰が勝者で誰が敗者か混沌としてきますな。

そして

「女性の働きやすさ」を嫌悪したり無視したりする女性たちは、「社会規範としての女性らしさの価値を自明視していない」よりは、むしろ積極的に女性らしさを切り捨てることで、男性が圧倒的に多い世界での競争や「女らしい女性」が損をする社会を生き延びようとしてきたと捉えられる(P281)

といったところになると、なにやらイギリスの分離対立戦略に踊らされて、最後は国を失った、インドの藩主国たちを思わせるところもある。「イギリス」って誰だ、という質問には答えないけれどね。

【まとめ】

なんともまとまりのつかないレビューとなってしまったが、それは、この問題が、なんともまとまりのつかない「状況」にあることを意味していることの反映という気がしてきた。

筆者の「本書では、出産後の女性の抱える問題は、育休をとるかどうかではなく、復帰後の働き方と処遇にあることを指摘してきた(P323)」という主張は、「正解」ではあるが、まだスキッとした「解決策」がでていないことでもあるように思う。

「子育て」と「女性の活躍」、「女性の働き方」の問題は、「制度」を作って終わりではなく、「魂」をどう入れるか、と局面になっててきているようですな。

【筆者のほかの著作】

働き方改革はなぜ進まないのか? — 本間浩輔「残業の9割はいらない」(光文社新書)

「働き方改革」が引き続き、声高に語られ、最近は「働き方改革=時間外縮減になってませんか?」ってなフレーズを、N◯Kの朝のニュース番組あたりでも言われるようになっている。
でも、そこで出てくるのが、例えばフリーアドレスや少人数チーム制といった「働き方」のハード面の話が多くて、「もっと本質的なところあるんでは」といったモヤモヤ感が拭い去れなかったのは当方だけではないはず。
そういったモヤモヤした雲を払っ、「青空」を見せてくれるとともに、最近発言が少なめになっている「人事セクション」への激を飛ばしているのが本書。

【構成は】

第一章 「週休三日制」楽じゃない
第二章 ヤフー流・「幸せな会社」のつくり方
第三章 部下の「努力」を評価してはいけない時代
第四章 現場の人事力を磨く
終章 三〇年後、私達はどう働くか

となっていて、著者が勤務する「1on1」とかの「ヤフー」の人事制度や働き方改革の紹介のほか、本当の「成果主義」や「日本の雇用現場の課題」について、幅広く言及してある。

【働き方改革がすすまないのは誰のせい?】

で、一体誰が「働き方改革」を邪魔してるの、と分析してみると、実はボスキャラ一人を探すような、そう単純な話ではなくて、

実際のところ、日本企業の労働生産性が低いのは、社員がムダな会議に出なくてはいけないとか、よけいな資料を作成しなくてはいけないとか、一度決定したはずにおことが度々修正されるとといったことにも起因しており、そうした状況をつくり出しているのは、主として経営者や幹部たちです。要するに、組織の内部にいろいろなムダがはびこっていることもあって生産性が低くなっているわけで、それらを早期に排除するのは、経営トップや幹部の責任です(P143)

であったり、

最近、「フラリーマン」という言葉を耳にしました。働き方改革が広がる中、仕事が速く終わってもまっすぐ家に帰らず、書店や家電量販店、ゲームセンターなどをフラフラと漂う人たち(主に男性)をそう呼ぶそうです。

もちろん、空いた時間をどのように使おうが本人の自由であり、フラリーマン人生は見方によってはなかなか楽しそうではあります。けれども、企業の働き方改革がフラリーマンの生みの親だとすると、果たしてそんなことでいいのだろうかという気もします。(P139)

といったように、経営者、マネージャー層、一般職員含めて、みんながその原因じゃないの、といった事情が出てくるわけで、総掛かりで取り組まないと、この問題が先行きしないな、と思い知るんである。

【働き方改革がうまくいかないのは?】

さらに、「人的側面」以外に働き方改革がうまくいかない原因は

その原因の一つは成果主義の不徹底にあるだろうと私は見ています。社員に自由な働き方を認める一方で、成果をきちんと測って評価するということを怠れば、必然的に企業の競争力は落ちてしまうからです(P112)

日本企業の成果主義では、本当に「成果」を評価しているのかという疑問も拭えません。どういうことかというと、企業側は、社員の「アウトカム(成果)」で評価すると言いつつ、実際には時間などの「インプット」で評価する傾向が強いのです(P117)

といったことらしく、こうなると、ひところ「グローバル主義」大合唱の中で成果主義が言われてはいたが、「かけた時間」や「熱心さ」ではなく「成果」そのものをきちんと、面倒なく評価する方法というのは確立できていない、ということで、あの十数年の人事改革フィーバーはなんだったんだろうね、と思ってしまうのである。

