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街の中華料理屋は我々の心の故郷 ー 鈴木隆祐「愛しの街場中華 東京B級グルメ放浪記2」

出張や新規の取引先での仕事が終わった後、知らない街で昼飯を食いそこねて、空腹を抱えているときや居酒屋でしこたま飲んだ後、満腹中枢の麻痺した状況で小腹が空いた状況でふらふら歩いている時、黄色や赤の「〇〇亭」や「△△軒」といった看板を見つけて「ホッ」とした経験はないだろうか。

どんなメニューがあるのかわからない、バカ高い値段では、入ると常連客ばかりで居心地が悪いのでは、といった知らない街の知らない店につきものの「不安」を全くまとっていないのが、街にあるフツーの中華店というもの。

そんな、庶民の味方、国民食の提供者といっていい存在である「街の中華店」について、愛情をこめてレポートされているのが本書『鈴木隆祐「愛しの街場中華 東京B級グルメ放浪記2」(光文社)』である。

【構成と注目ポイント】

構成は

はじめに「すべてはもののついでである」
第1章 下町中華のめくるめく世界
 まんぷくコラム1 ラーメンスープに薫る洋食スピリット
第2章 城北・城南の谷間中華
 まんぷくコラム2 郊外中華はファミレス仕様
第3章 副都心の街場中華を駆け抜ける
 まんぷくコラム3 関東中華の本場、横浜にこそ弾力街中あり
第4章 学生街の中華店
 まんぷくコラム4 秀才集う国立にガッツリ中華が息づいていた!
第5章 VIVA!生姜焼き
 まんぷくコラム5 街場中華パワーで鬼門が幸運のスポットで
第6章 街場中華の母港・埼玉をゆく
 まんぷくコラム6 大阪の中心部にありながら、最も庶民的な街で中華三昧
第7章 「街中的」中華チェーンとは
 まんぷくコラム7 街中こそ国民食、庶民の無形文化遺産なのだ!
第8章 街場中華における半チャンラーメンの存在意義とは?
あとがき「街場の中華こそ民主主義の広場である」

となっていて、本書によれば街場中華というのは

とくにはっきりした定義はない。ただ街中にあって、私たちの舌になじんだ和式の中華屋を、ぼくや少数の同志がそう呼んでいるにすぎない。
だが対極にある存在ははっきりしている。本格的で、また高級な中華料理店だ。

ということで、TVとかグルメ雑誌とは、まったく縁のない「中華店」と考えておけばいいようだ。
ただ、そういった店の料理が魅力がないといえばそんなことはなく、「ラードで豪快に炒め、塩胡椒に日本の醤油で一直線に味をまとめた」味っていうのは、我々の味覚の根底を支配しているといって間違いない。

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博多の旨いものは「とんこつラーメン」だけじゃない ー サカキシンイチロウ「博多うどんはなぜ関門海峡を越えなかったのか」

本書がひょっとしたら、書店のフード・ビジネスの棚にあって、博多うどんのビジネス展開のあたりを想定して購入したビジネスマンは、読み進むにつれて、ちょっと違和感を覚えるのかもしれない。
もちろん、フードビジネスのコンサルタントの著者によるものなので、そういうあたりも当然アドバイスされているのだが、それよりも圧倒されるのは、「博多うどん」に対する筆者の愛情のほどで、博多うどんの「名店」の数々のレビューも含めて、ちょっと変わった、「フードビジネス論」+「博多うどんグルメ論」である。

【構成と注目ポイント】

構成は

はじめに
第1章 博多へ
第2章 こんなに違う、うどんとラーメンの儲け方
第3章 「牧のうどん」本店の謎
第4章 博多うどんをめぐる半日ツアー
第5章 片道一時間半の王国
第6章 東京で博多うどんビジネスは成功するか?
おわりに

となっていて、まずは、筆者の「うどんビジネス失敗譚」から始まる。それは筆者がまだ若いころであった1990年代、「讃岐うどん」で。最終的な全国制覇をもくろんで、うどんの聖地ともいえる「高松」と「博多」の店をつくったのだが、高松では好評だったものの、博多では「こげん硬いうどんば食べれんばい」と拒否され、しかも「うどんの本場、讃岐で人気の」とプロモーションしたがために、誇り高い博多っ子の逆鱗に触れてしまったという経験である。

