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国内にある「世界各地の豊穣さ」を楽しもうではないか — イシコ「世界一周ひとりメシ in JAPAN」(幻冬社)

一人で食事することが苦手なのに、世界を巡りながら一人で食事をする旅を「世界一周一人メシ」にまとめた、イシコ氏による、再びの一人メシの世界旅である。とはいうものの、「世界一周一人メシ」の旅から帰国後、岐阜県の定住者としてどっぷり地域に浸かってしまった同氏なので、海外ではなく、国内での「世界ひとりメシ」なんである。

収録は

1 テレビの一が気になるタイ料理店(東京都墨田区)
2 美人姉妹のいるイラン料理店でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
3 年老いたドイツ人店主の料理店はぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
4 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋区中区)
5 エジプト料理店でか投げる日本がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
6 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
7 餅好きにはたまらないナイジェリアの「エマ」(東京都新宿区)
8 一夫多妻のスリランカ生活を想像する(愛知県名古屋市名東区)
9 焼鳥屋でスウェ−デン人が働く理由
10 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市右京区)
11 ひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区西日暮里)
12  世界一周したからってウイグル料理を知っているとは限らない(埼玉県さいたま市桜区)
13 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
14 辛くはできても甘くはできないバングラディシュカレー屋(福岡県福岡市中央区)
15 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市中央区)
16 カンボジア人との国際結婚を妄想する
17 韓国料理で刺身を食べる
18 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主
19 ドミニカ共和国料理をなんとか食べたけど(北海道札幌市北区)
20 吹雪の中のブラジル料理(群馬県邑楽群大泉町)

となっていて、「世界」とはいうものの、出てくる国はアジア、中近東、アフリカ、ロシア、南米といったところで、まあ、「旅モノ」として読ませるなら、こうしたマイナーなところでないと面白くはないわな。

国内の外国料理店は個性のオンパレード

なので、国内と入っても、出てくる料理は、錦糸町の路地裏の食料雑貨店と一緒になったようなタイ料理店での

歯を閉じたまま息を素早く吸い込み、舌の辛さをやわらげた後、一気にビールを注ぎ込む。それにしても辛い。ヤムウンセンはタイ料理独特の甘さも酸っぱさもあるが、唐辛子の辛さが圧倒的に舌を支配している

や、名古屋の新栄の日本語の通じない中国料理店の

テーブルに僕が注文した料理が置かれた瞬間、絶句した。皿の上に盛られた蚕揚げである。吉林省など東北地方では貴重なタンパク源として食べる、文字通り「蚕」だ。
てっきり唐揚げ粉がまぶされ、表面が茶色の衣で覆われ、唐揚げのような感じで出てくると思っていたが、素揚げに近く、姿形がはっきりしている。黒いさなぎの山は釣り好きの友人の道具箱に並べられた 擬似餌 のワームを思い出す。
とても一人で食べられる量ではない。

といった風にとても個性的なものが多いし、名古屋のイラン料理店では

「イラッシャイマセ」
二十代半ばくらいだろうか。黒のタートルネックセーターにジーンズと普段着にもかかわらず、見とれてしまう。きれいな人だねぇ……男友達と一緒に来ていたら、顔を見合わせて言っていたに違いない。しかし、ひとりメシ。にやけ顔を作り笑顔に変え、軽く会釈をして店内を見渡す
(略)
厨房から白シャツにジーンズの若いイラン人女性が、メニューを持って現れた。これたまた美しい。イランの女性ってこんなに美しい

といった感じで、異国の美女たちとの出会い(「出会うだけ」なんだけどね)も、「旅の楽しみ」でありますね。

外国料理店は日本国内に溶け込んでいる

ここで、ふーむと思うのは、もちろん東京や名古屋、福岡といった都会地が中心なのであるが、外国の料理店の所在地が日本の広い範囲に及んでいることと、外国の料理を手加減なく提供しながらも、日本人が自分の食環境として受け入れているところで、それは、札幌のドミニカ料理店で

黄色のパンツを穿いた活発そうな女性とジーンズにコットンの白シャツを着た清楚な女性が店内に入ってきた。どちらも大学生にようだ。北海道大学の演劇サークルの公演ポスターや「学生さんは五十円引き」と墨文字で書かれた貼紙から、徒歩圏内の北海道大学の学生客の多さが想像できる

ということであったり、埼玉県さいたま市のウイグル料理店で

店主は日本に住んで十七年になるそうだ。来日して最初に通い始めた日本語学校がたまたま南与野にあり、そのままずっと住み続け、店まで出した。店内にはられたいちご狩りツアーのチラシやこの店が参加する地域イベントのポスターから、店主が地域に溶け込んでいることは想像できる。

や、福岡の「天神」から10分ほど歩くアパートの一階部分を改築したバングラディシュカレー屋で

開店してから三十分足らずで、客席の半分以上が埋まってしまった。昨晩同様、常連客が多かったが、この店が初めての老人のグループもいた、彼らが「カレーの辛さ」について店主に質問していた。
「甘くはできません。だったら薬膳カレーがいいと思います。」
誰に対しても態度を変えず、冷静に答える

