北尾トロ「猟師になりたい」(信濃毎日新聞社)

フリーライターの北尾トロ氏による猟師チャレンジの私的ルポ。最近は「ジビエ」とかのプチ・ブームが来ているらしく、ちらほらと「猟師」系の本を見かけるようになっているのだが、「漁師」や「農家」に比べ「猟師」はマイナーなことは間違いない。
構成は
第1章 山が呼んでいる

1 松本へやってきた
2 猟銃講習会でいきなり試験
3 空気銃に狙いを定める
4 狩猟免許試験を突破
5 銃を撃たずに銃を持つ?
6 ついにスタートラインに立つ
第2章 たのもー!いよいよ猟へ
1 射撃場でスコープ調整
2 猟友会に入ってみた
3 鳥撃ちの師匠が見つかった
4 見学ツアー、いざ出発
5 ボートの上から実践デビュー
6 絶品のヤマドリ鍋
7 悪夢の”半失”2連発
8 七つ道具とオフシーズンの夢
9 ひとり猟の午後
10 ベテランコンビ、鳥を追う
11 無情な最終日とシュタタの話
第3章 猟期は終わっても
1 先輩猟師からのプレゼント
2 娘と激論!命を獲るのは残酷か
3 プロ猟師という生き方
4 射撃練習はオフシーズンの必修科目
5 ミキティ・シューティング・クラブ
6 信州の山は大丈夫か

7 ジビエ料理のすごい実力
となっていて、東京から長野県松本市に居を移したのをきっかけに、猟銃免許を取って鳥猟の随行(単独行はまだ無理みたいらしい)を始めた1年間の記録である。
いったいに「猟」というのは「漁」に比べて偏見に包まれているのが事実としてあって、同じ命を奪うものでありながら、より残酷な印象を持たれてしまうところは、本書でも、猟銃免許をとったときの知人の反応や、猟についての我が子の反応などでも明らかだ。
しかし、本来は
仕事の中心は農業だが、集落には1人か2人の、”鉄砲ぶち”(長野では漁師のことを
こう呼んだ)がいて、彼らはあまり農作業をせず、昼間からぶらぶらしていること
を許された・武器を持つ彼らには、侵入者から集落を守ることや、肉の調達をする
役割があったからだ(P158)
といったように山里の生活にビルトインされたものであったはずなのだが、「収穫」というものの抽象化の波とともに、どこか遠くの世界の話となってしまっているのは、この国のそこかしこに見られる「具象」の軽視と同じと捉えて良いのかもしれない。
でまあ、そうした狩猟がなぜ今注目なのかは、表向きの理由は有害鳥獣の対策とかなのであろうが、本音のところは倫理的なところでは
50歳を前にプロ猟師という職業に身を投じ、収入も減った。なれない営業などもこ
なさなければならない。ところが、加藤さんの表情はじつに明るい。好きなことを
仕事にしたからではないそうだ。
「生活かかっていいるから、前ほど楽しめなくなりました。でもなんだろう
な、獲った物を売って暮らすシンプルさが気持ちいいんでんですよね」(P173)
 
30代〜40代の若い方なんですが、始めた動機を尋ねたら「生まれた子供に自分の手
で肉にしたものを食べさせたい」と思ったからです」と(P186)
といったところであるし、もうひとつは
野生の鳥は余計な脂がないから、ギトギトしすぎず上品なスープになるのだ。
ヤマドリが素晴らしいのは売買禁止の鳥であること。ジビエレストランに行ったっ
て、この鍋は食べられない。つまり、ヤマドリが食卓に載るのは猟師がいる家庭の
特権なのである(P106)
といった「味覚」の誘惑であるのだろう。
個人的には腰が悪いのと、「アームチェア」なんとかを地でいく武将さなので、とても「猟」に出ることはないと思うのだが、そうした無精者ほど「アウトドア」とか「野外生活」に憧れるもので、見果てぬ夢として楽しんでおこうではないか