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日本の「定食文化」が元気なら日本経済も大丈夫 ー 今 柊二「ニッポン定食散歩」(竹書房)

ミシュランガイドの日本版に近くの店が掲載されたなどなど、TV番組や雑誌でもグルメ系の番組や特集の人気は衰えるところをしらないのだが、この美食ブームは、景気の良し悪しに左右される、とても移り気な感じがしている。
これに対し、限られた時間と限られた予算で、できるだけ、大盛りで美味なものを探す「定食愛」は、いつの時代でも色褪せない不動のものであろう。
そんな「定食愛」に突き動かされるように、日本全国の「定食」を食べ歩き、秀逸な定食をレビューしてくれる今柊二さんによる「定食ニッポン」の続編ともいえるのが本書である。

【構成は】

はじめに「定食・散歩でおいしさ倍増」
第1章 山手線一周 定食ぶらぶら散歩
第2章 何度でも通いたい!ワクワク洋食巡り
第3章 みんな大好き生姜焼き定食
第4章 安定の美味しさ チェーン系定食屋&中華屋
第5章 北から南へ定食漫遊 全国食べ歩き
第6章 ステキな一杯を求めて 立ちそば巡礼は続くよ
おわりに「定食と音楽」

となっていて、まずは「定食ニッポン」が刊行されてから10周年を記念しての山手線一周の定食旅に始まり、「洋食ウキウキ」(中公新書ラクレ)の未収録店、定食メニューの”大定番”生姜焼き定食の名店、安価で安定した味の庶民の味方・チェーン店、北は札幌から長崎までの全国の定食の名店が紹介される、という、まあ定番の定食行脚が展開されている。

 

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旅の食事の基本は「朝」にある ー 西川 治「世界ぐるっと朝食紀行」(新潮文庫)

(この記事は2018.11.24にリライトしました)

旅本でうまいもの紀行というのは、よくある話で、そういうテーマで1冊をものしようとすると、かなりの工夫か味付けか、あるいはグロものか、といったことが必要になるのだが、「朝食」だけにテーマをきめた旅本というのは、ほかにあまり例をしらない。

しかも、とりあげられている国は

トルコ、モロッコ、イタリア、フランス、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スコットランド、イギリス、カナダ、アメリカ、メキシコ、オーストラリア、フィジー、タイ、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ベトナム、インド、モルディブ、モンゴル、韓国、香港、台湾、中国、そして日本

とアフリカ、南米以外の国を幅広くカバーしている。

おまけに、旅本というとあやしげな屋台やポン引き、あるいは美しいが危険な美女や、おカマといったものが登場するのがおきまりなのだが、「朝食」をテーマにしているため、そうした胡散臭い色合いはなく、非常に健康的で明るい旅本である。

【注目ポイント】

で、どんな朝食がいいかなー、というのは、もうそれぞれのお好み次第だ。こうした「食べ物」をテーマにした旅本は、冷静な態度で読むもんじゃなくて、読者それぞれの偏見と独断で、これは美味そうだ、とか、これは勘弁してくれ、とか、こんなスカした食い物はいやだ、とか我が儘勝手な評論をしながら読むのが一番正しい読み方だと、これも勝手に決め込んでいる。

なんにしても、朝、昼、晩の三食の中で、朝食は旅先で食べるのが一番美味い気がしていて、それは国内外を問わず、ホテルのありきたりのバイキングだろうが、市場のガタガタいうベンチとテーブルで食べる食事であろうと変わらない。
そうした「旅先の朝食」が、これでもか、というぐらいにでてくるのだから、これはもう食べる、というか読むしかないだろう。

で、いくつか引用させてもらうと、まずは最初の一篇のトルコのバザール

三分の一ほどに切ったパンを、今度は縦に切り裂き、なかのやわらかいところを毟り取りその空いたところに、先程、刻んだ羊の腸を詰め、やはり、先程、毟り取ったパンをその上にのせた。肉のこんがり焼けた匂いだ。口にすると羊の強い匂いがする。だが、嫌な匂いではない。香ばしい匂いだ。滑らかな舌座割は羊の脂肪だ。肉の塊とおもっていたのは、羊の脂肪、そこに羊の腸をきっちりと強く巻きつけていたのだ。