といったところに現れていると思える。

まとめ

さて、筆者が最後に言う

知らない国の料理を食べるということは、人の足跡を辿ることに似ていると思うことがある。動物の心臓やフルーツを焼く、蚕や竹蟲を揚げる、蜂蜜や刺身を発酵させる……世界の誰かが最初に手を加え、口に入れ、足跡として後世に残していく。そうした世界中の足跡を日本で味わうことができるというのは、幸せなことである。この旅は、一旦、これで終了するが、今後も、日本のどこかで未知の国の料理を食べることのできる店を見かけたら、世界の足跡を求めて扉を開けると思う

のように、文化も宗教も、そして肌の色も違う人々を混沌のように受け入れ、同化ではなく同居するかたちで受け入れる日本文化はある意味、我々、日本人が立脚する原点でもあり、また存在意義でもあるように思う。堅苦しい教条や価値観に占拠されることなく、とてつもない混沌が続くことを祈りたいですな。

 

【筆者の他の著作】

  

極度に「東京的」な懐かしい味は、今、滅びつつあるのかもしれない — 町中華探検隊「町中華とは何か 昭和の味を食べに行こう」(立東舎)

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グルメ・リポートというと「豪華」路線か「ヘルシー」路線か、といったところが最近の定番であるような気がするが、そのどちらからも離れたところにいるのが、「町」の「中華料理」「中華屋」というものであろう。
 
本書の構成は
 
プロローグ・・下関マグロ
1 われら町中華探検隊
2 飛び出せ!町中華探検隊
3 これが町中華だ
4 炎の町中華
5 鼎談 改めて町中華ってなんだろう
エピローグ・・北尾トロ
 
となっていて、我々のごく身近ありながら、なんとも掴みどころのない存在である「町中華」についてのルポである。
ただ、いわゆる「B級グルメ」とかのグルメリポートの中華版と勘違いはしてほしくない。もちろん、東中野駅前の「大盛軒」の
 
こちらの名物が〝鉄板麺〟というメニュー。二人ともそれをいただいた。肉と野菜を炒めたものが鉄板鍋にのっかってて、ジュージュー湯気を立ち上げながら出てくる。これに半ラーメンとご飯、生卵がセットになっているのが鉄板麺だ。生卵は、肉野菜の中心に割り入れる。ニンニクのチップがついてくるので、それもかけて、最後にタバスコをかけていただく。
 
や、下北沢の「中華丸長」の
 
レバニラ炒めは、たいていの店では全食材をまとめて調理するが、そうすると野菜から出た水分がレバの生臭さを誘発したりする。レバ嫌いの人たちは、こういうのを嫌いがちだ。ところが『中華丸長』のレバニラ炒めは、炒めたニラとモヤシの上に、別途に調理されたであろうレバがのせられていた。レバはカラッと揚げられていて香ばしく、生臭みなんて全然ない。これならレバ嫌いでもおいしく食べられそうだ。
 
といった、野蛮な食欲をそそる、グルメ・レポート的なところがないわけではないのだが、本書の基本のところは、あの店の〇〇が絶品で云々というところがメインではなくて、「町中華という文化」あるいは「町中華という都市現象」の記録といったところであろう。それは、
 
「昭和以前から営業し、一〇〇〇円以内で満腹になれる庶民的な中華店。単品料理主体や、ラーメンなどに特化した専門店と異なり、麺類、飯類、定食など多彩な味を提供する。カレーやカツ丼、オムライスを備える店も。大規模チェーン店と違ってマニュアルは存在せず、店主の人柄や味の傾向もはっきりあらわれる」
 
という北尾トロ氏の「町中華」の定義にも現れていて、戦前から、戦後、高度成長期、バブル期、そして、リーマンショック後の失われた「20年」の時代までの長い期間、日本の、けして豊かではない庶民階級の満腹感とささやかな贅沢感を満たしてきた、庶民の「混沌」の「食」の文化史ともいってもよい。
 
そういえば、当方の「学生時代」も百円玉数枚で食せるが、けして飛び上がるほど美味ではない「中華屋」がアパートや大学の近くのあちこちにあって、三食(「朝・昼・夜」ではなくて「昼・夜・深夜」)のほとんどを、この類の店で食していたような気がする。当時の当方の身体は、「町中華」の麺と餃子と飯でできていたようなものであったのだな、とあらためて述懐する。
 
ちょっと注意しておきたいのは、このいかにも「昭和的な食文化史」は、当方的には、「都会的」しかも極度に「東京的」なものである、という印象が強くて、東京圏を離れた「地方都市」の住民からは、一種の憧れを持って語られるものであったり、いつか過ごすであろう「東京の」学生生活のシンボルとして語られるもので、けして全国共通のものではないというところかな。
 
