月別アーカイブ: 2017年10月

「現場の力」を発揮する方法論とは — 遠藤功「未来のスケッチ」(あさ出版)

企業や組織の成功譚に起因するビジネス書というのは、一種の危険性を有していて、その企業なりが時間の経過で業績を凋落させたり、不祥事で非難を被ったりすると、そのビジネス書で推奨した手法なりも、もろともに葬られてしまう。
その点、本書でとりあげる「旭山動物園」は、ひと頃よりは落ち着いたとはいえ、160万人の入場者が続いているようで、本書で説かれる手法やノウハウもまだ有効性をもっているといっていい。
 
構成は
 
プロローグ 旭山動物園の「現場力」を支えるもの
第1章 すべては「一四枚のスケッチ」から始まった
第2章 本物の競争力はどこから生まれるか
第3章 ほかと同じものを作ってもしょうがない
第4章 元気で強い「現場」をつくる三つの要因
第5章 「串団子」で個を活かす
第6章 顧客の「感動」が最大のマーケティング
第7章 大切なのはチャレンジャーであり続けること
エピローグ 「明るく、正直で、前向き」であることの強さ
 
となっていて、組織の成功の「昔話」の部分もあることはあるのだが、どちらかといえば、その「成功」の要因分析の記述が多いのが本書の良心的なところであろう。
 
で、本書で重要視されるのは「現場」ということで
 
語られる言葉が後ろ向きなものばかりでは、現場のモチベーションはずるずると低下していきます。現場が活力を失えば、同時に危機に耐えうる粘り強さも失われていきます、厳しい環境を乗り越えるときこそ、目線を下げ、未来を志向するための「旗」が必要なのです。辛くて大変なときだからこそ、夢を語り、理想を掲げる。それによって、いま直面する危機に立ち向かいう力も湧いてきます。
 
といったところは、いわゆる「現場主義」の論述と同じであるのだが、
 
うちは「串団子」なんです。団子ひとつずつを見れば、大きい、小さいといろいろある。大切なのは、それぞれの団子が一本の「軸」に刺さっていること。「軸」に刺さってさえいれば、大きい、小さいは個性であり、その個性を活かせばいい
 
といった、「本社」と違って「現場」の能力の不揃いなところや、
 
行動展示というイノベーションは、現場がこうして積み重ねてきた小さな創意工夫の総称といっていいでしょう。
イノベーションは一般的に「革新」と訳され、ものごとが一気に変わっていくことを連想させます。しかし、旭山動物園の場合、一日にして革新が起きたわけではありません。現場が一つずつ小さな創意工夫を積み上げて、振り返ってみたら、行動展示という大きなイノベーションとなり、差別化につながっていったのです
 
といった予算や人員が限られた現場の状況を踏まえた論述がされていて、よくある、本社から見た「現場重視」論であるとか、上から見た「現場認識」によくある「虚構の現場」に陥いっていないところは好印象。
 
もっとも、こうしたイノベーション、組織改革が成功しても、いつの間にか雲散霧消してしまうことはよくあることで、本書にいう
 
その多くはたとえ差別化に成功しても単発で終わってしまい、後が続きません。属人的なアイデアや小手先の差別化に終始しているからです。差別化とは、「信念」で裏打ちされた自分たちの存在理由、つまり「自社らしさ」にこだわり続けることにほかなりません
 
といったことに継続的に心せねばならないのは間違いない。
ともあれ、「思いを形にする方法」とか「現場重視のリーダーの在り方」とかは本書に直にあたってもらうとして、
 
旭山動物園が自らの現場力を高めることができた要因は、三つあると考えています。まず「何でも自分たちでやったこと」、次に「失敗を恐れずにチャレンジし続けたこと」、そして「現場の一人一人に、強烈な使命感があったこと」
 
という言葉を胸において、現場が頑張り、頑張れる体制・仕組みをつくることが一番大切なのかもしれんですね。

ビジネス読書には「教養書」が必須 — 山口 周「外資系コンサルが教える読書を仕事につなげる技術」(中経出版)

帯に「MBAに行かずに独学だけで・・・」「1000冊読んで・・・」といった言葉が踊るので「多読の読書術」と思うむきもあるかもしれないが、むしろ「精読の読書術」といった趣があるので注意しておいたほうがいい。
 
構成は
 
第1章 「仕事につなげる読書」6つの大原則
第2章 【ビジネス書×何を読むか】ビジネス書は「これだけ」読めばいい
第3章 【ビジネス書×どう読むか】古典には読む「順番」がある
第4章 【教養書×何を読むか】好きな本を読んで「ライバルと差別化」する
第5章 【教養書×何を読むか】情報の「イケス」をつくれ
第6章 「書店を散歩する」技術
第7章 「本棚」で読書を仕事につなげる
特別付録 これだけ読めばいい!「ビジネス書マンダラ」
 