美味いものは朝食しかないといわれるイギリスは

あのうまいベーコンエッグにカリカリのトースト(トーストもまり厚くてはいけない。それも前の火に買っておいたやつでなくては)にバターと甘ずっぱいマーマレード。もちろんイギリスの朝食時は、ぼくも背広に清潔なワイシャツ、ネクタイというスタイルである。トーストとベーコンエッグだけではない。ステーキがでたり、キッパー(スモークしたニシン)、キドニーのシチュー、ブラックソーセイジ、コールドミート、ポーリッジ、数種類の卵料理が今でもホテルではでてくるところがある。その料理の数が二十種類以上はあるはずだ。
  それに朝からでも伝統的にビールを飲んでもよいとされている。

という具合であるし、ベトナムの屋台料理の定番フォー・ガー(鶏入りフォー)は

 まず、麺ともやしを茹でる、茹でる時間は沸騰している湯にざっとつける程度だ。それをどんぶりにいれる。日本のラーメンのどんぶりより小さい。
  鶏の肉を削り、それをのせる。そこに、熱いスープを注ぐ。このスープは、本来は、ハノイで食べられている犬の骨がもっともうまいらしいが・・・・。ここは鶏のスープ。ちょっと薄いスープだ。テーブルにはそのとき一緒にザウ・ムォンと生のもやしがでてくる。いきなり食べるのではない。食べようとすると、その店の人が目の前のヌクマム、青い柑橘のチャイン、唐辛子を発酵させたトウオンオット、バナナの果汁から作られた酢につけたニンニクをいれ味を調え、自分の味覚にあわせるのだと、手振りで教えてくれた。調味をし、ペラペラのアルミのレンゲで味を見て食べ始めた。

といった感じだ。どうです、思わず頬が緩んでしまいそうになるでしょ。

【レビュアーから一言】

まだまだ、たくさんの国、たくさんの朝食がある。まずは御一読あれ。それにしても、また旅先の朝食が食べたくなった・・・。

どっか、行くかな。

 

国内にある「世界各地の豊穣さ」を楽しもうではないか — イシコ「世界一周ひとりメシ in JAPAN」(幻冬社)

一人で食事することが苦手なのに、世界を巡りながら一人で食事をする旅を「世界一周一人メシ」にまとめた、イシコ氏による、再びの一人メシの世界旅である。とはいうものの、「世界一周一人メシ」の旅から帰国後、岐阜県の定住者としてどっぷり地域に浸かってしまった同氏なので、海外ではなく、国内での「世界ひとりメシ」なんである。

収録は

1 テレビの一が気になるタイ料理店(東京都墨田区)
2 美人姉妹のいるイラン料理店でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
3 年老いたドイツ人店主の料理店はぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
4 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋区中区)
5 エジプト料理店でか投げる日本がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
6 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
7 餅好きにはたまらないナイジェリアの「エマ」(東京都新宿区)
8 一夫多妻のスリランカ生活を想像する(愛知県名古屋市名東区)
9 焼鳥屋でスウェ−デン人が働く理由
10 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市右京区)
11 ひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区西日暮里)
12  世界一周したからってウイグル料理を知っているとは限らない(埼玉県さいたま市桜区)
13 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
14 辛くはできても甘くはできないバングラディシュカレー屋(福岡県福岡市中央区)
15 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市中央区)
16 カンボジア人との国際結婚を妄想する
17 韓国料理で刺身を食べる
18 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主
19 ドミニカ共和国料理をなんとか食べたけど(北海道札幌市北区)
20 吹雪の中のブラジル料理(群馬県邑楽群大泉町)

となっていて、「世界」とはいうものの、出てくる国はアジア、中近東、アフリカ、ロシア、南米といったところで、まあ、「旅モノ」として読ませるなら、こうしたマイナーなところでないと面白くはないわな。

国内の外国料理店は個性のオンパレード

なので、国内と入っても、出てくる料理は、錦糸町の路地裏の食料雑貨店と一緒になったようなタイ料理店での

歯を閉じたまま息を素早く吸い込み、舌の辛さをやわらげた後、一気にビールを注ぎ込む。それにしても辛い。ヤムウンセンはタイ料理独特の甘さも酸っぱさもあるが、唐辛子の辛さが圧倒的に舌を支配している

や、名古屋の新栄の日本語の通じない中国料理店の

テーブルに僕が注文した料理が置かれた瞬間、絶句した。皿の上に盛られた蚕揚げである。吉林省など東北地方では貴重なタンパク源として食べる、文字通り「蚕」だ。
てっきり唐揚げ粉がまぶされ、表面が茶色の衣で覆われ、唐揚げのような感じで出てくると思っていたが、素揚げに近く、姿形がはっきりしている。黒いさなぎの山は釣り好きの友人の道具箱に並べられた 擬似餌 のワームを思い出す。
とても一人で食べられる量ではない。