とはいうものの、この「町中華」が「減ってきている。・・・このままでは、町中華はいずれ絶滅危惧種になるに違いない」ということは、いわゆる「団塊の世代」の前後を中心とする日本の上昇期を支えた人口ボリュームが大きい層の「思い出」が消えつつある、といってよく、町中華の衰退は、「団塊の世代」から「ミレニアム世代」への世代交代を象徴しているものでもあるのだろう。
 
といったところはあるのだが、本書の「読みどころ」は
 
食べた瞬間に「あ、うまい」と思わされるレベルの料理には割と出くわすんだけど、脳にしっかり刻まれて「また行きたい」と思わされるほどの美味に出会えるチャンスとなると皆無に近いのだ。店を出て数分すると「あれ?どんな味だったっけ?」となり、生活圏内にある店とかでもない限り、再来店する可能性は極めて低い。町中華メニューのうまさというのは、あくまでも〝並レベルのうまさ〟なのである。決してまずくはないけど、絶賛するほどうまいわけでもない。端的に言うなら、可もなく不可もない。これが町中華なのだ。
 
といった町中華の味のごとく、まだ存在する「町中華」を愛し、食し続ける筆者たちの姿に、若い頃の中高年世代の思い出を重ねつつ、「懐かし」の味を思い出す、あるいは「昭和の味」を想像するところにある。
 
その時代を生きた人もそうでない人も、「町中華」の、ラップの裏に水滴のいっぱいついた、餃子とラーメンの出前を食しながら、本書を味わってみてはいかがでありましょうか。
 

日本の食文化の重要要素として無視できない「チェーン店」という存在 — 村瀬秀信「気がつけばチェーン店ばかりでメシを食べている」(講談社文庫)

当方の子どもたちがまだ、幼いころ、「外で御飯食べるぞ−」となると、行くのは決まって「チェーン店」であって、子どもたちも、テレビのCMにでてくる店で食事ができるということに大喜びしてしまうというのが、「辺境」に住まう家族の寂しいところ。

もっとも当方がガキの頃は、外食できるところといえば、街のうどん屋か蕎麦屋がせいぜいであったので、牛丼、ピザ、ステーキ、焼肉、ハンバーガーといった様々なもの(料理というと反論されそうなのであえて”もの”と言っておく)を、安価に、手軽に食せるというのは、日本の食文化の画一化を進めたという批判はあるにせよ、地方部の「食」を都市部のそれに近づけた、おおげさに言えば、「食」を介した日本人の「意識の共通化」「日本人という共通意識の強化」に貢献したといえなくもない。

収録されているのは

吉野家/山田うどん/CoCo壱番屋//びっくりドンキー/餃子の王将/シェーキーズ/サイゼリヤ/かっぱ寿司/ハングリータイガー/ロイヤルホスト/マクドナルド/すき家/レッドロブスター/蒙古タンメン中本/やよい軒/牛角/カラオケパセラ/くるまやラーメン/とんかつ和幸/PIZZAーLA/ビッグボーイ/鳥良/築地 銀だこ/日高屋/バーミヤン/ケンタッキーフライドチキン/てんや/どん亭/Sizzler/A&W/リンガーハット/ビリー・ザ・キッド/東京チカラめし/野郎ラーメン/ファミール

といった、外食チェーンの大所が多いのだが、例えば「ハングリータイガー」や「ビリー・ザ・キッド」「てんや」など、辺境に住まう当方には出張の折りぐらいしかお目にかかれない店もあるのだが、例えば、

「かっぱ寿司」の

「た、楽しい・・・」。かっぱ寿司を寿司屋と対比してはいけない。これは、総合フードエンタメなのだ。店内を見渡せば、同じように新幹線から寿司をとってニヤニヤするおっさん客の姿があちこちにある。ああ、楽しかった。店を出ると、一言もしゃべらなかったことに気がついた。

「牛角」の

筆者にとって、チェーン焼肉といえば、「牛角」だった、そのはじめての出会いの衝撃は今でも昨日のように覚えている。まずは肉質。焼肉というものを知らぬハタチそこその貧乏人にとって、牛角の肉は、まだ見ぬ松阪牛と錯覚するほどの実力を感じずにはいられなかった

といったあたりは、都市部、地方部共通であろう。さらには、「とんかつ和幸」の

思い返してみれば、とんかつ専門店という概念も知らなかった子供時代、筆者の家庭の事情ゆえなのかもしれないが、店で食べるとんかつといえば、30円の駄菓子〝ビッグカツ〟の親玉か、太ったハムカツ程度の代物で、下手なとこだと一口食べれば衣から豚肉がスッポリ抜けるガッカリとんかつが主流だった。  現在のようなぶ厚くジューシーな本物の〝とんかつ〟。あれに出会った瞬間、とんかつはとんかつでなくなり、ビッグカツは携帯用とんかつでないことを思い知る。