となっていて、「仕事のための読書で「教養書」の扱いが出てきていて。これは
 
逆に言えば、経営学を学ぶにあたっては次々に出されるビジネス書の新刊を読む必要はない、ということです。
 
という考えによるもののようだが、このあたり、他の著書と同じく、山口氏の独自の切り口・斬新さが光るところであろう。
 
本書には、コンサルタント経験を活かした、特定分野に短期間に詳しくなる方法として
 
「知的生産」にかかわる仕事をしていると、短期間である分野の知識を集中的に学ばなければならない場面があると思います。
(中略)
このようなときにお勧めしたいのが、入門書5冊+専門書5冊=10冊の「1日読書」です。午前中を入門書の斜め読みに、午後は専門書の拾い読みにあてる、というのが基本的なプログラムです。
(中略)
5冊を午前中の2〜3時間を使って斜め読みします。斜め読みでは㈰図表だけ、㈪パラグラフの冒頭で自然と引き込まれた箇所だけ、を読みます。どんなに長くてもおそらく1冊につき30分程度で済むはずです。
午後は専門書。午前中につかんだ全体像やキーワードをもとに、特に深めたい部分を集中して読みます。
(中略)
ここでポイントになるのが、期限を1日に限定するということです
 
といったテクニックも随所に照会されているので、それを拾っていくのも本書活用の一方法だが、当方的には
 
定番のビジネス書がビジネスにおける規定演技だとすれば、リベラルアーツに関連する書籍はビジネスにおける自由演技に相当します。そして、そこでどれだけユニークな本を読み、それを自分の血肉としてアウトプットにつなげていくかが、「その人らしさ」を左右することになります。
 
成功する人には「さまざまな出会いや偶然を、前向きに楽しめる」という共通項があることがわかっています
 
といったことを基本にして
 
自分が重要だと思った情報は、脳内に記憶するのではなく、いつでもアクセス可能な場所=イケスにそのまま泳がせておき。状況に応じて調達し、他の情報と組み合わせて調理=知的生産するほうが合理的です
 
 
1冊の本でインプットした情報(魚)をイケスにいれるためには、次のようなステップで1冊を3回読みます
ーーーー
1回目:線を引く、2回目:5つ選ぶ、3回目:転記する
ーーーー
1回目→2回目→3回目と、自分にとって必要な情報をスクリーニングしていくのです
筆者の場合、アンダーラインの箇所がどんなに多かったとしても、イケスに放り込むのは基本的に5カ所、どんなに多くても9つまでにしています
 
あるいは
 
本の活用方法は2つしかありません。ひとつは、重要と思われる箇所を転記して必要に応じていつでもアクセスできるようにすること。もうひとつは、折りに触れて再読することです。
 
といった、読書による「継続的な知的生産」の手法をすくいとっていくというのが良いようだ。
 
本書に引用するスティ−ブ・ジョブズの言葉によると
 
創造性とは「なにかをつなげること」なんだ。クリエイティブな人に対して、どうt¥やって創造したのかを尋ねたら、彼らはちょっとバツが悪いんじゃないかな。なぜなら、実際になにかを作り出すなんてことはしていないから。彼らはただ自分の経験から得られた知見をつなぎ合わせて、それを新しいモノゴトに統合させるんだ
 
とのこと。自分は独創的でないから・・と悩まず、読書による「創造性の創出」にチャレンジしようではありませんか。

「論理的思考」は究極の仕事術ではないかも — 山口 周「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」(光文社新書)

「美術」といえば、当方の学生時代は、よほど成績が良くて、しかも絵心のあるというかなり特殊な、語弊を恐れず言うと、コミックの中でしかないようなものだったのだが、どうやら、エリートというか組織の決定権を持つ人にとっては、重要な価値判断は「美意識」が肝なのよ、ということらしい。
 
構成は
 
はじめに
名門美術学校の意外な上顧客
忙しい読者のために
本書における「経営の美意識」の適用範囲
 
第1章 論理的・理性的な情報処理スキルの限界
第2章 巨大な「自己実現欲求の市場」の登場
第3章 システムの変化が早すぎる世界
第4章 脳科学と美意識
第5章 受験エリートと美意識
第6章 美のモノサシ
第7章 どう「美意識」を鍛えるか?
 