といった風にとても個性的なものが多いし、名古屋のイラン料理店では

「イラッシャイマセ」
二十代半ばくらいだろうか。黒のタートルネックセーターにジーンズと普段着にもかかわらず、見とれてしまう。きれいな人だねぇ……男友達と一緒に来ていたら、顔を見合わせて言っていたに違いない。しかし、ひとりメシ。にやけ顔を作り笑顔に変え、軽く会釈をして店内を見渡す
(略)
厨房から白シャツにジーンズの若いイラン人女性が、メニューを持って現れた。これたまた美しい。イランの女性ってこんなに美しい

といった感じで、異国の美女たちとの出会い(「出会うだけ」なんだけどね)も、「旅の楽しみ」でありますね。

外国料理店は日本国内に溶け込んでいる

ここで、ふーむと思うのは、もちろん東京や名古屋、福岡といった都会地が中心なのであるが、外国の料理店の所在地が日本の広い範囲に及んでいることと、外国の料理を手加減なく提供しながらも、日本人が自分の食環境として受け入れているところで、それは、札幌のドミニカ料理店で

黄色のパンツを穿いた活発そうな女性とジーンズにコットンの白シャツを着た清楚な女性が店内に入ってきた。どちらも大学生にようだ。北海道大学の演劇サークルの公演ポスターや「学生さんは五十円引き」と墨文字で書かれた貼紙から、徒歩圏内の北海道大学の学生客の多さが想像できる

ということであったり、埼玉県さいたま市のウイグル料理店で

店主は日本に住んで十七年になるそうだ。来日して最初に通い始めた日本語学校がたまたま南与野にあり、そのままずっと住み続け、店まで出した。店内にはられたいちご狩りツアーのチラシやこの店が参加する地域イベントのポスターから、店主が地域に溶け込んでいることは想像できる。

や、福岡の「天神」から10分ほど歩くアパートの一階部分を改築したバングラディシュカレー屋で

開店してから三十分足らずで、客席の半分以上が埋まってしまった。昨晩同様、常連客が多かったが、この店が初めての老人のグループもいた、彼らが「カレーの辛さ」について店主に質問していた。
「甘くはできません。だったら薬膳カレーがいいと思います。」
誰に対しても態度を変えず、冷静に答える

といったところに現れていると思える。

まとめ

さて、筆者が最後に言う

知らない国の料理を食べるということは、人の足跡を辿ることに似ていると思うことがある。動物の心臓やフルーツを焼く、蚕や竹蟲を揚げる、蜂蜜や刺身を発酵させる……世界の誰かが最初に手を加え、口に入れ、足跡として後世に残していく。そうした世界中の足跡を日本で味わうことができるというのは、幸せなことである。この旅は、一旦、これで終了するが、今後も、日本のどこかで未知の国の料理を食べることのできる店を見かけたら、世界の足跡を求めて扉を開けると思う

のように、文化も宗教も、そして肌の色も違う人々を混沌のように受け入れ、同化ではなく同居するかたちで受け入れる日本文化はある意味、我々、日本人が立脚する原点でもあり、また存在意義でもあるように思う。堅苦しい教条や価値観に占拠されることなく、とてつもない混沌が続くことを祈りたいですな。

 

【筆者の他の著作】

  

極度に「東京的」な懐かしい味は、今、滅びつつあるのかもしれない — 町中華探検隊「町中華とは何か 昭和の味を食べに行こう」(立東舎)

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グルメ・リポートというと「豪華」路線か「ヘルシー」路線か、といったところが最近の定番であるような気がするが、そのどちらからも離れたところにいるのが、「町」の「中華料理」「中華屋」というものであろう。
 
本書の構成は
 
プロローグ・・下関マグロ
1 われら町中華探検隊
2 飛び出せ!町中華探検隊
3 これが町中華だ
4 炎の町中華
5 鼎談 改めて町中華ってなんだろう
エピローグ・・北尾トロ
 
となっていて、我々のごく身近ありながら、なんとも掴みどころのない存在である「町中華」についてのルポである。
ただ、いわゆる「B級グルメ」とかのグルメリポートの中華版と勘違いはしてほしくない。もちろん、東中野駅前の「大盛軒」の
 