というところでは、高級洋食であった「とんかつ」を、皆の手元にもってきたのは、チェーン店の功績というべきであろう。

さて、こうしたチェーン店が元気なうちは、国の勢いも盛んであるようなのだが、チェーン店から高級志向への。「食の嗜好」が移るにつれ、なにやら世の中が難しくなって、世の中の熱気もなくなってきたように感じる。熱気があればよいものではないのだろうが、やはり世の中の「熱気」というものはある程度ないと、社会自体が衰えていくようだ。難しいことは、ちょっと置いておいて、家族と「チェーン店」へ行って、盛大に注文をしてみませんか。

手練の「食エッセイ」をどうぞ — 平松洋子「夜中にジャムを煮る」(新潮文庫)

食エッセイというものは、得意不得意が当然あって、食べ歩き的なものが得意な筆者もおれば、手料理もの・自分ちの台所ものが得意な筆者もいるのだが、どちらも「良し」という作者はなかなかいないのだが、そんな稀有な例が、平松洋子氏であろう。

収録は

Ⅰ 台所で考える

こんなものを食べてきた

漆と別れる、出会う

飲みたい気分

夜中にジャムを煮る

Ⅱ 鍋の中をのぞく

わたしのだし取り物語

ぴしり、塩かげん

おいしいごはんが炊きたい

手でつくるー韓国の味

手でつくるーうちの味

旅日記・韓国のごはん

Ⅲ わたしの季節の味

お茶にしましょ

夏はやっぱりカレーです

麺をつるつるっ

蒸しもの名人になりたい

炭を熾す

Ⅳ いっしょでも、ひとりでも

今日は何も食べたくない

ひとりで食べる、誰かと食べる

となっていて、手料理ネタから、外食ネタまでが色とりどりに収録されている。

例えば手料理ネタは

酒の肴はおいしすぎてはいけない。あくまで主役は酒なのだ。脇に控えてくいっと酒の味わいを引き立ててくれれば、もう、それで。(P54)

酒の肴はちょっとものさびしい暗いのが好きである。焙ったお揚げにはなんとはないひなびた風情がまとわりつき、あたりの空気がしんと鎮まる。けれどもいったん箸でつまんで味わえば、確かな滋味をじわりと滲ませて満足をもたらす。これがいったいに酒を引き立てる肴の条件であり、ごはんとおかずとの境界線ではないか(P55)

や表題作の「ジャムを煮る」の

ジャムを煮るのである。

おたがい、いちばん幸福なときに鍋の中で時間を止めてしまう。そうすれば哀れにも腐らせたり、だめにすることもない。今がいちばんいいとき。そのときにおたおたしていたら、容赦なく時間に打ちのめされる。だから、先回りしてジャムをつくる。(P67)

ジャムは夜更けの静けさの中で煮る。

世界がすっかり闇に包まれて、しんと音を失った夜。さっと洗ってへたをとったいちごをまるごと小鍋に入れ、佐藤といっしょに火にかける。ただそれだけ。すると、夜のしじまのんかない甘美な香りが混じりはじめる。暗闇と静寂のなかでゆっくりとろけていく果実をひとり占めして胸いっぱい幸福感が満ちる。(P70)

のように、単に原を塞ぐ、あるいは美味を堪能するための手料理ではなく、「生活を楽しむ」という視点からの「手料理」を提案しているように思えるし、食べ歩きのジャンルでも

韓国では、野菜を和えるとき、決して箸を使わない。頼りにするのは、自分の手であり、指である。(P130)

指先に力を託すのではない。にんげんの指を使うことで、すでにごく自然な力が野菜に伝わっているところをよしとする。微細な動きが野菜の繊維をかすかに壊し、調味料はそのすきまに染み込むことを了解したうえで指を使うのである。ここが日本の料理法と大きく道を分けるところだ。日本料理では、野菜は鋭く研ぎ澄ました鋼の包丁でぴしりと切り揃える。だいこんの千六本もにんじんのせん切りも、断面はきりっと切り立っている。その美しさを最大限に生かしながら、菜箸で「ふわあっ」と盛り付けるのだ。野菜の扱いひとつとっても、韓国と日本では要諦は間逆である(P131)

といった感じで、美味自慢というより、料理人たちの「手仕事」の素晴らしさに着奥するあたりが只者ではないところ。

さらには、

食べたくないとき、今日は食べるのをよしておこうというとき、わたしがいそいそ齧るのは煮干しです。(P231)

煮干しにはいろんな味がある。うまみ、塩味、苦み、えぐみ、甘み、カメば噛むほどじわりじわり。天日に干されていっそう濃度を増した海の生命が踊っているような。(P232)

のようの食欲のない時の「煮干し」の味であったり、腎臓病を患っていた愛娘の入院先での食事の悲しさ、とか「食」エッセイを「生活」のエッセイにしてしまうのが、はり手練の技でありますな。