ひょっとすると、「評価」「評価」といっていたことは間違っていて、本書で紹介する「ノーレイティング」のほうが現実的かもしれんですね。

また、こうした「成果主義」の徹底は、そんなに心地よいものではなくて、実は「働く人」を無傷のままにしておかないもののようで、例えば

頑張れば必ず報われると思っている人は、見返りを得られているうちは頑張るけども、見返りが得られないとわかると頑張らなくなる。さんまさんが鋭く突いているのはそういう「見返り主義」の弊害ではないかと思います(P122)

といった「見返り主義」の排除や

働き方改革が私が考えているような形で進めば、人々は個人契約に近いかたちで企業に属するようになります。雇用条件はその人の労働市場における価値によって決まり、報酬は成果に応じて支払われます。そうすると所得に差が出てくるのは、ある程度仕方のないことで、私達は自由で多様な働き方を享受する代わりに、そういう厳しい現実も受け入れなくてはなりません。(P188)

といった風に、全ての働く人に「バラ色」というわけではないことが「働くひと」にわかっているというところが、問題の解決を遅らせたり、複雑にしているところもあるかもしれない、思いましたな。

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「依存しない、頑張らない、努力しない」仕事のあり方 — 午堂登紀雄「自分だけの「絶対領域」の作り方ー「複業」☓「スモールビジネス」のススメ」(パンダ・パブリッシング)

人生100年時代といわれて、一人の人生で複数の職業生活をおくることの必然性がとりあげられたり、働き方改革の議論でも「副業」の議論がやけに活発になっている。「会社への忠誠」といったことが求められていた十数年前までとは隔世の感があるのだが、少々戸惑い気味であるのは、当方だけであろうか。

本書は、「自分がおもしろいと思うことだけ」をやるために、経営者を辞めた筆者が語る、新しい、というか、浮気性の人たちの「職業論」といっていい。

構成は

第1章 僕はこうして会社に頼らない生き方をつくってきた
第2章 「やりたいことでは食べてはいけない」はウソである理由
第3章 人生を複線化するお金と時間の仕組み
第4章 ビジネスを立ち上げ自動化するまでにすべきこと
第5章 ライフスタイルを軽量化する

となっていて、第1章で、筆者が会社を縮小に、経営者をやめる経緯が記されているのだが、筆者の他の著書を読んだことのある読者には結構新鮮に感じられるのではなかろうか。

ま、それは置いといて、今回、本書で筆者が提案するのは

僕は本書の中で、「マルチプルワーク」を提唱したいと考えている。これは、自分の可能性を広げる働き方のひとつだと感じているからだ。
ひとつの仕事を軸に、関連する他の仕事へと派生させる。するとおもしろそうなものにぶつかる。それをまた仕事にしてみる。そうやって多面的な自分を作っていく。

自分の専門分野の仕事を続けることは大切だけど、今の仕事を失うのを僕はそれほど恐れてはいない。そもそも、失うというより新陳代謝するという表現がフィットする。

ということであるらしく、今風に議論されている「副業」論が、一つの職業を軸に他の仕事ももつという議論ともちょっと違っていて、あえて表現すれば、「多業」とでもいうべきもの。それぞれの仕事の重み付けはなくて、ただその時点の興味の多寡で、関わり具合が変わる、といったようなものであって、このあたりは、、伊藤洋志氏の「ナリワイをつくる」の雰囲気と通じるような気がしますな。そして、それは

人生を複線化させるためのひとつの考え方は、「この仕事に賭ける」という意識というか覚悟を捨てることだと思っている。依存しない、頑張らない、努力しないという「ゆるさ」を持つことだ。

ということでもあって、世間で「起業」が語られるときの精神論重視や使命感からくる堅苦しさとは少し離れたところに位置しているように思える。ただ、それは、けして事業への熱意とかが薄いということではなくて、

起業するとは法人を作ること、と考えている人もいるかもしれないが、法人設立と事業の成否とは、基本的に何ら関係がない。

事前調査は大切だけれど、情報を集めても、実践経験がなければ、その情報の良し悪しはピンとこない。特に新事業であれば、今まで自分が経験したことのない未知の領域だから、そこに戦略なんて描いても、机上の空論になりやすい。

といったように、「起業」にまとわりつく「形式論」を剥がそうとしてのことであるように思える。
そして、筆者が大事だという、「会社組織」から自由になり、「事業計画」から自由になり、借金をしないことによる「資金計画」から自由になるということは、