こちらの名物が〝鉄板麺〟というメニュー。二人ともそれをいただいた。肉と野菜を炒めたものが鉄板鍋にのっかってて、ジュージュー湯気を立ち上げながら出てくる。これに半ラーメンとご飯、生卵がセットになっているのが鉄板麺だ。生卵は、肉野菜の中心に割り入れる。ニンニクのチップがついてくるので、それもかけて、最後にタバスコをかけていただく。
 
や、下北沢の「中華丸長」の
 
レバニラ炒めは、たいていの店では全食材をまとめて調理するが、そうすると野菜から出た水分がレバの生臭さを誘発したりする。レバ嫌いの人たちは、こういうのを嫌いがちだ。ところが『中華丸長』のレバニラ炒めは、炒めたニラとモヤシの上に、別途に調理されたであろうレバがのせられていた。レバはカラッと揚げられていて香ばしく、生臭みなんて全然ない。これならレバ嫌いでもおいしく食べられそうだ。
 
といった、野蛮な食欲をそそる、グルメ・レポート的なところがないわけではないのだが、本書の基本のところは、あの店の〇〇が絶品で云々というところがメインではなくて、「町中華という文化」あるいは「町中華という都市現象」の記録といったところであろう。それは、
 
「昭和以前から営業し、一〇〇〇円以内で満腹になれる庶民的な中華店。単品料理主体や、ラーメンなどに特化した専門店と異なり、麺類、飯類、定食など多彩な味を提供する。カレーやカツ丼、オムライスを備える店も。大規模チェーン店と違ってマニュアルは存在せず、店主の人柄や味の傾向もはっきりあらわれる」
 
という北尾トロ氏の「町中華」の定義にも現れていて、戦前から、戦後、高度成長期、バブル期、そして、リーマンショック後の失われた「20年」の時代までの長い期間、日本の、けして豊かではない庶民階級の満腹感とささやかな贅沢感を満たしてきた、庶民の「混沌」の「食」の文化史ともいってもよい。
 
そういえば、当方の「学生時代」も百円玉数枚で食せるが、けして飛び上がるほど美味ではない「中華屋」がアパートや大学の近くのあちこちにあって、三食(「朝・昼・夜」ではなくて「昼・夜・深夜」)のほとんどを、この類の店で食していたような気がする。当時の当方の身体は、「町中華」の麺と餃子と飯でできていたようなものであったのだな、とあらためて述懐する。
 
ちょっと注意しておきたいのは、このいかにも「昭和的な食文化史」は、当方的には、「都会的」しかも極度に「東京的」なものである、という印象が強くて、東京圏を離れた「地方都市」の住民からは、一種の憧れを持って語られるものであったり、いつか過ごすであろう「東京の」学生生活のシンボルとして語られるもので、けして全国共通のものではないというところかな。
 
とはいうものの、この「町中華」が「減ってきている。・・・このままでは、町中華はいずれ絶滅危惧種になるに違いない」ということは、いわゆる「団塊の世代」の前後を中心とする日本の上昇期を支えた人口ボリュームが大きい層の「思い出」が消えつつある、といってよく、町中華の衰退は、「団塊の世代」から「ミレニアム世代」への世代交代を象徴しているものでもあるのだろう。
 
といったところはあるのだが、本書の「読みどころ」は
 
食べた瞬間に「あ、うまい」と思わされるレベルの料理には割と出くわすんだけど、脳にしっかり刻まれて「また行きたい」と思わされるほどの美味に出会えるチャンスとなると皆無に近いのだ。店を出て数分すると「あれ?どんな味だったっけ?」となり、生活圏内にある店とかでもない限り、再来店する可能性は極めて低い。町中華メニューのうまさというのは、あくまでも〝並レベルのうまさ〟なのである。決してまずくはないけど、絶賛するほどうまいわけでもない。端的に言うなら、可もなく不可もない。これが町中華なのだ。
 
といった町中華の味のごとく、まだ存在する「町中華」を愛し、食し続ける筆者たちの姿に、若い頃の中高年世代の思い出を重ねつつ、「懐かし」の味を思い出す、あるいは「昭和の味」を想像するところにある。
 