まあ、こういった手練の技はあれこれ論評するより、味わってみるのが一番。どうぞ御賞味あれ。

たかがラーメン、されどラーメン — 武内伸・大泉孝之介「ラーメン人物伝 一杯の魂」(グループ・ゼロ)

ラーメンは、すでに国民食の域を脱して、「民族食」「日本文化食」のレベルに達していて、そうなると、それをつくる調理人も「料理人」「職人」として扱われるようになってきているのだが、有名店のラーメン職人たちの物語を紡いだのが本シリーズ。

収録は

第1巻

1杯目 麺屋武蔵/山田雄・佐藤吉治

2杯目 柳麺 ちゃぶ屋/森住康二

3杯目 ぜんや/飯倉洋孝

4杯目 中村屋/中村栄利

5杯目 なんつっ亭/古谷一郎

6杯目・7杯目 支那そばや/佐野実

第2巻

1杯目 東京・荻窪/春木屋

2杯目 東京・池袋/大勝軒

3杯目 飛騨高山/まさごそば

4杯目 札幌/純連(すみれ)

5杯目 白河/とら食堂

6杯目 和歌山/井出商店

第3巻

1杯目 久留米/大砲ラーメン

2杯目 月形/むつみ屋

3杯目 京都/天下一品

4杯目 函館/マメさん(丸豆岡田製麺)

5杯目 福岡/博多一風堂

6杯目 大阪/日清食品

となっていて、全てとは言わないまでも、多くの店の名前が記憶にあることと思う。

で、こうした料理を含めた職人の物語は、たいていの場合、苦難を乗り越えて、その天性が開花する、といったのが定番で、一話、二話はよいのだが、多くをよむと満腹感が漂ってきて、その努力臭が鼻についてくるものであるのだが、有り難いことに、このシリーズはその臭いが少ない。

というのも、大衆食でもあるラーメンらしく、その料理人が店を繁盛店にもっていったり、ラーメン屋を始めたりする経歴が多種多様であるせいであろう。例えば、通商産業省の役人あがり(ぜんや/飯倉洋孝)であったり、戦後の動乱の中で子どもたちを育て上げるための母親の大奮闘(和歌山/井出商店)であったり、「天才」と呼ばれた父親を乗り越えようとする息子の努力(白河/とら食堂)であったり、ラーメン屋を開業してしまった、製麺メーカーの社長であったり(函館/マメさん(丸前岡田製麺)、とラーメンの種類の多様さそのままに、ラーメンに携わる人も多様である。

そして、3巻目の〆に、インスタントラーメンの発明者「安藤百福」をすえるなどメニュー構成もよく考えてある(風に思える。ひょっとすると、とりあげるラーメン屋に詰まったせいかもしれないが)。

とはいうものの、そこはラーメンに携わる人々の物語である。菓子や日本料理の料理人の物語につきものの辛気臭さ、説教臭さはほとんどない。ビジネス本に疲れた時の箸休めにいかがでありましょうか。

ラーメンを題材にした歴史論的奇書 — 速水健朗「ラーメンと愛国」(講談社現代新書)

「新書」というジャンルは幅が広いせいか、結構な曲者が何食わぬ顔ではいりこんでくることがあって、おなじ講談社現代新書の坂口恭平氏の「独立国家のつくり方」が最たるものであろうと思うのだが、この「ラーメンと愛国」も、個人的には、そうした「魅力ある奇書」に分類してよいと思っている。

構成は

第一章 ラーメンとアメリカの小麦戦略

第二章 T型フォードとチキンラーメン

第三章 ラーメンと日本人のノスタルジー

第四章 国土開発とご当地ラーメン

第五章 ラーメンとナショナリズム

となっていて、前半の章は、ラーメンを題材にして、日本の近代から現代までの歴史を俯瞰するといった態で、

(明治から大正期にかけて)当時の支那そばとは、あくまで「都市下層民」が「真也飲食の楽しみ」として「娯楽的」に食していたもの、もしくは、深夜労働者たちが安価な夜食として食していたものだった(P18)

とか

日本人の食生活にラーメンが入り込んできた最初のタイミングは、戦後の闇市である(P20)

や、かって一世を風靡した「渡る世間に鬼はなし」をとりあげて

(戦後の)ドラマや漫画におけるラーメン屋は、庶民的であることや貧困な生活の象徴として用いられる(P106)

キミの世代にとっての「幸楽」とは生きていくためになりふりかまわずしがみつく生きるための場所。勇・五月の世代にとっての「幸楽」とは、成長・拡大させていくビジネスの場。愛・眞にとってみれば、育った場所ではあるが自分が引き継ぎ、守る対象ではなく、捨て去るべき古き時代のものである(P109)

といったあたりは、ラーメンというものが大正、昭和初期、太平洋戦争、戦後日本、高度成長と、アップダウンと揺れの激しかった日本の歴史を表す「シンボル性」を有しているところを明らかにしていて、歴史論には「ラーメン」を語りことが必須なのでは、と思わせるところもある。