おわりに
 
となっているのだが、基本のところは、コンサルタントが力説する「ロジカル」なんとか、とか、論理性などいうことは実はマジックワードではなくて
 
確かに、過去の経営史を紐解いてみれば、優れた意思決定の多くは、論理的に説明できないことが多い。つまり、これは「非論理的」なのではなく「超論理的」だということです。一方で、過去の失敗事例を紐解いてみると、その多くは論理的に説明できることが多い。つまり「論理を踏み外した先に、いくら直感や感性を駆動しても、勝利はない」ということです。
 
といったことらしく、これはよくある社内研修やらMBAの真似事研修を、真っ向から否定するもので痛快ではあるし、
 
億万長者で、ステレオコンポ会社のCEOであるハーマンは、MBA取得者を雇うことにまったく値打ちを感じないのだという。その代わりに、と彼は言う。 「『詩人をマネージャーにしなさい』と言うんだ。詩人というのは独創的なシステム思考ができる人だからね。彼らは自分たちの住む世界を観察し、その意味を読み取る義務を感じている。
 
といったあたりには、今までの「デキる人」という認識を揺さぶってくる。
 
で、そうした論理的思考がもたらすものが、ともすれば「常識」とか「世間知」というものから離れがちであることはなんとなく感じていて、そこを
 
わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「有り様」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。
 
と看破する論調は小気味良い。
 
そして、では、そうしたシステムに用意される判断基準から離れた時の「基準は何か
」ということについては
 
「自分がいいと思うかどうか、ピンとくるかどうか」が最終的な意思決定の立脚点であって、データや説明などは参照しない、むしろそんなものが必要になっている時点で、そのデザインはダメだというわけです。
 
 
システムの内部にいて、これに最適化しながらも、システムそのものへの懐疑は失わない。そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる。
 
といった、ちょっと「ヒネ」た対応が必要となるようだ。
 
なんにせよ、「エリートの判断ミスによる業績凋落」や「組織的隠蔽による企業危機」といったことが、どぷやら日常茶飯のように生じている今、
 
システムを改変できるのはシステムの内部にいて影響力と発言力を持つエリートですが、そのエリートが、システムの歪みそのものから大きな便益を得ているため、システムの歪みを矯正するインセンティブがない。システムに参加しているプレイヤーが各人の利益を最大化しようとして振る舞うことで、全体としての利得は縮小してしまうわけで、これはゲーム理論でいうナッシュ均衡の状態です。これが、現在の世界が抱えている問題がなかなか解決できない本質的な理由です。
 
といった、「はぐれ者」の処世方法が有効になっているようなのであるが、さて、個人的にどうこなすか、結構、難しい処世術ではありますな。

「礼」に始まり「礼」に終わる「掃除」で評判を勝ち得た会社の真髄は? — 遠藤功「新幹線お掃除の天使たち」(アサ出版)

最近、偽装やら違法な検査体制などが続発して、日本企業の美点といわれていたものが、かなり揺らいでいる。しかも今まで評判の高い企業でおおがかりな不正がでてくるものだから、企業の成功物語や好事例をとりあげると、あとから「あらら〜」となることがあるのだが、本書で取り上げられている「テッセイ」は、評判になったのが2016年のはじめで、そこから評判を落としたと言ったニュースもネット上にはく、まずは安心してレビューしよう。
 
構成は
 
プロローグ なぜ新幹線の車両清掃会社がこれほど私達の胸を打つのか?
第1部 「新幹線劇場」で本当にあった心温まるストーリー
    〜エンジェル・リポートから〜
第2部 「新幹線劇場」はどのようにして生まれたのか?
 「地ならし」のための600日
 変革の「芽」を育てた1100日
 「幹」を育てた700日
 新たなステージに向う100日
 
となっていて、JR東海の新幹線などの車両内の清掃やプラットフォームの案内業務を行っている「テッセイ」という会社のルポである。
 
ただ、この会社、そんじょそこらの清掃会社ではなく
 
テッセイの車両清掃チームは、担当する列車が入線する3分前にホームに到着し、ホーム際に一列に整列します。そして、列車がホームに入ってくると深々とお辞儀をして出迎えます。(P25)
 
に始まり、素晴らしいチームワークで、停車中の「7分間」でトイレから座席までの清掃をピカピカに仕上げる会社で、
おおまかには、プロローグはテッセイという会社の解説。第1部は、この会社に勤務する人のレポート。第2部は、この会社の
 
で、まあこの会社の素晴らしさ、組織やチームづくりといったことは、今まで多くの記事などで取り上げられているので、当方が蛇足を加える愚は避けて、「おや」と思ったのは、「組織の正式な一員になること(本書では「正社員になること」)への意欲、あるいは「組織へ参加すること」への意欲のあたり。
 
それは、パートから正社員になるための面接で、
 
面接で社員になりたい動機を聞かれ、親類に隠していた話、少しづつ仕事に誇りを持てるようになった話をして、こう締めくくりました。
「私はこの会社に入るとき、プライドを捨てました。でも、この会社に入って、新しいプライドを得たんです。」(P43)
 
であったり、
 
人間は、形から入る、格好から入ることが大切なこともあるのです。
スポーツでよく言われるのは、道具や靴がその人の潜在能力を呼び覚ますことがあるということです。私は野球やスキーをやっていて、道具の大切さをわかっています。みんなで同じものを身につけて共通の意識を持てるようになるということも、そこで実感してきたことです(P130)
 