その時代を生きた人もそうでない人も、「町中華」の、ラップの裏に水滴のいっぱいついた、餃子とラーメンの出前を食しながら、本書を味わってみてはいかがでありましょうか。
 

日本の食文化の重要要素として無視できない「チェーン店」という存在 — 村瀬秀信「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」(講談社文庫)

当方の子どもたちがまだ、幼いころ、「外で御飯食べるぞ−」となると、行くのは決まって「チェーン店」であって、子どもたちも、テレビのCMにでてくる店で食事ができるということに大喜びしてしまうというのが、「辺境」に住まう家族の寂しいところ。

もっとも当方がガキの頃は、外食できるところといえば、街のうどん屋か蕎麦屋がせいぜいであったので、牛丼、ピザ、ステーキ、焼肉、ハンバーガーといった様々なもの(料理というと反論されそうなのであえて”もの”と言っておく)を、安価に、手軽に食せるというのは、日本の食文化の画一化を進めたという批判はあるにせよ、地方部の「食」を都市部のそれに近づけた、おおげさに言えば、「食」を介した日本人の「意識の共通化」「日本人という共通意識の強化」に貢献したといえなくもない。

収録されているのは

吉野家/山田うどん/CoCo壱番屋//びっくりドンキー/餃子の王将/シェーキーズ/サイゼリヤ/かっぱ寿司/ハングリータイガー/ロイヤルホスト/マクドナルド/すき家/レッドロブスター/蒙古タンメン中本/やよい軒/牛角/カラオケパセラ/くるまやラーメン/とんかつ和幸/PIZZAーLA/ビッグボーイ/鳥良/築地 銀だこ/日高屋/バーミヤン/ケンタッキーフライドチキン/てんや/どん亭/Sizzler/A&W/リンガーハット/ビリー・ザ・キッド/東京チカラめし/野郎ラーメン/ファミール

といった、外食チェーンの大所が多いのだが、例えば「ハングリータイガー」や「ビリー・ザ・キッド」「てんや」など、辺境に住まう当方には出張の折りぐらいしかお目にかかれない店もあるのだが、例えば、

「かっぱ寿司」の

「た、楽しい・・・」。かっぱ寿司を寿司屋と対比してはいけない。これは、総合フードエンタメなのだ。店内を見渡せば、同じように新幹線から寿司をとってニヤニヤするおっさん客の姿があちこちにある。ああ、楽しかった。店を出ると、一言もしゃべらなかったことに気がついた。

「牛角」の

筆者にとって、チェーン焼肉といえば、「牛角」だった、そのはじめての出会いの衝撃は今でも昨日のように覚えている。まずは肉質。焼肉というものを知らぬハタチそこその貧乏人にとって、牛角の肉は、まだ見ぬ松阪牛と錯覚するほどの実力を感じずにはいられなかった

といったあたりは、都市部、地方部共通であろう。さらには、「とんかつ和幸」の

思い返してみれば、とんかつ専門店という概念も知らなかった子供時代、筆者の家庭の事情ゆえなのかもしれないが、店で食べるとんかつといえば、30円の駄菓子〝ビッグカツ〟の親玉か、太ったハムカツ程度の代物で、下手なとこだと一口食べれば衣から豚肉がスッポリ抜けるガッカリとんかつが主流だった。  現在のようなぶ厚くジューシーな本物の〝とんかつ〟。あれに出会った瞬間、とんかつはとんかつでなくなり、ビッグカツは携帯用とんかつでないことを思い知る。

というところでは、高級洋食であった「とんかつ」を、皆の手元にもってきたのは、チェーン店の功績というべきであろう。

さて、こうしたチェーン店が元気なうちは、国の勢いも盛んであるようなのだが、チェーン店から高級志向への。「食の嗜好」が移るにつれ、なにやら世の中が難しくなって、世の中の熱気もなくなってきたように感じる。熱気があればよいものではないのだろうが、やはり世の中の「熱気」というものはある程度ないと、社会自体が衰えていくようだ。難しいことは、ちょっと置いておいて、家族と「チェーン店」へ行って、盛大に注文をしてみませんか。

手練の「食エッセイ」をどうぞ — 平松洋子「夜中にジャムを煮る」(新潮文庫)

食エッセイというものは、得意不得意が当然あって、食べ歩き的なものが得意な筆者もおれば、手料理もの・自分ちの台所ものが得意な筆者もいるのだが、どちらも「良し」という作者はなかなかいないのだが、そんな稀有な例が、平松洋子氏であろう。