フリー住職になる必要がある。フリー住職といっても、無職のお坊さんという意味ではなく、「住」所と「職」業がフリー(自由)ということ。そのために、家は複数の場所に持ち、職業はポータブル(持ち運べる)になるようなもの

ということで、必然的に「国家」や「地域」からも自由になる、ということで、形を変えた「ノマド」論の復活の気がしないでもないが、当方のきのせいであろうか。

なんにせよ、AIの普及とグローバル化の浸透で、我々の「仕事」は急速に様相を変えているのは間違いない。その変化に呼応して、「起業」や「事業経営」の様相も大きく変化をしてくるであろうし、筆者のいう

仕事は環境や自分の変化とともに新陳代謝するものだ。何か新しいことに取り組むには、今やっている何か古いものを捨てないと、時間が確保できないのだから。
だから、去っていこうとする仕事は追いかけず、時代の進化とともにいろんな仕事ができる楽しみを味わっていきたい。

という姿も、これからの新しい「仕事」の姿であるような気がする。「一つの組織の中で働く」という姿は、いろんな側面から、過去のものに押しやられつつあるのかもしれないですね。

理想の「オフィス環境」はオープン型かクローズド型のどちら?

WIRED Japanで「オフィスが「オープン」な石灰だと、生産性が低下するー企業での実験の詳細と、そこから見えてきたこと」と題して、「生産性が高くなるオフィス」についてのレポートがされている。

要点は

・壁や間仕切りを取り計らったオープンプランのオフィスは、生産性やチームワークの面ではオススメでない。

・イギリスの研究では、物理的な障壁をなくすとコミュニケーションや集合知が生まれにくくなるという調査も出た

ということなのだが、実は、オープン・オフィス批判は、定期的にレポートされていて、これはGoogleに「オフィス オープン型」といったキーワードで検索するとよくわかるはず。

であるのに、こうした論評、しかも外国のレポートで出てくるということは、逆にいうと、クローズド型からオープン型へのオフィススタイルの変更はまだ進んでいる、と捉えるべきなのだろう。もっとも、オープンオフィスへの転換は、間仕切りやレイアウトの容易性やフリーアドレス制という、経費節減との二兎を追うようなアイデアがもとであるから、「生産性」の面だけでは割り切れない面ももっていることは事実であろう。

ただ、公共セクターを含めて、日本の(大企業や先端的なIT企業は別として)多くの企業が、こういうオープンオフィス型が大半であることを考えると、部分的でもクローズドな環境を導入することの是非について考えてみたほうがよいのかもしれず、さりとて日本の企業組織で特に弊害が主張される「セクト主義」「タコツボ化」の課題は、クローズド・オフィスでは大きな課題として浮上するし・・といったところで悩みはつきない。

さらに、この論文でも「誰もが望んでいるにぎやかで創造性と集団知を生み出すような場所を作り出す方法は、まだ発見されていない」ということも指摘されているようで、「クローズド型」の戻せば、すべて解決、というわけでもないらしい。

 

オープン型とクローズド型の折衷策を模索する。こんなところが最終解かもしれないですね。

あなたの職場も「残念な職場」かもしれない。さて、どう「脱却」する? — 河合薫「残念な職場 53の研究が明かすヤバい真実」(PHP新書)

ビジネスパーソンで、企業や官庁での勤務経験のある方には、大なり小なり「職場」というところは「残念」で「面倒なこと」の宝庫であることは衆知のことであると思うのだが、そういう「残念な職場」について取り上げて、改善策、脱却策を探っているのが本書。
 
構成は
 
第1章 無責任な人ほど出世する職場
第2章 現場一流、経営三流の職場
第3章 「女はめんどくさい」と思われている職場
第4章 残業のリスクを知らない職場
第5章 残念な職場を変えるには
 
となっているのだが、それぞれの職場についての論評が、皮肉のスパイスがたっぷり効いていて刺激的である。例えば「無責任な人ほど出世する職場」では、お決まりの「ピーターの法則」はもちろん披瀝されるのだが、そのほかに
 
米国ではその責任感を個人のパーソナリティ特性と明確に位置づけ、「他責型」と「無責型」に分けるのが一般的です。
具体的には、
●他責型は「人を責める」「人のせいにする」タイプ 
●無責型は「自分の関わりを否定する」タイプ  を示します。
米国企業のトップの7割はこのどちらかに属するとされ、・・・
無責任な人たちはたびたび をつきます。しかしながら彼ら彼女らには、「 をついている」という罪悪感がいっさいありません。・・・実際には、嘘を貫き通すことができると、次第に”チーターズハイ”と呼ばれる高揚感に満たされ、どんどん自分が正しいと思い混みようになっていくのです
 