小川和也「デジタルは人間を奪うのか」(講談社学術新書)

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ロボットに仕事が奪われる職業についての記事に触発されて、本書を読み始めた。
まずは、デジタルあるいはロボット技術の陽の面から始まる。ボストンの爆弾テロで左足を失った社交ダンスのダンサー ハスレット・デービスさんがバイオニック義肢で再び踊りの世界に復帰したという良いニュースから始まる。
ではあるが、デジタル絶賛の書ではない。むしろ、筆者がこうしたデジタルを中心としたコンピュータ、ロボット技術に詳しいがゆえの、デジタル社会の大きな潮流を少しばかり堰き止めよう、流れを阻害しようとする書であるといっていい
構成は
序章 デジタルの船からは、もはや降りられない
第1章 デジタル社会の光と影
第2章 モノのネット化で変わる生活
第3章 ロボットに仕事を奪われる日
第4章 仮想と現実の境界線が溶ける
第5章 脳と肉体にデジタルが融合する日
第6章 「考える葦」であり続ける
終章 デジタルは人間を奪うのか
となっているが、
例えば
子どもたちがソーシャルメディアを使うようになったことで、友達の反応を求める習慣がつき、その結果、子どもたちが「評判を求める行動」へと系統している
ことや
モノがネット化されることで、自宅の家電や自動車、自分が身につけるウェアラブルコンピュータがハッキングされる危険性を考えてネット化を考えるべき
あるいは
パソコンやスマホ、インターネットを。「外部脳」として頼ることによる前頭葉の退化
などなど、第1章から第5章までは、最新にコンピュータ技術、デジタル化の技術とその影の部分が中心。

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佐々木俊尚「自分でつくるセーフティネット」

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人と人との紐帯が弱くなっている現代における、新しい人間関係論。


大きな章立ては

1 セーフティネットは自分でつくる時代 ~ 一生安泰はもう終わり

2 総透明化社会の時代 ~自分を丸見えにすることで得られるもの

3 ゆるいつながりの時代 ~強すぎる「きずな」は「同調圧力」を生み出す
 
4 見知らぬ人を信頼する時代 ~だからフェイスブックがある

5 「善い人」が生き残る時代 ~嘘がつけないネットでは、善い人も悪い人も丸見え

6 生き方そのものが戦略になる時代 ~善悪は宗教や道徳を超える

筆者とほぼ同じ時代背景で働き、そして「強いつながり」に時に息が苦しくなったり、それの中にあることに安心したりしてきて、いまだに組織の「中」にいる身としては、同感したり、首を傾げたり、の双方あるところ

例えば

「見てくれる人は見てる」っていう台詞は、終身雇用の家族的な会社では殺し文句

論路的には正しくて反論できなくても、心の中の感情はそれに反応してしまう。そういう時に、上司とか先輩が情けをかけてくれることで、「理には負けたけれども、情けで救ってもらった」と安心することができた。そういう「理」と「情」の二重底で、社会はうまく動いていたと思うんですよ。
日本には「情の世界」がとても乏しくなっています。会社の終身雇用がだんだん崩壊してきて、若い人が非正規雇用に追いやられて「情」を維持することができなくなっています(P6)

というあたりには、ぽんと膝を打ちたくなるし

昭和の時代は「会社」という枠組みがとても堅かった。会社だけでなく、商店街なら商店街振興組合とか自営業の人の世界にも堅い団結のようなものがあった(メーカーの系列とか)
会社とか組合は「箱」のようなもの
みんながきちんとそこに収まって、外の世界と隔てられて安心できる収納箱のようなもの。会社のほうも安心できる仕組みをたくさんつくって「ほら、うちの箱はこんなに丈夫ですよ」みたいなことを競っていた(P27)

というところでは、バブル時代のやけに躁状態であった社会を思い出す。


佐々木正悟、青木さやか 「書類整理ハックス」(ソーテック社)