ただ、後半になると、ちょっとその様相が変化してきて、「ラーメン」に仮装される日本人論、あるいは日本文化論、地域論のようになってきて

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万人が好む、東京の”旨いもの”がざっくざっく — 平松洋子「焼き餃子と名画座ーわたしの東京 味歩き」(新潮文庫)

食エッセイの舞台は、地方の名勝・観光地あるいは秘境をとりあげるパターンと、東京・京都・大阪といった都会地をとりあげる2つのパターンがあるのだが、平松洋子さんのものは、以前レビューした「ステーキを下町で」や「サンドウィッチは銀座で」のように東京を舞台にするものが多い。

「東京」というところは首都が長いせいもあるが、江戸の歴史を今にひきづるせいか、ざっかけない庶民的な「食」の分野では京都や大阪に抜きん出ている気がしていて、その意味で、平松さんのエッセイは、東京舞台の食エッセイにありがちなスノッブ臭のないところが当方の好みである。

収録は

昼どき

自分の地図を一枚 西荻窪

土曜日、ドーナツを食べにいく 代々木上原

路地裏のチキンライス 六本木

地下鉄でソウルへ 赤坂

三十年めの粥 四ツ谷

津之守坂のかあさんカレー 四ツ谷

インドのおじさんに敗北する 西新宿

きょうは讃岐うどん修行 新宿

とんかつの聖地へ 新橋

「冷し中華はじめました」 神保町

夏には野菜を 青山

こころは神に。手は仕事に 青山

ハーモニカ横丁の音色 吉祥寺

銀座のつばめ 銀座

十月に神保町でカレーを

小昼

町の止まり木 西荻窪

フルーツサンドウィッチのたのしみ 日本橋

角食パンを買いにいく 浅草

昼下がりのみつ豆 阿佐ヶ谷

味の備忘録 新宿

さよなら、ボア 吉祥寺

愛しのいちごショート 淡路町

薄暮

べったら市をひやかす 小伝馬町

銀座で一人 銀座

焼き餃子と名画座 神保町

夕方五時の洋食 銀座

うちわ片手にどぜう鍋 深川

酎ハイ、煮こみ、肉豆腐 北千住

ハイボールの快楽 銀座

うなぎ、その祝祭の輝き 南千住

「シンスケ」歳時記 湯島

春隣の日々

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ちょっと行動範囲が広がった、なつかしい味わいの食エッセイ — 平松洋子(画 谷口ジロー)「ステーキを下町で」(文春文庫)

平松洋子さんと谷口ジローさんの文・画のコンビの食エッセイの第二弾。

食エッセイというやつは、旨いもの自慢、高い店自慢に陥ると鼻持ちならないもので、読む人との距離感が近いほど親和性が増す。

ただ、近ければよいというものではなくて、やはりその店やその食べ物を食したことがないか、食したことはあるが遠い昔である、とか近しいのだが、少し遠いといったところが一番良いようで、塩梅がなかなかに難しい。

その点、平松さんの食エッセイは、名店、老舗、あるいはざっかけない居酒屋など色とりどりで、間口の広さゆえか、通好みでありつつも。万人向きの食エッセイといっていい。

収録は

梅さんの豚丼

黒豚ラブ

津軽の夜はいがめんち

朝の大衆酒場、夜はスナック

ステーキを下町で

てぃーあんだの味

はじめての「餃子の王将」

根室のさんまにむせび亡き

ぐっと噛みしめる

鮟鱇がもっくもっく

赤目四十八瀧 運命のうどん

三陸の味、北リアス線に乗って

ただいま東京駅、発車時刻三十分前

旅の締めくくりに

文庫版のためのあとがき

となっていて、以前レビューした「サンドウィッチは銀座で」よりも行動範囲は広めである。

で、行動範囲が広めになった分、レビューされる「食」の範囲も多彩で、「梅さんの豚丼」では、とかく「牛丼」の代用品として扱われる「豚丼」で

わたしは信じられないものを見るような思いだ。丼のふたの下からぐるり、とろっと光沢にまみれた厚い豚ロース肉が満開の花びらみたいにはみでているのです。つまり、豚ロースの絨毯の上に、ふたがのっかっている。

神々しいという言葉が脳裏に浮かんだ。丼いちめん、つやつやの甘辛色にまみれた厚い豚ロースの重なりは、誇らしげに咲き乱れる薔の花。花びらの先端でロースの透明な脂がきらめいて、まばゆい。口に入れる前から、じゅわーっと肉汁が迸るのがわかってしまう。さらに浮き足立つのは、とてつもなく香ばしい匂いのせいだ。炭で焼いた、あの香ばしさがあたりを支配する。目を閉じると、あら、これは鰻丼? でも、もう一度目を開けると、緑あざやかなグリーンピースのまんまるが愛嬌たっぷりにころころ五つ。花びらのわずかなすきまから、白いごはんが顔をのぞかせている。