といったことや、「現場一流、経営三流の職場」の
 
「経営者は孤独」とよく言いますが、物理的に孤立していることが問題なのです。孤立してれば孤独だろうし、「孤立してちゃ、経営はできない」のです。  
 
「組織が厳格すぎたり、階層構造的になると、当事者たちは緊急情報に上手く対処できない。NASAのスペースシャトルの失敗はその典型的ケースだ。NASAでは直属の上司・部下の関係を超えて、情報が行き交うことは絶対になかった。すべての管理職は、直属の部下から上がってくる情報だけに頼っていた。  経営幹部は通常の報告を監督する以上の仕事をしなければならない。自ら探し求めなければ手に入らない情報を、手に入れなければならない
 
といったところに、思わず頷いてしまう向きも多いのではないだろうか。
 
当方が思うに、日本企業の隆盛の原因が、長期雇用や、年功序列の人事体系にあったかどうかは議論があるだろうが、少なくとも、それらを批判して颯爽と登場した成果主義やプロフェッショナル人事が、前評判ほどうまくいってないことは間違いない。そのあたりは、特定の組織に劇的に効くものと、多くの組織に汎用的に効くこととがごっちゃに議論されることが問題で、自分の組織が欧米的な文化に馴染む組織とそうでない組織のどちらに属するのかを、きちんと分析することがまず先決のように思えるのである。
 
さらには「「女はめんどくさい」と思われている職場」での
 
皮肉にも〝ファーストシフト(第1の勤務)〟=職場が働きやすい場であればあるほど、〝セカンドシフト(第2の勤務)〟=家庭より職場に魅了され、仕事に没頭することで自分の存在意義を感じていたのです。 「家庭がいちばん」「家族との時間を大切にしたい」と思いながらも、家庭にいるときの息苦しさから逃れたくて、仕事に没頭する。「子どもに悪い」「夫に申し訳ない」と思いながらも、仕事を選ぶ。そんな〝もうひとりの自分〟と葛藤する。まさしく「時間の板挟み状態(Time Bind)」です。
 
そして、家庭に置き去りにされた子どもは、母親の注意をひこうとわざと反抗したり、問題を起こす。そんな子どもとの関係を 繕うための〝サードシフト(第3の勤務)〟に、母親たちはさらに疲弊します。
 
といったあたりには、女性登用の掛け声のもと行われる「職場環境改善」の皮肉な側面を垣間見るし、
 
男性たちは自分たちの集団に女性がひとり入ると、自分たちが〝男〟という同質な集団だったことに気づき、その一枚岩を壊したくない、壊されたくないという思いが無意識に働き、「男性性」をまとった発言や行動をとるようになります
 
といったところに、ジェンダー間の越えられない裂け目を感じるのは当方だけではあるまい。
 
さて、こうした「残念な職場」からの脱却法として
 
どんなに「 17 時退社」を掲げても、業務量を減らさないことには、サービス残業や隠れ(隠し)残業が増えるばかりです。そこで彼に「業務量はどうやって減らしたのか?」と質問しました。  すると返ってきたのはまさしく「成功の法則」です。 「みんなで考えたんです。よく話しましたね。部長も、課長も、リーダーも、チームも、もちろん私も、『こうしたらどうか? これは○○でやればいいんじゃないか?』と意見を出し合い、上手くいくと『早く帰ったら楽だった』『育児もできる』と報告しあったり。上手く仕事を減らせない人には『こうやったらどうだ』とアドバイスしたり。いい方に回転しだしたら、どんどん加速していきました。
 
心理的安全性。互いに敬意を払い、意見を出し合い、「ああ、ここは大丈夫だ。信頼できる場所」という職場にしていくことで、生産性は上がり、 17 時退社が当たり前になったのです。
 
といったところが特効薬的に注目されるあたりは、ちょっと安易かな、と思ってしまうのだが、当方が重要と思うのは、「疲労」をとること、それは従業員の「疲労」であるし、組織の「疲労」でもある。双方の「疲労回復」を図るのが「残念な職場」からの脱却法である、というあたりが筆者の主張ではなかろうか。
 

ニュータイプの「ジェネラリスト」を求める時代がやってきたかもしれない

大塚英樹「続く会社、続かない会社はNo.2で決まる」(講談社+α新書)で、
 
プロフェッショナルを育てることを人材育成の要とした(コクドの)堤(義明)は、社員に同じ仕事を長いこと続けさせていた。
(略)
こういうやり方をすれば、確かにエクスパティーズ(専門性)のある人材は育つ。しかし、その反面、「職人」と化すために視野が狭められ、自分の担当以外の他部門のことが理解できなくなってしまう。マネジメントの限界が出てくる。
職人の徒弟制度の下では、プロフェッショナルは育つ。しかし、アイデアとアイデアを結びつけた新しいアイデアを創造することはできない(P99)
 