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すでにコモディティ化してきているともいえるScansnapなどのドキュメントスキャナを使ったファイリングの、改めての入門編といったところだろうか。
こういった類いの書籍は、そもそもなぜスキャニングするのか、とか、いくつかの機種を選定して操作方法やらが書籍の半分ほどを占めてしまうことがよくあるのだが、類書と違って、「とにかくスキャニングする」を大前提にして、方法論からテクニックまでが記されているのが本書の良いところ。

いわゆる「自炊のススメ」というより紙データをどうするかが中心で、スキャンのメリットが,マニアックでなく説かれているのも好印象で、たとえば

紙もデジタル化したからといって、問題が何もなくなるわけではないが、少なくとも物理的にはちらからないし、テクスト化すれば検索できる。
最も重要なメリットは「クラウドに一元化」できること。どんな情報でもiPhoneやiPadがあれば読めるようになる(P48)

と割り切られているところが小気味よくてよい。


本書を読みながら思うのは、やはり、未だ「紙」のデータの豊富さというか、多さだろう。一頃、メールやウェブサービスによって「紙」媒体がとってかわられるような話があったが、自分の身の回りを見渡しても、電気などの請求書、企業からのお知らせ、ダイレクトメールなどなど日常生活で「紙」によって伝えられてくるものは大量にあるし、仕事上に至っては、紙書類は減ってはいるのだろうが未だ膨大であるという事実である。
だからこそ自衛の手段として、こうした「スキャニングのススメ」がまだまだ枯れたネタにならないところで、このあたりは同じような時期に流行った「ノマドのススメ」と違うところだ。

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常見藤代「女ノマド、一人砂漠に生きる」(集英社新書)

2012年の初版なので、当時流行していた「ノマド本」と間違われることも多かったであろう本書。
内容は、エジプトの砂漠に住む女性(かなりの高齢だが)のところへ、日本の会社を辞め、フォトジャーナリスト志望の若い女性が、砂漠の生活を何度かともにする、そうした何年かの記録である。

訪問は数年にわたり、はじめは4泊5日から、そして20日と砂漠の生活を送る時間も増えていく。そこで、砂漠あるいは遊牧生活というものが、我々農耕民あるいは定着人と全く異なるメンタルかというとそうでもなくて、砂漠ではあっても、そこに携帯、車といった現代文明はかっちりと根をおろしているし、また、それに伴い、人の意識も変わってくる。また、イスラム世界の一夫多婦制がもたらす、女性の人間関係の軋轢など、洋の東西を問わず、人間(ひと)の世でおきるものは、どこでもおきるのである。

さらに、

彼女の持ち物についても同じだった。最初の頃は、サイーダはラクダに積みきれるだけの荷物で暮らしていると思っていた、しかし、実は、砂漠の中に荷物置き場を数カ所持っており、すぐに必要のない荷物を保管していた。そこにはドラム缶が数個あり、色とりどりのガラビーヤが入っていた、それと一緒にマニキュアや手鏡数個、スカーフ数枚、指輪3個・・・なども。(P244)

のように、そもそも身近な物以外は持たない、というノマドあるいは遊牧民への、定着民の勝手な幻想も、そこここで壊されるのも面白い。

一方で例えば

鍋に小麦粉と水、塩ひとつまみを入れ、ゆっくりとこねる。こね終わる少し前に、山のように盛り上げた枯れ木に火をつけておく
枯れ木が炭になったところで、それらを脇にどけ、」熱くなった地面に平たくしたパン生地を置く。それに炭をのせて片面を焼く。時々棒で表面を触って、焼き具合を確かめる
片面が焼けた頃を見計らって、生地を裏返し、もう片面も焼く
表面についた廃を布でパンパンと勢いよくはたく。ところどころにできた焦げ目を小石で削り落とせばできあがり(P34)


という「ゴルス」という炭と砂で焼くパンや結婚における

遊牧民同士の結婚では、男が新生活に必要な物すべてを用意する。しかし、相手が遊牧民ではない場合、新郎新婦それぞれが分担しあうのが普通(P155)