といったように、「掃除」という”3K”でもある仕事にプライドを持たせ、チームとしての一体感をつくっていくという営みが続けられる中で、”組織体との帰属感”というものが、強い会社、頑張る組織づくりにかなりの効果をもっているように思え、このへんは「ちきりん」さんや「メイロマ」さんには、認識不足と時代錯誤を叱られるかもしれない。
 
ただ、本書を読むと、旧来型の勤め人をしてきて、組織への帰属になんとはなしの安心感を得ている、大多数の「サラリーマン」に属するであろう当方としては、
 
このプロジェクトでは、現場への大幅な権限委譲を行いました。
これまでは、現場からよいアイデアが生まれても、それを実行に移すためには本社での審議・承認が必要でした。
答が出るまでに時間がかかったり、待たされた挙句にNOの答がでることもありました。それでは、現場のやる気も萎えてしまいます。
そうした弊害をなくすために、現場を散り仕切る現場長に予算と権限を与え、現場のアイデアに即座に対応できるようにしたのです。これおによって、大規模な予算を伴うものでなければ、それぞれの現場で判断し、実行に移すことができます。
「褒める」仕組みも、それぞれの現場での独自性を認めるようになりました。(P180)
 
といった組織運営の修正パッチはいくつかあてつつも、この「組織への帰属感」というものが、スムーズに組織を運営し、業績を上げる上で、まだまだ大きな力を残しているように思えるのである。
 
このあたり、本書では
 
経営は「常」と「変」のバランスが命です。変えるべきものは大胆に変える一方で、変えてはいけない常なるものは、愚直に継続することが大切です(P183)
 
という言葉もある。何を「常」とすべきで、何を「変」とすべきか、それぞれの置かれた状況に応じて、流行りに流されることなく、よくよく見極めないといけないのかもしれんですね。

「野望」に憑かれた男たちの物語 — 伊東 潤「王になろうとした男」(文春文庫)

「英雄」というものは遠目から見ている分には、燭光のように輝いて、あたり照らしているように見えるのだが、近くにいればいるほど、その熱量の強さに耐えきれなくなるものであるような気がしていて、その強さは英雄度の高さに比例していると思っている。
そして、その英雄度の強さという点では、日本史上、「織田信長」に匹敵する人物はいない気がしている。

本書の収録は

「果報者の槍」
「毒を食らわば」
「復讐鬼」
「小才子(こざいし)」
「王になろうとした男」

の五編で、いずれも織田信長の近辺にいて、彼が起こす激風に嘲弄された男たち五人の掌編である。

まず「果報者の槍」と「毒を食らわば」は対の物語として読むべきで、最初は今川義元の首をあげた実直者の毛利新助、二番目が織田家屈指の策略家の塙直政で、幼なじみではあるが、その性向の違いからひどく異なる道を歩んでしまった二人の物語である。
ただ、母衣衆から信忠の馬廻衆となり本能寺の変で信忠とともに戦死した毛利新助と大和と南山城を預かる大出世を遂げるも、本願寺攻めで自らと一族・宿老が討ち死にし一族が改易され、歴史の隅に追いやられた塙直政の双方とも

光秀が、いかなる理由から主君を討つのかはわからないが、そこに野心という魔物が介在していることだけは間違いない。
織田家に巣食った野心は膨張し、遂に刃を飼い主である信長に向けたのだ

といった「織田家の野心」に翻弄されたことは間違いない。

「復讐鬼」は、織田信長に反旗を翻しながら、長く生きた「荒木村重」の物語。復讐の相手は、臣下であった「中川清秀」なのであるが、この復讐に至る原因も、織田信長の煽った「出頭(出世)」争い。清秀に信長に離反するように罠にかけられ、あげくは家族を凄惨な方で処刑された村重は、賤ヶ岳の戦で、逆に罠を仕掛けて、中川清秀を戦死させるのだが、その際の

野心にとらわれた者は、しょせん野心に滅ぼされるのです。上様もそうでありましたな

村重は気づいていた。武士という稼業を続ける限り、一つ野心を成し遂げても、次から次へと新たな野心が頭をもたげる。ついには野心の囚われ人となり、その生涯が終わるまで、野心に追われ続けるということを。
そこに思い至った時、村重は、残る生涯を一介の茶人として送る決心がついた

という述懐は、村重自らに向けられたものであるとともに、サラリーマン生活が長くなった当方にも重く響く言葉ではある。

「小才子」は、そんな「野心」に嘲弄され続けた、「津田信澄」。彼が信長の甥で、信長の弟である信行の嫡男(これは、本書で初めて知りました。汗顔の至りであります。)であることを考えると親子二代で、信長の野望に嘲弄されたことになる。
もっとも、本書では明智光秀の謀反に信澄が一役買っているので、少しは亡父の恨みを晴らしたというところか。さらには、本能寺に信長がわずかな手勢で入ったのも、彼の野望の実現のために邪魔になった盟友を殺害する誘い水だったという設定なのだから、信長も自業自得というところであるな。