と言った記述があったのだが、BusinessInsiderのサイトでも「専門性を磨くことが足かせに?今注目のシンセサイザー人材とは何か」と題して
 
・今まで専門家によって多くの問題が解決されてきたが、21世紀の問題はより複雑化しているので、既存の専門性だけで解決するのが困難になっている。
・ところが、何か一つの分野を極めた専門家ほど、積み重ねてきた経験からくるアドバイス(偏見)が邪魔をして「分野外」の物事をフェアに判断できないことがある
・これからは、3つ程度の専門性を持ちつつ、ジェネラリストとしての側面を持った人物、シンセサイザー型人材が求められる
 
と、シリコンバレーの教育テクノロジー事業を調査している、橋本智恵さんがレポートしていることあたりを読んで、これからのビジネスマンの方向性として、再び「ジェネラリスト」が評価されるサイクルになってきたのかな、と思えてきた。
 
当方が思うに、ここ数年来、専門家、その道のプロフェッショナルが偏愛される時代が続いていると思っていて、それは、旧来の権威や価値観が崩れ、いろんなものが不確かな状況になる中、「専門性」という核を自分の中に持つことによって、存在意義を確かなものにしようとする現れでもあり、また、雇用情勢が厳しくなる中で、他人に崩せない「聖域」として「専門性」を持って、自己防衛を図ろうとする処世術でもある。
 
ただ、ここに至って、AIの出現や普及によって、「専門性」「プロフェッショナルな知識」が代替可能なものになってきているというのが、今までの「専門家志向」が揺らいでいるのは間違いない。
 
で、引き続き「専門家」「プロフェッショナル」を目指してもいいのだが、自分は浮気性で、飽きっぽいからねーと思っている人は、新しいタイプの「ジェネラリスト」目指すのもあり、と思う。
 
ニュータイプというのは、前述の「センセサイザー」型や「「越境」という言葉に象徴されるように、複数の分野で、そこそこの知識と興味をもっていて、それを使って物事をまとめあげる、コーディネートすることを楽しめる人材、であろう。
そして大事なのは、「そこそこの」というのが肝心で、一つの分野に、心身とものめり込む、のではなく、等距離に興味と労力をつぎ込む、というバランス感覚が必要と思うんですな。
 
とかく「専門家」となるとあれこれ拘りがあって、複雑な問題になればなるほど、角突き合わすところが増えるし、タコツボ化するところも増えるもの。さらにこれにAiによる専門性の代替が絡んでくると、さらに様相は複雑になる。間とスキマを埋める何かが必要になってくるのは、時代の要請なのかもしれんですね。
 

「今の時代」の本当の「働き方」を模索する — 小原和啓「どこでも、誰とでも働ける」(ダイヤモンド社)

昨今の「働き方改革」が一頃の輝きを失った感があるのは、もちろん調査データの不備とかもあるのだが、根本的には、「働き方改革」ではなく「働かせ方改革」の色合いが強調されすぎてきて、働く側が、「働き方」を変えることの魅力を実感できなくなったことにあると思っている。

本書はマッキンゼー、Google、楽天などの誰もがおこがれる先端企業で働いた経験のある筆者による「働き方」改革の提言書である。

構成は

はじめに

 いま起きている3つの大きな変化

第1章 どこでも誰とでも働ける仕事術

第2章 人生100年時代の転職哲学

第3章 AI時代に適用する働き方のヒント

となっていて、本当はもう一レベル下の目次を紹介しないと、本書の構成ははっきりりないのだが、それをやると本書の内容をぶちまけてしまう感じになるので、ここでご容赦いただきたい。

で本書を総括すると

本書のタイトル「どこでも誰とでも働ける」には、2つの意味があります。 1つは、 ① どんな職場で働いたとしても、周囲から評価される人材になる ということ。そしてもう1つは、 ② 世界中のどこでも、好きな場所にいながら、気の合う人と巡り会って働ける ということ

ということらしく、かなり欲張ったものであることは確かですな。

で、こういう経歴の人であるから、認めるのはデジタルだけ、入手する情報はネットからで十分、なんてことを想像しがちなのだが

これはぼくの実家の教えの1つで、「本はメートルで買え」と言われていました。1冊1冊ちまちま選ぶのではなく、本屋の棚の「ここからここまで全部買え」というわけです。 本が高いといっても、たかだか2000円くらいです。その中のたった1行が人生を変えてくれることだってあるわけで、そう考えると、ずいぶん安い投資です。