収録は

Ⅰ 台所で考える

こんなものを食べてきた

漆と別れる、出会う

飲みたい気分

夜中にジャムを煮る

Ⅱ 鍋の中をのぞく

わたしのだし取り物語

ぴしり、塩かげん

おいしいごはんが炊きたい

手でつくるー韓国の味

手でつくるーうちの味

旅日記・韓国のごはん

Ⅲ わたしの季節の味

お茶にしましょ

夏はやっぱりカレーです

麺をつるつるっ

蒸しもの名人になりたい

炭を熾す

Ⅳ いっしょでも、ひとりでも

今日は何も食べたくない

ひとりで食べる、誰かと食べる

となっていて、手料理ネタから、外食ネタまでが色とりどりに収録されている。

例えば手料理ネタは

酒の肴はおいしすぎてはいけない。あくまで主役は酒なのだ。脇に控えてくいっと酒の味わいを引き立ててくれれば、もう、それで。(P54)

酒の肴はちょっとものさびしい暗いのが好きである。焙ったお揚げにはなんとはないひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。けれどもいったん箸でつまんで味わえば、確かな滋味をじわりと滲ませて満足をもたらす。これがいったいに酒を引き立てる肴の条件であり、ごはんとおかずとの境界線ではないか(P55)

や表題作の「ジャムを煮る」の

ジャムを煮るのである。

おたがい、いちばん幸福なときに鍋の中で時間を止めてしまう。そうすれば哀れにも腐らせたり、だめにすることもない。今がいちばんいいとき。そのときにおたおたしていたら、容赦なく時間に打ちのめされる。だから、先回りしてジャムをつくる。(P67)

ジャムは夜更けの静けさの中で煮る。

世界がすっかり闇に包まれて、しんと音を失った夜。さっと洗ってへたをとったいちごをまるごと小鍋に入れ、佐藤といっしょに火にかける。ただそれだけ。すると、夜のしじまのんかない甘美な香りが混じりはじめる。暗闇と静寂のなかでゆっくりとろけていく果実をひとり占めして胸いっぱい幸福感が満ちる。(P70)

のように、単に原を塞ぐ、あるいは美味を堪能するための手料理ではなく、「生活を楽しむ」という視点からの「手料理」を提案しているように思えるし、食べ歩きのジャンルでも

韓国では、野菜を和えるとき、決して箸を使わない。頼りにするのは、自分の手であり、指である。(P130)

指先に力を託すのではない。にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染み込むことを了解したうえで指を使うのである。ここが日本の料理法と大きく道を分けるところだ。日本料理では、野菜は鋭く研ぎ澄ました鋼の包丁でぴしりと切り揃える。だいこんの千六本もにんじんのせん切りも、断面はきりっと切り立っている。その美しさを最大限に生かしながら、菜箸で「ふわあっ」と盛り付けるのだ。野菜の扱いひとつとっても、韓国と日本では要諦は間逆である(P131)

といった感じで、美味自慢というより、料理人たちの「手仕事」の素晴らしさに着奥するあたりが只者ではないところ。

さらには、

食べたくないとき、今日は食べるのをよしておこうというとき、わたしがいそいそ齧るのは煮干しです。(P231)

煮干しにはいろんな味がある。うまみ、塩味、苦み、えぐみ、甘み、カメば噛むほどじわりじわり。天日に干されていっそう濃度を増した海の生命が踊っているような。(P232)

のようの食欲のない時の「煮干し」の味であったり、腎臓病を患っていた愛娘の入院先での食事の悲しさ、とか「食」エッセイを「生活」のエッセイにしてしまうのが、はり手練の技でありますな。

まあ、こういった手練の技はあれこれ論評するより、味わってみるのが一番。どうぞ御賞味あれ。

たかがラーメン、されどラーメン — 武内伸・大泉孝之介「ラーメン人物伝 一杯の魂」(グループ・ゼロ)

ラーメンは、すでに国民食の域を脱して、「民族食」「日本文化食」のレベルに達していて、そうなると、それをつくる調理人も「料理人」「職人」として扱われるようになってきているのだが、有名店のラーメン職人たちの物語を紡いだのが本シリーズ。