「王になろうとした男」は、おそらく本編以外で主役を張ったことはないであろう、信長の黒人の小姓「弥介」が主人公。彼がアフリカから奴隷船に乗せられ、宣教師によって信長に献上され、本能寺の変の一連の二条御新造の戦いで捕虜になり宣教師によって命を奪われるまでの話。彼は信長から、信長の世界征服の果てに、アフリカの母国の「王」とすることを約束されるのだが、「王になりたかった」が果たせなかったのは、弥助も信長も、同じであったのあると思い至る。

最後の対談は、結構読み応えのある一品。信長の世界戦略は

秀吉のように大陸を面、つかり土地で支配するのではなく、信長は、点すなわち拠点で押さえようとしたのではないでしょうか。・・・港に城塞都市を築き、海上交易を行って利益を独占しようとしたのではないか

といった大胆な歴史推理がぽろりぽろりと披瀝されるので読んでおいて損はない。

筆者の著作は、武田家などの敗者の立場からの歴史小説をレビューしてきたが、こうした戦国時代を動かす意識潮流であった「野心」の面からみた歴史小説もまた視点がかわって面白いもんですな

「23年」という時間のもつ重み — 国谷裕子「キャスターという仕事」(岩波新書)

本書の冒頭を読んで「23年か・・」という言葉が思わず出た。長寿テレビ番組は数々あるが、ほぼ毎日、デイリーでトピックな話題を、より客観的な視点から取り上げ、世論の潮流をつくってきた、「名物キャスター」国谷裕子氏への賛辞でもありつつ、良きも悪きも、その長期間に変わっていった「日本社会」への嘆息でもある。
 
構成は
 
第1章 ハルバースタムの警告
第2章 自分へのリベンジ
第3章 クローズアップ現代
第4章 キャスターの役割
第5章 試写という戦場
第6章 前説とゲストトーク
第7章 インタビューの仕事
第8章 問い続けること
第9章 失った信頼
第10章 変わりゆく時代の中で
終章 クローズアップ現代の23年を終えて
 
となっていて、クローズアップ現代が始まる前の、国谷氏の下積みキャスター時代から始まり、突然の「番組編成の変更」という理由で、キャスターから降板するまでの、まあ、「クロ現」年代記、というべき仕立てである。
 
なので、本書の読み方も三通りあるような気がしていて、一つは「国谷裕子」というキャスターが
 
キャスターという仕事に偶然めぐり会い、抜擢されて総合テレビに出たものの、経験と能力不足が露呈し、わずか一年で外された
 
という屈辱から
 
インタビューで私は多くの批判も受けてきたが、二三年間、〈クローズアップ現代〉のキャスターとしての仕事の核は、問いを出し続けることであったように思う
 
という回顧に見られるように、日本のTVの中での「キャスター」というものの立ち位置を確立し、ニュース番組になくてはならないものに格上げしていった「出世物語」「成長物語」として読む。
 
もう一つは
 
インタビューに対する「風圧」インタビューを軸にした番組を何回か繰り返すうちに、私は、日本の社会に特有のインタビューの難しさ、インタビューに対する「風圧」とも言える同調圧力をたびたび経験する
 
 
クローズアップ現代〉のキャスターを扣叫してきて、日本社会で何が一番変化したと感じているのかと問われると、「雇用」が一番変化している、と杵えることが多かった
 
という状況を受けての
 
戦後、世界でも一位、二位を競う豊かな国になっていたはずの日本で、経済格差は広がり、呪在、子どもの六人に一人が貧困状態に樅かれ、保育など大事な公共サービスを担う人材に、生活が十分に維持できる賃金が支払われない国になってしまっている。
時代の勢いに乗って伝えていくことは、時代に向き合うメディアとして当然のことだったかもしれないが、結果としてあまりに、社会の空気に同調しすぎていたのではなかったのか。
リーマンショックで起きたことを目の当たりにして、なぜもっと俯瞰して見ることがそれまでできなかったのか。
なぜもっと早く、弱い立場に置かれている人々に寄り添った新しい制度の構築が必要であるという想像力が働かなかったのだろうか。深く考えさせられた。
 
といった、クローズアップ現代が始まった頃の時代から現代までの日本の社会の変化とそれに対するメディアの関わりと責任の話。
 
そして最後は
 
この沈黙の一七秒は、高倉さんにとって自分の話すべき言葉を探している大事な時間だったのではないだろうか。このインタビューで私は「待つ」ことの大切さを学んだ気がする。間(ま)を恐れて、次から次へと質問を繰り出すことで、かえって、良い話を聞くチャンスを失ってしまうかもしれないのだ。
「待つこと」も「聞くこと」につながる。
 