といった愛情あふれるレビューをしたかと思うと、「ぐっとかみしめる」では、韓国のエイの刺し身を食するに

見なくてもそれとわかるほどのアンモニア臭を撒き散らしながら、例のものは登場した。  色を帯びてむっちりとした光に包まれたホンオの刺身。大ぶりに切った白菜キムチ。厚切りのゆで豚肉。この三つを重ね、いちどきに頰張るのが「三合」の食べかたの流儀である。いっけんなんでもない盛り合わせだ、臭気さえなければ。ほら、こうやってね。おそるおそるを握った三人のまえで、食べてみせる。  嚙む。ぎゅ、ぎゅ、嚙みしめる。軟骨がこりりと歯にあたり、そのたびにアンモニア臭が勢いよく放出され、鼻に抜けてゆく。そのあとを追いかけるのは白菜キムチのうまみや辛み、ゆで豚肉の甘さやこく、ぜんぶ複雑にからんで重厚な味わいが生まれる。嚙めば嚙むほど、複雑さが精妙になってゆく。そこにマッコリをつーっと流しこむと、とろりとおだやかな酸味が優しくなだめにかかり、深い世界へ。

と、臭い食材の混沌とした世界を垣間見せてくれるのである。

そして返す刀で「三陸の味、北リアス線に乗って」のウニ丼では

割り箸に手をかけて、さあ。角のあたりに差し入れるなり、びっくりしました。ふわっと軽やか。雲ごと絨毯を持ち上げると、絨毯はやわらかな空気をたっぷり蓄えているのだった。  ほら、駅弁というと、やみくもにぎっちりごはんが詰めこんであるでしょう。を持ち上げると、岩石みたいなカタマリが発掘される。あれはいけません。駅弁のおいしさはごはんの盛りこみかたに左右されるのだから

と駅弁のウンチク、と味わいは様々。

さて、旨いものとできの良い食エッセイは人の心を和ませる。「書」を片手に紹介された店の探索に赴くもよし、出来合いの肴をつまみに家呑みを決め込むも良し。それぞれに「食エッセイ」をお愉しみあれ(とはいうものの、今回も表題作の「ステーキは下町で」のレビューを忘れてしまったぞ・・・反省)

なつかしい味わいの食エッセイ — 平松洋子(画・谷口ジロー)「サンドウィッチは銀座で」(文春文庫)

食エッセイというものは東海林さだおさん風の自虐系から吉田健一氏のスノッブ風のものまで、その幅が広いだけに、人によって好みが別れるもの。

その点、平松洋子さんのエッセイはほんのりとした下味がついた吸い物のように、すうっと読めて、アクが少ないのがよろしいところで、本書は、先般亡くなった、谷口ジロー氏のマンガも掲載されているので、本書版の「孤独のグルメ」もセットになっている。

収録は

春を探しに

それゆけ!きょうもビールがうまい

夏まっ盛り。食べるぞ、うなぎ

池袋で中国東北旅行

いただきます、社員食堂

いつもこころにオムライス

座敷でゆるり

サンドウィッチは銀座で

冬を惜しんで、ひとり鍋

熊を食べにゆく

さらば、昭和の大衆食堂「聚楽台」

百年も二百年も

の12編。

当方が平松さんの食エッセイで、「ほう」と思うのが、食エッセイといえば、食材や料理の素晴らしさ、美味しさを表現するにはもちろんなのであるが、「食」をいただきシチュエーションもしっかり書き込んであるあたり。

例えば「それゆけ!きょうもビールがうまい」では

ビアホールは町場の宝である。おいしいビールが飲みたい、その一心に駆られてビアホールに駆けこむと、「よしきた!」。ビール注ぎ名人が熟練の技を惜しみなく披露して、とびきりのビールを飲ませてくれる。ビアホールで飲むかくべつのおいしさ、これだけは町に出かけなければけっして出合えない。

であったり、「座敷でゆるり」では

入れ込みとは、広い座敷に卓をずらりと並べ、順次に客を案内して座らせるスタイルのこと。奥から詰めるようにして座るときもあれば、適宜じぶんで場所をえらんで座るときもある。いずれにしても仕切りがないから、知らないひとと隣り合わせに座ることになる。鰻屋やどぜう屋、鍋もの屋など下町の風情をだいじにする昔ながらの店は、たいてい入れ込み式だ。老いも若きも広い座敷でわいわい楽しげに舌鼓を打っている風景には、なんともいえずくつろいだ雰囲気が漂う。

にぎやかで遠慮がいらないのが入れ込みの座敷のよさなら、小上がりは逆をゆく。しっぽりと水入らず、見えているのに見えていないようなはんぶん密室の空気感があり、その曖昧な風情に味わいがある。いってみればおとなの空間、人生の小劇場。  なかでも小料理屋の小上がりには、そんな渋い匂いが充ちている