と言った風に、「本」というものの価値をしっかり認識していたり、

先に行動ありきで何度も試行錯誤を重ねるDCPAサイクルも、コンピュータの処理能力をフル活用した確率論的なアプローチも、インターネットととても相性のよいやり方です。 それと対極にあるのが、プロダクトやサービスを通じて自分たちのこだわりや価値観を提案していく従来型のアプローチです。 この2つの違いは、そのままウェブメディアと紙の雑誌の違いに当てはまります。一長一短ありますが、どちらも必要というのがぼくの考えです。

といった形で、アナログとデジタルのそれぞれに優れたところを偏りなく評価するところは流石である。ただ、日本人特有のクローズドなビジネススタイルには批判的で

自分が思いつくようなことは、世界中で1000人は思いついていると思ったほうがいい。そうなると、自分が隠しても誰かに先にやられてしまう可能性が高いのです。 結局、スピード勝負ということであれば、自分だけでコツコツやるのではなく、オープンにしてまわりの人をどんどん巻きこんでスピーディに実現しないと間に合わないわけです。

とか

成果報酬型の給料だと、営業マンは成果を独り占めするために、情報やノウハウを囲いこみます。自分のノウハウを人に渡したら、売上を奪われてしまうかもしれないからです。でも、「世の中を一緒に変えていこうぜ」というストーリーに乗っかれば、情報やノウハウをシェアした人のほうがエライことになります。

といった風なオープンなすたいるであるところが極めて現代的といっていい。さらに、「働き方」については

働き方も同じです。 昔と比べていまは取り返しのつく世の中になっています。自分の人生を会社に預けていた時代には、会社での失敗は即、仕事人生の終わりを意味しましたが、いまはいくらでも逃げ道があります

1つ言えるのは、何度もトライできる時代だからこそ、みんなと同じゲームで戦うよりも、 みんなと違うゲームに行ったほうが、競争は少ない ということ

というように、トライを重ねることがベターであり、基本的に「ブルー・オーシャン」を信じるところが極めて楽天的で、青空の下を歩くような爽快感を感じる。

さて筆者によれば

いまは打算的に生きようと思えば、本書に詳細に書いているように、人を信じて、ギブをしまくることがいちばんお得な時代になっています。徹底的に打算的に生きると、結果的にいい人がいちばん合理的という時代

で、

会社にしろ、お客様にしろ、取引先にしろ、1つだけに依存すると、人間は自由を失います。だから、いまいる会社、いま取引のある会社、いま取り組んでいるプロジェクトから一歩離れて、別のところで自分の客観的な価値を確認する。会社と適切な距離を保って、自分の立ち位置を俯瞰してみる。普段から意識してそういうことをしておけば、1つのことに縛られることなく、精神の自由を保てます。

といったことを軸にすえておくべきであるらしい。そして、この時、その原点となるのは、自らの「できること」ではなく「好きなこと」であるように思う。

努力と仕事の結果は比例関係ではありません。最初のうちは、いくら努力してもなかなか結果に結びつかない。他の人も同じような努力をしていて差がつきにくいからです。 ところが、諦めずに努力を続けると、あるレベルを超えた瞬間、急激に伸びます。たいていの人は、そこまで努力できません。99・5%努力して、諦めてしまう。残りの0・5%、 最後の最後まで粘って努力し続けた人だけが、結果をごっそり独り占めできる ということです。

という言葉を励みに、もう少し気張ってみましょうか。

「定年」を迎える年齢になったが、さて・・・ — 郡山史郎「定年前後の「やってはいけない」ー人生100年時代の生き方、働き方」(青春新書)

最近、「定年本」が密かなブームになっているらしい。団塊の世代が退職を迎えた数年前にこうしたブームがあったように記憶しているのだが、人口集積的には、団塊世代ほどの圧力をもっていない、昭和30年〜35年ぐらいの年代が定年や役職定年を迎えるこの頃にブームとなっているのは、おそらくは年金の先行き不安があるのと、「働き方改革」とやらで突然「人生100年時代」とかが言われ始め、中高年の不安が増していることの反映でもあろう。
 
本書の構成は
 
第1章 「働かない老後」から「働く老後」
第2章 定年前後のやってはいけない
第3章 いますぐはじめる暮らしの見直し方
第4章 人生100年時代を生き残るヒント
 
となっているのだが、読んだ印象的には「男性向け」の中規模以上の企業に勤務していた人向けの、定年本の印象。ということは、この本の対象範囲はかなり広いといえるだろう。
 