 
この人に感謝したい、この人の改革を支持したいという感情の共同体とでも言うべきものがあるなかでインタビューをする場合、私は、そういう一体感があるからこそ、あえてネガティブな方向からの質問をするべきと考えている。
その質問にどう答えるのか、その答えから、その人がやろうとしていることを浮き彫りにできると思う。
 
といったインタビュアー、キャスターの心得的なものを読み解いてみてもよいのかもしれない。
 
まあ、23年間の追想が、いろんな読み取り方が出来るというのも「クロ現」と「国谷裕子」というとりあわせが単なるニュース解説番組ではなかったことの証左であるような気がして、残念ながら、時代を映し出していった「クロ現」もキャスター変更を経て、その性格が変わっていっているような気がするのである。
 
「国谷裕子のクロ現」、「クロ現の国谷裕子」であったのですかね。

「会話力」は ”人間生活+出世” の基礎であるようだ — 斎藤 孝「すごい「会話力」」(講談社現代新書)

斎藤孝先生は、「◯◯力」という言葉を生み出す名人でもあって、今までも「雑談力」とか「語彙力」とか、思わず「えっ」と引き寄せられる言葉をつくり出してきている。
そういう著者の今回の「◯◯力」は「会話(力)」。
 
ただ今回は「会話」というちょっとありふれた言葉を使っているので「すごい」と「会話力」が融合して初めて気を引くかな、と思う次第。
で、その「すごい会話力」とは「交友(友人と良い関係を築く)」「仕事」「愛(恋愛し、結婚し、家族を形成する」の人生の三つの課題をこなしていく総合的な会話力であるそうな。
 
さて、本書の構成は
 
まえがきー会話部への御招待
第1章 会話の構造ー会話力は実は上達が早い
第2章 「会話身体」で人間関係力を磨く
第3章 情報交換とは「贈与」と「返礼」の精神
第4章 マインドフルネスー幸福感を味わう
第5章 活字力と「後輩力」で差をつける
第6章 「大人会話力」でパワーアップ
第7章 言葉遣いのセンスを古典と名作に学ぶ
終章 究極の会話力
あとがきー座の会話力へ
 
で、本書で言う「会話力」とは
 
会話には三つの段階があり、それぞれの段階に応じた会話力が求められます。
一番基礎的な会話力は、言葉のやりとりを通じて相手と仲良くなる「雑談力」です。(P30)
 
私達の会話の大半は雑談なのです。
・・・実は雑談には、その場の人間同士の距離を縮め、場の空気を和らげる力があります(P31)
 
会話力の第2段階は「意味のやり取り」の会話力です。・・・これは、言い換えれば、相手の話の意味を上手に要約する力です。(P35)
 
さらにその上をいく最上位の第3段階が「クリエイティブな会話力」です・
これは話しているうちに「ああ、それならこうやってみよう」というアイデアがお互い出てくる会話力です。
クリエイティブな会話力とは、「お互いの間に新しい意味が生まれる」会話です(P36)
 
という3つであるそうなのだが、この会話力のテクニックは
 
会話の中で、相手に何を薦める時、違う観点から三つ用意しておくと、相手に「お得感」を持ってもらうことができます(P92)
 
とか
 
「他人がジョークを言ったら盛大に笑う」(P159)
 
 
相手が何か情報を開示してくれたら、まずは「へ〜」と軽く驚くのが礼儀です(P161)
 
といった小技の集合体でもあるのだが、ジョークへの対応のあたりは欧米人の得意技でもある。
 
もっとも
 
欧米人の会話には、古典からの引用が非常にたくさん出てきます。引用を使うと話の内容が一気に教養に満ち溢れた感じになるのです。
(中略)
では何を引用すればいいのか。欧米では不動のトップ3が確定しています。旧約聖書、新約聖書、シェイクスピアの三点です(P175)
 
といったあたりは、趣味良い会話には、「教養」が欠かせんな、と我が身を振り返ってちょっと寒くなる。
 
さて、
 
人間の意思決定というものは、実は感情に左右されています。(P19)
 
現代はビジネスが高度で複雑になっていますが、じつはそこで求められる能力の中で、「感じが良い」ということは非常に大きな比重を占めるようになってきています。(P25)
 
といった時代風景の中で
 
人の幸福感は、何によって増やすことが出来るのでしょうか。私は「会話」だと確信しています。(P28)
 
と、「会話」の重要性を一貫して主張するのが本書の大筋。本書で紹介される「小技」をつまみながら、会話の力を磨いてみてはいかがかな。

アート(美術)は「美」の側面だけで語るものではない — 山本豊津「アートは資本主義の行方を予言する」(PHP新書)

「アート(美術)」というものは、古くは王侯貴族のものであったように、資本主義経済の隆盛と切っては切れないものとは思っていたのだが、国の覇権獲得活動にも重要であるなど、「アート(美術)」に対する新たな視点を開いてくれる。
 
