「猟師」ではなく「料理人」であることー井口和泉「料理家ハンターガール奮戦記」(朝日新聞社出版)

始めに、筆者並びに筆者のファンの方に批判めいたブックレビューとなってしまったことをお詫びしておく。ただしかし、料理家にして猟師、女性という特徴的なものはあるにも関わらず、なんとなく猟師本としては薄いなー、という感はいなめない。この本は、「ハンターガール」という表題に惑わされることなく、ジビエの料理家として成功を目指した女性が、避けては通れない、「生きている鳥獣を絞める」、しかも料理家という職業柄、「恒常的に絞めなければならない」という行為を初めはどう考え、どう考えが変化し、どう向き合っていったか、といった「私的成長物語」といったものとして読むべきだろうと、読後は感じている。
「狩猟女子の暮らしづくりーわたし解体はじめました」と同じく、若い女性の「狩猟」への関わりを書いた本として読むべきであり、女性の猟師のルポといった先入観をもって読むのは良くなかったな、と自戒する次第である
こうしたことは、

初めの疑問
chapter1 これは天命?ジビエ料理との出会い
 消えやらぬ死の叫びと臭いの中で私を満たした感覚


 フランスでのジビエ初体験、その鮮烈な味わいに驚く


 ジビエ料理を作ってみたい!でもお肉がない!?


 日本人はなぜ、みんな「イノシシ肉は臭い」と言うの?


chapter2 晴れてハンターになりました!


 里山が失われた日本の深刻な獣害


 フェイスブックの”啓示”から突然訪れた解体のチャンス


 食べ尽くす、それが熟成した食肉文化の常識


 アナグマの肉は果実の香り?


 狩猟免許試験の申し込みに、いざ銃砲店へ!


 新米ハンターチーム「tracks」結成


 狩猟のタブー意識は「命を奪う」人への思い遣り?


 最初の獲物は、タヌキ!「恐ろしくまずい」と聞くけれど・・・


 地面をオーブンに!イノシシの地中蒸しに挑む


 私は銃を使いません!実技で決めた罠猟という選択


 イノシシを獲れない我々にワークショップができる?


 「生きもの」が「食べもの」に変わる瞬間


chapter3 狩猟をはじめて考えるようになったこと


 正式にハンターになって伝えられるようになったこと


 日本人が育んできた肉食の歴史


 「鳴き声以外はすべて食べる」肉食の歴史が長い沖縄に学ぶ


 直接手を下す?私が知るべきことを知るために


 東日本大震災を機にやってきた新人ハンターガール


chapter4 イノシシと人間の知恵競べ


 とうとう知恵競べに勝った!大物イノシシとの遭遇


 長年の疑問だったあのしょk材の謎が解けた


 ジビエ料理が少しづつ私のものになり始めて


 もっと、うまくなりたい!命を無駄にしないために


 「この人たちは動物と対等なんだ」


 狩猟トライアスロン、スタート!