という風習や

女性が人前に出ることが戒律で極度に制限されているがゆえの

結婚した女性の異性との接点は、夫婦間に限りなく限定されていく。そして夫婦関係は緊密になり。それが相手への強い執着につながる(P190)


という性向には、砂漠特有のものやイスラムならではのものを感じさせるし、

遊牧生活は、天候など周囲の環境に大きく左右される。家畜を増やしたくとも、雨が降ってく差が生えなければ、どうすることもできない。そんな彼らの置かれた状況が、運を天にまかせる。すなわち人間以外のもっと大きな、神のような存在を信じる姿勢につながっているのではないか(P80)


には、植物が放っておいても繁茂する、「湿気の多い」島国のメンタリティとは異なる「一神教」の世界を垣間みるような気がする。

ただ、そうはあっても、変わらない、共通するものはある。
世界の隅々まで機械化と断片化とネットワーク化が進んできたことのあらわれなのだろうか、砂漠の民もやはり「自由への渇望」は強いらしく、居住地で働く20代の男性の「昔の遊牧生活は体力的にキツくて収入も少なかったけど、自由に働けるのがよかった」や「昔は仕事は今より大変だったけど、みんな助け合った。今はみんあ自分のことしか考えちゃいな。人のつながりは弱くなってしまった」といった話や「今は1つの場所にたくさんの人が集まっているから、問題が起こる。ずっと昔から、私たちは離れて暮らしてきた。でも心は近かった。今は近くに暮らしてても心は遠い」は、ここ極東の地でも同じようなことが囁かれているのではないか。

昔の姿を懐かしむ意識、しかし、定住を含めた現代文明の流れはとめようもなく、心があちこちできしんでくる、そういった思いを感じさせる「砂漠の滞在記」である。



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南場智子「不格好経営 チームDeNAの挑戦」(日本経済新聞出版社)

元DeNAの社長で、現在は取締役の南場智子氏のDenaの創業からの回顧録。

企業の浮沈、経営の毀誉褒貶は浮き世の常なので、善悪、良し悪しの評価ではなく、変化の激しいITベンチャーが立ち上がり、有力企業へと一気に育っていくに関わった経営者の「記録」として読んでおく。
こうした新興の企業の創業者の話は、時間単位で企業の様子が変化していっているので、その経営にまつわる話もスピード感あふれているとともに、短期間の企業成長なので、それぞれに独特の味(当然、その中には灰汁も含まれているのだが)を持っていて、自分の人生にどこまで使えるかは別として、効果の強いカンフル剤のような心地をうけるもではある。
とりわけ、彼女のようにコンサルタントではあったものの経営の素人から会社をつくり、業務開始前にシステムの「コードが一行もかかれていない」といった終末的なトラブルに見舞われるも、なんとかクリア。しかし、その後もYahooなどの大手との競り合いのすえのモバオクの成功、モバゲーの成功、そしてそれと並行するシステムトラブルの解決や、会社がぐんぐんと成長していく様を、どんどん流れていく動画のように読ませるのが本書といっていい。
構成は
第1章 立ち上げ
第2章 生い立ち
第3章 金策
第4章 モバイルシフト
第5章 ソーシャルゲーム
第6章 退任
第7章 人と組織
第8章 これから
となっているが、マッキンゼー時代やDeNAの会社立ち上げや成長物語は第6章まで。この辺りは現物にあたって、そのスピード感を味わって欲しい。
ビジネス書的に、おっと思われたところは
P91
なんの寄る辺なく起業する人は、有名な大企業のサポートをとても心強く感じてしまいがちだ。けれども、大企業を大株主にぬか得る場合、状況は変わりうる、という当然のことを頭に入れておく必要がある。・・・あちらも変われば、こちらも変わる。支援の内容や有用性、株の保有意向など、不変なものなど、ひとつもないのである。
P198
この意思決定については、緊急でもない事案も含め、「継続討議」にしないとおいうことが極めて重要だ。コンサルタントから経営者になり、一番苦労した点でもあった。
継続検討はとても甘くてらくちんな逃げ場である。決定には勇気もいり、迷うことも多い。もっと情報を集めて決めよう、とやてしまいたくなる。けれども仮に1週間後に情報が集まっても、結局また迷うのである。・・・こうしたことが、動きの速いこの業界では致命的になることも多い。だから「決定的な重要情報」が欠落していない場合は、迷ってもその場で決める。