ただ、気をつけておきたいのは、
 
定年後の再就職は、それまでの地位や収入、仕事の内容ときっぱりと決別しなければよい結果は生まれないということだ。  定年を迎えたら、もう一度新入社員になったつもりで、待遇にあまりこだわらず、何でもチャレンジしてみるのがいい
 
といったあたりや
 
起業だけは「やってはいけない」  
  
そもそも、何度失敗を経験しようと立ち直り、新たに事業を起こして軌道に乗せるには、それなりに時間もかかる。そんな時間的余裕は、第2ハーフには残されていない
 
といったところで顕著なように、景気よく「独立開業」を煽る政府広報のような本ではなく、どちらかといえば、保守的な「定年本」である。
 
なので、
 
「私は〝第三新卒〟だからゼロから挑戦する」くらいの気持ちで新しい勤め先を探すのが、定年後の職探しでは適切な態度だといえる
 
というところが基本的な信条であるようだ。
 
とはいっても、83歳になってもいまだに現役のビジネスマンの筆者であるから
 
45 歳を過ぎたらどんな学びもなかなか身につかないのだから、高齢者はあえて学び直す必要などない。新しいことは学べなくても、社会の大きな部分の動きはあまり変化しないから、高齢者はいままでの知識と経験で十分に仕事をしていける。
 
といったあたりは開き直り的な潔さすら感じる。
 
まあ、なんにせよ
「定年」とは社会がつくった便宜上の区切りである。端的には、雇用者側が、その会社で働ける年限を示した規定に過ぎない。要するに、会社の都合にもとづいてつくられた制度ということだ。「定年」の名のもとに会社を追い出された人が、その後どうなるかということは、会社も、社会も、(年金という制度上の手当を除けば)基本的に配慮しない。
 
ものであることは間違いなく、本書の主張の根幹は
 
私はこの本で、「一生働く」ことを推奨してきた。さらにいえば、高齢者が幸福に暮らすために最も大切な要件は、「働く」こと以外に存在しないとさえ思っている
 
とのこと。若い世代が組織や会社に属して働くことへの根源的な問いかけを始めている今にあって、中高年世代も安閑としているときではない。とりわけ、この後には、「定年」の持つ制度的な恩恵をうけることのない「ロスジェネ世代」が続く。「働くこと」そのものをもう一度考えてみますかね。





「いつも疲れている」ビジネスマンのお父さんがたにエールを贈ろう — 渡部 卓「明日に疲れを持ち越さないプロフェッショナルの仕事術」(クロスメディアパブリッシング)

グローバル化やダイバーシティの議論や働き方改革の議論などワークスタイルの議論は数々あるが、そうは言っても日々の仕事に追われているのが現実。議論より、仕事で疲れない、翌日以降に負担をもちこさない術(すべ)を教えてくれよ、というのが本音のビジネスマンも多いはず。
本書は、仕事のやり方とか、モチベーションの視点からだけではなく「仕事の疲れ」ということに着目したあたりがユニーク。
 
構成は
 
序章 プロフェッショナルの定義
 ー「仕事で疲れない」にはコツがある
第1章 疲れと仕事の関係 基礎知識
 ーベストコンディションをキープする
第2章 プロフェッショナルの生活習慣
 ー疲れにくい心と体のベースをつくる
第3章 心の疲れを溜めない思考法
 ーストレス、プレッシャーに強くなる
第4章 超・効率仕事術
 ー残業ゼロでも結果が出まくる
第5章 ムダなストレスを生まない調整力
 ー仕事は人間関係が9割
第6章 働くための休息術
 ー疲れを最速で吹き飛ばす
終章 「仕事で疲れない」人の資質
 ープロフェッショナル総論
 
となっていて、「疲れを溜めない」「ストレスを生まない」といったところから見て、筆者によると、「メランコリー気質」「執着気質タイプ」「自己愛・依存タイプ」は結果に執着しすぎて、自らの心身に負荷をかけ、気づかないうちに過労や睡眠不足で「バーン・アウト(燃え尽き症候群)」になる心配があるそうなのだが、それぞれの特質をみると、日本人の多くがこれらに属するんじゃないか、と思えて、ちょっと憂鬱になる。
 
ただ、そんな多くの日本人に向けて、プレッシャーに打ち勝つには
 
成果主義によるプレッシャーには、どうすればよいのでしょうか。最も大事なのは、成果主義という幻想に惑わされないことです。成果主義といいつつ評価側も絶対的な基準を持ち合わせているわけではないのです。
成果主義が進んでいると言われている米国の企業において、常に満点を目指しているような人は、自滅したり、潰されたりするのを多く眼にしてきました。
(中略)
結果に対してシビアだと言われる外資系企業でも、70点取っていれば、給料は下がることはないというのが実感でした。
 