収録は

第1巻

1杯目 麺屋武蔵/山田雄・佐藤吉治

2杯目 柳麺 ちゃぶ屋/森住康二

3杯目 ぜんや/飯倉洋孝

4杯目 中村屋/中村栄利

5杯目 なんつっ亭/古谷一郎

6杯目・7杯目 支那そばや/佐野実

第2巻

1杯目 東京・荻窪/春木屋

2杯目 東京・池袋/大勝軒

3杯目 飛騨高山/まさごそば

4杯目 札幌/純連(すみれ)

5杯目 白河/とら食堂

6杯目 和歌山/井出商店

第3巻

1杯目 久留米/大砲ラーメン

2杯目 月形/むつみ屋

3杯目 京都/天下一品

4杯目 函館/マメさん(丸豆岡田製麺)

5杯目 福岡/博多一風堂

6杯目 大阪/日清食品

となっていて、全てとは言わないまでも、多くの店の名前が記憶にあることと思う。

で、こうした料理を含めた職人の物語は、たいていの場合、苦難を乗り越えて、その天性が開花する、といったのが定番で、一話、二話はよいのだが、多くをよむと満腹感が漂ってきて、その努力臭が鼻についてくるものであるのだが、有り難いことに、このシリーズはその臭いが少ない。

というのも、大衆食でもあるラーメンらしく、その料理人が店を繁盛店にもっていったり、ラーメン屋を始めたりする経歴が多種多様であるせいであろう。例えば、通商産業省の役人あがり(ぜんや/飯倉洋孝)であったり、戦後の動乱の中で子どもたちを育て上げるための母親の大奮闘(和歌山/井出商店)であったり、「天才」と呼ばれた父親を乗り越えようとする息子の努力(白河/とら食堂)であったり、ラーメン屋を開業してしまった、製麺メーカーの社長であったり(函館/マメさん(丸前岡田製麺)、とラーメンの種類の多様さそのままに、ラーメンに携わる人も多様である。

そして、3巻目の〆に、インスタントラーメンの発明者「安藤百福」をすえるなどメニュー構成もよく考えてある(風に思える。ひょっとすると、とりあげるラーメン屋に詰まったせいかもしれないが)。

とはいうものの、そこはラーメンに携わる人々の物語である。菓子や日本料理の料理人の物語につきものの辛気臭さ、説教臭さはほとんどない。ビジネス本に疲れた時の箸休めにいかがでありましょうか。

ラーメンを題材にした歴史論的奇書 — 速水健朗「ラーメンと愛国」(講談社現代新書)

「新書」というジャンルは幅が広いせいか、結構な曲者が何食わぬ顔ではいりこんでくることがあって、おなじ講談社現代新書の坂口恭平氏の「独立国家のつくり方」が最たるものであろうと思うのだが、この「ラーメンと愛国」も、個人的には、そうした「魅力ある奇書」に分類してよいと思っている。

構成は

第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略

第二章 T型フォードとチキンラーメン

第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー

第四章 国土開発とご当地ラーメン

第五章 ラーメンとナショナリズム

となっていて、前半の章は、ラーメンを題材にして、日本の近代から現代までの歴史を俯瞰するといった態で、

(明治から大正期にかけて)当時の支那そばとは、あくまで「都市下層民」が「真也飲食の楽しみ」として「娯楽的」に食していたもの、もしくは、深夜労働者たちが安価な夜食として食していたものだった(P18)

とか

日本人の食生活にラーメンが入り込んできた最初のタイミングは、戦後の闇市である(P20)

や、かって一世を風靡した「渡る世間に鬼はなし」をとりあげて

(戦後の)ドラマや漫画におけるラーメン屋は、庶民的であることや貧困な生活の象徴として用いられる(P106)

キミの世代にとっての「幸楽」とは生きていくためになりふりかまわずしがみつく生きるための場所。勇・五月の世代にとっての「幸楽」とは、成長・拡大させていくビジネスの場。愛・眞にとってみれば、育った場所ではあるが自分が引き継ぎ、守る対象ではなく、捨て去るべき古き時代のものである(P109)

といったあたりは、ラーメンというものが大正、昭和初期、太平洋戦争、戦後日本、高度成長と、アップダウンと揺れの激しかった日本の歴史を表す「シンボル性」を有しているところを明らかにしていて、歴史論には「ラーメン」を語りことが必須なのでは、と思わせるところもある。

ただ、後半になると、ちょっとその様相が変化してきて、「ラーメン」に仮装される日本人論、あるいは日本文化論、地域論のようになってきて

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