といったところ。ここらは、チェーン店真っ盛りの中で、昔ながらの「ビアホール」「居酒屋」「小料理屋」の落ち着きを感じさせるのではないだろうか。

とはいうものの、こうした昔ながらの店自慢や昔よろしきが蔓延すると、食エッセイなのだが、単に昔語りなのかわからなくなるのだが、そこはちゃんとわきまえていて、「夏まっ盛り。食べるぞ、うなぎ」の

どうしてうなぎは、ひとの理性を奪ってしまうのだろう。なのにうな重とかうな丼とか白焼きとか、うなぎのことを語るとき、ひとは爛々と目を輝かせる。あげく、最後は陶然として「ああ、うなぎ食べたい」と身をよじるのだ。

お重いっぱい、こってりと脂が乗った蒲焼きがおふとんのように広がって燦然と輝く。解き放たれた香りもぜんぶ、自分だけのもの。なにがあってもこのお重だけは誰にも渡さない。  箸を差し入れ、はじからそうっと耕すようにしてすくい上げ、ごはんといっしょに頰張る。甘辛いたれの風味は濃いめ、脂の乗った身の厚いうなぎにみっちりねっとりからんで一心同体、こっくりと豊満。そのうえうなぎが自分の持ち味を負けずに主張して、がつんと味覚を打ち負かすおいしさ

や、「熊を食べにゆく」の

こっくりと深いこくがある。なのに、すきっとキレがいい。脂身なのに、鈍重さはどこを探しても見つからない。くせも臭いもない。だしのうまみをまとって甘みがさらに際立ち、脂身と赤身がたがいを引き立て合う。いのししの肉に感じる荒ぶりも、けれん味もない。豪胆ではない。粗野でも野蛮でもない。むしろ可憐。と同時に、山を包みこむおおらかさ。しっかりとした嚙みごたえは、飲みこむのが惜しい。

といったあたりには、頭の中が「鰻の蒲焼き」や「熊肉の鍋」いっぱいになるんであります。

さてさて、「食エッセイ」というもの、「エッセイ」そのものを楽しんでもいいのだが、ここは、本書の

庶民的な食べものだから決まりはないけれど、やっぱり粋な食べかたはある。 「まず、あんまりいつまでもやってないんですね。鍋をかけっぱなしにせず、火をつけたら一杯やりながらささっとやっつけていただく。お寿司もおなじだと思いますが、来たものをさっと。昔からのおなじみの方はどぜう汁とごはんだけとか、小腹が空いたからぱっと食べて、ごちそうさん」

に倣い、ぱぱっとと読んで、本を小脇にうまい飯屋を探しにいこうではありませんか。

古風なグルメ本も良いものだ — 丸谷才一「食通知ったかぶり」(文春文庫)

少し前に、Kindle日替わりセールにエントリーされていて、かなり前の出版なのだがなー、思ったのが再読のきっかけ。初出掲載誌をみると、昭和48年(1973年)から昭和50年(1975年)にかけてなので、ほぼ40年まえのグルメ本ではある。
構成は
神戸の街で和漢洋食
長崎になほ存す幕末の味
信濃にはソバとサクラと
ヨコハマ 朝がゆ ホテルの洋食
岡山に西国一の鮨やあり
岐阜では鮎はオカズである
八十翁の京料理
伊賀と伊勢とは牛肉の国
利根の川風 ウナギの匂ひ
九谷づくしで加賀料理
由緒正しい食ひ倒れ
神君以来の天ぷらの味
四国遍路はウドンで終わる
裏日本随一のフランス料理
雪見としやれて長浜の鴨
春の築地の焼き鳥丼
となっていて、今時のグルメ本と比較すると、場所も料理もオーソドックスな”美食”であるのだが、オーソドックスにはオーソソックスなりに”定番”的な良さはあるもので
それは本書中の、例えば「信濃にはソバとサクラと」では信州の越後屋本店で馬肉を食して
この何やら艶な趣のある赤黒い肉片を生姜醤油にちよいとひたしてから口にすると、まづひいやりとした感触が快いし、柔らかくておだやかでほのかに甘い味はひが舌を包み、二三度、口を動かすともうそれだけで、sながら川の流れに舞ひ落ちた牡丹雪のように溶けていく。
とか「八十翁の京料理」では”鳥弥三”という店、鳥料理を食して
次は鳥のおつくり。ワサビで食べる。小さな雪洞状の電気スタンドがそばにあるのだが、薄くらがりの中で見る桃いろの五きれほどがまことに可憐で、そのくせ口に入れると一種淫猥な感じに変わる。ねっとりした、淡白な、それでゐて甘い味が舌に触れるとき、粘膜と粘膜の摂食といふ具合になるのである。
といった感じで表現される”古風”な描写と相俟って、なにやら典雅な味わいすらするのである。
まあ、最近のグルメ本の”旨い店発見”や”皆の知らない穴場発見”とは違って、今はもうないかもしれない”古の美味の記録も読む”といった楽しみが味わえる”逸品のグルメ本”でありますな