P200
自分の仕事にオーナーシップを持っているメンバーは、必要な仕事を進めるために使えるものは有効に使うもので、そこに社長が含まれている場合も多い。

P204
決定したプランを実行チーム全員に話すときは、これしかない、いける、という信念を前面に出したほうがよい。本当は迷いだらけだし、そしてとても怖い。でもそれを見せないほうが成功確率は格段に上がる。事業を実行に移した初日から、企画段階ではよ予測できなかった大小さまざまな何台が次々と襲ってくる。その壁を毎日ぶち破っていかなければならない。迷いのないチームは迷いのあるチームよりも突破力がはるかに強い。

P214
人は、人によって育てられるのではなく、仕事で育つ。しかも成功体験でジャンプする。それも簡単な成功ではなく、失敗を重ね、のたうちまわって七転八倒したあげくの成功なら大きなジャンプとなる。
人の成長は、グラフで表せるものではないが、もしあえてグラフにするならコンスタントな右肩上がりのカーブを描くことは珍しく、多くは階段型だ。しばらく何も身動きできない苦しい時期がある。ところがそれを乗り越え小さくても成功したときはグンと階段を上がるようにジャンプする。
最後に、文筆業に専念するためにDeNAを退職する社員のメッセージが、この会社の→のようなまっすぐさを、ひとまずは表現していると思うので、引用して〆とする。
P229
7年前、DeNAに就職することが決まったことを告げた時も(退職して文筆業に専念すると伝えた時のように)彼らは同じように言っていました。
「お前、大丈夫か?」「将来をちゃんと考えているか?」と。
“選択”に正しいも誤りもなく、選択を正しかったものにする行動があるかどうかだけだと信じています。
この考え方は、DeNAで学んだ多くのことのうちの一つです

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下川裕治「週末台湾でちょっと一息」

「週末バンコクでちょっと脱力」に続く週末シリーズの書き下ろし。
もともと下川氏のシリーズにはタイ・バンコクもの、飛行機・鉄道ものに加えて、沖縄ものがあるのだが、台湾の旅行記は、どちらかというとその「沖縄もの」の一環であったように思う。
今回は、最近ちょっと手あかがついてきた感がある「沖縄」から少し独立して「台湾」を正面からとらえたものとしては興味深い一作。

構成は

第一章 空港バスが淡水河を越えるときー日本からの飛行機
第二章 台湾式連れ込み安宿に流れ着いたーハンバーガー屋のメニューに入り込んだ蚤餅
第三章 ご飯とスープを勝手によそって、台湾に来たな・・・と思うービールを勝手に冷蔵庫からとり出す店の値頃感
第四章 自転車で淡水往復 五十キロの表道と裏道ー北海岸をバスで走り、テレサ・テンの墓へ
第五章 夜市の蟻地獄テーブルに座って、赤肉食加里飯を逃すー下に刷り込まれてしまった日本食
第六章 濃密な自然のエネルギーを腕の痒みで知らされるー漢民族のなかの軋轢
第七章 独立派の根城のビールが教えてくれる”政治の時代”ー台湾省
第八章 北回帰線から鹿港へ。清の時代の街並みのなかで悩むー各駅停車で台湾一周を試みたが
第九章 台湾在住者が提案する週末台湾