構成は
 
第1章 資本主義の行方とアートー絵画に見る価値のカラクリ
第2章 戦後の日本とアートー東京画廊の誕生とフォンタナの衝撃
第3章 日本初のアートと東京画廊の歩みー脱欧米と「もの旅」
第4章 時代は西欧からアジアへー周縁がもたらす価値
第5章 グローバル化と「もの派」の再考ー世界と日本の関係
第6章 「武器」としての文化ー美の本当の力とは
 
となっているのだが、まず最初に度肝を抜くのが
 
価値の伸びシロが一番大きいゆえに、お金持ちが投資する究極の対象は絵画だと言われます。・・・お金持ちが絵画を資産として持つ理由は他にもあります。絵画ほどkさ張らず、軽く、持ち運びに便利な資産は他にはないのです。(P21)
 
といったあたりで、芸術と資本というものの微妙な関係を示してくれる。
 
さらに、当方が「ほぉ」と思ったのが、
 
キュレーターは美術を知っているだけではダメなのです。アートの歴史や価値を知っているだけでなく、経済や経営、社会学や心理学に至るまで幅広い知識と見識を持ち、なおかつ企画ができるというアイデアマンでなければいけません
 
といったところや
 
世界では経済におけるグローバルスタンダード化が進んでいます。
美術においても、アートフェァを通じて世界のギャラリーが集まり情報公開することで、美術の価格のグローバルスタンダード化が進んでいるわけです。
これは価格だけではありません。
アーティストや作品自体もグローバルに広がっていきます。
 
といった「美術」の意外な側面であり、
 
自分の国の美術品の価値を高め、それを世界に示すことで文化的な優位性や自信、そして美のスタンダードを握ろうというのは、欧米諸国や中国などの目指すところであり、悲願なのです。
(中略)
そうした国々はかつて世界の覇権を取った経験のある国であり、民族です。ヨーロッパ諸国ならイギリスやフランス、スペインやオランダ。イタリアはかつてのローマ帝国。それから第二次世界大戦後の米国に、以前のアジア全体の中心であり、今なお中華思想の根強い中国など。
そういった剛々とその民族は、覇権を握るということがどういうことかを知っているのです。軍事力で領土をおさえるだけでは不十分、経済力で上回るだけでも足りない。最後は文化の力が必要だということをー。
 
といった、実は「美術」を始めとする「文化」が、国の支配領域の拡大、ひいては覇権争いの主要な部分であると教えてくれるところであろう。
 
とはいうものの、正統な美術好きの方々には、日本の銀座の画廊の変遷などなど日本の美術史についてもきちんととりあげられているのでご安心を。
 
そして、この「アート(美術)」と我々の祖国・日本との関係であるが、本書によれば
 
文化歴史と文化の断絶を埋めるためにも、そして資本主義や国家主義の限界を乗り越えるためにも、近代以降の価値観を一度見直し、価値の転換を図ってはどうでしょうか?私が提案したいのは、回帰です。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです。日本人は江戸時代にもう一度回帰するのです
 
であったり
 
これからの日本、そして世界を考えたとき、アートの力が大きな意味を持つのではないかと考えています。激動の時代、閉塞した時代だからこそ、これまでの価値にとらわれない自由な視点が大切なのです。既成のものを乗り越えて新たな価値を生み出すパワーが必要なのです。
 
と日本の復活に「アート(美術)」の力の有用性を訴えるのだが、今まで金銭的価値や効用でしか、政策や施策のメルクマールを持たなかった歴史が塗り替えられるかどうかは、「・・・」でありましょうね。
 
さて、たまには、美術展に行きますかね・・・。

小味のきいた短編集をどうぞ — 近藤史恵「土蛍」(光文社時代小説文庫)

堅物同心・玉島千蔭を中心とする「猿若町捕物帳」も第5弾となった。
先んじる4冊(もっとも梅ケ枝の登場する第1作をその中にいれてはいけないかもしれないが)では、千蔭に周辺の、その巻をリードする形の女性が登場したのだが、この5作目は登場しない。まあ、シリーズを通して千蔭に絡む花魁・梅ケ枝がそうといえばいえなくもない。
 
収録は
 
「むじな菊」
「だんまり」
「土蛍」
「はずれくじ」
 
の4作
 
それぞれを簡単にレビューすると
 
まず、「むじな菊」は吉原の茶屋で火が出て、それで火傷を負った「梅ケ枝」が市中の旗本屋敷で朋輩と一緒に養生するところpから始まる。まあ、この旗本屋敷のことは、後の「土蛍」の伏線にもなっているのだが、それは置いといて、本筋は貧乏長屋に住む、妹・良江のところに博打好きの兄・作次郎が訪ねてきて金をせびっていく。そのうちに、この長屋の差配が殺される。この差配は兄を説教して諍いに成ったこともあるのだが、果たして犯人は・・、という話。「むじな菊」とは着物の柄で、八重菊の細かな花弁にも見えるが、一方で狢の毛並みにも見える柄のこと。見方によって、まったく異なる様相を見せる「人」の相と同じでありますな。
 