といった提案があるなど、我々が抱いている「欧米の」成果主義幻想を壊してくれるのが嬉しい。ひょっとすると、我々は自分たちが創り上げた「ファスト・トラッカー幻想」に自ら陥っているのかもしれない。欧米のビジネス社会はもっと幅広いのでは、と思わせる。もちろん、
 
アメリカの企業では、働いている時間の3分の1は手を動かしていません。外資系の企業にいるときは、「3分の1はThinkTimeに充てろ」とか「4分の1は勉強に使え」ということをよく言われました
 
とか
 
外資系の企業に長く勤めていて、常に求められたのは「完璧じゃなくてもいいから、速く」ということでした。
(中略)
失敗を嫌う、失敗を回避したいという文化が日本にはあるのですが、むしろ早く取り組んで、早く失敗して軌道修正した方がコストは安く済むというのが、世界のビジネスの流れです。
 
といった一風変わった、「働き方」の提案もあるのは良いね。
 
そして
 
日本のビジネスパーソンを見ていて感じるのは、集団と同じことをしていないと挫折感を感じる人が多いということです。皆それぞれに違っていいと頭では分かっていても、根本では人と同じでいたいという欲求があるのです。これは根深いものと思わざるをえません。
 
とか
 
日本人が休み方が下手だというのは、ひとつには先述したように休むことに罪悪感を覚えてしまうことがありますが、もう1つには、休んでも何をしたらいいか分からない、休み方を知らないということもあるでしょう。
 
といった日本人のビジネスマンが「はた」と我が身を振り返ってしまうこともあるところが油断のならないところではある。
 
さて、いつも」「疲れてるなー」と感じているビジネスマンが多いのが日本の会社社会。当方も含め、自衛をしていかねばなりませんな。
 

働き方改革の鬼子「残業代の減少」と「フラリーマン」は、第二の「変化朝顔」や「加賀毛鉤」を生み出すか

日経スタイルの日経スタイルの「消える残業代は5.6兆円?働き方改革で消費低迷も」で、

・働き方改革法案が通ると残業は年720時間が上限となり。年5.6兆円の時間外手当が減る。

・一人当たり86.7万円の収入減という試算もある。 ・企業が社員に還元する方法で、賞与や手当で還元するところもあるが、企業にとって労働投入量の減少も意味しており、売り上げ減少などの悪影響も心配される。

・浮いたお金で新規採用を増やそうにも、労働市場はひっ迫してるので困難。限られた人員リソースをどう振り分けるかに知恵をしぼらないといけない時

といったことが記事の主旨なのだが、当方がこれに加えて「ほう」と思ったのは、記事冒頭の

・早く退社できるようになったのに真っすぐ家庭に帰らず、ふらふらと街で時間をつぶす「フラリーマン」が出現している ・アサヒ飲料の調査では、会社員の7割が早く帰れるようになったものの、1割はフラリーマン化している

といったところ。つまり、かなりの数の人が「早く帰れる」ようになっても「やることがない「やることが見つからない」といった状況なんでありますな。

そういえば、「サラリーマンの残業が常態化し、サラリーマンが家庭と切り離されたのは、高度成長期以降で、それまでは夕食は家庭でとるマンガの「サザエさん」の夕食風景が一般だった」といったことを、以前読んだ働き方改革についての本に載っていたような気がするのだが、そうであるなら、およそ40年ぶりの「家庭生活」の変化でもある。

で、この風がどんな方向にいくのかな、というところなのだが、江戸時代の貧乏幕臣たちのように、「お城勤め+〇〇」といった感じで、サラリーマン生活に加えて、その人にあった何か別の生活が多様化していくと面白いかな、と思っているところ。

それも、江戸の貧乏御家人たちが生み出した「変化朝顔」であるとか、武道奨励に替えて鮎釣りを奨励された加賀藩士の生み出した「毛鉤」といったように、江戸期の侍たちが家計を助けるために知恵を絞って副業・複業の数々を考え出し、それが文化の一つにもなったような、そんな動きがおきると面白いんですがね。

そして、それが小さな産業となれば、堅苦しい、正社員論議や、実質的に多くの人にはサラリーマン化しか職業生活がないような状況にも、いろいろ変化がでてくるような気がする。例えば、サラリーマン+毛鉤職人、とか、坂井希久子氏の「居酒屋ぜんや」シリーズの主人公のように、サラリーマン+鴬の鳴き声指南役、とか。

なんにせよ、生計の手段が多様化していくっていうのは、息苦しくなりがちな「一色の職業生活」に風穴をあけてくれそうな気がするんですが、どうですかね