で、「週末バンコク」と同様、数日間の短期旅行としてのしつらえは同じである。

ただ、バンコクと違って、(最近の領土問題を巡る事象は出てこないまでも)中国との台湾の微妙な立ち位置や第二次世界大戦時の日本軍統治の時代の複雑な案件は垣間見えて、親日的な感じにほっとしつつも、手放しで”南国最髙”といったノーテンキな状態にはならないのはしょうがないところ。

さりとて、下町の食堂の風情や料理、夜市のメニューで昔風のカレーライスがあることやタクシー運転手の気の優しさなど、他の国とは違う台湾ならではの「なごみ感」を行間に感じるところが、当地の嬉しいところではある。さらに、挿入されている写真を見ても、繁体字といえ「漢字」があるのは、やはり漢字文化圏の日本人としては安心感を紡ぎだす作用があるのは致し方ない。
観光案内、現地案内として読もうとすると期待はずれになるが、異国の、しかも日本に近しい国の現地の佇まいを楽しむには良い本である。


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下川裕治「週末バンコクでちょっと脱力」

旅行記あるいは滞在記というのは、時間に大きく影響されるところがあって、特に政変の多い国であると書かれていることが全くあてはまらなくなり、何かの昔話を読んでいるようなことになる恐れがある。この旅行記も例外ではなくて、本書では赤シャツ派と黄シャツ派の対立の時代なのだが、それが行き過ぎて軍によるクーデターを招くなど、これが書かれた頃にはちょっと思いもつかなかったことだと思う。ひょっとすると本書に書かれた場所もすでに荒れているのかもしれない、とは思う。

さりはさりとて、下川風の「タイ」「バンコク」である。風情はゆったりとしていて、喧噪と仕事、浮き世のあれこれに追いまくられている身には、ひとときの涼風、いや小春日和の日差しのような感すらする。

さて構成は

第一章 日本からバンコクへー北回帰線通過を飛行機の座席で祝う
第二章 空港から市内へータイ式倫理観が漂うタクシーは正しくぼる
第三章 ホテルー中級者向きホテルバンコクにようこそ
第四章 運河と寺院ーバンコク最後の運河タクシーじいさん。そして九テラめぐり・・・
第五章 道端夕食ー歩道のフードコートで孤独のグルメ
第六章 酒場ーいつも土の匂いのタイフォーク。レインツリーの二十年
第七章 早朝ー朝飯前のバンコク式マラソン。「ゆるゆる」の一時間三十七分
第八章 最後のテーブルーアジアティックから川沿い食堂。最後は川風に吹かれたい
第九章 バンコク在住者が提案する週末バンコク 

となっていて、氏の他の著作のような「沈没」系ではない。日本、成田からバンコクを訪れ、数日間を過ごし、そして帰国、というパッケージツアーというわけではないけれど、行き帰りの航空便は決まっているが、その間はフリーのツアー、といった感じである。とはいっても、タイ歴の長い下川氏のこと、ホテル、食事場所など普通の旅行者とはちょっと違うディープ感があふれているのが、アームチェア・トラベラーの最も好むところではある。

ただ、今までのタイ旅行記と違って、本書に漂うのは「時代の変化」である。タイが行動成長時代を迎え、主要国際空港もドーンムアンからスワンナプームに変わり、ホテルも高級化、チェーン店のコーヒーショップの拡大という「経済発展」の流れの中で、運河タクシーの衰退、フードコート化が進む中での屋台の衰退など、下川氏を初めとして以前の「バックパッカー」たちの訪れた「バンコク」「タイ」が静かに異質のものに変化しつつあるのがそこかしこに描かれている。これを「寂し」く思うのは、そこに定住することのない、ひとときの旅人の勝手な感傷というものなのかもしれない。

アジアの喧噪の余韻を残した旅行記を味わいたい向きにお薦めである。


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下川裕治「不思議列車がアジアを走る」

おなじみ下川裕治氏の旅本、ひさびさに「鉄道」である。

LCCなど飛行機での旅の話に比べ鉄道の場合は、同じ「移動」であっても時間がゆっくりと流れている気がするし、バスと違って、その移動環境が過酷でないのが文章ゆったり、のびのびとした感覚を与えてくれる。 