「だんまり」は辻斬りならぬ「辻の髷切り」の話。兄の借金の片に、吉原に売られそうになった、「お鈴」という巴之丞の一座の芝居作者・利吉の兄弟子の妹にまつわり話。博打と辻斬りの共通点がキーになるんだが、「ほう」と読むべきは、兄に依存していた妹が一連の騒ぎで逞しくなるあたりか。
 
「土蛍」は降って湧いたような梅ケ枝の身請け話を並行話としながらの、巴之丞と同じ芝居小屋で「新八」という役者が首を吊った事件の真相の話。新八は、師匠の杉蔵が孕ませた女性を女房にしているのだが、この杉蔵という役者、女を孕せては弟子に押し付けるという素行の悪さで有名なのだが・・、という話。で、梅ケ枝の身請け話の真相が、1作目の彼女たちが火事に焼け出されて世話になった旗本の家の奥方に関係するのだが、貞淑で従順な女性の怖さってのに底冷えしそうな感じがしますな。
 
「はずれくじ」は貧乏長屋でくすぶっている「直吉」という男が殺される事件。直吉は大工の息子に生まれるが、高所が苦手。それでも大工になろうとしてすぐに落下事故をして怪我をしてから、ケチのつき放題という男。彼は同じ長屋に住む「はる坊」に横恋慕している。そんな時、同じ長屋の後家に富くじをかてもらえないかと頼まれ、寺へ出かけたのだが、その途中に殺害されるとだが、犯人は・・という話。美しく育った「はる坊」というところに綺麗な女性好きの読者である当方は騙されてしまってのでありますな。
 
ということで、第5弾は、梅ケ枝と千蔭との仲が進展するわけでもなく、また二人の間に入る女性が登場するわけでもなく、ちょっと箸休めといった風なのであるが、箸休めで呑む酒が結構いけるように、風味が利いた話が多くて楽しめる一冊でありました。

またさらに堅物同心に誘惑がやってきた — 近藤久惠「寒椿ゆれる」(光文社文庫)

堅物同心・玉島千蔭と売れっ子の女形役者・水木巴之丞、売れっ子花魁・梅ケ枝の三者が繰り広げる捕物帳の第4弾。
 
収録は
 
「猪鍋」
「清姫」
「寒椿」
 
の三編。
 
このシリーズは、一冊ごとに千蔭に関係する「女性」が現れる筋立てになっていて、1作目は「梅ケ枝」、2作目は千蔭の親父の千次郎の内儀になってしまう、跳ねっ返りの「お駒」、三作目は、お駒の幼馴染の商家のお嬢様の「おふく」といった具合で
千蔭と良い仲になりそうで、離れていってしまうのであるのだが、今回は、どうも結納までいってしまいそうな、祐筆家のお嬢様の「おろく」という女性。
ただ、大身のお嬢様らしからぬ大柄で、やたら「数字」にこだわるという行き遅れでもある。
 
ざっくりとレビューすると
 
「猪鍋」は千蔭の若い母親となったお駒が妊娠し、つわりが酷いため、体が弱っている。そんな時に巴之丞に勧められた猪鍋屋にまつわる事件。この猪鍋屋、上方帰りの若主人によって大繁盛店になったんもだが、この若主人が上方で修行した見せの若旦那が敵で狙っているし、若主人は若主人で繁盛店の驕りか、女道楽が・・、といった事件の種満載の設定。さて、この店が急に繁盛店となった理由は?
 
 
「清姫」は、ご想像どおり「安珍清姫」が下敷きであるのだが、襲いかかられた巴之丞には見に覚えもなく、さらには犯人らしき娘にも覚えがないという筋。さらには、この犯人らしい娘が、「蛇」らしきあやしさではなく、「猫」に似てるとはあまり粋ではない。
 
三話目の「寒椿」は、今までの二話で千蔭と結納までいきそうになっている「おろく」嬢との仲が、案の定と言うか、大波乱、大破綻となる。もともと、祐筆の家の6女で、町奉行の同心の千蔭とは家格がまったく釣り合わないにもかかわらず、なぜにこうトントン拍子に縁談が進むのか、といったところの謎が解けると、千蔭のライバルの北町奉行所の大石の実直さが生きるというところであるか。ついでにいうと、「椿」はこの話でも首が落ちるということで忌み嫌われていることになっているのだが、他の説によれば、ポトンと落ちるところが「潔い」と実は評価されていたという話もあって、一筋から物事を捉えててはいけないということか。
 
さてさて、このシリーズも4作目となると、これからどう展開するか、とりわけ、千蔭と梅ケ枝との仲がどうなるか、が気になるところなのだが、ここまで、いろんな女性を登場させておい、最後にまさかのドンデンてなことがあるのかもしれんですね。