「叱る」「叱られる」どちらも難しくなった時代の対処法 — 阿川佐和子 「叱られる力」(文春新書)

「聞く力」で大ヒットを飛ばした、エッセイスト阿川佐和子さんの「力」シリーズ第2弾が「叱られる力」である。当方が育った世代は、親や教師のみならず、近くのおじさんおばさんまでもが何か悪さをすると「叱る」世代である。なので、「叱られる」ことに何の力が入り用なのか、と思ってしまうのだが、どうも世間全体が、「叱り」「叱られる」こと双方に不慣れな状態に突入して、上手に「叱り」「叱られる」ことに特別な力、メソッドが必要な時代環境になったようだ。
構成は
1 叱る覚悟と聞く力
 「ステキ」を褒め言葉に変換する/「私、人見知りなんです」は甘えじゃないの?/最初に本性をさらけだす/「下心」で人見知りを克服/「失礼ですが・・・」は失礼です/後輩を叱る覚悟/怖い顔の利点/スマートな叱り方とは/叱るルール/部下の叱り方①ー借りてきた猫の法則/部下の叱り方②ーセクハラと飲み会/「酒場の本音」を肝に銘じる/正解を求めない/叱られる覚悟/親は嫌われる動物と思うべし
2 叱られ続けのアガワ60年史
 その1 「家なき子」事件/その2 涙の誕生日事件/その3「お父さんにそっくり」事件/その4 「一人暮らし」奇襲作戦に成功せり/その5 「子供に人権はない」宣言/その6「志賀先生がお読みになると思え」の訓示/その7 「対処法」を会得?
3 叱られる力とは?
 「別れ話」の乗り越え方/「最悪経験」を尺度にする/ゴルフに学ぶ人づきあいのマナー/下心のススメ/嫌な言い回し/上手な叱り方/ユーモアと落語の効用/叱られたとき、悲しいとき/言い訳は進歩の敵
ちょっと真面目な、あとがき
となっていて、「1」と「3」は「叱られる」技術、それを敷衍した「叱る」技術についてのあれこれが綴ってあるのだが、本書の特徴は、稀代の怒りん坊である阿川弘之氏から娘・阿川佐和子氏の「叱られ続けた」エピソードの数々が「2」の章に満載となっていて、これがまた、理不尽でありながら、親近感のエピソードばかり。
それは例えば、「涙の誕生日事件」のように、
お誕生日会で来てくれた友人が少なくて寂しい思いをしていると、それを見た父の阿川氏から「誕生日会禁止」を申し渡される。その理由は、寂しがっている娘を見ていられなくて、ではなくて・・・
とか「お父さんにそっくり事件」のように
父に不条理に叱られる身の上を友人に愚痴を言っている筆者が「私、本当はあの家の子供じゃないんじゃないか」とこぼしたところ、近くを通りかかった教師から「そんなことはないわよ」、「だってあなた、お父さんに◯◯(◯◯は原書で確認してくださいね)」と言われて逆にショックを受けたり・・
といった、著者本人は当時真面目に悩んだこともあったのだろうが、結構抱腹絶倒な
エピソードが満載なのである。
もちろん、それだけでなく、叱る技術として有効らしい「借りてきた猫の法則」
かー感情的にならない
りー理由を話す
てー手短に
きーキャラクター(性格・人格)に触れない
たー他人と比較しない
ねー根にもたない
こー個別に叱る
(P88)
といった法則が紹介されたり、
日本語の成り立ちから言って、日本人は意思を伝えるとき、欧米人のように確固たる自分の主張を持って喋るのではなく、目の前の空いての顔色を伺いながら言葉を選ぶ傾向があります。
日本語の文法は、文章の最後尾で肯定か否定かを決定するように作られています。いっぽう、たとえば英語の場合は、主語の直後に肯定否定を決めなければいけません。自分の意思は先に決定しておいて、それから目的語を示す順番です。でも、日本語の場合は、話の流れや空気を見ながら、最後に意思を固めればいい(P186)
といった、日本語の文法が、日本人の意思決定の所作に影響しているのでは、といた話がでてきたり、妻との関係を円滑にする秘訣の一つは、妻の話を聞くことだが
「妻の話にとりあえずオウム返ししなさい」(P230)
男という動物は、相手の相談事に対して「解決策を示す」ことこそ最大に親切だと思っているきらいがあります。が、女という動物は、必ずしもそれを望んでおりません。
女は話を親身になって聞いてもらいさえすれば、それで気持ちがスッキリするのです。
(上級編は)ただのオウム返しではありません、英語に直して繰り返すのです(P234)
という、男性である当方としては、「あ、そうだったのか」と実体験に照らして膝を叩いて納得するようなアドバイスもあり、阿川家の話だけでなく有益有効な話も含まれているので、お買い得であることは間違いない。
さらには、あとがきのところで「聞く」「叱られる」という。ついこの間までは「フツー」のことのように扱われていたものが特別扱いされたり、感情や行動の起伏の激しい人の増えている背景には
誰もが喜怒哀楽の感情を抑えすぎているせいではないかと思いたくなるのです。普段、抑えているぶん、何か特別な状況に陥ると、その反動かと思われるほどの感情の爆発が起こるのではないか(P242)
と類推し、
喜怒哀楽。その四つの感情の「喜」と「楽」という、いいとこ取りをすることが、「中庸」への道ではないのではないか。人間には「喜」「楽」だけでなく、「怒」と「哀」も同様に思う存分、発散することが必要なのではないか(P242)
という処方箋が提示されているあたり、只者ではない風情を漂わせるエッセイでもある。
そういえば、本書の中で
一般社会で叱るといえば、それはもっぱらオトコの役割だった時代がありました(P77)
とあるように、「三丁目の夕日」に代表される時代はそうでありましたが、すでに、はるか遠い昔となりました。「叱ること」「叱られること」どちらも難しくなった今、皆が「喜怒哀楽」の感情をうまく出しあって暮らしていく、そんなことが大事になっているんですかね〜。

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