氏の旅本のほわんとした感覚は、どちらかというと、タイなどのアジア諸国の「滞在記」でとりわけ顕著なのだが、どうかすると一カ所に沈没してしまう風情が多く、「旅」という移動による視点の変化を旅行記に求める人には、こうした「鉄道の旅」の話の方が口にあうのかもしれない。

構成は

第一章 インドネシア ジャカルタ環状線とボゴール線
第二章 中国南疆鉄道 ウルムチからカシュガルへ
第三章 ミャンマー ヤンゴン環状線
第四章 台湾 内湾線と西部幹線旧山線
第五章 タイ国際列車 バンコクからタナレーンへ
第六章 韓国 慶全線と廃線の街 群山
第七章 サハリン ユジノサハリンスクからノグリキへ

となっていて、アジアと言っても、過酷そうな西アジア、南アジアではなく、北東アジアから東南アジアにかけての鉄道旅、となっているのが安心できるところではある。

ただ、安心できるとはいっても、全て「各駅停車」と決めているようなので、中国の高速鉄道や韓国のKTXといった現代的な車両には及びもつかない列車ばかりで、インドネシアのように物売りが乗り込んでくる列車であったりミャンマーの木造でさとうきびが一杯積まれている列車(けして貨車というわけではない)であったりして、もちろん亜熱帯であっても冷房などはなく、アジア特有の「街の雑踏」をそのまま持ち込んだ状態なのである。

そして、そういった混沌の話を読むのが、アームチェア・トラベラーの醍醐味と言ってよく、韓国の列車のように保育園児がたくさん乗り込んできたり、運転席にのせてもらえたりするといったレベルでは少し物足りなく感じるのも事実である。

とりたてての美味や、とりたてての冒険談が載っているわけではないが、目的のない旅や子供や家族というしがらみのない旅に出るのがなかなか難しいアームチェア・トラベラーがひととき日常から離れてぼんやりと時をうっちゃるのに良い旅本である。

グロースハック本を2冊読んでみた。

2012年頃から流行言葉になっているらしく、検索してみると取組事例や売り込みがぞろぞろとでてくる「グロースハック」について、遅ればせながら2冊ほど読んでみたところでの雑感

読んだのは以下の2冊でいずれもKindle本でも出ている(運が良ければセール本になっているかもしれない)





グロースハック、あるいはグロースハッカーというのは、あちこちの定義らしきものをみると「極力お金を使わずに、仕組みやアイデアでサービスを継続的に延ばすこと」で「成長(グロース)をエンジニアリングの力を利用して仕組み化(ハッキング)すること」をグロースハック、こういうグロースハックを担う人材を「グロースハッカー」というらしい。

注目を集めたのは2012年のアメリカ大統領選挙で、この手法を使ったロムニー陣営が、ウェブサイトやSNSなどのメディアを使ったマーケティングで短い期間で多額の選挙献金を集めたところかららしく、どうしてもその中心にウェブというものがどんとあるな、という印象は否めない。

そのせいか、ハックの手法の中心はどうしてもWeb系が中心で、HPの画面遷移の違いによるユーザーの行動などWebの分析手法であるとか、それに基づいたWebページの改善やアクセス改善が中心の話となるので、デジタル系だけではなく面と向かった折衝であるとか説得行為が多い仕事(おそらくこの世の仕事の多くを占めると思う)、あるいは実際の手作業が必要な技術的業務の場合は、座り心地が悪いのは間違いない。

ただ、そうしたアナログ中心の仕事で全く使えない代物かというとそうとも思えなくて、それは「グロースハックの要所はPDCAのサイクルをいかに早く回すかということ」であったり「グロースハックとは、ツールキットというよりマインドセット(考え方)」といったあたりで窺うことができると思う。

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