 狩猟トライアスロンを終えて やっときもとは「食べる」ほうへ


chapter5 命と向き合い、再び出会えた原点


 料理をすることで動物たちの魂の抜け道を作る


 平和な気持ちで、歓びをもっていただくこと


 いただき尽くした最後に骨の出汁で極上のスープを


 もっと暮らしの中にジビエを取り入れてもらいたい


chapter6 いただいたおいしさを分かち合う


 それぞれの新しいシーズン
 ひとつの到達点、ついに幻のレシピに着手
といった構成ではちょっと見えてこないところもあって、最初のうちは
数時間後、私はIKEAの青いショッピングバッグを肩からかけて電車に乗っていました。一見買い物帰りのようだったでしょうが、バッグの口からはイノシシの後脚の黒い蹄がはみ出していました。ついさっき仕留められ、解体されたイノシシの一頭から、生ハムを仕込むためにもらったものでした。・・死の瞬間に立ち会って、強いショックを受けていたはずなのに、どうして今はこんなに自分が冷静で「おいしそう」と感じていられるのかが不思議でした。(P21)
日本では食べる側に「イノシシ肉は臭い」という思い込みがあって、どう調理していいのかもわからないまま、ただ長年の習慣で、やみくもに味噌で煮込んでしまっていたのではないでしょうか(P31)
とか
うちでは癖のあるタヌキの脂の風味を抑えようと、後脚を黒烏龍茶で煮ることにしました。・・肉を葱の青い部分と一緒に包丁で叩いて醤油麹で味付けしたつみれにして、ごま油をしいたフライパンで焼きました。・・味は醤油と黒胡椒と焼酎で調えました。
前脚は、オリーブオイルとにんにくを使ってフライパンでカリカリに焼き付けるロティにしました。ソースは肉汁をデグラッセ(鍋に付着した煮汁・肉汁を溶かす)して赤ワインと粒マスタードと蜂蜜を加えたものに。(P67)
とか、野生獣の肉のお洒落っぽい料理をするなど料理家として狩猟との関わりをしていて、その範囲であればまだ平穏であったはず。しかし、「おいしい調理の方法を研究したい」「ジビエを食べ続けることで、自分の体がどう変わっていくか観察したい」という動機から、狩猟免許を取得して、仲間と狩猟を始めて
今日、日本人と肉食の関係はまだどこかよそよそしい感じがします。食べやすいところを単純な料理法で食べているという感じです。(P109)
実際に動物の死を目の辺りにするとふだんの「食べ続けている暮らし」がいかに「生きものの死や殺生を見なくていいよう、手厚く守られているのかがわかります。・・隠されている、ということは、見なくてもいいことなのでしょうか?私が事実を「見た」ことで感じたのは、想像することの大事さでした。他の生きものの命を奪うことでしたおいしいものにはありつけないのだと想像すること(P95)
といった、個人的な印象を言うと、「私は気づいてしまった、私は普通の人より高みの認識に立ったのだ」という上から目線の境地に至り、それが高じて「もっとおいしいジビエ料理を作りたい」「もっとうまくなりたい」という動機から「それぞれ経験を重ね、技術を磨くために、数日間、通しでしかけから加工まで全部やる」という著者いわく「狩猟トライアスロン」を著者の提案で始めると
生きものを仕留める現場に立ち会ったせいか、自分で食事を作る余裕がなくなっていました。それは、私が直接手を下していないから?手も下していないのに食べるのか、という一種の罪悪感とのせめぎあいでしょうか。・・すぐには整理できない感情が溜まっていきました(P152)
連日止め刺しの現場に立ち会ってきた私は、もういっぱいいっぱいでした。・・・もう正面から現場を見ることができなくなっていました。イノシシの悲鳴が上がれば耳を塞ぐ。止めを刺す瞬間は目を逸らす。情報量に押されて、頭と心が処理しきれなくなっていました。(P163)
といったことになって、なんじゃそりゃ、今更何を言ってんだ、という印象をもったのは確か。ただ、まあこのまま、ぐずぐずっと崩れてしまうのもちょっと可哀想なわけだが、
ジビエを知りたい。作れるようになりたい。料理してみたい。その気持ちの底にあるのは、おいしいということを知ってほしい。喜びをみんなと分かち合いたい、という気持ちだった(P185)
狩猟トライアスロンの期間中、「肉を見るだけでおなかいっぱい」と日に日に弱り、苦しい気持ちを整理できなくて泣きそうになった時でも、不思議と「料理しよう」という気持ちは消えませんでした。命を無駄にしたくないというのは私には重すぎたようです。(P186)
という自省を経て
食べたもので、私ができている。私のまばたきひとつ、伸びて爪切りでぱちんと「切り落とした爪の先までも、なにものかの命が紡いでくれてきたものだったのです。私だけが独立しているわkではない。行き止まりじゃない。だから、意識して出口を作ればいい。・・・イノシシだったものが、かたちを変え、ほんのいっとき、私の身体を構成し、内側で分解され、次の瞬間、自然の中に拡散していく。そして次のなにかに宿る(P193)
という輪廻転生の中に救われるのは、日本的に過ぎるのかもしれないが、一つの予定調和ではある。
なにはともあれ、一人の料理人の、猟師ではなく、「料理人」の再出発を祝福して、この稿を「了」としよう。

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